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検索対象: 天皇権の起源
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1. 天皇権の起源

とヤ 大王の継承権 ねく四方に臨みて、宜しく朕が位を継ぐべし、といって、目入彦尊皇太子にする。彼がつぎの 垂仁天 弟が皇位につくことの矛盾を、合理的に説明しようとした点は、前述の挿話と同じである。ただ この場合、祭事権者となる兄が、槍や刀を振りまわし、武将の姿として描かれているが、これは祭 』によるものである。東国を治めさせたという話 事権者。に「なるということをらなかった に合わすために、そうした内容につくられたのであろう。しかし崇神朝には、まだ東国地方は領域 0 入、 ? ていな・かった。そのことからも、この説話が後世の作になるものであることがわかるであろ う。それよりも、東へ向くという表現は、日の神を祭る者の立場を示したものといえるかもしれな 兄は聖なる祭事権者神祇・忌人としての第一子の役割を、見事に示している史料がある。それは 雲族大和朝廷に討たれたときの事件である。「日本書紀」はそれを崇神朝のこととし、「古事 記」は景行天皇・ロ載せている。左に「日本書紀」の記事を紹介しよう。 おさ やたべのみやっこ もちき かむたから たけひてる 武日照命の天より将来たれる神宝は、出雲大神宮に蔵む。これ見ま欲しと。すなわち矢田部造 ふるね つかさど たてまっ たけもろずみ の遠祖、武諸隅を遣わして献らしむ。この時にあたりて、出雲臣の遠祖、出雲振根、神宝を主 れり。 右の武日照命は出雲国造の祖先で、天から降臨しこ初あたる。また出雲征討の武将として派

2. 天皇権の起源

第 3 章大王と男弟王 天足彦という名辞祭事権と政事権との二重主権から成る統治形態は、わが国古代に基本的にみら れる原則であった。 そして当初においては、第一次的主権として女性のもっ祭事権のもとに、第二次的主権として彼 女の弟 ( あるいは兄 ) による政事権が存していた。つぎには、その祭事権も男性の手に移り、第一子 がもっ祭事権と第二子の政事権との組み合わせで統治された。これらの場合、ともに祭事権者は独 身を守り、そのため次代への相続は、政事権をもっ弟の子たちにつがれていた。 ところゞ応神朝以降朝廷に莫大な富と権力が集約されたことから、相続法をめぐって問題がお こった。そして独身を守るべきであった祭事権者が毓して、接その子へ継されるという形式 が生まれた。そこで妻子を持ち、富と権力を掌握した新しし王が誕することになった。 しかしここで注意すべきことは、まだ宗教観念が何ものよりも優先する古代社会であったという 一男弟王の出現

3. 天皇権の起源

生なおそれだけではなく、男性が祭事権者とな 0 たことから、そのんどし・ ( ) 機一円れ のる立場をとったことである。女性は生得的に神的・巫女的素質をもつものとの思想は、世界に普遍 大的にみられるものであるが、俗なるものとして聖所には立ち入ることも許されなかった男性が、祭 章事権者となり、さらに神的神聖性を認められるようにな 0 たことは、宗教観念の上からいって、ま 第 ことに画期的なことであった。 そうした祭事権の女から引・〈の移行は、必ずしも一様に時代を追「て変わ 0 たのではない。 一方で女性の祭事権者が存しているときに、他方では文化の進んだ部族に男性の祭事権者が出現し たのである。そのきざしは、文献でわかるところでは一一一」をことができる。 なロ国家が成立しはじめこ 、ばと時、に符合し ているところからみると、文化の進んだ部族は、祭事権も早く女性から男性の手へ移したと思われ る。またそうすることによって、男性による統治の強力な部族国家をつくることができたのだとい えるかもしれない。 後述するようー 展したこれに反して、これまで見てきた類の征服された地方の部族は、四世紀末までも女性の祭 事権者を有していたものであった。祭事権者は直接政治に関与しなかったとはいえ、首長としての 女性は保守的であり、これに対して男性の首長は進取的であったことが、部族の繁栄や勝敗を決定 づける結果をもたらしたのかもしれない。

4. 天皇権の起源

日没とともに祭りの準備がはじめられ、子の刻 ( 午前零時 ) から寅の刻 ( 午前四時 ) にかけて祭儀が 執り行われた。その祭事が、取りも直さず政事を意味するものであった。祭事と政事が、ともに 「まつりごと」と訓まれるのもそのためである。しかしこの場合、祭事が政事を規定するものであ つまり兄なる王は、幽祭の方式によって、祭事を執行することにあったのである。ということは、 政庁で行われた弟の政事を、兄は祭事として神に奉告し、国家の安泰を祈願したのである。それが 宇宙の主宰者として、高次な立場で政治を総理することを意味するものであった。 したがって、政治に直接たずさわらないわが国の王のあり方が、中国の皇帝には理解できなかっ た。そのために、さきの記事の三段目に見られるように、「高祖いわく、これ大いに義理なし。こ こにおいて訓えて之を改めせしむ」という結果をまねいたのである。 皇帝が直接に政治を統理する中国の立場からみると、当時のわが国の政治のあり方は、道理に反 したものにみえたのであろう。そこで未開国の政治の仕方であると思い、それを改めるよう訓令し たというのである。 「隋書」は、推古八年のことを記した二十二年後の、唐の高祖の武徳五 ( 六二一 l) 年に、勅を奉じ 出て封徳彜・顔師古が撰修したものである。さらに十年後の貞観三 ( 六二九 ) 年に、魏徴らが再修して 王完成した。しかし、さきの文中に見える高祖とは、隋の初代の文帝をさすものである。 男 103

