王しかし軍君はその島から、子を船に乗せて百済へ送り返したという。そこで右の文中の斯麻が、百 男済国王の斯麻王であったとすると、国王となってから天皇へ奉献したことになる。そうなると癸未 と 王年は、斯麻王が即位した直後の五〇三年に比定されることになる。 とくしゅ しまのすくね だが「日本書紀」神功皇后の条には、卓淳国 ( 任那の一部 ) へ派遣された斯摩宿祢の名も見えるの 章 第で、斯麻という名も国内にあったとみてよかろう。それよりも、癸未年を四四三年に比定する方が 確かだと思われる。 その四四三年は文献史料からみて、まことに興味ある年である。いわゆる倭の五王のことを記し た中国の史書「宋書」に見えるからでもある。 その「宋書」列伝によると、宋の文帝の元嘉二十 ( 四四一一 l) 年に、「倭国王斉、使を遣わして奉献 す。復以て安東将軍倭国王と為す」とみえる。この済を允恭天皇にあてるのは、これまでのところ 一致した見解といってよい ところが「日本書紀」では、允恭天皇の在位を四一二 ~ 四五三年間と記している。中国の史書と 「日本書紀」とには、年数の開きがみられるが、このころからあまり大きな狂いはなくなる。その ためもあって、「宋書」の記事との比較で、さきの癸未年の大王は、これまで一様に允恭天皇だと みられてきた。ごが、 オそれは間違っているのではないかと思う。 まず日本を含めた東夷諸国を、中国側がどのようにみていたか、また日本の立場はどうであった かについて述べよう。 また 108
王即位の翌年二月に、忍坂大中姫を后として改めたという。 いろはしたが 男しかもその二月の条に、「初め皇后、母に随いて家に在しましき」とあって、彼女が庭で遊んで こみち かきね なびと 王いるとき、闘難国造が馬に乗ったまま、径から籬ごしに彼女を嘲りつつ、「能く園を作るや、汝者。 とじ あららぎもと いで、戸母、その蘭一茎」と声をかけた。彼女は、手折って馬に乗る者に与えたが、その失礼な言 章 おひと あれ 第葉のために、「首や、余は忘れじ」といって、後に后となったとき探し求め、死刑にすることは許 かばねいなき したが、 姓を稲置に落としたという記事が見える。 っげのくに うだ その闘難国は大和平野の東部の台地にあって、南は宇陀郡に接していた。また忍坂は磯城郡に属 するが、闘難から飛鳥へ来るには、台地から下りて、宇陀郡の北部から忍坂を通る道であった。し かも忍坂大中姫という名が示すように、彼女の里は忍坂にあったとみてよい。そこで忍坂宮という のは、允恭天皇が皇子のころ妃と住んでいたところであろう。 おしさか したがって、癸未年に鏡を献上したという意柴沙加宮 ( 忍坂宮ま、允恭天皇がまだ皇 住していたところだとみてよい。そうなると、癸未年が元嘉二十 ( 四四一一 ) 年ではなく、わが国の暦 では、それ以前であったといえる。 允恭天皇は十二月に即位したのであるから、宋朝へ派遣された使者が到着したのは、その翌年で あったとみられる。それが「宋書」に記す元嘉二十 ( 四四三 ) 年である。ところが鏡の銘文には癸未 年八月十日とあるので、たとえば日本の暦に一年の誤差があったとしても、八月は即位より四カ月 前にあたる。また二年の誤差があっても、空位時代が二年近くあったので、先帝が正月に崩御した 172
河内王朝説批判 いりひこ 「入彦」がついて、イリヒコ系の大王家とワケ系の大王家とに違った名号が認められる。そのこと 朝ワ系の河内王朝には、王統の上に断絶があり、政権の更迭があっ か , りイリコ たというものである。 その河内王朝説をくわしく批判するに先立ち、読者の便宜のために、崇神天皇から允恭天皇に至 る天皇ならびに皇子の名を表に示しておきたい。允恭天皇までで打ち切ったのは、仁徳天皇の皇子 である履中・反正・允恭の三天皇のあとには、イリヒコもワケも消滅するからである。次表は「日 本書紀」による。 ( 子だと引るので、五百城入彦の弟と認む。なお本文参照のこと。 妃 ( 后 ) 天皇天皇和名 御間城入彦遠津年魚眼 崇神 眼妙媛 五十瓊殖 御間城姫 10 代世 垂仁 活目入彦 五十狭茅 大海媛 狭穂姫 ィリヒコワ 豊城入彦 活目入彦五十 狭茅 ( 垂仁 ) 八坂入彦 誉津別 ケタラシその他 彦五十狭茅 倭彦 五十日鶴彦
