大学紛争が私に思いがけない出会いを与えた。当時、勤め先である東京大学応用微生物研究所 ( 応 微研 ) は全共闘に占拠され、研究室への入室が暴力的に拒否された。われわれは、生命である研究業 務を奪われてしまった。その間の三年あまりを、私は近傍の大学へ非常勤講師として出講し、勉強さ せてもらった。出講先の一つに千葉大学園芸学部があり、そこで四回生阿部恵子 ( 旧姓毛利 ) さんに 出会った。 阿部さんの指導教官、矢吹稔先生は「麹菌によるアミラーゼの誘導生成」の研究をされていて、講 義後の時間は研究結果の検討に参加させていただいた。一方、毛利さんは卒論生で、テーマは忘れて しまったが、細胞の二形性に興味を持っていた。私は、かねがね、細胞の形態に球菌と桿菌があるの はなぜか、不思議に思っていた。別の言葉では、形態 ( かたちとおおきさ ) の意義とそれを決定する 因子の特定を夢見ていたといえようか。講義などでは、球菌が原始形であり、桿菌は進化形である、 と述べていた。こんな関係から、毛利さんが二形性の研究を目的に、私の研究室へ大学院生として進炻 異担子菌酵母との出会い 福井作蔵
一九七七年、千葉大学腐敗研究所抗生物質研究 一九三六年四月、私は千葉大学大学院医学研究 科に入学し、皮膚科学を専攻しました。なぜ皮膚部に、マリア・シゲマッという日系二世の女子学 科を選んだかというと、カビの研究をしたかった生がはるばるコロンビアから大学院生として入学 彼女はアンチオキマ大学微生物学 からです。しかし、皮膚科とカビの関係に首をひしてきました。 , ねる方も少なくないと思います。でも水虫はご存部の修士課程を一九七五年に修了して来日したの はくせんきん です。その当時、南米からの留学生はたいへんめ じでしよう。水虫は白癬菌というカビの感染に よって起こり、水虫の患者さんは皮膚科の外来をずらしく、私たちは彼女から南米の事情をいろい ろと聞いたものです。時は移り、一九八〇年代に 受診するのです。 以後、白癬菌の研究を手始めに病原真菌の研究入ると、私は研究室に閉じこもって試験管を振る を行なってきました。今回その研究の過程で、私毎日にだんたんと厭きてくるとともに、ある種の 疑問を感じるようになってきていました。なんと が今まで南米で経験したことを少し話してみたい かしてこの生活から逃れる手段はないものかと、 と思います。 乏しい頭でいろいろ考えていたとき、閃いたこと 〈コラム〉 コロンビアとの出会い 宮治誠 6
小倉小笠原藩伝来のぬか床との出会い 私が江戸初期以来三〇〇年以上にわたって使い続けられていると信じられているぬか床に出会った のは、民間企業から九州大学に転じてまだ間もないころであった。福岡市のあるテレビ局から、「小 倉にイワシのぬか味噌炊きという料理があって、これがなかなか健康によいという。なんとかビジュ アルに見せることができないか工夫してほしい」という相談が持ち込まれたのである。小倉北区の佐 藤さんというお宅で、私ははじめて小倉小笠原藩伝来という ( 持ち主の話だけで、箱書きの類いの記 録はない ) ぬか床と出会う機会を得た。そのときは、これがその後の私の中心的な仕事になった。ハク テリオシン研究のきっかけになるとは思いもしなかった。 それからしばらく経って、今度は別のテレビ局から福岡市内にぬか味噌漬けのおいしい店があって 評判だという、その番組制作に協力してくれないかという相談であった。聞くと、これも小倉小笠原期 先祖の知恵の偉大さに驚くぬか床の研究から新菌の発見へ 石崎文彬
にとっては必死の思いの入国でした。 翌日は九時に迎えにくるというので、時差のた め眠れぬ夜を過ごした私たちは、朝食も取らず、 九時一〇分前にロビーに降りていき、迎えを待っ ていました。しかし、約束の九時を過ぎても相手 は一向に現われません。同行の田口君と二人、 「南米ま、 。しいかけんなところだなあ」などと小声 で・ほやきあって憂さをはらしていたところへ、私 たちの時計で一〇時きっかりにくだんの迎えが二 取人で現われました。実は、私たちは時計を合わせ 壌 るときに一時間早めてしまっていたのである。車 土 る の中で「ずぼらなのはわれわれ日本人たったの お たと心中反省した次第です。 に タ 首都ボゴダの街は人口四〇〇万人、近代的なビ 気ゴ ポ ルが建ち並び先進国と見間違うばかりでしたが、 ア貧しい人々が多く、 いやはや恐怖の連続でした。 ン車が交差点に止まったときなど、窓を開けている コ とそこから汚い手がニュ ッと入ってきます。 コロンビアとの出会い
