はじめに ぜひみなさんに注意してもらひたいのは、熟語の新字を舊字に變へても本來の表記には ならない 、といふ困りものがあるといふ點です。 本文中でも〔蘊蓄〕欄で觸れるやうにしましたが例へば「台頭」といふ熟語を新聞など で見ることがありますね。「台」の舊字、正字は「臺」だから、 台頭↓臺頭 と直せば本來の熟語になるはすだが、ならない。正しくは「擡頭」です。 「台頭」は「当用漢字」「常用漢字」以外の漢字 ( この場合「擡」 ) を避けるために、音や 意味の似たほかの漢字で代用したものです。正しい熟語ではありません。「車両」なども さ、つで、 車両↓車兩 と戻して安心してゐるとこれが間違ひで、正しくは「車輛」です。 かうした例を次に少し擧げておきませう。「車両↓ ( 車兩 ) ↓車輛」といふ形で示 します。
乘 ( 乗 ) 【音】ジョウ 【訓】のる 【語】乘車乘船乘馬騎乘試乘乘除の計算 【蘊蓄】例によって成立には諸説あるやうだが、いづれにせよ人間が何かの上に乘るの意の文 字。ちなみに「載」は車にのせる意。「乘」には人の「油斷に乘するーとか、「三に五 を乘する」とか「調子に乘る、とかの用法もある。 「乘」の要素を持っ常用漢字には「剰ーがある。 【例文】額田王『萬葉集』卷一
【音】ヒン 濱 ( 浜 ) 「 【語】横濱驛前濱邊京濱高速道 【蘊蓄】音符の「賓」は「しわが寄る」の意だといふ。波のしわが寄って「濱」。ただ、賓客 の「賓ーでもあり、この場合は客のことだといふ。 「賓ーを持っ字には殯宮の「殯」、妃嬪の「嬪」などよく使ふ字があるが常用漢字外。 「濵ーの字を使ふ苗字、濵田さん、濵口さんなどがあるがこれは俗字。 【例文】謠曲『俊寬』 2 ら
【音】オウ 歐 ( 欧 ) 【訓】はく 【語】歐洲自由貿易聯合歐羅巴 【蘊蓄】訓として「はく ( 吐く ) 」を擧げた。「歐吐」といふ熟語もある。ただ日本では「吐 く」の意味では「嘔」の字だけを使ふのではないか。「歐ーは歐洲の意味ですっかり 定着してゐる。「歐吐 . では奇異な感じがする。だが「嘔」の字は常用漢字にない すると「歐吐」とするのがわが國語政策といふことになるか 【例文】小泉信三『私とマルクシズム』昭和二十五年 北宋の文人政治家歐陽脩
【語】繩文式土器自繩自縛に陷る繩張りを侵す規矩準繩 【蘊蓄】「當用漢字」にはなかった字。のち「常用漢字」に加へられた。繩文時代が「じよう 文時代ではいかにもまづいからだらう。繩の字の成り立ちは諸説あるやうだが、絲 はヘむしへん 偏に蠅の蟲偏を除いたものを加へたものといふ。蟲偏は除いてあっても蠅の意味だと いふ。筆順の覺えにくい字だ 【例文】樋口一葉『たけくらべ』七明治二十九年 レ ) レ ) よ・つじなは / 、 きくじゅんじよう ー 29
【音】ワン : イ、冫【意】入り江のことわんまがる 【語】東京灣の潮干狩り灣岸戦爭の經過臺灣海峽弓なりに灣曲 ( 彎曲 ) した濱 【蘊蓄】「灣曲」は本來「彎曲ーだらう。たしかに「彎曲した背骨」などの場合「水」は關係 がない。「彎ーは常用漢字に入ってゐないので新字體がない 「灣」には「湾ーがある。 そこで「彎曲」のときは「湾」を書き換へ字に用ゐることがある。 【例文】『ベルリ提督日本遠征記』上屋喬雄・玉城肇譯 2 ) 3
【音】サン 蠶 ( 蚕 ) 【訓】かひこ 【語】蠶絲生産養蠶業 【蘊蓄】蠶の俗字體が「蚕。で、常用漢字の新字はそれをとったものだが、もともと「蚕ーと いふ正字があって「みみずーの意味だといふ。ただ日本ではその意味で使ふ例はなさ さうだ。だから我が國の書物に「蚕」とあれば蠶のこと。「かひこ」は「飼ひこ。で あって元來「こ」だから蠶の字は「こ」とも讀む。 【例文】横井也有『鶉衣』石田元季校訂 注・「ふ物すきーⅡ人が嫌ふものを好むこと。またその人。 もの てん
【音】リョウ ( リャウ ) 【訓】ふたつならび 【語】兩親に結果を報告する兩方に氣を遣ふ衆參兩院の決議を經てゐる千兩箱 千兩役者兩親兩手を擧げて贊成兩刃の劍 おもり 【蘊蓄】「兩 . の字は、秤で兩方の錘が釣り合った様からきた象形文字。新字「両ーは俗字に よる。「伎倆」「車輛ーなどのリョウは常用漢字外だから技量、車両などと書き換へ字 が使はれることもある。 【例文】芥川龍之介『トロッコ』大正十一年 兩 ( 両 ) ふたおや もろで 241
辯 ( 弁 ) 【語】辯護士になりたい辯解がましいことは言ふな雄辯家辯舌さわやかな人 詭辯を弄する ( こじつけの議論をする ) 【蘊蓄】新字の「弁ーは、「花瓣」の「瓣」、「辨別」の「辨」、「辮髮。の「辮ーなどの新字で もある。一方、常用漢字以外の「弁」の字もあってこれは「かんむりーの意味の本字。 「一介の武弁ー ( 平几で取るにも足らぬ侍 ) などと云ふ。これは「一介の武辯ーだの ー ( ( いかない。「武弁」が正しい。新漢字の不合理をつ 「一介の武辨」だのとするわナこよ くづく感じさせる例だ。 【例文】井上靖『風林火山』昭和三十年 【音】べン 【訓】とく ( 説く ) かたる ( 語る ) 223
タイプとして目立つのは、しばしば現れる偏や旁を一齊に變へたといふものでせう。し んにゆうの字などは多いのだけれど、「逢ー「辿」などは常用漢字にないからしんにゆうは こんな形、通、近、道などは表にあるので「辷」と變形、といふわけです。 どうせ使ふ文字なのだからこのやうにバラバラにしておくよりは、元の形にもどした方 かよいと思ふのですがどんなものでせう。「逢」の字などは中學生以上なら讀み書きでき ない人はあまりないやうに思ひますが、このしんにゆうは「逢ふ瀬」のときは「辷」、「近 道」の場合は「辷」と書き分けなくてはならない 「雪」などといふ字は、ヨの部分の中線を元の形に延ばして「雪」としたからといって、 もどしたいものです。このやうにいろいろ疑問はありま べつに難しくなるとは思へない すが、この本は「舊字」と言はれるものに親しむためのものですから、あまりシャカリキ になって主張したりはしないことにしませう とにかく、變形させられたものはたくさんあるので、本文で一項としては取り上げなか ったもので少し注意したい文字を、順不同ですが少しならべてみます。括弧内がいはゆる 新字體です。 社 ( 社 ) 輻 ( 福 ) 腦 ( 脳 ) 巣 ( 巣 )