神功皇后 - みる会図書館


検索対象: 天皇権の起源
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1. 天皇権の起源

王皇位継承にからむ皇子たちの殺戮ところが、これから後につづく皇位継承は、前後に蠶を見ないほ 男ど血なまぐさいものとなった。 と 王 大 ー履中 磐坂市辺押磐皇子雄略に殺される 章 ー木梨軽皇子安康に殺されるー ( 太子 ) ー反正 ー境黒彦皇子雄略に殺されるー ( 木梨軽皇子の男弟王予定者 ) ー雄朝津間稚子宿袮皇子 ( 允恭 ) ー穴穂皇子 ( 安康 ) 眉輪王に殺される 忍坂大中姫 ー八釣白彦皇子雄略に殺されるー ( 安康の男弟王 ) ー大泊瀬稚武皇子 ( 雄略 ) ー大草香皇子安康に殺されるー ( 允恭の男弟王 ) 眉輪王安康を殺し、雄略に殺される 中蒂姫 きなしのかる 允恭天皇は晩年に、第一子の木梨軽皇子を太子に定めた。当時は異母兄弟の結婚は認められてい かるのおおいらつめ たが、同母兄妺の奸すことは固く禁じられていた。それを木梨軽皇子は、同腹の妺の軽大郎皇女に 恋い狂い、ついに一一人は愛し合ってしまった。 118

2. 天皇権の起源

おさかのひこひと は、この麻呂古皇子は押坂彦人大兄ともいうので、この皇子が敏達朝の男弟王であったということ になる。ところが敏達朝の男弟王として、もう一人の該当者がいる。それはつぎの皇位を継承した 橘豊日皇子 ( 用明 ) が、大兄皇子と呼ばれていたからである。これら二人の大兄の関係はどうであっ たのであろうか。一四二ページの系譜を参照していただきたい。 敏達天皇も前例にならって、后の広姫が生んだ麻呂古皇子を男弟王として、押坂彦人大兄皇子と 改名させたものとみてよかろう。ところが蘇我馬子の姪の額田部皇女を改めて后としたことから、 事情が変わったものと思われる。すなわち大臣の蘇我馬子が、姪である后を通じて、后の兄にあた り馬子の甥でもあり、また天皇の異母兄弟である橘豊日皇子を、男弟王に改めるべく働いたのでは なかったかと思われるのである。 さきにも述べたことであるが、敏達天皇の崩御に先立ち、天皇は橘豊日皇子を枕辺に呼んで、任 那の復活を遺言された。そのことをみても、敏達朝の末においては、橘豊日皇子が男弟王であった ことは明らかであろう。もちろん男弟王のことは文献にいっさい見えないので、確かだとはいいゝ ねるが、そうした見方が妥当ではないかと思う。 いずれにせよ、敏達天皇の嫡子である押坂彦人大兄皇子は、つぎの皇位にはつけなかった。皇位 道 へについたのは、蘇我氏の血をうけ、大兄皇子と呼ばれた橘豊日皇子で、それが第三十一代の用明天 政皇である。 しうまでもなく蘇我馬子によるものであった。大臣とはい 押坂彦人大兄皇子が排斤されたのは、、 163

3. 天皇権の起源

復事を託したいと話された。使者として来た蘇我臣安麻呂から気をつけるようにと注意をうけていた のので、大海人皇子は天皇の心中を知っていた。そこで病いを理由にして固辞し、后を即位させて、 皇大友皇子に政務を執らすよう進言した。そして出家の許しをえて、直ちに内裏の仏殿に坐して剃髪 し、二日後に吉野へ旅立つのである。 章 もろもろのまつりごと あまつひつぎおおきさきさず 第このとき大海人皇子が天皇に対し、「請う、洪業を大后に付属け奉り、大友王をして諸政 のたままっ を宣い奉らしめたまえ」と述べた内容は注意すべきである。天智天皇の后を皇位につけ、大友皇子 を男弟王とすることを進言したものであるが、天皇は政務と関係なく、男弟王が政務全般をつかさ どることが明らかに示されているからである。男弟王としての大海人皇子も、諸政事を執る立場に あったことがわかるであろう。 それにしても、このとき大海人皇子が、あえて大友皇子の即位にふれす、后を皇位につけるよう 言上したところに、彼の怒りのほどがうかがえる。また直ちに皇居で剃髪し、仏門に入る姿を宮廷 の人たちに見せたのも、天皇に殺害される身の危険を予知したからであろう。 病床の天皇は安堵して、大友皇子を皇位につけさせることにした。しかし大友皇子にとって、吉 野に隠れた大海人皇子は無気味な存在であった。そこで翌十一月二十三日、内裏の西殿にまつる織 物の仏像、多分それは仏殿の繍仏であったと思うが、その前に重臣の左右大臣と三人の御史大夫を こ・つろ 集め、皇子は手に香鑪を持って、ともに心を同じくすることの誓約を求めたのである。左大臣が皆 を代表して、同じく手に香鑪を持ったまま誓いの言葉を述べた。 「日本書紀」をみよう。 28 石

