かったが、仁賢天皇には一男六女が生まれた。そしてこの時代の記事にも、大臣・大連の任命のこ とが見えないので、末弟の橘王が男弟王となったとも思われる。 しかし仁賢天皇の皇子である小泊瀬稚鷦鷯皇子 ( 武烈 ) の即位前紀に、注意すべき記事がみえる。 ほしきまま おも 大臣平群真鳥臣、専ら国政を擅にして、日本に王たらんと欲い、際りて太子のために宮を営 おわ ことごとおご わきまえ り、了りてすなわち自ら居む。触事に驕慢りて、かって臣の節なし。 これは、先帝が亡くなった直後のことを記したものである。この記事から推測されることは、大 臣と大連が制度として置かれていたとしても、顕宗・仁賢両朝では、雄略朝以来の同じ人物である 平群臣真鳥と大伴連室屋には心を許さず、軽視していたことに対する反駁の現れともみられる。こ とに平群臣真鳥は、傍系から即位した顕宗・仁賢両天皇を心よく思わす、仁賢天皇の崩御のあと、 太子の擁立をこばみたい心すらもっていたのではなかったかと思う。 あらかび 実は太子と大臣の平群臣真鳥の関係は、最終的な結末を迎えることになる。太子は物部麁鹿火連 しび の娘である影媛を妃として迎えたいと思っていた。その影媛はすでに真鳥大臣の子の鮪と通じてい つばいち た。仲介を立てて影媛に申し入れたところ、彼女は海柘榴市の歌垣で会おうという。その歌垣で二 人が会っているところへ鮪が来て、歌合わせで彼女が鮪のものであることがわかる。父子の無礼に 怒った太子は、その夜に大伴金村連の家へ行って助けを求める。そして大伴連の軍が、路で鮪を殺 王してしまう。さらに父の真鳥大臣の家を攻めて殺す。 こうした後で太子は即位するが、「この日、大伴金村連を以て大連となしたもう」と記されてい 131
し、まず大蔵官を攻めて立て籠った。 王 きのおかざきのくめ 男しかし大伴大連らの軍に囲まれ、稚媛・星川皇子・兄君・城丘前来目は焼死した。この城丘前は 王紀国造の配下の軍人である。吉備国の軍事力は強大であったが、それにつぐ強国の紀国造にも内通 して援軍を乞うていたのであろう。しかし緒戦であっけなくクーデターは失敗した。それにしても 章 吉備国では、難波の海に軍船四〇隻を待機させていたのであ「た。 「釈日 稚媛の生んだもう一人の磐城皇子が、その後どうなったか「日本書紀」は記していない。 本紀」によると、磐城皇子も「星川皇子に随いて燔殺されるーと記している。いすれにしても、事 件後に即位した清寧天皇に後継者がなかったことを思うと、磐城皇子も連座して殺されたものであ ろう。 したがって、この清寧朝でも男弟王はなく、雄略朝のときと同人の、大伴室屋大連と平群真鳥大 臣が任命された。さきの雄略朝につづき、二代にわたって大臣・大連が置かれたのである。 顕宗・仁賢の皇位をめぐ 0 て清寧天皇に当刊引副第い・・ 6 ・を。安康・雄略一朝にお る皇間の殺戮によ「て、周囲にも皇位継承者どを者いなが・づ・だび世継ぎのことを気にしてい た天皇の前に、 - 。、売如として朗報がもたらされた。 いわさかのいちのべおしは おけ おけ さきに履中天皇の子の磐坂市辺押磐皇が ( ・一略。殺されたことを述〈た。その迫害がさら におよぶのを怖れて、市辺押磐皇子の子の億計王弘計王「一人ば 1 んに、護られて丹波国余社郡 つかさ 726
男弟王の出現 元嘉 20 年 西暦 443 先正 允十使宋 王月 恭二者朝 崩 即月到に 位着 癸未年癸未年 鏡八 鏡八 献月献月 上 上 ( 宋の暦 ) ( 日本の暦 ) 年の八月でも差しつかえない。 さらに癸未年がそれ以前であってもよいが、斯麻が男弟王の 長寿を念じて奉献した鏡であることを考えると、斯麻が政治的 配慮から、即位予定者に対して献上したものとみてよかろうと 思う。そうなれば、鏡を献上した癸未年は、先帝の崩御のあと とみてよく、日本の暦は宋の暦と一年か一一年の誤差があったと 思われる。 もし以上のことが認められるらば、鏡の銘文に見る王と は先帝の反、正天皇となり、男弟王とは即位前の允恭天皇、すな おあさつまわくごのすくね わち反正天皇の同腹の弟にあたる雄朝津間稚子宿祢皇子になる。 