第一章大王の誕生 一祭政の二重主権 神としての首長姉弟による祭政二重主権 男性の祭事権者の出現 二大王の継承権 天皇の起こりは俗なるもの兄は聖なる祭事 権者大王は第一一子が継承 三神なる大王の出現 なせ第一子・第二子は謀叛したか応神天皇 の皇子たちの争い仁徳天皇の皇子たちの争 妻帯した祭事権者の大王現人神とし ての大王の出現 第二章諸学説の批判 一河内王朝説批判 序 8
なせ第一子・第ニ子は謀叛したか長子が尊重されるのは、いつの時代でも同じである。しかし古代 世継ぎとしての重責を負ったが、神祭りをつとめとしたことから独身を守った。そのために次代へ の相続は、弟の子たちへ継がれた。 ところが、そうした相続法は、第十四代の仲哀・ & ・つ・・て終わ・つ。それは何が原因であった かが問題である。だが、それに答える前に、大きな変革をもたらす由因となった具体的事件を、ま 出ず先に紹介することにしよう。 王それは仲哀天皇の皇后、すなわち神功皇后をめぐる事件である。ここで神功皇后という表現を用 るいたが、実際には古代に后と妃の区別はなかった。つぎの皇位継承者を生んだ妃が、後の記録で后 神 とされているのにすぎない。彼女は第三番目の妃であったが、応神天を生んだ母のために后と呼 三神なる大王の出現
しようとした。そうした歴史の動向に影響されて、河内王朝も唱えられたものであろう。しかし、 判 のそうした反動の時代も過ぎたことを知らなければならない。 要するに、応神朝以降の発展は、前時代にくらべて格段の差をもち、それは異質的であると思わ 諸 れるほどの観を呈した。そのことに疑問をもっことは、当然なことでもあった。しかし前章で既述 章 したように、それは新しい大王の誕生があったからである。 第 そのために大王の座は魅力的なものとなり、応神朝以降には皇子たちが血をもって皇位を争うよ うになる。それは前時代にはみられなかった特徴である。それほど大王権の内容が変わったのであ 少なくとも応神朝を境にして、そこには政治的・社会的に大きな変化が認められる。しかしそれ は何も、王統の更迭を意味するものではなかったのである。
が応神天皇の后となることから、応神天皇は仲姫に入婿して、河内王朝がつくられたのだというの のである。 笋もちろん仲姫が五百城入彦の孫であるとは、「日本書紀」が仁徳天皇の母の出自として記してい るが、五百城入彦に子孫があったことはどこにも見えない。さきにも例示したように、地方の各氏 族はすべて天皇家や豪族に出自を求めて系譜を偽作した。品陀真若王の娘三人が応神天皇の后妃に なったことから、後にその出自を景行天皇の末裔だとし、その皇子である五百城入彦に求めたもの とみるべきである。 それにしても、景行・成務・仲哀がイリヒコの名辞をもたないという理由で、その実在を否定し た論者であるなら、三輪王朝の最後の天皇にあてた品陀真若王が、イリヒコでないことになせ疑問 を感じないのであろう。また彼の名は「日本書紀」のどこにも見えす、「古事記」だけが「この天 ひめみこみあ 皇 ( 応神 ) 、品陀真若王の女三柱の女王に娶う」と記しているにすぎない。三輪王朝の最後の王とし て、一つの事績さえ記されていないのもおかしなことである。いすれにせよ、こうした無謀な皇位 継承の順位を認めるわけにはいゝよい。 ところが天皇の名にかぎってみると、イリヒコ系は崇神・垂仁の二代、タラシ系は景行・成務・ 仲哀の三代、ワケ系は応神・履中・反正の三代である。この数価からいえば、かえってタラシ系を 否定しないで、イリヒコ系・タラシ系・ワケ系の三王朝があったという方が、まだ筋としては通っ ている。しかし三輪王朝から河内王朝へ、政権が交替したのだという大前提が、それを認めること
