中臣氏の延喜本系 回 ( 敏達朝 ) ( 推古・舒明朝 ) ( 舒明・皇極朝 ) ( 欽明朝 ) の 権 中臣姓始 天黒甲ーー常盤 , ーー可多能祐ーー御食子ーーー鎌足 章 子 第 時右に出ずる者なし」と記している。この黒田大連・常盤大連の大連の称は後世の追記で、欽明朝 にはじめて中臣連を賜姓されたことは確かである。 しかも欽明朝に、つつしみつとめたほまれによって、中臣連の姓を賜わったことがわかる。それ うらべ あめのこやね 以前の姓については、「大中臣系図」に「天児屋根命十九代、始めて中臣連の姓を賜う。本はト部 なり」とみえる。祭杞に関与するト部氏から、分立して中臣に改姓されたのが真実であったかどう = ( オしカみずから記しているので信用してよいのであろう。 か、他に傍証まよ、・ : みけこ ところが興味深いことは、延喜六 ( 九〇六 ) 年の中臣氏の延喜本系に、鎌子の父の御食子とその弟 の国子のことを、「前に奏官として事え祭官を兼ぬ」と注記していることである。御食子は「日本 書紀」に中臣連弥気とみえる人物で、推古女帝の禁裏に仕え、天皇の言辞を伝える職にあったこと が記されている。そこで本務は奏官で、宮中祭杞は兼務であったといえる。中臣という姓も、そう した本務からの命名であろう。 その子の鎌子も、父と同じ役職を継いで、舒明・皇極の両朝に仕えたとみてよい。それだけに蘇 つか 244
我蝦夷・入鹿の専横ぶりを身近に見て、蘇我氏の討滅を決意したものと思われる。 いんべ そのことで最近気づいたことであるが、大和朝廷の古来からの祭杞は、忌部 ( 斎部 ) 氏が主管する ものであったと思う。のちには「イムペーと訓むようになったが、正しくは「イワヒべ」、すなわ ち祭杞をつかさどる部民であった。ところが中臣氏が、多分それも欽明朝の改姓後から、禁裏の奏 官としてのかたわら、忌部氏の宮中祭杞も指揮するようになり、ついに神祇権を掌握するに至った のではないかと考えている。 あめのこやね そこで記紀の神代巻に、中臣氏の祖神である天児屋根命が、神事の中心人物として物語られてい るのも、検討する必要があるのではないかと思っている。これはあまりにも爆弾的な発言なので、 しばらく差しひかえておくが、記紀の内容には中臣氏の政治的作為が随所にみられるのである。 実際「日本書紀」にみる中臣氏の伝承は、その撰修の当初から神祇官の中臣連大嶋が筆録し、ま た完成のころは鎌子の子の藤原不比等が右大臣であった。それだけに中臣氏の伝承は誇大に粉飾し おおかしま て収録されている。例えば遠く垂仁朝の五大夫の一人に、遠祖の大鹿嶋命の名が見え、また仲哀紀 にも中臣烏賊津連が活躍したことになっている。どこまで信用してよいものか、前述もしたように、 おびと 鎌中臣連の姓は欽明朝以降であり、それまでは連姓ではなく首姓であったはずである。 としたがって皇極三年に、中臣鎌子が神祇伯に任命されたという「日本書紀」の記事も、明らかに 徴後世の追記である。というのは、神祇官の長官として神祇伯が設置されたのは、後の律令による定 大めである。ことに鎌子は中臣・藤原一門の英雄として、過大に評価されてきたのである。 むらし 245
仏教興隆の推進力となった馬子 五推古勅撰の国史 蘇我史観による神話と歴史神話は葛城王朝 のものが中心神話構成は蘇我氏の手で なぜ邪馬台国が歴史から消えたか葛城王朝 と邪馬台国の関係邪馬台国は推古勅撰書が 消した 第五章天皇権の回復 一大化改新の前夜 蝦夷・入鹿の僣上入鹿誅殺の事件へな ロポット ぜ中大兄は皇位につけなかったか としての孝徳天皇 一一大化改新と中臣鎌子 中臣鎌子の素性中臣鎌子の政治的ねらい 難波遷都の目的は何か左右大臣の死と謎 中臣鎌子の陰謀 三中大兄皇子の苦難 225 204 226 242 263
