判を始祖とした。それは葛城王朝の系譜が明らかでないために、盗用しやすかったからである。この のほか、大和朝廷に入ってからの皇子に始祖を求めたものもあるが、そのほとんどが崇神・垂仁・景 笋行の皇子の末裔だとしている。そのことを太田亮氏著「日本上代に於ける社会組織」を参考にして、 かばね 姓別に表で示すと前ページのようになる。 観表のごとく、地方の各氏族が天皇家に出自を求めたものは、大和朝廷の初期の皇子に限られ、そ れも崇神・垂仁・景行に集中している。その中でも、景行天皇の皇子の裔だとするものが、断然多 州 . 力、 至る広範な地域がスロさたた めるのに都合がよかったからである。そうした事情を理解してみると、景行天皇の系譜を無謀なも のとして、全体の価値まで否定するのは行き過ぎであろう。 しかし論者は他の理由からも、景行天皇をはじめ成務・仲哀の三天皇の実在を否定しようとする。 わかたらしひこ たらしなかつひこ 景行・成務・仲哀を否定する説その理由は、成務天皇の名が稚足彦、仲哀天皇が足仲彦で、そのタ ラシの名号は、三輪王朝のイリヒコ系と異質だからだという。そして七世紀の舒明天皇の和風諡号 おきながたらしひひろぬか あめとよたからいかしひたらしひめ が息長足日広額天皇、また后であった皇極天皇が天豊財重日足姫天皇と称されていることから、タ ラシの名号は後世の修辞、すなわち後の投影とみなすべきで、そのため実在しなかった天皇だとい う。これは水野祐氏の説を利用したものであるが、この考証はおかしい。
ろう。 おきなが 玉手山古墳群は古代豪族の一つ、息長氏の墳墓ではなかったかともいわれる。実際この玉 しなが しなが 陵の東にある二上山の現在の南河内郡太子町は古長の里呼ばれ、そこには式内科長神 社ある。しかも息長はもと、、 丘陵を含めて石川の東側は、息長氏の住地であったと考えられるのである。さらに興味のあるのは その太子町に春日という集落もある。後に息長氏の居住地となった大和東北部、すなわち奈良市も 古くは春日と呼ばれた。息長氏ばもど河内の剳 - 印地・をおき、後に大和〈移り、その地を春日 と名づけたとみられるのである。 しかも心神天皇母の神工后 ( 、息長氏の出身である。彼女のカで、息長氏は河内から大和へ 、可川ど引ゴどでぎる。その神功皇后の狭城盾可陵も、息長氏の住地とな「た春日にガ和奈 良市佐紀の地、そこは古代天皇家の墳墓地であるが、その一角に築かれているのである。 はびきの ところが、神功皇后の夫にあたる仲哀天皇の長野陵は河内にあって、埴生野丘陵の北端に築かれ ている。古市誉田古墳群はこの仲哀陵が最初で、応神陵はその一キロメートルほど東にある。した がって古市誉田古墳群は、正しくは仲哀陵からはじまるというべきであるが、その仲哀陵をこの地 判 説に築いたのには理由がある。 朝 王仲哀天皇は神功皇后とともに九州征伐に赴いたが、筑紫に着くと間もなく亡くなられた。そこで かしひ あなと とよ、り もかり 河 遺骸を博多湾岸の橿日宮から、穴門の豊浦宮 ( 山口県豊浦郡 ) に移して、取りあえす殯をして葬った。 5 6