第 2 章諸学説の批判 古市誉田古墳群の起源戦後の歴史教育では、第十代の崇神天皇から大和朝廷がはじまったといわ れる。ところが、天皇が・ら後の・大和朝廷ー も、川司代の心栂天畠が・ら政 - 権 - が国 - し 刻わ , っ・だどいテ測が聞ざれた。そして河内王朝に先行する大和朝廷を、三輪王朝として命名した。 その河内王朝説によると皇の各に叫・の 0 くのは神武・崇神・応神の = 一天皇だけで、そ れぞれ王統の交替を示すものだという。また天皇風から、「刊ョ軻ばイ男ビ・・ゴ系、河内王 にゲ系どして規定している。さらにれまでの御陵が大和に中していたのに対し、応神か ら後は河内に築かれているなど、一応説得力をもっ説となっている。だが、これには多くの誤りが ある。 河内王朝説を最初に提唱したのは岡田精志氏 ( 『日本書紀研究』第三、昭和四三年一一月 ) である。そ れは前述したように、応神朝以前の天皇陵が大和に集中しているのに対し、五世紀以降の応神陵か 一河内王朝説批判
の皇子たちの間で、皇位を兄弟で争う事件が起こったのである。したがって、さきの仲皇子の謀叛 生 のも、ただ痴情が原因であったとはいえす、兄弟間で血をもって皇位を奪い合う時代になっていたの 大である。 章それにしても、応神・仁徳の両朝において、ともに第二子が兄弟たちによ「て殺されるという事 第 件は、ただ偶然だとはいえないであろう。古来の相続の慣行が破棄されようとしたのに対し、第二 子は慣行を盾にして、皇位の継承を主張したのだとみてよかろう。だが慣行の掟はすでに効力を失 ついに第二子がともに殺されることになったのである。 妻帯した祭事権者の大王さて、以上の三つの事件から、何を探り出すことができるであろうか。 応神天皇にしても仁徳天皇にしても、その上に兄があった。古来からの慣行でいうならば、その兄 が祭事権者として、第一義的な地位につくはすである。ところが御陵が明らかに示すように、天皇陵 の中では仁徳陵が第一位で全長四八六メート ル、応神陵は第一一位で四一七メートルの巨墳である。 また第三位は仁徳天皇の子の三六五メートルの履中陵である。もし前時代と同じく、祭事権者の方が 政権者よりも に . る巨大・古墳・がなぐ・て・ばらない。この ことは応神・仁徳・履中が、それぞれの代で住を彑める権力者であ 0 たことを示している。 とくに第一子であった履中天皇に注意してほしいと思う。本来ならば、祭事権者として独身を守 るべきであった。ところが二人の妃を娶り、一一皇子・一一皇女を生んでいる。そこには前時代の独身
神なる大王の出現 別皇子の成長まで、実際に神功皇后が実権者であったための諡号だとみてよいのである。 もちろん右に紹介した事件だけが、相続法の慣行を打ち破った原因ではない。それは一つの契機 となったのにすぎない。その他の理由については後にくわしく述べたいと思うが、旧慣が破棄され る過渡期を示す好例として、さきに応神・仁徳両朝の皇子たちが争った継承事件を紹介しよう。 応神天皇の皇子たちの争い応神天皇は独り子であるから、本来ならば祭事権者として妻帯すべき たかぎいりひめ 立場ではなかったはすであるが、多くの妃を迎えた。まず三人姉妺を娶ったが、長姉の高城入姫は なかつひめおおさざき しざのまわか おおやまもり ぬかたのおおなかつひこ 額田大中彦皇子・大山守皇子・去来真稚皇子のほか二皇女を生んだ。つぎの仲姫は大鷦鷯皇子 ( 仁 ・つ みやぬしやかひめ おとひめ ねとり 徳 ) ・根取皇子のほか一皇女を生む。末妺の弟姫は三皇女を出生した。さらに妃の宮主宅媛には菟 じのわかいらっこ 道稚郎子皇子のほか二皇女が生まれた。このほかまだ四人の妃があるが、事件には直接の関係がな いので省略しておく。 応神天皇の皇子系譜 ( 妃 ) 高城入姫 ( 妃 ) 仲 ー額田大中彦皇子 ) ー大山守皇子フ ー去来真稚皇子 ー大鷦鷯皇子 ( 仁徳 ) ー根取皇子 ・ 4