第 5 章天皇権の回復 、実 こ れ を 中 大 兄 皇 子 や 中 考制 臣 鎌 子 、あ の 側 娘氏 か 。対 ら み る と 。業 左 、皇 大 臣 の 阿 倍 内 麻 見娘 呂 恩を は た の 丿 ( ロ . 、か 飾 っ倉 り 山」い に す ぎ 間に皇 、を か た じ で あ て 天 皇 は い た く 気 が ね し て い た し 策 謀 家 と し て の 鎌 子 の 人 柄 が わ か る に つ れ て 天 皇 は 怖 れ た で あ ろ っ 中 兄 皇 子 に 対 し て も 同 も の で あ ろ っ が ま た 孝 徳 天 皇 も 即 さ せ て く れ た こ と に 対 す る 報 と し て きメ ] め た で あ ろ っ し か 内 臣 の 制 を 設 け て 優 遇 し た の は い つ ま で も な く ク ァ タ の 功 績 理 由 に 中 大 兄 皇 子 が 。推新 し た す る よ っ 押 し つ け ら れ た カゝ ら で ろ っ ま た 身 分 が 低 い の で 大 臣 に は で き な た 鎌 子 を た に 麻 呂 を 大 臣 に し よ っ と ん て い た の に し 中 大 兄 皇 子 と 中 臣 鎌 子 か り 蘇 我 田 麻 呂 大 臣 に 左 . 大 臣 右 大 臣 の に し た の も こ の と き が 初 め て で あ る が そ れ は 天 皇 が の 許 せ る 阿 倍 内 で ロ ボ ッ ト 的 存 在 と し て 発 足 し た の で あ っ た 際 孝 徳 卓月 に は 大 イヒ 改 新 と い っ 歴 史 的 大 事 が あ っ た が 天 皇 は 当 初 か ら 仕 組 ま れ た わ、 な、 の 中 で あ た 迎 ん た そ こ で 天 皇 に と っ て 真 、実 丿い の 許 せ る の は 阿 倍 左 大 臣 の の 小 足 媛 だ 、け で あ っ た と も い ん り と ひ 媛 足 小 の こ は の た っ 守 を 終 臨 の 皇 天 徳 孝 た っ な に 独 が る あ で と こ る べ 述 で 節 次 る 娘 を 后 に し な け れ ば な り な い そ の 后 に は 舒 明 極 の 娘 で 中 大 兄 皇 子 の 妹 に あ た る 孝 徳 天 皇 は 左 大 臣 右 大 臣 の 両 方 の 娘 を 妃 と し た わ け で あ る し か し 即 位 し た 上 は の た め か 孝 徳 天 . 皇 に も 娘 の に し、 た 彼 は い か の 日 乳募蘇 を 妃 し て 奉 た 人族 皇出 女身 をの 3 我 の 本 刀ヾ に 代 わ ・つ て 天 下 の 権 を 握 る こ と を み た で あ ろ つ そ 240
祇に盟わせた。そして初めて元号を立てて大化とした。 元号を立てるということは 、いかに新政権の構想に夢をかけたかを示すものである。しかしこう した英断と決意が、先ぶれもなく突然に即位した孝徳天皇の老いた頭から出るものではない。 この 一事をもってしても、大化改新の大事業が気鋭の二人の若者、すなわち中大兄皇子と中臣鎌子によ って進められたことがわかるであろう。 みことのり そこで、ます中臣鎌子について述べておく必要があろう。鎌子が内臣に任命されたときの詔が 『日本書紀」にみえる。 いさおしきまこといだ まつりごとまちぎみいきおい つかさつかさ 中臣鎌子連、至忠の誠を懐きて、宰臣の勢に拠りて、官司の上に処り。故れ進め退け はか 廃め置くこと、計りごと事に従いて立つ。 もちろんこの条文は、かって河村秀根氏が指摘したように、「三国志」魏書の武帝紀の辞と全く 同文で、参考までに示すと、「懐至忠之誠、拠宰臣之勢、処官司之上、故進退廃置、計従事立ーと みえている。明らかに「魏書』の文を引用したもので、それだけに誇張があるかもしれないが、そ れにしても鎌子が権力を掌中におさめていたことは事実であろう。 しかし、鎌子に至るまでの中臣氏の身分は低かった。「群書類従」 ( 巻六十一 l) 所収の「中臣氏系 と図」にみる延喜本系解状によると、系譜は鎌子の曽祖父にあたる黒田大連から始まっている。そし ときわ 徴て欽明朝に仕えた子の常盤大連のことを、「右大連、始めて中臣連の姓を賜う。磯城島宮御宇、天 かくきん ひきゅう 大国押開広庭天皇 ( 欽明 ) の代、特に令誉を ~ 豕り、恪勤供奉する者なり。今案ずるに苦節匪躬の忠、当 しりぞ 243