大和の地に造られたのをみても、河内の仲哀陵は特別な事情のためであったとみてよかろう。 判 の実はそのように理解したのには理由がある。紫で崩御された仲哀天皇の取り扱いと同じ事例が、 笋時代は降るが他にもあるからである。推古朝十 ( 六〇一 l) 年二月に、 諸 羅将軍として、二万五千の兵を率いて派遣された。ところが、筑紫に着いた皇子は病み遠征する 章 ことができなくなった。そして翌十一年二月に、皇子は筑紫の地で薨じた。そのときのことを「日 第 本書紀」によってみよう。 つかさど すほう さばもがり 仍りて周芳の娑婆に殯す。すなわち土師連猪手を遣わして殯の事を掌らしむ。故れ猪手連が孫 はにゆう を娑婆連という。それこの縁なり。後に河内の埴生山の岡の上に葬る。 周芳 ( 周防 ) の娑婆は山口県佐波郡のことで、現在の防府市のところである。このときも古来から 朝廷の葬儀全般をつかさどっていた土師が遣わされて、山口県まで来目皇子の遺体が運ばれて殯 のことを取り扱っている。そして後に土師連は自分たちの住地に近い埴生丘に、皇子の墳墓を造営 したのである。 これと同じく筑紫で亡くなった仲哀天皇を、山口県豊浦郡に運んで殯をし、後に埴生の丘辺に御 陵を造ったのと似ている。その御と来目皇子の墳墓とは距離も近く、埴生丘から裾野にかけてが、 いわゆる古市誉田古墳である。そこで当然、仲哀天皇のときも土師連が派遣され、殯ののち住地に 近い埴生の丘辺に御陵を造ったものとみてよかろう。 ところが応神天皇の御陵が、また河内に築かれたのにも理由がある。一つには、その地に父の仲
がわかる。そこで崇神天皇も、皇子時代の名は御間城入彦であり、五十瓊殖は後の尊号とみてよい 2 判 の初期三代の天皇の諡号には、皇子時代の名に即位後の尊号をつける同じ形式がみられるのである。 笋したがって、景行天皇の尊号にワケがあることをもって、この天皇の実在まで否定しようとするこ とは、あまりにも暴挙だといわねばならない。さきの表を見てもわかるように、すでにこの時代の 章 第皇子には、ワケを名に用いるものが数人もあり、尊号にワケのあるのは何もふしぎではない。 それにもかかわらす、タラシ系の名をもっ景行・成務・仲哀の三天皇は、その名のために存在を 否定された。そして砂入恒夫氏の論を利用して、イリヒコ系の名辞につながる系譜こそが本来の帝 いほき にしき 紀であったとし、垂仁天皇から後の皇統は、景行・成務・仲哀ではなく、五十瓊敷入彦・五百城入 ー五十瓊敷入彦 活目入彦 ( 垂仁 ) 稲日大郎姫 日葉酢姫 八坂入媛 ー大足彦 ( 景行 ) ー大碓 小碓 ( 日本武尊 ) ー ー五百城入彦・ : ー稚足彦 ( 成務 ) 禾ー / 」いん ー足仲彦 ( 仲哀 ) 息長足姫 ・ : 品陀真若王 : ・ 誉田別 ( 応神 ) : ・仲姫
すなわち、第一子のもっ祭事権、第二子の政事権とから成る祭政二重主権の形態であったことを 述べたことである。そして第一子の祭事権者は、聖なる人として独身を守り、そのため次代への継 承は、政事権をもっ第・「・「子の子たちに・継がれる。もちろん国を代表す王は祭事権をもっ第一子 であったが、その第一子には妻子がなかった。そのため皇統譜の作成にあたっては、血縁をたどっ て、当哮 0 策ニ子を天皇と認めてきたことを論証した。それは第十四代仲哀天皇までにみられる統 治のあり方として示したものであった。 本書はこの問題を主題として再び取り上げ、その後どのように祭政の形態が変移して行ったか、 天皇権を中心とした歴史の流れを追って、新たなる角度から古代史の解明を試みようとするもので ある。 前述の拙著では、第十四代仲哀天皇の御代までしか述べなかった。ところが近年、つぎの第十五 代応神天皇から王統が更迭したという河内王朝説が流布されている。しかし王統が更迭したのでは よい。仲哀朝までは外征に明け暮れ、ぞん・お・プ・て全虱制朝なし選引 ~. ~ 。国家統一を果たした応 神朝以降は、外征から内政に切り変えられ、そのため莫大な富と権力が朝廷に集約された。それが 原因となって、祭政二重主権のあり方に大きな変化をもたらしたのである。 前時代まで聖なる人として独身を守っていた第一子が、わが子に富と権力を継承させるために妻 帯した。そこでこの時期を境に、ゴナ・が綢問のす・・べ・て・を引摠ず引・刈 ( 「 5 どいで測「をこ とになったのである。しかし宗教観念が何ものよりも重視された古代社会であったことから、大王