たとえ右のことが間違っていて、大王が允恭天皇であったとし ても、男弟王は異腹の弟の大草香皇笋にあててもよいのである。 それでは大王と男弟王との関係はどうであったのであろうか。 さきに「隋書」開皇一一十 ( 六〇〇 ) 年に、わが国の使者が文帝に 述べた言葉を思い出していただきたい。それによると、兄なる まつりごと 王は「天未だ明けざる時、出でて政を聴き、跏趺して座す。 とど 日出ずれば、すなわち理務を停めて云う、我が弟に委ぬと。」 113
はねぢちょうしゅう こうしようけん もうこくてい 家として名高い羽地朝秀は、中国名を向象賢といった。古いところでは護佐丸盛春を毛国鼎、降っ ぎわんちょ・つほ こうゆ・つこ・つ じりよう まかめ ぐすくませいほう のては宜湾朝保を向有恒といった。さらに画家の自了も、童名は真亀、本名は城間清豊であった。中 学国名と和名の関連を探すのは至難なことである。 そこで、名前の同似性は別としてみても、五王の比定には二つの案が考えられる。しかし、いす 第れの案にも矛盾が認められる。 讃を仁徳天皇とするのを第一案としよう。仁徳天皇につぐ履中・反正・允恭の三天皇は、ともに 仁徳天皇の皇子である。そのために「宋書」に、「讃死し、弟珍立つ」という続柄とは矛盾する。 これを主張する説では、珍を反正天皇とみて、履中天皇は在位が短くて、中国へ入貢しなかったの だろうというが、当時の政治情勢からみて、この判断はおかしい。そこで、この案を可能にする方 法としては、『宋書」の元嘉七 ( 四三〇 ) 年の入貢を、履中天皇であったと認めることである。 実は讚に対して、九年前の永初二 ( 四一一一 ) 年に除授したと記している。しかしその爵号は低く、 宋朝ではあまり問題にしていなかったとみてよい。そのため履中天皇の入貢も、「倭国王、使を遣 わして方物を献す」と記録しただけで、国王名にまで注意を払わなかったと思われる。そこで元嘉 十五 ( 四三八 ) 年に珍が入貢したとき、先帝 ( 履中 ) の弟だと述べたのを、宋朝では讃の弟として記録し たとみると、一応の筋は通るのである。 しかも珍は宋朝に対して、みずから高麗王や百済王と同格の安東大将軍の軍号を、授与されるよ う申し出たのである。もちろん宋朝では、安東将軍にしか認めなかったが、はじめて倭国王に将軍
王いに譲り合おうとしたのであろうか。また清寧先帝が亡くなったのは五年正月十六日であったのに、 8 男その月になせ姉が急ぎ臨政したのであろうか。この間の事情には、見逃がしてはならない問題があ と 王ると思 , つ。 大 先帝のお心当刀雄略天皇の皇子である。その雄略天皇に父が殺され、迫害をのがれて隠れ住ん 章 第でいた遺児の億計・弘計二王、しかも遠く六代前履中天皇の孫にあたる者が、突、に帰京して、 わずか二年後には皇位につくという急変である。弘計王 ( 顕宗 ) が即位して後に、父の仇である雄略 天皇の御陵を壊そうとしたことからみても、雄略朝から仕えてきた重臣たちには動揺があったであ ろう。政情は不安定な状態をかもし出したものとみてよい そのために兄の億計王は、政事と軍事の権を直接握る男弟王としての立場に立って、まず弟の弘 計王を皇位につけ、政情の不穏を取り鎮めたいと願ったものと思われる。それが皇位を弟に譲ろう とした真意であったであろう。しかし先帝によって太子と定められている兄をさしおいて、弟が皇 位につくこともはばかられたものとみられる。そうかといって一刻も早く皇位につかねば、どんな 異変が生じるかもわからないので、とりあえ、姉って臨政させたものとよカろう。 この見方は正しいと思う。それは雄略朝このかた、またその後においても、即位とともに大臣・ 大連の任命の記事が見えるのに、この間にかぎって任命のことがいっさい見えないことからも明ら かである。したがって姉の臨政のときも、億計王が男弟王となっていたものとみてよい 忍海角刺宮。臨政たという飯豊青皇女は の十一月・に亡ぐなうた。在位が短期間であっ