復にあたって、葛城皇子をと名指しされたのである。入鹿のいるかぎり皇位につけない運命にあ 0 た 6 のわが子が、やっと即位できるということに、母としてのよろこびがあったと思う。 とと 皇もちろん中臣鎌子が、このとき葛城皇子の即位を止めたのは、皇子がクーデターの中心人物であ ったことを気にして、この場合は身をつつしむようにと諌めたというのならば、理解できないこと 章 第もない。しかし中臣鎌子が蘇我氏の暗殺を企てたとき、皇子が皇位から見離されていたのを利用し、 皇位を餌に仕組んだものであった。葛城皇子にしても、皇位を夢みるために、身の危険を賭けて、 中臣鎌子の意を入れたのであった。それを事が成就したとき、中臣鎌子は葛城皇子の即位に反対し たのである。 実は「日本書紀」によると、中臣鎌子が法興寺ではじめて葛城皇子と見知る記事の直前に、とん でもない記事がみえる。 軽皇子が足を病んでいるのを知った中臣鎌子は、親しくもあったので見舞い、夜もすがら談合し た。よろこんだ軽皇子は、鎌子のために別殿に新しい敷物をしき、朝夕の食事に寵妃をして厚くも てなした。鎌子は厚遇に感激して、舎人たちに軽皇子こそ王者にふさわしい方だと語った。そのこ とを舎人から聞いた軽皇子は、たいへんよろこばれたというのである。 ところが「日本書紀」には見えないが、「大織冠伝」には、この訪問のあとに軽皇子を批評して、 とも 「然るに皇子の器量、与に大事を謀るに足らず。更に君を択ばんと欲す」と記し、法興寺の蹴鞠で 葛城皇子と相知る仲となる記事がつづくのである。「日本書紀」はこの項が不敬にあたるとして削 えら
( 太子町 ) に居住していた分家が、倉山田臣を名告っているので、蘇我氏は代々三蔵の職についてい たのを、蘇我稲目が大臣になってから、その職を分家に譲ったものとみてよいかもしれない。 いずれにせよ、蘇我氏は帰化人の最有力氏族である秦氏や文氏と、早くから密接な関係にあった。 それだけに帰化人から財政的援助と、文化的影響をうけていたのであろう。その中でも百済系帰化 人の居住地が、蘇我氏の本貫地を取り巻いていたのである。蘇我氏が百済系帰化人と密着していた ことは明らかである。そこで百済王から仏像が献上されたとき、蘇我氏が崇仏を主張するのは当然 の成りゆきであった。 蘇我・物部の崇仏論争その蘇我氏に対して、物部氏が崇仏を拒否しようとしたのも、また理由の あることであった。 当時の神祇官は中臣氏であったが、中臣氏は物部氏と同族であった。神祇官の中臣氏が物部氏に 泣きついて行ったことから、物部氏も渦中に入らざるをえなくなったのであろう。「日本書紀」に よると、物部尾輿と中臣氏とが共に天皇に奏上し、蕃神を拝むと国っ神の怒りをまねくといって反 我対したことがみえる。大臣の蘇我氏と大連の物部氏とが、政敵であったということを強調する前に、 と崇仏論争を契機として、争わねはならぬように運命づけられたとみる方が正しいであろう。 一ム 蘇我対物部の崇仏論争に発端した事件は、その後の歴史を大きく狂わせた。すなわち物部氏の滅 仏 亡を経て、蘇我氏の専横時代を迎える。さらに復讐を期した中臣鎌子 ( 鎌足 ) が、中大兄皇子 ( 天智 ) 155