4. 天皇権の起源

たま 寺などに所賜える山・沢・嶋・浦・林・野・陂池は、前も後も並除めよ。 この甲子の年とは、さきの天智称制三 ( 六六四 ) 年のことで、そのとき白村江の敗戦後の恩賞とし やかべ かきべ て、各氏族に私有の民部・家部を授けた。前節で、それは大化改新の制度に逆行するものであった が、中大兄皇子が即位を願う必要から、あえて人気を得るために行ったものであることを述べた。 天武天皇は再び大化改新の線に戻すべく、そのとき授けた各氏族の私有民を取り上げたのである。 さらに皇族をはじめ各氏族や諸寺の所有する山林原野にまで及ばしたのである。 みゆき ~ 0 り・ / 、ま 6 また同年三月には、皇族の栗隈王を兵政官長となし、大伴連御行を大輔として、将兵・兵庫・駅 た。この兵政官長は大宝令以後の兵部卿にあたるものである。 伝などの軍事権を国家のもとに統べ なお栗隈王は「姓氏録」によると敏達天皇の孫にあたる。 その後、内政の多方面に向けて意がそそがれるが、天武天皇の政治理念が明確に方向づけられて 現われるのは即位十年からである。天皇に集約された権力が安泰をえたからであろう。その一つは 即位十年二月の「日本書紀」にみえる記事である。 みことのり おわ 天皇・皇后、共に大極殿に居します。親王・諸王および諸臣を喚して、詔してのたまわく、 にわかまつりごと おさ かとも のり のりのふみ あれ 朕今更に律令を定めて、法式を改めんと欲す。故れ倶にこの事を修めよ。然れども頓にこの務 を就さば、公事闕くことあらん。人を分かちて行うべしと。 権これは浄御原律令となり、さらに後の「大宝律令」として完成される。そしてこれと関連して、 同年三月の記事には皇族や氏族の一二人に命じて、「帝紀および上古の諸事を記し定めしめたもう」 みなや 293

5. 天皇権の起源

かに男弟王とみるべき立場にあった。そして男弟王であれば、原則として皇位継承と直接関係のな いはすである。しかも天皇の子として大友皇子があれば、なおさらのことである。それなのに、な ぜ大海人皇子は大友皇子と皇位を争うことになったのであろうか。 やまとひめのみこ 天智天皇は即位のとき、皇族の娘を后に立てる慣わしから、倭姫王を迎えられたが、皇子は生 まれなかった。それ以前に四人の妃があった。第一はさきの右大臣蘇我倉山田石川麻呂の娘である おちのいらつめ 遠智娘で、一男二女を生んだ。第二はその妺の姪娘で二女を生む。第三はさきの左大臣阿倍内麻 たちばなのいらつめ ひたちのいらつめ 呂の娘の橘娘で二女を生む。第四は後の左大臣蘇我臣赤兄の娘の常陸娘で一女を生んだ。皇 たける 位有資格者は以上の子たちに限られる。ところが遠智娘が生んだ建皇子がただひとりの皇子であっ たが、先天的に唖であった。 みやおみな おしみ くりくま おたっ しふこ このほかに四人の宮人と称する妾があった。忍海造小龍の娘の色夫古娘は一男二女を生み、栗隈 とくま らつめ うねめやかこ 首徳萬の娘の黒媛娘は一女を生み、越道君の伊羅都売は一男を生んだ。そして伊賀采女の宅子が生 んだのが大友皇子である。 念 武右でわかるように、皇位継承権をもっ建皇子は唖であり、そのほかに二皇子が生まれたが、生母 との出自が低くて資格がなかった。そのために弟の大海人皇子を男弟王とするとともに、世継ぎとし ても定めていたのである。 権ところが、天皇と大海人皇子の間に不和が生じた。そこで晩年になって突然、しかも当時の事情 からいえば強引に、大友皇子を即位させようとしたのである。それも天皇が病床において、大友皇 めいのいらつめ

