生皇として記録すべきであったと思う。 誕 ( 独身 ) ( 妻帯 ) ( 皇統譜の天皇 ) の 王 ー第一子大王 ( 祭事 ) ー第一子 ( 祭事権 ) 大 ( 皇統譜の天皇 ) 章 ー第一一子 ( 政事権 ) ー第一一子男弟王 ( 政事 ) 第 これに反して、これから以後の皇統譜にみえる天皇は、現人神として妻帯し、直系子孫に皇位が 継承されるようになる。聖なる現人神としての天皇観は、この時代に起源をもつものといってよい そこで当然、皇位継承は大王の長子へと相続されるようになった。仁徳天皇が長子の履中天皇を 太子とし、皇位を継承させたのもそのためである。もちろん前述したような事件から、反正・允恭 の弟に皇位が移るが、それは特殊な事情によったもので、原則としては長子相続制がとられるので ある。 仁徳天皇は長子に相続させたが、それは文献の上で明らかなために示したのにすぎない。その契 機とな 0 たのは、実幻印であ 0 た。最後にその経緯を述べておく必要があろう。 前述もしたように第一一子の妃の弟媛が生んだ誉屋別皇子も生き残っていた。しかし仲哀天皇の亡 きあと、殊勲をあげ武将を率いて凱旋した神功皇后が、第二の妃やその皇子に気兼ねする必要は少 しもなかった。生後わすかの誉田別皇子を擁して、神功皇后みずからが実権を掌握したものとみて よい。もちろん神功皇后は神祭りを主体とし、政事一般は大臣の武内宿祢が代行したであろう。そ して皇子の成長を待ったものとみられる。 5
天武朝で天皇権は確立していたので、母后みずからが独断で称制されたことに対して、ロを挟む ことは誰もできなかった。しかし世論には、病弱な草壁皇子の即位が不可能であるなら、姉の大田 皇女が出生した大津皇子を立てるべきだという声がささやかれていた。その大津皇子のことを、『日 ひととな わきわき かど しふおこ 本書紀」は「長るに及びて辨しくて才学あり。尤も文筆を愛み、詩賦の興りは大津より始まれ り」と記すほどの人材であった。 ちまた 巷の声が耳に入らない母后ではない。称制したばかりの翌月十月二日、大津皇子を謀叛の罪で捕 えさせ、また皇子と親しい三〇余人を同罪として捕えた。しかも翌三日には、大津皇子に死を賜わ ったのである。このとき大津皇子は二十四歳であった。 夫を亡くし、病弱の子を皇位につけられない女の狂いであった。勝気なだけに、その感情もまた もがり 激しかったのであろう。そのためか、天武天皇を葬るまでの一年半近い殯の間、前後に例のないほ ど殯宮に詣でつづけた鷓野皇女であった。しかしその翌三年四月、たのみの草壁皇子は薨じた。 そこで年の改まった四 ( 六九〇 ) 年正月、鷓野皇女みずから皇位についた。それが第四十一代の持 統女帝である。 原女帝の即位について注意すべきことがある。その一つは、草壁皇子には阿倍皇女との間に、十一 ひだか かる と歳の氷高皇女と八歳の軽皇子 ( 後の文武 ) とが生まれていた。そこで持統女帝は、孫の軽皇子が成長 体して皇位につくまでのつなぎになろうと思ったからである。 その二つは、とくに大切なことで、さきの称制のときにも述べたように、皇室の権威が確立して この 307
河内王朝説批判 そして神功皇后が九州から凱旋するとき、とも に天皇の遺骸を運び、河内に改葬した。本来な らば、それまでの天皇・同じように、大 情かあった。 それは河内のこ カら廷の葬儀 0 陵全般を取り扱ってき , 土師氏の本貫上であった 皇からだと思う。穴門の豊浦に殯して葬った天皇 天の遺骸を、掘り起こして運んだのは、、 しうまで もなく土師氏であったとみてよい。ところが凱 旋する神功皇后の部隊は、すでに述べたように 坂・忍熊二皇子の謀叛によって、しばらくは を・ä討に明げ暮れした。御陵の築造には数年 を要するが、そうした事情のため、改葬を葬儀 屋の土師氏に委ね、土師氏は居住地の一角に墳 墓を築いたものと考えられるのである。 その後に亡くなった神功皇后の墳墓が、また
