本書骨組 本文ではご覧のように、漢字一つすつについて右ページにます字形を大きく掲げ、筆順 も示しました。そしてそれをすぐ薄字で示してあるので何度かなぞって練習をしてもらい ます。その後にはその文字を含む例文を挙げて、それを鉛筆でなぞり書きできるように配 列しました。 左ページには活字体で新旧の字体・音訓を示し、次にその文字を含む単語・語句をなら ・つんちく べ、次いで〔蘊蓄」と題して、文字の構成や、文字にまつわる多少の話題を挙げてみまし 例文は、できるだけ幅広くさまざまな方面から採り上げたかったのですが、私がいくぶ んかでも親しんだ本から採るしかなく、どうも文学書に偏ってしまっています。それでも ある程度さまざまなものから採れたと思います。若いころ読んだ旧漢字の文庫本が手許に たくさんありますので、図書館に出かけることもなく採集できたのは幸いでした。もちろ め じん書棚とパソコンの間を何百往復もして、少々腰を痛めてしまったのですが 9-
【音】イチィッ 壹 ( 壱 ) 【訓】ひとひとっ しゅんあうでん いちこっ 【語】壹岐の國壹越調の「春鶯囀」壹千伍百圓也 【蘊蓄】「壹」は「壺 ( つば ) 」と音符「吉 ( キッ↓ィッ ) 」からできた字だといふ。たしかに 二」と同じなのだが、「ひとたび」とか「もつばら」の意で使ふ。もっとも、「一 ( しかない發 も「ひとたびー「もつばら」の意で使ふから、はっきり分けるわけによ、 音は中國でも古來全く同じださうだ。要は成り立ちの差か。熟語は少ない。 數字を記す契約書の類には、一、 二、三の字の紛らはしさを避けるために「壹」「貳」 「參」などが使はれる。これを「大數」といふ。また、文學作品の章立てなどに使ふ。 森外の『雁』では、 壹貳參肆伍陸漆捌玖拾拾壹拾貳 : : : 貳拾肆 となってゐる。擧げた例文は章段「貳拾壹」っまり「二十一」である。 【例文】森外『雁』大正一一年 だいすう
【音】キョコ 虞 ( 処 ) 孑孑【訓】よるよりどころよんどころ 前進の據點を確保する主張の根據を明らかにする證據を示す信仰を心の よりどころよ 據 ( 據り所 ) とする 【蘊蓄】「よんどころ」は「よりどころーの音便で、同じ意味と言へるが、「よんどころ」は、 「よんどころなし」という成語で使ふのが一般。 【例文】トルストイ『クロイツェル・ソナタ』中村白葉譯
【音】ロウ ( ラウ ) 勞 ( 労 ) 【訓】っとむ ( っとめる ) つかる ( つかれる ) ねぎらふいたはる 【語】勞働組合勞資交渉疲勞困憊心勞のあまり床についてしまふご足勞を 【蘊】「勞、の字の成立には諸説あるやうだが、一説には「カーと、 ( ほたる火 ) とから 成るといふ。「蛍」の正字は「螢」。 【例文】『カザノヴァ囘想録』岸田國士譯 2 ) 1
竊 ( 窃 ) 【音】萼 【訓】ぬすむひそかに へうせつ 【語】竊盜罪で逮捕他人の小説から剽竊する竊笑する ( ひそかに笑ふ ) 竊視す る ( 盗み見る ) 書きにくい字の代表格か。成り立ちも複雜なやうで漢和辭典にはいろ 【蘊蓄】おばえにくい、 いろの説が擧げられてゐる。要するに人の物をかすめ取ること。 新字は俗字をとったもの。 【例文】國木田獨歩『富岡先生』明治三十五年 せっせう 147
乘 ( 乗 ) 【音】ジョウ 【訓】のる 【語】乘車乘船乘馬騎乘試乘乘除の計算 【蘊蓄】例によって成立には諸説あるやうだが、いづれにせよ人間が何かの上に乘るの意の文 字。ちなみに「載」は車にのせる意。「乘」には人の「油斷に乘するーとか、「三に五 を乘する」とか「調子に乘る、とかの用法もある。 「乘」の要素を持っ常用漢字には「剰ーがある。 【例文】額田王『萬葉集』卷一
肉舌【訓】ことばやむ ( やめる ) 【語】英和辭典を引く國語の辭書祝辭を述べる美辭麗句就任は辭退する 辭表を提出する會長は辭めることにした 【蘊】この字の左側は、絲の亂れをおさへる意だといふ。亂とも共通する。手書きしてみる と嬉しくなる字だ。 【例文】澤論吉『輻翁百話』一一十九明治三十年 みだ 103
【音】ヒン 濱 ( 浜 ) 「 【語】横濱驛前濱邊京濱高速道 【蘊蓄】音符の「賓」は「しわが寄る」の意だといふ。波のしわが寄って「濱」。ただ、賓客 の「賓ーでもあり、この場合は客のことだといふ。 「賓ーを持っ字には殯宮の「殯」、妃嬪の「嬪」などよく使ふ字があるが常用漢字外。 「濵ーの字を使ふ苗字、濵田さん、濵口さんなどがあるがこれは俗字。 【例文】謠曲『俊寬』 2 ら
【語】聽力を檢査する難聽の氣味がある訴へを聽取するテレビの視聽率傾 聽に値する意見ご靜聽ありがた、つ聽許する ( ゆるす ) 。「壬 . は突き出す意。結局、 【蘊】「耳」と「悳」と「壬」とから成る。「悳」は正しい心 耳を突き出して眞っ直ぐな心でよく聽く、といふ意味になる。縣廳の廳は新字「庁」 となってゐるが、まさか聽を丁とするわけにはい、 【例文】カフカ『變身』高橋義孝譯 183
【音】チュウ ( チウ ) 蟲 ( 虫 ) 【訓】むし 【語】今年は蟲害で不作だ一寸の蟲にも五分の魂蟲の居所が悪い 好き好き泣き蟲娘に蟲がついたやうだ 【蘊】「虫」は古くから「蟲」の略字として使はれてゐた。新字はそれによる。ただもとも と「虫」は「まむし」の意味のやうだ。三つ重ねて「蟲 , となると多くの小さな生き 物、ひいてはむしの意味になる。 【例文】島木健作『ジガ蜂』昭和十九年 蓼喰ふ蟲も 179