アルコール発酵を活用する食品の加工・保蔵法 醸造の再評価というか、アルコール発酵現象というものを新しく見直すことで、食品産業を活性化 する一つの試みとして、京都大学を定年となる数年前に、また酵母と食品の研究に戻った。つまり、 一般食品の保蔵・加工の問題に対して、アルコール発酵を中心とした新しい着想で研究する手立ては ないかということであった。具体的には、無塩ペプチド食品や減塩調味料を作ること、あるいは生体 調節機能を重視した未来型のアルコール飲料というものの概念、さらに腐敗現象の解析からスタート して、防腐剤としての食塩を添加しないで、しかも冷熱エネルギーをできるだけ節約して地球上のど こででも、生の魚たとか畜肉などをなんとか保蔵できないか、そして発酵処理したタンパク食品の特 性はどのようなものであるか、そういった問題を取り上げたのであった。 無塩ペプチド食品・調味料の製造法 アルコール発酵を防腐剤である食塩の代わりにタンパク性醸造食品の製造に使うという発想の基礎 として、矢野博士らは醸造に関与する酵素に対するエタノールと食塩の影響を比較研究した。その結 果わかったことは、プロティナーゼは食塩によって強く阻害されるが、エタノールによる阻害は食塩 の場合に比べると非常に小さいこと、旨味の生成に関与するグルタミナーゼも食塩で強く阻害される が、エタノールではむしろ反応が促進されるということである。こういった過酷な食塩阻害下で伝統 的な味噌・醤油の醸造は行なわれていることが再認識された。
〇—一二℃に放置してみた。最初のころの実験では、ビールや日本酒醸造のような低温発酵の条件を 選んだ。低温では通常の腐敗菌の生育が強く抑制されるからである。 非常に明快な実験結果が得られた。図 5 に示すように、豚肉や牛肉のスライスしたものに糖を加え、 しかし酵母は添加しないで、一二℃に三日間放置すると、細菌が一グラムあたり一〇億個ぐらい増殖 して腐敗する。ところが酵母を一グラムあたり一〇〇万個補うたけで、アルコールが三 % くらい生成 し、腐敗細菌の生育は一グラムあたり一万個程度に強く抑えられる。酵母は一グラムあたり一億個レ ベルに増加している。官能検査でも臭いは悪くなく腐敗していない。 このように肉類に少量の糖類と 微量の酵母を混ぜるだけで、腐敗という現象は発酵に統合される。発酵の生起で腐敗は消減するとい うわけである。食肉・魚肉という食品固体の表面で、酵母が糖以外の必須栄養分のすべてを肉類から 面 供給されながら生育する結果、腐敗現象が消減するということは自然の妙味である。 イワシやアジなどの生の魚肉の場合も同様で、糖と酵母を添加するだけで腐敗が防止できる。近年、 し 新鮮度という考えが魚肉の品質面で重視されている。アルコール発酵処理で、この魚肉の新鮮度はかの なり維持できることがわかってきた。もう一つ重要なことは、酵母の発酵はアルコールの静菌作用を発 供給するだけでなく、還元カ ( 還元作用 ) を生み出すことで食品の保存に対して有効に働くという点ビ である。すなわち、アルコール発酵には抗酸化作用があるという発想である。このごろ、エイコサペ 母 ンタエン酸やドコサへキサエン酸 (CE<) などの魚体に含まれる高度不飽和脂肪酸が血 栓などの循環器系統の病気の予防や記憶・学習などの脳活動に有効に働くといわれている。魚肉中の
して利用できる。用途によっては、アルコールを減圧で除去・回収すれば、塩分を含まないペプチド 食品素材が製造でき、加工原料となる。一方、回収したアルコールは副産物で、安価な製品となるわ けで、この方法は最初に述べた省エネルギー・省資源技術の一つとなってくる。 新しい酒の概念「ペプチド・アルコール飲料 無塩のアルコール発酵下で原料タン。 ( ク質をアミノ酸にまで完全分解させずに、分解物の大半は小 分子ペプチドとする。つまり、タン。ハク質の分解は味噌醸造のレベルに止める。そうすると、無塩下 のペプチド・アルコール発酵はアルコール飲料の製造原理としても利用できる。