おさかのひこひと は、この麻呂古皇子は押坂彦人大兄ともいうので、この皇子が敏達朝の男弟王であったということ になる。ところが敏達朝の男弟王として、もう一人の該当者がいる。それはつぎの皇位を継承した 橘豊日皇子 ( 用明 ) が、大兄皇子と呼ばれていたからである。これら二人の大兄の関係はどうであっ たのであろうか。一四二ページの系譜を参照していただきたい。 敏達天皇も前例にならって、后の広姫が生んだ麻呂古皇子を男弟王として、押坂彦人大兄皇子と 改名させたものとみてよかろう。ところが蘇我馬子の姪の額田部皇女を改めて后としたことから、 事情が変わったものと思われる。すなわち大臣の蘇我馬子が、姪である后を通じて、后の兄にあた り馬子の甥でもあり、また天皇の異母兄弟である橘豊日皇子を、男弟王に改めるべく働いたのでは なかったかと思われるのである。 さきにも述べたことであるが、敏達天皇の崩御に先立ち、天皇は橘豊日皇子を枕辺に呼んで、任 那の復活を遺言された。そのことをみても、敏達朝の末においては、橘豊日皇子が男弟王であった ことは明らかであろう。もちろん男弟王のことは文献にいっさい見えないので、確かだとはいいゝ ねるが、そうした見方が妥当ではないかと思う。 いずれにせよ、敏達天皇の嫡子である押坂彦人大兄皇子は、つぎの皇位にはつけなかった。皇位 道 へについたのは、蘇我氏の血をうけ、大兄皇子と呼ばれた橘豊日皇子で、それが第三十一代の用明天 政皇である。 しうまでもなく蘇我馬子によるものであった。大臣とはい 押坂彦人大兄皇子が排斤されたのは、、 163
また一般からの喜捨によって行われたものとみてよかろう。そのために、再建のことが正史に記載 されなかったのだと思う。少なくとも勅願寺として再建されたものでないことは確かである。 法隆寺再建に天武朝説がある一方、中門の仁王像や五重塔の塑像が元明朝の和銅四年であったり して、その間に約三〇年のひらきがあるのも、再建事業が長年にわたっていたことを物語るものであ ろう。そのことをもっても、ひろく浄財が集められて、年とともに建物が完成したことを示している。 また薬師如来像の光背銘文が、天智 ~ 天武朝ころと思われる時期に、作為的に後刻されたのも、 募金を有利にする必要から、法隆寺の創建を太子の生前のごとく宣伝し、寺院を由緒づける方便で あったとみられる。 仏教興隆の推進力となった馬子このように、太子は生前において篤く仏法に帰依し、その学識にお いてもすぐれた人物であった。しかし太子を三宝の聖としてみたのは、その死を契機としてから後 のことである。推古朝において仏法を推進した実際の原動力は、蘇我馬子であったことを知らなく てはな , りよ、。 太しかもまた、最大の権力者であった蘇我馬子が、法隆寺の創建とかかわりをもっていなかったこ 聖とも確かである。というのは、釈迦三尊像が完成した翌年の推古朝三十二年、すなわち「日本書 と こがねのとう 寺紀」では三十一年七月の記事となっているが、新羅と任那から使者が派遣され、仏像一具・金塔・ かどのはたのてら 法 舎利・大潅頂幡一具・小幡十二条が献上された。このとき、仏像は山城国葛野の秦寺に、その他の はた 201
第一子の皇子が皇位をつぐこともあるが、それは原則ではなかったことを知っておく必要がある。 の存在か無視され 男そのような男弟王の立場であったために、後世の史撰多ときには・ 王記、としてとどめられていない。そして文献の上では、往々にして太子と混同されているときさえ ある。これまで大王と男弟王の統治体制のあったことが、知られすにきたのもそのためである。 したがって、男弟王を文献の上で抽出することは、なかなか至難なわざである。しかし、その男 弟王を文献から探し出して、それぞれの時代の大王と男弟王を知らないかぎり、その時代を正しく 理解することはできないといってよい。そこで至難な男弟王の発見を、あえて試みてみたいと思っ ている。 