ころが、この記事を最後にして、わが国のことは中国の史書から消える。それは間もなく邪馬台国 判 のが滅亡したからであろう。 学それにしても、その後に葛城 廷がありながら、中国の史書にわが国の記事がみえな 家体制になっていなかったからだと思われる。邪馬台国の 章 あとをうけた葛城王朝は一一、三代で滅び、大和朝廷の時代に入るが、前章で述べたごとく、仲哀朝 までは全国制覇のための外征に明け暮れていたのである。 ところが応神朝以降、全土が統一されて朝廷の権力が確立された。そこで晋の安帝の義煕九 ( 四 さん 一三 ) 年になって、久しぶりに倭の五王の一人である賛が入貢する。 したがって、わが国のことは中国の史書に一四七年間の空白が生じているのである。だが西暦四 一三年に中国へ入貢した賛を、応神天皇とみるか仁徳天皇とみるかは別として、この時代になって 中国と外交関係がもてるほど、国内的に朝廷の権威は確立し、富の蓄積もできたのである。こうし た面からでも、応神朝以降の画期的発展が認められる。 倭王賛につづく倭の五王に関する記事は、その後かなりの分量でみられる。それは宋代を中心と するものであるが、まずこれら五王の記事を左に示しておこう。
国風土記」がある。それには出雲国のすべての村と、祭られている神が記載されているが、事代主 イ天平五年のときでさえ、出雲国の人たちは事代主神という名を誰も知 我っていなかったのである。 みほっひめ あおしばがき もちろん現在の美保神社には、第一殿に事代主神、第二殿に美穂津姫神が祭られ、蒼柴籬神事を 章 はじめ、美保神社の神事は事代主神に関連したものが行われている。ところが「出雲国風土記」を 第 などの神話によって、 事代主神を口え , り、しかもそれを主神にさえするようになったのである。 このことで明らかなように、事代主神は爿の一た。その事代主神がいつの間にか、 日本神話では国譲りの決定権をもっ細陰 -. 畉として登場しているのである。それでは一体どこの 、プ神であったのであろうか。目を大和の葛城山麓に移してみよう。 〔 ~ 第 ) 大和平野 0 西南部に金剛・葛城 0 山脈が「らな「て〔る金剛山く一 = 山と。たカ、そ 0 中央の中腹に、高天という広大な台地がある。その台地の奥まったところに円錐形の美しい神体山 ト . たかみむすび 神であった。 また金剛山の南端に、鴨族いて、そこには名神大社の』 ' ネ力ある。その鴨族は弥生中期 の初めのころ、水稲農耕の沃野を求めて大和平野に進出し、葛城川に沿って住みついた。そして岸 に、応司代主剛まつる名神大社を第迂てた。今のー市街地のはずれである。 やまなみ 210
だがワケが、応神朝以降の河内王朝の名号だと決めてかかることはどうであろう。それ以前の垂 仁・景行両朝の皇子にもワケ・九例あるのに、ワケ系Ⅱ河内王朝だということはできない。応神 朝以降のワケの方が、その数においては少ないくらいである。したがってワケは後までつづきはし たか、イリヒコとともに古くから用いられていた名号であったとみなければならない。 ところが論者は、景行天皇の系譜には疑問があるという。その景行天皇には皇子・皇女が八〇人 もあったと伝えているが、実際に「日本書紀」が記すのは皇子一六人・皇女七人だけである。「古 しる 事記」も皇子一五人・皇女六人を記しているにすぎない。そして「録せるは二十一王、記さざるは 五十九王、あわせて八十王ーと記載している。もちろん「八十王」というのは多数の意で用いられ たものであるが、そうした表現をした事情を知らなくてはならない。 それというのは、ガ・各・ 姓 臣一公一別一連一直一造一首一史一勝我孫 氏族が CO CO ワ朝 1 ー宀 0 崇神末裔 2 系譜につながりをもこ イ 1 8 0 乙 氏族の本系帳を偽作したこと 垂仁末裔 1 8 である。それによって政治的 / せ 0 っ 0 8 っ 8 1 亠 っ 0 り乙 判景行末裔 地位を有利にしようとしたの 仲哀末裔 であるが、その多くは神武か 河応神末裔 ら開化に至る葛城王朝の皇子 8 -1 ・ 1