これは新しい酒の概 念ペプチド・アルコール飲料 ( ペプチド酒 ) の提示である。原料としては穀類・雑穀・大豆・グルテ ン、酵母としては発酵力の強い通常の酒酵母を用いる。清酒醸造の副産物として得られる白糠も利用 できる。原料面から明らかなように、ペプチド酒は日本酒や中国酒 ( 韓国酒 ) と味噌・醤油の醸造プ ロセスの新しい統合である。 よくいわれることであるが、東洋と西洋での酒のつくり方の大きな違いは糖化剤として麹を使うか、 あるいは麦芽を使うかである。この点からすれば、ペプチド酒醸造の特徴の一つは糖化酵素とタン。ハ ク分解酵素の両方が強い麹を使うことである。もちろんアミラーゼ・プロテアーゼ酵素剤の使用も有 効である。酒の型としては、アルコール発酵とタン。ハク消化を同時に行なってつくるべプチド発酵酒 と、別につくったタンパク酵素消化物をアルコール発酵液に加えて熟成させるべプチド混成酒・再製 酒が考えられる。
これら脂肪酸は、塩蔵下では分解されやすいが、アルコール発酵処理下では分解が緩やかになるとい う結果を得ている。 生肉へのアルコール発酵処理のほかの応用例として、香味の改善された魚醤・肉醤の製造が考えら れる。イワシやアジなどの小魚に糖と酵母を加えた条件下で長期間自己消化を行なったり、あるいは 麹や低濃度の食塩を添加して味に深みのある、しかも臭みのない調味液をつくることもおもしろい問 題であろう。かなりの量の汚染菌を含むタン。 ( ク原料であっても、最初の二—三日間低温で発酵させ れば、以後室温でも腐敗は進行しない。水分を多くして原料タン。 ( ク質をアミノ酸にまで完全分解さ せれば、液体調味料がつくられる。水分を少なくして原料タン。 ( ク質の分解を中断すればペースト発 酵となり、アルコールを除去すれば無塩ペプチド食品の製法となる。一方、大豆やグルテンとデンプ ンー麹 ( 酵素剤 ) あるいは糖類、多量の水を原料として、低温下で腐敗臭の生成を完全に抑制しつつ湎 アルコール発酵させて、タンパク質の分解を中断すれば、ペプチド・アルコール飲料 ( ペプチド発酵以 新 酒と再製酒 ) ができる。 の 酵 発 アルコール発酵を利用する生の魚肉・畜肉の保蔵では、肉組織自体が発酵分解されるのではなく、 の 肉という固体の状態を保持しつつ糖液のみが発酵されるということで、この場合は擬似固体発酵と称 したほうが正しいと思われる。 母
アモンチラード、フィノの三つのタイプに大別される。そのなかで酵母の産膜現象を利用してつくら引 れたものをフロールシェリーという。フロールという一言葉は、ブドウ酒の表面に繁殖した酵母の皮膜 を「花」にたとえたものといわれる。 まず、シェリーというブドウ酒の醸造方法の概略を紹介することにしよう。 シェリ ーはもともとオロロソやアモンチラードタイプの酒で、数百年前からっくられていたといわ れている。これらはブドウ果汁の発酵終了後にブランデーアルコールを加えるか、あるいは発酵の途 中でアルコールを加えて発酵を停止させたものを、ソレラと呼ばれる独特のシステムによって熟成さ せる。しかし、のちほど紹介するようなフィノタイプにおける皮膜酵母、フロールの繁殖は見られな 熟成後の酒は、ブレンド、アルコールの補強、濃縮果汁による調味により甘さ辛さ、アルコール 度数などの違ったさまざまなタイプの酒に仕上げられる。のちほど紹介するようにソレラは多様にし て一定品質な酒を得るのに適した熟成方法であり、シェリーが好評を博してきた原因のひとっと思わ れる。類似した酒にアルコールの補強と温熱によって製造されるマデイラ、マラガ、あるいはアル コール補強によって発酵を停止させたポートワインなどがある。なお、これらの甘みと熟成香のある アルコール補強酒は保存性がよいことから、一五世紀からの大航海時代、船積みされ、喜望峰からイ ンド洋を経て平戸、長崎まで到来している。 フロールシェリ ーの原料ブドウは。ハロミノという白品種である。降雨量が著しく少ないへレス・ デ・ラ“フロンティア地方の白亜の石灰質土壌に栽培されたブドウは、糖度約二四から二六 % にも達