第 5 章天皇権の回復 中臣鎌子の素性孝徳天皇の新政権は、クーデターのあと、まことに短時日にして樹立された。 蘇我入鹿を暗殺した直後、葛城皇子 ( 中大兄皇子 ) と中臣鎌子たちは急ぎ法興寺に入り、城を築い あやのあたい て備えた。案の条、蘇我氏に恩顧のある漢直らが武装して反撃の態勢を示した。この謀叛は葛城 皇子の説得によって、事なきをえて止んだ。それだけに新体制の確立が急がれた。 入鹿についで父の蝦夷の死んだ翌日、すなわち六月十四日には孝徳天皇が即位し、その日に中大 うちつおみ 兄皇子を皇太子、実際には男弟王とし、左右大臣と内臣も任命された。それまでの大臣を左大臣と 右大臣に分けたり、また内臣をおいたのは、制度の必要からではなく、人物の配分の都合から考え られた早急の処置であったといってよい そして六月十九日には、天皇・皇極女帝・中大兄皇子が大槻樹の下に群臣を集めて、新政権を神 一一大化改新と中臣鎌子 おおっきのき 242
入鹿誅殺の事件へこうした世情の中で、中臣鎌子が葛城皇子 ( 中大兄皇子 ) に接近するのである。 遠く欽明朝における蘇我稲目と物部尾興との崇仏論争は、つぎの敏達朝で馬子と守屋の対立とし てつづき、そのたびに中臣氏は物部側に加担した。中臣氏は古く物部氏の一族であ 0 たからである。 ところが馬子によ 0 て守屋は殺され、その後は蘇我氏の専横時代となった。中臣氏にと「ては長い 隠忍の年月であった。 さきに入鹿は古人皇子を皇位につけようとたくらんだと述べた。本来ならば、舒明天皇と皇極女 帝の嫡子として生まれた葛城皇子が、第一の皇位継承者でなければならない。そして実際、舒明朝 では東宮として日継ぎの皇子であ 0 た。皇極朝でも同じであ「たとみてよい。ところが蘇我氏の血 をうけないというただそれだけの理由で、父舒明天皇の崩御のあと皇位につけなか 0 た。この皇極 女帝のあとも、入鹿のいるかぎり望みはなか「た。そうした悶々の葛城皇子に中臣鎌子は目をつけ、 皇子を擁立して蘇我氏の討滅を企てようとしたのである。 うちまり つきのき 皇極三年春正月、法興寺の槻樹の下で打毬が行われた。法興寺は塔を中心に三つの金堂から成る 夜伽藍配置で、現在の飛鳥寺でいうと、大仏の安置されているところが中金堂にあたる。そして西門 のから飛鳥川に至るまでに百メートルほどの平地があるが、そこで打毬が行われたようである。 けまり 徴その打毬は「大織冠伝」 ( 家伝上巻 ) や『日本紀略」では蹴鞠と記している。いずれが正しいかに 大 ついては、これまでも論議されたが明らかでない。ここにいう打毬を、曲杖で鞠を打っ球技とみる 231
件が起こった。天皇は何を思ったか突然に、わが子の大友皇子を太政大臣に、また重臣の蘇我臣赤 おおきものもうすっかさ かね 兄を左大臣、中臣連金を右大臣に任命した。さらに三人の重臣を御史大夫とした。 蘇我臣赤兄は蘇我倉山田麻呂の弟で、娘を天智天皇と大海人皇子の妃にしていた。また中臣連金 は鎌足の従兄弟にあたる。藤原鎌足 ( 中臣鎌子 ) には二児があったが、長男の定恵は早く僧籍に入り、 相続者の不比等は幼く十三歳であったので、従兄弟を起用したのであろう。 この人事は明らかに、天智天皇から大海人皇子に対しての挑戦であった。 天智朝では長らく内臣の中臣鎌足ひとりだけで、左右大臣がおかれなかった。その内臣が亡くな ったので、左右大臣を設けるのにふしぎはない。しかし、こともあろうに、天皇がわが子の大友皇 子を太政大臣に任じたことは、狂気の沙汰というよりほかなかった。太政大臣はこのとき創設され たものであるが、左右大臣を総理して政務を執るものである。そこで男弟王としての大海人皇子は、 空虚な存在となるわけである。 天智天皇の即位直後から、天皇は大海人皇子と感情的にそぐわない状態となっていた。しかも年 老いるとともに、子への愛情からか、二十四歳の大友皇子に皇位をつがせたくなったのであろう。 苦本来ならば嫡子相続は正当な理由になるので、大友皇子を後継者にすることにこだわる必要はなか 子 0 たはずである。ところが大海人皇子に皇位を譲る約束がしてあ「たのであろうか、それだけに事 兄がこじれたのである。 中 その九月、天皇は病床につかれた。病いの重くなった十月十七日、大海人皇子を枕辺に呼んで後 285