もって経験していた。そこで当然なことであるが、長子を太子として皇位を継承させようとした。 生 のしかし天皇の死後、ここでも第二子が旧慣を盾に太子を殺して皇位につこうとしたのである。 大相続法の変更は神功皇后と誉田別皇子にふりかかった事件を契機としたものではあったが、いず 章れは起こるべき運命をもっていたともいえる。そして第二子の大山守皇子と住吉仲皇子の謀叛とそ 第の死は、その過渡期にみられた現象にすぎなかったのであろう。 しかしこれ以後においても、朝廷の莫大な富と権力は皇子たちの魅力となり、長子相続制を揺る がして、皇子間の争いが生命を賭して行われるようになるのである。その実例を第三章以降でみて いただきたいと思う。 最後にのべておきたいことがある。それは一〔〔 0 」もを〕応神朝から政権が更迭 し・たとみる・説 1 すなわ河内王朝 = = ついてである。 なぜ、そうした意見が出されたかといえば、応神朝以降とそれ以前とには、何か異質的なものが 感じられるからであった。しかし前述したことで明らかなように、それは外征から内政への転換、 ひいては朝廷の権威の拡大とともに、新しい大王の誕生があったからである。だが、そのことをも って、政権が更迭したとみるのは早計だと思う。 そこで、本節のつづきは第三章から再説することにし、次章では河内王朝説などについて批判を 試みておきたいと思う。
神なる大王の出現 別皇子の成長まで、実際に神功皇后が実権者であったための諡号だとみてよいのである。 もちろん右に紹介した事件だけが、相続法の慣行を打ち破った原因ではない。それは一つの契機 となったのにすぎない。その他の理由については後にくわしく述べたいと思うが、旧慣が破棄され る過渡期を示す好例として、さきに応神・仁徳両朝の皇子たちが争った継承事件を紹介しよう。 応神天皇の皇子たちの争い応神天皇は独り子であるから、本来ならば祭事権者として妻帯すべき たかぎいりひめ 立場ではなかったはすであるが、多くの妃を迎えた。まず三人姉妺を娶ったが、長姉の高城入姫は なかつひめおおさざき しざのまわか おおやまもり ぬかたのおおなかつひこ 額田大中彦皇子・大山守皇子・去来真稚皇子のほか二皇女を生んだ。つぎの仲姫は大鷦鷯皇子 ( 仁 ・つ みやぬしやかひめ おとひめ ねとり 徳 ) ・根取皇子のほか一皇女を生む。末妺の弟姫は三皇女を出生した。さらに妃の宮主宅媛には菟 じのわかいらっこ 道稚郎子皇子のほか二皇女が生まれた。このほかまだ四人の妃があるが、事件には直接の関係がな いので省略しておく。 応神天皇の皇子系譜 ( 妃 ) 高城入姫 ( 妃 ) 仲 ー額田大中彦皇子 ) ー大山守皇子フ ー去来真稚皇子 ー大鷦鷯皇子 ( 仁徳 ) ー根取皇子 ・ 4
第 6 章藤原政権への序章 皇室の権威の確立天武天皇は大海人皇子の時代に、兄にあたる天智天皇の娘二人を妃としていた。 おちのいらつめ うの すなわち大田皇女と鷓野皇女で、ともに母は蘇我倉山田石川麻呂の娘の遠智娘である。そして第 おおく 一の妃の大田皇女には大来皇女と大津皇子が生まれ、第二の妃の鷓野皇女には草壁皇子ひとりだけ が生まれた。その大田皇女は天智称制六 ( 六六七 ) 年に薨じたので、妹の鷓野皇女が第一の妃となり、 さらに天武天皇の即位とともに后となった。そのため、つぎの皇位継承者としては大津皇子は失脚 し、后の生んだ草壁皇子が選ばれることになる。そして天武即位十年一一月、草壁皇子が皇太子に定 められた。 ところが天武天皇は朱鳥元 ( 六八六 ) 年九月に崩御された。が、皇太子の草壁皇子は一一十五歳であ りながら、病身のために即位することができなかった。そこで母后の鷓野皇女が、ただちに称制し て朝政に臨まれた。 一律令体制と藤原氏 306
なせ第一子・第ニ子は謀叛したか長子が尊重されるのは、いつの時代でも同じである。しかし古代 世継ぎとしての重責を負ったが、神祭りをつとめとしたことから独身を守った。そのために次代へ の相続は、弟の子たちへ継がれた。 ところが、そうした相続法は、第十四代の仲哀・ & ・つ・・て終わ・つ。それは何が原因であった かが問題である。だが、それに答える前に、大きな変革をもたらす由因となった具体的事件を、ま 出ず先に紹介することにしよう。 王それは仲哀天皇の皇后、すなわち神功皇后をめぐる事件である。ここで神功皇后という表現を用 るいたが、実際には古代に后と妃の区別はなかった。つぎの皇位継承者を生んだ妃が、後の記録で后 神 とされているのにすぎない。彼女は第三番目の妃であったが、応神天を生んだ母のために后と呼 三神なる大王の出現