こに見られる。 ( ストウール以後、多くの研究者の努力でアルコール発酵の機構が解明され、それをもとにして生 化学や分子生物学、その他関連分野が今日いちじるしく発展している。図 1 に示すように、アルコー ル発酵の経路の二カ所で ( アデノシン三リン酸 ) の形でエネルギーが取り出される。 << と いうのは、細胞内で広く使われるエネルギー物質で、アデノシン (<) にリン酸が三個結合したもの である。リン酸を⑩で示せばはー①—⑩—⑩で表される。後ろの二個のリン酸の結合に = ネ ルギーが貯蔵されている⑩で示す ) 。その一つの結合が切れるときに遊離される , ネルギーがい ろいろな生物的仕事に変わる。 ブドウ糖や脂肪などの栄養素は直接に生物的仕事に使われる = ネルギーを与えるのではない。それ 面 らの分解 ( 発酵 ) や酸化 ( 呼吸 ) によって生成するエネルギーで、まずが作られるのである。 われわれは、乾燥酵母を用いて、アルコール発酵における無機リン酸 ( 植物のリン酸肥料に相当す し る ) の取り込みと果糖二リン酸 ( フルクトース二リン酸、略号はあるいは ) の生成とのの 関係、そしての生成と分解との関係 ( バッテリーでの充電と放電に相当する ) を詳しく調べた。発 ここで発酵とリン酸の歴史について少し触れたい。私の先師片桐英郎先生 ( 京都大学名誉教授 ) はビ 昭和の初期にイギリスのハ ーデン先生の研究室に留学された。ハ ーデン先生は ( 別名ハーデ 母 ン・ヤング = ステルとも呼ばれる ) を発見されるとともに発酵における糖リン酸化合物の重要性をは酵 しめて指摘され、その業績でノーベル賞を受賞された。そういった事情で、片桐先生の講義では、折
るというのが普通の考え方で、この生体 = ネルギー論をもとにした合成法をバイオ関係の研究者はね らった。しかし、実験を行なってみると、酸素呼吸は進行するけれども、エネルギーを取り出して、 それを合成反応に利用することがなかなかできない、制御しにくい性格のものであることがわかって きた。 われわれは、酸素呼吸がミトコンドリアという膜構造体の内部で行なわれるためエネルギーを取り 、と判断した。むしろ膜構造に依存しないで、大部分の酵素 ( 生体触媒 ) が溶け 出すことはできない ている状態で活動している細胞質という場で、発酵によってちょろちょろとしか出てこないエネル ギーのほうが合成に使いやすいと考えた。発酵では、エネルギー生成量は少ないけれども、細胞の外 部に取り出して合成反応に利用できるエネルギー ( エネルギーと呼ぶ ) が生産できる。つまり、 無気呼吸はエネルギー発酵そのものであると解釈した。それでは、醸造産物であるアルコール はどう評価するかということになるが、結局これは、エネルギー発酵の面からは副産物であると位置 づけたのがわれわれの最初の見方であった。 ところで、イオマスから安価なアルコールを発酵生産することは地球の資源が有限であるという 観点から重要な課題である。近年、ブラジルなどではガソホールとして、ガソリンの中に一〇—二〇 % のアルコールを入れて車を走らせている。アルコールを、バイオマスを用いて再生産できるエネル ギーとしてガソリンの中に一部加えるということになると、化石燃料の節約になるし、また子孫のた めに化石燃料を残しておこうというブラジルの長期的展望に立った一つの国策というものの意義がそ