男弟王の出現 元嘉 20 年 西暦 443 先正 允十使宋 王月 恭二者朝 崩 即月到に 位着 癸未年癸未年 鏡八 鏡八 献月献月 上 上 ( 宋の暦 ) ( 日本の暦 ) 年の八月でも差しつかえない。 さらに癸未年がそれ以前であってもよいが、斯麻が男弟王の 長寿を念じて奉献した鏡であることを考えると、斯麻が政治的 配慮から、即位予定者に対して献上したものとみてよかろうと 思う。そうなれば、鏡を献上した癸未年は、先帝の崩御のあと とみてよく、日本の暦は宋の暦と一年か一一年の誤差があったと 思われる。 もし以上のことが認められるらば、鏡の銘文に見る王と は先帝の反、正天皇となり、男弟王とは即位前の允恭天皇、すな おあさつまわくごのすくね わち反正天皇の同腹の弟にあたる雄朝津間稚子宿祢皇子になる。 たとえ右のことが間違っていて、大王が允恭天皇であったとし ても、男弟王は異腹の弟の大草香皇笋にあててもよいのである。 それでは大王と男弟王との関係はどうであったのであろうか。 さきに「隋書」開皇一一十 ( 六〇〇 ) 年に、わが国の使者が文帝に 述べた言葉を思い出していただきたい。それによると、兄なる まつりごと 王は「天未だ明けざる時、出でて政を聴き、跏趺して座す。 とど 日出ずれば、すなわち理務を停めて云う、我が弟に委ぬと。」 113
男弟王の出現 △ 都介野岳 夫国 △ △ 三輪山 大神神社日 長谷寺 榛原 卍 心、坂 宇陀 飛 5 あえてこのような異論を出 したのには理由がある。 意柴沙加宮 ( 忍坂宮 ) にある ときに鏡を献上したとある 日 が、允恭天皇の宮 書紀」になく、 「古事記」に 「遠飛鳥宮に坐しまして天下 図 の治しめしき」とみえるだけで ある。 と 難ところが「日本書紀」によ ると、先帝の反正天皇が正川「 に亡くなっても皇位につくこ とを固辞し、その年は暮れ、 さらに翌年 . 慥十 . 一 ..... 月 . になって、 妃の忍坂大中姫のすすめによ と即位された。二年 近く空位。あったわけで、 おおなかつひめ 117
古市誉田古墳群の起源仁徳天皇は聖天子で あったか仁徳陵を和泉に造った理由イ リヒコ系・ワケ系の分類に疑問景行・成務 ・仲哀を否定する説名辞からの河内王朝説 は不可 二倭の五王をめぐって 倭五王の解明の糸口は何か宋書に記されて いない履中天皇 第三章大王と男弟王 一男弟王の出現 天足彦という名辞兄なる王と弟なる王 日出する処の天子の真意男弟王の初見は誰 か暦日からみた男弟王の允恭 一一男弟王の系譜 允恭天皇の即位の事情皇位継承にからむ皇 子たちの殺戮大臣・大連の設置の起源 顕宗・仁賢の皇位をめぐって大兄皇子は男 115 9
允恭天皇の即位の事情応神朝以降、後に天皇と称される大王が、絶対的権力者として君臨するよ うになった。しかし、その大王のっとめは神祭りが主体であって、その下に実際の政務全般を担当 する男弟王が存していた。 しかも前節で紹介した隅田八幡宮の鏡銘文や、後の推古朝八年の遣隋使の言葉は、大王と男弟王 おあさつまわくごのすくね の関係を明らかに示すものであった。そして史料の上では、反正天皇と弟の雄朝津間稚子宿祢皇子 ( 允恭 ) との組み合わせにまで遡って実証できるとともに、また推古朝までは少なくとも存続して いたことを示すものであった。 ところが、ここで注意すべきことは、この男弟王は太子ではなく、世継ぎとなる資格をもつもの 狂でなか「たということである。つぎの皇位継承者は、大王の皇子から選ばれたのである。もちろん 男 大王に兄弟がないときは、第一子を男弟王にあてることもあった。そのために男弟王となっていた 一一男弟王の系譜 115