第 1 章大王の誕生 ばれているのである。 仲哀天皇の皇子系譜 ー鏖坂皇子 臣 ( 妃 ) 大中 ー忍熊皇子 ( 妃 ) 弟 媛ー」誉屋別皇子 ( 妃 ) 気長足姫 ( 神功皇后 ) 誉田別皇子 ( 応神 ) おおなかつひめ かごさか おしくま さて、仲哀天皇には三人の妃があった。最初の妃は大中姫で、坂皇子と忍熊皇子が生まれた。 おとひめ ほんやわけ 次の妃は弟媛で、誉屋別皇子を生んだ。したがって、第一子の麑坂皇子と第一一子の忍熊皇子が、祭 おきながたらしひめ 政の両主権者となるのが古来からの原則であった。ところが三番目に迎えられた気長足姫 ( 神功皇后 ) ほんだわけ が、誉田別皇子 ( 応神 ) を生んだことから、相続にからむ事件が起こったのである。 っぬが 仲哀天皇は気長足姫を伴って、角鹿 ( 敦賀 ) に行幸された。その翌月、天皇は一足先に紀伊国へ赴 かれたが、 そのとき筑紫の熊襲が謀叛した報に接した。そこで天皇は角鹿に使者を遣わし、気長足 あなと ところっ 姫に角鹿の津から穴門 ( 長門 ) へ向かうよう命じ、天皇みすからは紀ノ川の河口の徳勒津から出発し て、穴門の豊浦 ( 山口県豊浦郡長府 ) で合流された。 右は「日本書紀」の記事であるが、実際には熊襲征伐を計画して、角鹿と紀伊へ行き、両地の水 軍を利用する交渉をしたのだと解してよいと思う。このとき気長足姫は若狭国・但馬国・丹波国の 首長を可鹿・の叫し、彼らの率いる = 一百人の水夫で西下したことが、丹波国過家の文書に記され 4
あめ たりしひこ あはぎみ つぎに倭王の姓を「阿毎」、字を「多利思比孤ーと記し、「阿輩難弥」と名づくと記している。 男阿輩難弥は大君であることが明らかであるが、その前の姓と字については、これまでも解明の上で と ぬかたべ とよみけかしぎや 王問題とされた。時の天皇は推古女帝で、その名は額田部皇女、和風諡号が豊御気炊屋姫である。ま うまやど た摂政の聖徳太子としてみても、これは厩戸皇子という名で、ともに該当しないからである。 章 がなかったのを、隋ではそれを姓名として誤解したという 第そこで考えられることは、 ことである。したがって、これは「阿毎多利思比孤」とつづけて訓むべきで、しかも姓名ではない ことを知る必要がある。それでは何を意味する・かが問題となる。 おおたらしひこ たらしなかっ 前章で、景行天皇の名が大足彦、成務天皇が稚足彦、仲哀天皇が足仲彦であったことを述べた。 それらの大・稚・仲は形容語で、語幹ともいうべきものは「 である。この足彦が、「多利思 あめ 比孤」と記されたものとみてよいと思う。そしてその上の阿毎は、、 しうまでもなく形容語と あめ しての「天であろう。そこで天足彦とは、天子として満ちととのった方という意と解してよい しかもこの場合の天足彦は、ある特定の個人の名とみるべきではなく、天子の意、ないし天子の あはぎみ 尊称として用いられていたものと考えられる。したがって「阿輩難弥」〔大王〕と同義で、使者は 天皇を天足彦とも大ともいうと述べたものとみられる。 あめとよたらい 推古女帝のあとの舒明天皇の諡号は息長足日広額天皇、皇極女帝も天豊財 姫天皇で、とも おおぎみ に「足」がついている。これらの例からみても、このころ天足彦というのは大王いう称ととも に、一般的尊称として用いられていたものと考えられるのである。 わか 100