章そのことで疑問に思うのは、文武天皇が最後まで后を立てることができなかったことである。后 のには皇族から迎えなければならない。もし后に皇子が生まれると、その皇子が皇位継承者になる。 へ 権そのために后を立てさせなかったのであろうが、それは前例のないことであった。しかも文武天皇 原の即位のときに宮子を納れたが、持統母后は生存中であったし、藤原不比等も立后に反対できる地 藤 章位ではなかった。それにもかかわらず、最後まで天皇に后を迎えさせないほど、宮子は勝気であり、 第天皇の寵をひとり占めにしたのであろうか。 宮子のことを「尊卑分脈」には「文武天皇妃、聖武天皇母后」と記しているが、妃とするのは誤 りである。正史の「続日本紀」によると、後の元正朝養老七 ( 七一一一一 I) 年正月の記事に、「夫人藤原 朝臣官子に従二位を授く」とあり、また、聖武天皇の即位にあたる記事にも、「母を藤原夫人とい う」といし 、さらに「勅して正一位藤原夫人を尊んで大夫人と称すーとみえる。したがって宮子は、 文武朝ではもちろんこと、その後も夫人であったことが確かである。 こうして阿倍皇女が慶雲四 ( 七〇七 ) 年七月に、首皇子の即位までのつなぎとして即位し、第四十 三代の元明天皇となる。そして明くる年を和銅と改元し、その三月に先代から右大臣であった石上 麻呂を左大臣に、藤原不比等を右大臣に任じ、ともに正二位に昇叙した。 元明女帝退位の真意元明朝の大きな事業は平城京への遷都である。この遷都のことは、すでに文 武朝の最後の年となった慶雲四年二月に、諸王・諸臣に対して遷都のことを議せしめている。それ 314
いろと を立てん。吾等、何ぞ兄を以て弟に従わんやと。 生 のそまでの・慣行によれば、第一子と第二子が次代の継承権を握るものであった。ところが父の仲 大哀天皇はすでに亡く、第三の妃とはいえ神功后が皇子をいだき、しかも多くのな率いて凱旋 章するのである。そこで第一子と第二子は、みずからがもっ冫代への継承権に不安な感けのである。 第 そのために、あえて誉田別皇子を殺して、自分たちの権利を確保しようと計った謀叛であった。 しかし結果は裏目に出て、第一子と第二子は死に、第四子の誉田別皇子が後に即位して応神天皇 となる。 ところが、二の妃出生した第三子はまだ残っているので、その第三子が擬制的第一子となっ 0 ゝマ・日 1 、、、み後の模様からみて、この事件を契機に、それまでの慣行は破棄されたように思われる。 仲哀天皇が亡くなっているだけに、神功皇后は誰にも気兼ねすることなく、みずから朝廷の実権 を掌握したとみてよい。「日本書紀』が神功皇后の摂政時代を一巻としているのも、第二の妃やそ 皇子を無視していた証拠である。 気長足姫というのも穉風挈ど・みられなが、本来の名前は伝わ 0 ていない。景行天皇が大足彦、 成務天皇が稚足彦、夫の仲哀天皇が足仲彦と呼ばれたように、気長足姫の「たらし」もそれに類す るものである。第三章一節で考証するが、推古朝の遣隋使が天皇の称を天足彦だと述べたこととも 関連のあるもので、それは主権者であることを示す名辞である。そのことからみても、わが子の誉 このかみ
り。あった。そのために誉田別皇子は、それまでの第 口さねばならなかった。もちろん政事は武内宿祢に 担当させたであろうが、彼は臣下であった。しかも神功皇后このかた、朝廷の富と権力は増大した。 それを継がすためには、収神天皇が妻帯し、その子に相続さすほかなかった。ここに祭事権をもっ 身でありながら、妃を迎え皇子を生むという新しい慣行が生まれざるをえなかったのだと思う。 そして次代への継承においては、旧慣に従えば第一子と第二子に譲るべきであった。しかし第一 子の祭事権、第二子の政事権という慣行はすでに破られていた。しかも朝廷がもっ富と権力への皇 みやぬしやか 子たちの欲望は、相続権をめぐって争われるほどになっていた。ところが天皇は若い妃の宮主宅媛 うじのわかいらっこ に溺れたためか、第六子の菟道稚郎子皇子を太子とした。そのために第二子の大山守皇子が、旧慣 を盾にして謀叛したのであろう。 おおさざき 結局、血を流したあと、第四子の大鷦鷯皇子が皇位を拾うことになって仁徳天皇となるが、すで に妃を迎え皇子を生んでいた 。応神・仁徳の二代にわたって、妻帯した大王が祭事権を行使したの である。それで完全に旧慣は効力を失った。新しい大王が誕生したのである。 現 く , れたかもしれないが、仁徳陵は確かに生前に築造された。歴代の御陵を の 王はるかに凌ぐ巨大な墳墓が造られた原因の一つは、新しい時代の大王の偉大さを誇示しようとした ることによったのかもしれない。 神 その仁徳天皇は、父の応神帝が溺愛から第六子を太子としたことで事件が起こったことを、身を