王皇位継承にからむ皇子たちの殺戮ところが、これから後につづく皇位継承は、前後に蠶を見ないほ 男ど血なまぐさいものとなった。 と 王 大 ー履中 磐坂市辺押磐皇子雄略に殺される 章 ー木梨軽皇子安康に殺されるー ( 太子 ) ー反正 ー境黒彦皇子雄略に殺されるー ( 木梨軽皇子の男弟王予定者 ) ー雄朝津間稚子宿袮皇子 ( 允恭 ) ー穴穂皇子 ( 安康 ) 眉輪王に殺される 忍坂大中姫 ー八釣白彦皇子雄略に殺されるー ( 安康の男弟王 ) ー大泊瀬稚武皇子 ( 雄略 ) ー大草香皇子安康に殺されるー ( 允恭の男弟王 ) 眉輪王安康を殺し、雄略に殺される 中蒂姫 きなしのかる 允恭天皇は晩年に、第一子の木梨軽皇子を太子に定めた。当時は異母兄弟の結婚は認められてい かるのおおいらつめ たが、同母兄妺の奸すことは固く禁じられていた。それを木梨軽皇子は、同腹の妺の軽大郎皇女に 恋い狂い、ついに一一人は愛し合ってしまった。 118
このかみ となり。然るに雄朝津間稚子宿祢皇子、長にして仁孝にましますと。すなわち吉き日を選びて、 ひざまっ みしるしたてま 跪きて天皇の璽を上っる。雄朝津間稚子宿祢皇子、謝びていわく、云々。 男弟王であった雄朝津間稚子宿袮皇子でありながら、すぐには皇位をうけようとはしなかった。 あえて空位時代をもったことでわかるように、必すしも男弟王が皇位継承者とは決まっていなかっ たのである。 たかべ 反正天皇には第二の妃に高部皇子が生まれていた。また第一章三節で仁徳天皇の皇子たち沸皇位 継承で争ったことを述べたが、そのとき皇位を順次弟に譲るという密約があったためか、異母弟の 大草香皇子もいたからであろう。 「日本書紀」は皇位をうけようとしなかったことを、皇子が病身であったからと記している。し かし「日本書紀』でも在位四二年、「宋書」でも一九年とあるほど、天皇の在位としては長い方で おろか あった。またさきの履中・反正の兄二人の天皇から、愚なものといわれていたからだというが、皇 位継承が長びいたことのこじつけであろう。反正天皇の皇子な一ざ・しお・い・て・位に「つ 004 が、はばか られたものとみてよい 允恭天皇として即位してから、男弟王には異母弟の大草香皇子をあてたとみてよかろう。男弟王 のことは全く史料として伝わ 0 ていないので、系譜の上から推測するよりほかない。しかし隅田八 弟幡宮の鏡銘文や、推古朝の遣隋使の言葉から、一貫しておかれていたことは確かである。 117
第一子の皇子が皇位をつぐこともあるが、それは原則ではなかったことを知っておく必要がある。 の存在か無視され 男そのような男弟王の立場であったために、後世の史撰多ときには・ 王記、としてとどめられていない。そして文献の上では、往々にして太子と混同されているときさえ ある。これまで大王と男弟王の統治体制のあったことが、知られすにきたのもそのためである。 したがって、男弟王を文献の上で抽出することは、なかなか至難なわざである。しかし、その男 弟王を文献から探し出して、それぞれの時代の大王と男弟王を知らないかぎり、その時代を正しく 理解することはできないといってよい。そこで至難な男弟王の発見を、あえて試みてみたいと思っ ている。 まず隅田八幡宮の鏡銘文で明らかになった男弟王、すなわち時の大王であった反正天皇の弟であ る雄朝津間稚子宿祢皇子からみることにしよう。 もちろん、この男弟王は後に允恭天皇として即位するので、男弟王が皇位につくという異例事が 行われている。だがそのためには、そうせざるをえない特殊な事情があったはずだし、その間の事 情を知ることも大切なことだと思う。 時の大王であった反正天皇は、わずか五年の在位で薨じられた。ところが崩御のあと、世継ぎの もんちゃく 問題で空位時代が二年近くもつづいた。そこには皇位継承をめぐる悶着があったからだとみられる。 そこで「日本書紀』はどう記しているか、まずそれを見ることにしよう。 はか おおさざき おあさつまわくごのすくね おおくさか 群卿議りていわく、まさに今、大鷦鷯天皇 ( 仁徳 ) の子は、雄朝津間稚子宿祢皇子と大草香皇子 11 び