が応神天皇の后となることから、応神天皇は仲姫に入婿して、河内王朝がつくられたのだというの のである。 笋もちろん仲姫が五百城入彦の孫であるとは、「日本書紀」が仁徳天皇の母の出自として記してい るが、五百城入彦に子孫があったことはどこにも見えない。さきにも例示したように、地方の各氏 族はすべて天皇家や豪族に出自を求めて系譜を偽作した。品陀真若王の娘三人が応神天皇の后妃に なったことから、後にその出自を景行天皇の末裔だとし、その皇子である五百城入彦に求めたもの とみるべきである。 それにしても、景行・成務・仲哀がイリヒコの名辞をもたないという理由で、その実在を否定し た論者であるなら、三輪王朝の最後の天皇にあてた品陀真若王が、イリヒコでないことになせ疑問 を感じないのであろう。また彼の名は「日本書紀」のどこにも見えす、「古事記」だけが「この天 ひめみこみあ 皇 ( 応神 ) 、品陀真若王の女三柱の女王に娶う」と記しているにすぎない。三輪王朝の最後の王とし て、一つの事績さえ記されていないのもおかしなことである。いすれにせよ、こうした無謀な皇位 継承の順位を認めるわけにはいゝよい。 ところが天皇の名にかぎってみると、イリヒコ系は崇神・垂仁の二代、タラシ系は景行・成務・ 仲哀の三代、ワケ系は応神・履中・反正の三代である。この数価からいえば、かえってタラシ系を 否定しないで、イリヒコ系・タラシ系・ワケ系の三王朝があったという方が、まだ筋としては通っ ている。しかし三輪王朝から河内王朝へ、政権が交替したのだという大前提が、それを認めること
いろと を立てん。吾等、何ぞ兄を以て弟に従わんやと。 生 のそまでの・慣行によれば、第一子と第二子が次代の継承権を握るものであった。ところが父の仲 大哀天皇はすでに亡く、第三の妃とはいえ神功后が皇子をいだき、しかも多くのな率いて凱旋 章するのである。そこで第一子と第二子は、みずからがもっ冫代への継承権に不安な感けのである。 第 そのために、あえて誉田別皇子を殺して、自分たちの権利を確保しようと計った謀叛であった。 しかし結果は裏目に出て、第一子と第二子は死に、第四子の誉田別皇子が後に即位して応神天皇 となる。 ところが、二の妃出生した第三子はまだ残っているので、その第三子が擬制的第一子となっ 0 ゝマ・日 1 、、、み後の模様からみて、この事件を契機に、それまでの慣行は破棄されたように思われる。 仲哀天皇が亡くなっているだけに、神功皇后は誰にも気兼ねすることなく、みずから朝廷の実権 を掌握したとみてよい。「日本書紀』が神功皇后の摂政時代を一巻としているのも、第二の妃やそ 皇子を無視していた証拠である。 気長足姫というのも穉風挈ど・みられなが、本来の名前は伝わ 0 ていない。景行天皇が大足彦、 成務天皇が稚足彦、夫の仲哀天皇が足仲彦と呼ばれたように、気長足姫の「たらし」もそれに類す るものである。第三章一節で考証するが、推古朝の遣隋使が天皇の称を天足彦だと述べたこととも 関連のあるもので、それは主権者であることを示す名辞である。そのことからみても、わが子の誉 このかみ
しかしこうした松第物は、天皇家におし ( 第十四代の仲哀天皇をもって終わる。そこには政治 生 の的・社会的事情もあったが、特別な事件が導火線となって、新しい大王が誕生する時期を迎えるこ 王 大とになるのである。 章 第 2