このフィリビン大学の食品科学工学科は、当時、客員教授であったコーネル大学のペダーソン博士 の提案で、三年前に新設されたばかりであり、フィリ。ヒンの農産物を利用し、新規の開発を目指す、 活気に溢れた若手教員で組織されていた。学生の人気も高かった。私はペダーソン博士の後任として 求められていたのであった。 かねてから、東南アジアの発酵食品と微生物に、憧れのような興味を持っていたから、私にとって は魔力のような誘いを持った、魅力いつばいの話であった。早速、反対されるのを覚悟の上で北原教 授に、その可否を当たってみた。危惧のとおり、先生は苦渋に満ちた顔で反対された。私の赴任によ り、乳酸菌の仕事が宙に舞い、院生の世話が一挙に残る室員にかかるからで、当然のことではあった。見 発 それから半年間、曲がりなりにも研究室の体勢を整え、わがままを認めてもらい、どうにか皆の許 母 しを得て、客員教授としての任務を受けることを山田先生に返答した。しかし、当時の私は東南アジの 種 アの発酵食品について、皮相的な知識しか持っていなかった。持ち合わせには、住江金之先生のアジ す ア発酵食品の諸話、宮路憲次先生の著書に記された南方の発酵食品の解説、それに関西に出張したと醸 き、武田製薬株式会社の顧問をしておられた中澤亮治先生から昼食を頂戴しながら、しばしば説明し酒 ていたたいた南方の食品のことなど、すべてが耳学問の域を出ていなかった。たた、アジアの発酵食ン ヒ 品であるからには、乳酸菌か酵母による共生がまちがいなく起きていて、その製造過程に酵母と乳酸 イ フ 菌が存在するだろうとの思いはあった。 2
易に得られる。実験結果では、ミゝ T 座の接合型がいずれであ「ても、 HO 、ミ a 、き型と考えられ怩 る胞子も 0 ミ a 一と同じく型のホモタリズムを示す。、ミ a と、ミの両遺伝子を、それ それ HMa と H ミ遺伝子の非活性な変異遺伝子と考えていた私には、この現象を説明するには、 HMa とよミ象の遺伝子機能を持っ遺伝子が、それそれ二個ずつ重複すると考えねばならなかった。 たまたまこのことを考えていたころ、モスクワの工業徴生物遺伝学研究所のナウモフ博士から英文の 書簡とトルストリコフ博士との共著論文の別刷りをいただいた。しかし、私には英文の手紙とロシ ア語で書かれた論文 ( 短い英文要旨は付けられていたが ) の意味するところがわからず、まことにナ ンセンスな内容のお礼を申し上げた。 なんとなくすっきりしない気分で、そのころカリフォルニア大学。ハークレー校で開催された、第一 ブラ 三回の国際遺伝学会議 ( 一九七三年八月下旬 ) に出席した私は、その当時マサチ = ーセッツ州 ンダイス大学のハルポルソン先生の研究室へ留学していた高野氏と、久しぶりに会場で出会った。学 会の暇をみて、酵母の染色体地図で著名なモーティマー先生の研究室を見学しようと、高野氏と雑談 を交わしながらキャン。 ( ス内の小道をたどっていた。そのとき、たまたま彼があのロシア論文のこと を話し始めたのである。それを聞くともなく聞いていた私の脳裏に突然閃くものがあった、というよ り、やっとロシア論文の意味がわかったのである。ナウモフは hma と、ミ遺伝子は活性を失っ た欠失遺伝子ではなく、、ミ a は H ミと同等の、またぎミはミ a と同等の機能を持っ遺伝子 と考えたのである。この考え方なら、これまでの観察結果と矛盾しないうえに、新たに重複遺伝子を
離用プレートに生えてくるさまざまなカビに向いていた。あるとき、上記のまだお元気でときおり研有 究所に見える斎藤先生が顕微鏡をのそいている私に「何をみているのかね ? 」と質問される。「普通 のクロカビで、おもしろいものではないようです」と私が生意気に答える。先生はしばらく黙ってか らやおら一言「クロカビというカビを最初に決めるのに僕は一年以上かかったものだよーと。明治の ころだろう。先生が多分クロカビに違いないと思っても、外国から本物のクロカビを手に入れるまで は自信が持てなかったとのこと。カビの名前を決める ( 同定 ) には重であれ、との意味だ。日本の カビ研究の先達である大先生の教訓に恐れ入った反面、先生にもわからないカビがまだたくさんある んだ、と悟った私はそれから分離材料を土壌からもっと他の方面に広げてみようと動物の糞のカビを 調べたり、野生キノコに好んで生えるカビを求めたり、ついで、いちばんカビの多様性が見られる落 ち葉にと向かった。東京近辺には現在よりもっと緑が多かった当時である。 水にすむカビとの出会い 落ち葉を採集してシャーレに収め、水分を与えておくと、それらの葉の上に生えてくる多種多様の カビ達が顕微鏡下で見せる美しさに魅了されていた毎日であった。そこには新属新種もいるし落葉上 の遷移現象もある。これがその後のライフワークにつながったのである。ちょうどそのころ、イギリ スのインゴルド博士の、 川の流れの水面下で落ち葉の上に生活している独特な不完全菌類のカビの発