まず隅田八幡宮の鏡銘文で明らかになった男弟王、すなわち時の大王であった反正天皇の弟であ る雄朝津間稚子宿祢皇子からみることにしよう。 もちろん、この男弟王は後に允恭天皇として即位するので、男弟王が皇位につくという異例事が 行われている。だがそのためには、そうせざるをえない特殊な事情があったはずだし、その間の事 情を知ることも大切なことだと思う。 時の大王であった反正天皇は、わずか五年の在位で薨じられた。ところが崩御のあと、世継ぎの もんちゃく 問題で空位時代が二年近くもつづいた。そこには皇位継承をめぐる悶着があったからだとみられる。 そこで「日本書紀』はどう記しているか、まずそれを見ることにしよう。 はか おおさざき おあさつまわくごのすくね おおくさか 群卿議りていわく、まさに今、大鷦鷯天皇 ( 仁徳 ) の子は、雄朝津間稚子宿祢皇子と大草香皇子 11 び
復だ中大兄皇子とは呼ばれていなか「たとみてよい。中大兄という称は、古人皇子の大兄に対し、弟 のであることを示す呼称である。そして中大兄皇子と呼ばれたのは、後述するように孝徳朝であった 皇と思われる。 天 ところが舒明天皇の崩御のあとは、嫡子である葛城皇子が即位すべきであった。それなのに、あ 章 えて后を即位させて第三十五代の皇極天皇とした。その理由として、一つは葛城皇子が蘇我氏と血 縁的関係がなかったからである。そうかといって、古人大兄皇子を皇位につけては、さきに皇位継 ここでも気の弱い蝦夷は、時をかせぐっもりで后を 承から排除した山背大兄王が黙ってはいよい。 擁立したものとみてよい こうして皇極女帝の即位となったが、「日本書紀」は蝦夷の子の入鹿のことを、「大臣の児入鹿、 まさ いきおい 自ら国政を執りて、威父に勝れり」と記している。気弱な父に飽き足りないで、入鹿が表面に出 たものと思われる。 傲慢な入鹿が国政に容喙したことから、この皇極朝は最初から荒れに荒れた。「日本書紀」即位 元年の条に左のような記事がみえる。 やつらのまい おの 是歳、蘇我大臣蝦夷、己が祖廟を葛城の高宮に立てて、八倫之舞をなす。 前章で紹介したことであるが、推古朝末に馬子が女帝に対し、葛城県は蘇我氏の本居の地である から与えるようにと申し入れたが、断わられた事件のあったことを想起されたい。その葛城の高宮 の地、そこは第二代綏靖天皇の宮居のあった場所であるが、このときは皇極女帝の許しも得ないで、 うぶすな 228
章離宮を造り、時には訪れてみたいと思うのは女心であろう。それにしてもあまりに多く、しかも避 の暑ならばともかく、厳寒の月さえたびたびあるのである。持統女帝と同じく、皇位のつなぎとして 権即位した斉明女帝も、遊びの遠出が多かった。何か一脈通じる感じがしないでもない。 原藤原宮 ( 新益京 ) が造営されたのもこの御代である。この点でも皇極女帝 ( 斉明 ) が新しい設計の 章飛鳥板蓋宮を造られたのと似ている。ところが、太政大臣の高市皇子が四年十一月に宮地を下見に 第行「てから、八年十二月に遷るまでに、女帝は四回も宮地を見に行「ている。こうしたことも前後 に例のないことである。勝気で神経質で、気がいら立っと、厳寒であろうが真夏であろうが、吉野 宮へ二、三日から十日あまりの泊りに出かけられたようにしか思われない。 その藤原宮のことであるが、実は天武朝即位十二年以降から、新都の計画が立てられていた。そ でま おおみや して「日本書紀』即位十三年三月の条には、「天皇、京都に巡行して宮室の地を定めたもう」とみ えるが、それが藤原京の地であったかどうかはわからない。、 しずれにしても、その時期が天武理念 の実施期に入ってからであったことに注目すべきである。しかし天武朝では実現できず、その意思 をついで持統女帝が藤原官を造営したのであった。 それはさておき、孫の軽皇子が元服の十五歳になったのを機会に、持統女帝は十一年八月に譲位 された。この軽皇子が第四十一一代の文武天皇である。 藤原不比等の栄進この文武朝から、藤原氏は急速に権力の座へと躍進する。それというのは、鎌 みやこ 310