に一〇 % エタノールを添加した場合と同等以上であり、一〇 % 食塩を添加した場合 ( 従来の味噌醸造 法 ) よりもはるかに高い値を示した。一方、麹のみの対照区では、酵母が発酵してアルコールをつく るほどの糖は存在せず、タン。ハク質の分解のみが進み、多量のアミノ酸を生成している。しかし、細 菌が初期に一グラムあたり一億個ぐらい生育して臭いはたいへんなものであり、完全な腐敗である。 た、ブドウ糖の代わりに、米や小麦粉、トウモロコシデンプンなどを麹化して、あるいは酵素糖 化して用いても同様の結果が得られる。 こうしたわれわれの醸造法は、従来の糖類やデンプンを主原料とするアルコール醸造とは明らかに 異なる。この方法ではデンプンとタンパク質が二大原料であり、アルコールの生産とペプチド・ア、、 ノ酸の生産とが同等レベルで進行する。それゆえ、この方法はペプチド ( アミノ酸 ) ーアルコール発 面 酵と呼んでもよいであろう。ただタン。ハク質の分解が中断されるとペプチドーアルコール発酵となり、 し 分解が完全に進むとアミノ酸ーアルコール発酵となる。 次に、このタンパク分解法を魚醤タイプの調味料の製造に応用できないかということで、蒸したイの 酵 ワシを麹化したのち、アルコール発酵を行なうと、アルコールの生成もタン。ハク分解もスムースに進発 行して味の濃い調味液ができてくる。蒸しただけのイワシと麹化したイワシに含まれる低級脂肪酸 カ ( 酢酸・プロ。ヒオン酸・酪酸・吉草酸など ) の量を定量してみると、明らかに麹化することで脂肪酸 母 量は著しく減少し、魚臭がなくなっている。 こうしてつくられたタンパク分解物はアル「ールを含む状態で濃厚なペプチド・アミノ酸調味料と
る楽しみや豊かな栄養物を与えてくれる食生活と関連する文化の形成に大きく貢献してきたのである。 酵母の発酵エネルギーと有用物質の合成への利用 地球上の生物にとって役立っエネルギーはすべて太陽の恩恵である。生態学的には光合成にすべて 依存しているということである。 従属栄養微生物の酸素呼吸では、光合成によって固定されたエネルギーがすべて放出される。これ が通常、呼吸と呼ばれる現象で、非常に効率の高いエネルギー生産反応である。無気 ( 嫌気 ) 呼吸で あるアルコール発酵や乳酸発酵では、役立っエネルギーは少ししか生成されない。そこでは発酵原料 面 に内蔵されるエネルギーの大部分は醸造産物であるアルコールや乳酸の形で残存している。発酵とい う化学変化の過程で原料分子の構造の一部分のみが酸化と還元を受けることで、少量のエネルギーが し 新 放出され、それによって徴生物は酸素がなくても生育できる能力を獲得した。 の 味噌や醤油・酒類の醸造は嫌気環境下で行なわれるので、酵母や乳酸菌は細々としか生育できす、発 の 老廃物であるアルコールや乳酸などがたくさんたまっている。そこではエネルギー効率は低いが、醸 造物の収量は高いというのが従来の評価であった。 母 酵 ところが微生物の呼吸で生しるエネルギーを取り出して、有用物質の合成に使うという観点にたっ と、発酵は効率がたいへん悪いわけで、酸素呼吸の = ネルギーを使って合成したほうが断然有利であ
野生プドウの種が、古代人の遺跡から発見された。人は、太古のむかしから酵母の発酵によって醸 される酒を嗜んでいたのである。それほど、人の生活とカビ・酵母とのかかわり合いは古く、かっ深 よく知られているように、 この酵母細胞をはじめて肉眼でみたのはレーウエンフックであるが、生 物と化学の両面から本格的に解析を加えたのは、発酵学の祖と言われる。ハストウールである。酵母研 究の夜明けであった。 ハストウールの死後、数年を経て、生きた酵母によってのみ起こると考えられていたアルコール発 酵が、すり潰した生命のない酵母細胞の抽出液によっても進行する事実が、プフナー兄弟によって証 明された。チマーゼ酵素の発見であり、酵素化学研究の嚆矢となった研究である。 これらの有名な研究が引ぎ金となって、その後の酵母の研究は、生態学、細胞学、分類学などの生 物学的研究と、発酵醸造を含めた生化学的研究領域として発展してきた。その後、今からおよそ五〇 年前に、分子生物学が導入されるようになって、この領域はともに表裏の関係を保って展開してきた。 はしが」