6. 天皇権の起源

帝も死に臨んで二人の名をあげられたが、いずれとも決定されなかった。 厩戸皇子には三人の妃があり、馬子の娘の負古郎女が生んだのが山背大兄王なので、蘇我氏の血 をまともにうけたものであった。その名に「大兄」の称がついているのをみると、父の厩戸皇子の 死後は推古朝の男弟王としての立場にあったかと思う。蘇我氏の血をひく皇位継承者としては、山 背大兄王が順当であった。 このほかに、推古女帝があえて田村皇子の名を示されたのは、長年にわたる蘇我氏の専横を、で きることなら断ちたいという願いからであったであろう。しかし蘇我氏といっさい関係のない皇子 を選ぶことは、当時の情勢として不可能なことであった。数多い皇子の中から田村皇子の名があげ ほてのいらつめ られたのは、その妃に馬子の娘の法提郎媛がなっていたからであろう。 そこで皇位継承の選定には、重臣たちも二派に分かれた。蝦夷は気の弱い人物であった。それだ けに迷った。そして世間に気兼ねして、田村皇子を即位させることにした。これが第三十四代の舒 明天皇である。 ふるひと しかし舒明朝には、前述した妃の法提郎媛が生んだ古人皇子が、大兄皇子とも呼ばれているので、 夜男弟王であったとみてよい。したがって実際の政務は、蘇我氏の血をひく古人大兄皇子と、大臣の 蘇我蝦夷の掌中にあったといえる。 舒明天皇の后には、天皇の姪にあたる宝皇女 ( 後の皇極 ) がなり、その長子が葛城皇子、すなわち 大 中大兄皇子である。しかし舒明天皇の崩御の記事に、東宮として年十六歳とあり、この御代ではま ふこのいらつめ 227

7. 天皇権の起源

復子を皇位継承者に決めることができたのであった。 回 の こうした無理強いの大友皇子の擁立だけに、天智天皇は大海人皇子を殺して亡きものにしようと 皇した。大海人皇子はその危険から遁れて、吉野に身を隠したのである。それでも迫害がいっ身にお よぶかしれない日々の生活であった。大友皇子の即位の後においても同じく死の危険があった。そ 章 のために天皇の崩御を聞くや、大友皇子と皇位を賭けて争わざるをえなか 0 たのである。 大海人皇子が東国に拠って兵を挙げようとし、六月二十四日に吉野宮を出たときは、従者わずか に二十余人、おそばに仕えていた少女十余人という貧弱さであった。いわゆる壬申の乱はこうした 姿からはじまる。しかし、この壬申の乱の経緯については一般によく知られているので、ここでは 省略したいと思う。 結果は七月末日に近江軍が大敗し、二十五歳の大友天皇は殺されて、その首級が大海人皇子の前 に献げられる。そして八月二十五日の評定で、捕えられた右大臣の中臣連金は斬罪となり、左大臣 の蘇我臣赤兄らは流罪となった。 とくにここで述べておきたいことは、藤原鎌足の権勢を引きついだ中臣連金の斬罪によって、こ れからしばらく、中臣・藤原一族には、歴史の表に出ない不遇の年月がつづくことである。 きよみはら 明くる年 ( 六七一一 I) の正月、大海人皇子は大和の飛鳥浄御原宮で即位して、第四十代の天武天皇と なり、妃であった鷓野皇女 ( 後の持統 ) を后とした。 この天武朝の特筆すべき特徴は、それまでの男弟王を廃したことである。そして男弟王の制度は 290