てしまいました。とっさにかばったのでしよう、 いずれも大雑把、肉の大きな塊を煮たものをメイ ンに、ジャガイモとべ 右肘もいやというほどトイレの腰掛に打ちつけら ーコンの炒め物、サラダ、 れていました。一瞬、「頭の骨が折れた ! 」と閃果物、インディカ米のご飯など、まったく味があ いた後、しばらく意識を失ったようです。 るのかと思われるほどますいものでした。とにか 「大丈夫か ? 」激痛の中でソーツと左手で後頭部 く「アンタークティカ C フラジルでもっとも一般 に触れてみました。骨は折れてはいないようです。的なビール ) 」で食事を流し込みます。お客は結 たた右肘が猛烈に痛くて、。ヒンポン玉くらいに腫構入っていて子供連れも多く、皆おおいに楽しん れ上がっていました。三〇分くらいそのまま横たでいるようです。しかし、頭の中では「とんだと わっていたのでしようか、やっと起き上がること ころに来てしまった」「時間がもったいない」「ま ができました。マットを調べて見ると、底がヌル た明日も苦行が待っているのか」という思いが ヌルで、これではまるで氷の上にスケートで立っ 巡って憂欝でした。 たような状態です。とにかくシャワーを浴び直す ビールで少々顔を赤くしたガイドのヤマウチさ ことにし、癪に触ったので今度はホテルの薄汚れんがいろいろと私に話しかけてきます。「ねえ先 たタオルを四つにたたみ床に敷いてガッチリとし生、私は三ヶ月前、 co 県の農協の人たちを三泊四 た足場を作ってから震えながらシャワーを浴びた 日でガイドし、クイア・ハ市 ( 州都 ) に戻ったんで 次第です。 すけど、それからナイトクラブに案内してくれと 七時に食堂へいくとヤマウチ、ヤマシタ両名が いわれて往生しました。女の私にそんなルートが 待っていました。食事は。ハイキング形式で料理はあるわけないでしよう。でも、要求がきついので、
のかはいまだわからない。しかしながら、ホモタリズム機構を高次倍数体育種に応用することには厳田 しい制限がある。今日ではホモタリズムの機構に頼ることなく、野生型の実用株についても実施可能 な細胞融合法、あるいは接合能付与法が私たちの別の研究で開発され、高次倍数体の構築は工業実用 株を含む幅広い菌株について可能となっている。 この研究で得られた最大の成果は、遺伝子によっては規則正しく再配列が行なわれることの知見が 得られたことである。このような現象は、今日では免疫遺伝子をはじめとして、眠り病病原虫のト丿 ( ノゾーマ、回帰熱病原菌のポレリアなどにおける抗原性変異など、多くの例が知られている。サッ スコヴィッチに カロミセス酵母の接合型変換現象は、その典型的な例として多くの研究を呼び、 よるカセットモデルとして広く教科書にも紹介され、今日もなおその詳細な機構解明に向けての活発 な研究が続けられている。 この研究の成果を原著論文として発表する際に、私は遺伝子変換現象が荒唐無稽なことでなく、前 例のあることとして前記のマクリントック女史の研究その他を引用した。これが逆に機縁となり、女 史のトウモロコシにおける古典的研究の真価が認識されることにもなったようである。一九八五年 ティングに参加した。その途 ー研究所で行なわれた酵母の 八月、私はコールドスプリング、 上、かってカーポンデールの南ィリノイ大学留学中に知り合った友人夫妻を、カリフォルニア州 アルトのお宅に久しぶりで訪問した。そのとき、たまたま夫妻からいただいた一冊の書物が・・ ケーラー著のマクリントック女史の伝記『 A Feeling for the Organism 【 The Life and Work
生きた細胞をみる 大学院では、細胞学を専攻した。テーマはらせん菌の核の構造についてである。まず、らせん菌の 分類・培養から始めた。徴生物について何も知らなかった私は、人づてに椿先生を、当時の長尾研究 所に訪ねて、いろいろ教えていただいた。そのとき、実験室の机の上にカビを培養した多数の試験官 が並んでいたのを思い出す。思えば、これが私と培養されたカビとの最初の出会いであった。しかし、 実際にカビを実験材料として手にとるようになったのは、大学院を終了してからであった。 現在のように優れた蛍光顕微鏡がまだなかった時代には、光学顕微鏡の分解能が〇・二ミクロンで あることからしても、細菌の細胞構造を研究するのには自ずと限界があり、当時、最先端技術であっ た電子顕微鏡を使ってみようというのは自然の成り行きであった。しかし、このためには研究室にウ ルトラミクロトームや電子顕微鏡などの最先端機器が設置されていなければならない。当時、それら カビの細胞を観る 田中健治