8. 天皇権の起源

復ことを、鎌子は皇子に訴え、即位をひかえさせたのだと思う。 の実際、孝徳天皇は在位一〇年で崩御されるが、そのときも皇子は四十一歳でありながら即位を見 皇送「ている。そして母の皇極女帝を重柞させて斉明天皇とした。鎌子は男弟王としての皇子と組ん で、どこまでも革新の実をあげようとした。皇子もまた同調して、鎌子の協力をよろこんだのであ 章 る。 第 また二つには、鎌子みずからの栄達と権力の座への野望である。 それまでの中臣氏の身分は、次節で述べるように低か「た。クーデターを成功にみちびいたとは い 0 ても、その功績で大臣になれる家柄ではなか 0 た。しかし朝廷の枢要な地位につかなければ彼 の政治は生かされないし、また栄達は人間のもっ本然の欲望でもある。 そのために、鎌子は天皇に軽皇子を推した。軽皇子は鎌子に厚意をも「ていたし、性格もおとな しか 0 た。そして皇位が転げこんでくることなど考えられない立場にあ「ただけに、皇位についた のは鎌子ひとりの尽力に負うことを知り、特別に厚遇するであろうことが考えられた。しかもここ 数代の天皇が、ロポット的存在であ「たことを知「ている鎌子は、軽皇子もそうした立場におくの に、もっとも適したものと考えたと思われる。 ロポットとしての孝徳天皇こうして五十歳の軽皇子は、第三十六代の孝徳天皇として即位された。 そして鎌子は、葛城皇子を男弟王として位置づけた。葛城皇子を中大兄皇子と称するようにな 0 た 8

9. 天皇権の起源

第 3 章大王と男弟王 后 馬子の娘 堅塩媛 にが りながら、異腹の兄二人に皇位を継がれた苦い経験を思ったからであろう。 そのように判断するのは、この皇子に大兄の称がついているからである。しかも太子であれば必 ず太子に定めた記事が見えるのに、この大兄皇子を太子としたという記事はない。それなのに即位 十三年の条に、「箭田珠勝大兄皇子薨せたまいぬ」と、わざわざ明記さえしているのである。皇子 石姫 本名は不明 ー箭田珠勝大兄皇子 ( 欽明朝十三年薨 ) ( 欽明の男弟王 ) 后 広姫 本名は不明 ー渟中倉太珠敷皇子 ( 敏達 ) ( 欽明の後の男弟王 ) 引大兄皇子 ー橘豊日皇子 ( 用明 ) ( 敏達の後の男弟王 ) ー額田部皇女 ( 推古 ) 敏達の後の后となる 押坂彦人大兄皇子 麻呂古皇子 ( 敏達の男弟王 ) 142

10. 天皇権の起源

の皇子たちの間で、皇位を兄弟で争う事件が起こったのである。したがって、さきの仲皇子の謀叛 生 のも、ただ痴情が原因であったとはいえす、兄弟間で血をもって皇位を奪い合う時代になっていたの 大である。 章それにしても、応神・仁徳の両朝において、ともに第二子が兄弟たちによ「て殺されるという事 第 件は、ただ偶然だとはいえないであろう。古来の相続の慣行が破棄されようとしたのに対し、第二 子は慣行を盾にして、皇位の継承を主張したのだとみてよかろう。だが慣行の掟はすでに効力を失 ついに第二子がともに殺されることになったのである。 妻帯した祭事権者の大王さて、以上の三つの事件から、何を探り出すことができるであろうか。 応神天皇にしても仁徳天皇にしても、その上に兄があった。古来からの慣行でいうならば、その兄 が祭事権者として、第一義的な地位につくはすである。ところが御陵が明らかに示すように、天皇陵 の中では仁徳陵が第一位で全長四八六メート ル、応神陵は第一一位で四一七メートルの巨墳である。 また第三位は仁徳天皇の子の三六五メートルの履中陵である。もし前時代と同じく、祭事権者の方が 政権者よりも に . る巨大・古墳・がなぐ・て・ばらない。この ことは応神・仁徳・履中が、それぞれの代で住を彑める権力者であ 0 たことを示している。 とくに第一子であった履中天皇に注意してほしいと思う。本来ならば、祭事権者として独身を守 るべきであった。ところが二人の妃を娶り、一一皇子・一一皇女を生んでいる。そこには前時代の独身