5. 天皇権の起源

子に継承されていた。ところが新しい大王にはみずから妻子があり、その子が相続権をもった。そ れによって富と権力は大王の手に集約され、男弟王はただ政事一般を処理するだけで、その子には 欠代窈継承樹しなぐな・づ・たのである。この男弟王のことは、第三章で実例をも「てくわしく論証す るつもりである。 現人神としての大王の出現このことは、それまでの大王観を変える結果をもたらした。皇統譜に みるそれまでの天皇と称されるものは、政事権・・をもっ第二子であった。そして祭事権をもっ ' 刎 T と は、記録の上では影の薄い 子が天皇として皇統譜に記されるようになるのである。 しかも前時代の祭事権者としての第一子は、神を祭るために聖なる人として独身を守った。その ために現人神として尊崇されたのであ「た。ところが・新むい〔園は、祭事権者でありながら妻子を 持ち、俗なる範疇に入る富と、自分の子への相続権を握った。しかし大王が祭事権者であるという 意味において、この場合でも聖なる人としての立場は失われず、現人神としての尊厳性は確保され 出たのである。 王さきに天皇の起源は俗なるものであったと述べた。それは政事権をもっ第二子が、皇統譜の上で るは天皇として記されているからである。それは世 0 史撰修時に、父子関係をたどって系譜を作 神成した結果によ「たからだと思われる。実際には、独身ではあるカ祭事権をもっ第一子を、時の天 5

6. 天皇権の起源

っていた。 なお、さきに紹介したオモロは十六世紀の作とみられるが、そのころは聞得大君の地位は、王妃 よりは上位であったが国王よりは下位であった。その点では、わが国古代の祭政のあり方とは異な しようえん るが、宗教的観点では内容が同じであったといえよう。実際そのころの事件であるが、尚円王が逝 去したあと、世子が幼少であったため、尚円王の弟の尚宣威が王位についた。ところが即位を慶賀 する儀礼の日、聞得大君からの神託のオモロは、世子を王として認める内容のものであった。神に 認知されなか「た尚宣威は、そのために退位せざるをえなか「たのである。古代の祭政のあり方を、 なお伝えていたのである。 男性の祭事権者の出現女性の祭事権と男性の政事権とからなる ( 政一一重主の「ぎに』い さるのであ 男性の手に掌握される新しい段階を迎える。すなわち両主権が、兄と弟よっ る。このことは社会的・政治的にも、また宗教観念の上からい 0 ても画期的な変革であった。 したので、祭事権をもっ女性が 権部族の首長であ「たが、祭政の両主権とふ〔によ「て掌握されたことから、部族の首長が男性に 重変わ「たことである。統治権が完全に女から男へ移ったのである。そしてこの場合の組み合わせは、 の ( 〔刻が祭事権者とな「て部族の首長となり、弟ま ' 斑椡を回当しな。祭事権が政事権より上位であ「 政 たことには変わりない。 2

7. 天皇権の起源

を守 0 た祭事権者の面影はみえない。履中天皇は第一子であ 0 ただけに、彼よりも上位を占める祭 事権者がなかったことは明らかである。 仁徳天皇が第一子の履中天皇を皇位継承者の太子とし、それに妃を娶らした事実は重視すべきで ある。少なくとも仁徳天皇は、第一子の祭事権者が独身を守るという慣行を打ち破 0 た。それは仁 徳天皇も最高の権力者として君臨しながら、みすから妃を娶「たからであろう。 しかしここで、・川「な引・な・い・「 ) とは、古来からも「と , 襪 & ・叫だ・栂祭、つまり祭事 権が、この時期に軽視されたり、あるいは廃止されたのではないということである。後世まで政事 よりも祭事が重視されてきた国柄である。そのことは本書一巻をも「て論証しようとしている主要 課題で、第三章で再びこの問題を大きく取り上げるつもりである。 実は応神朝以降、それまでの外征から内政にうつるに伴い、朝廷に莫大な富と権力が集中した。 それを誰が相続するかということで、古来からの第一子の祭事権、第二子の政事権という慣行に狂 いが生じたのである。 歴史を繙くと明らかなように、天皇みずからが外征に赴いたのは、第十四代の仲哀天皇までであ 出る。それまでの大和朝廷にと 0 ては、何よりも全国制覇が目的であ「た。そして九州から東国にわ 王たる領土が統べられた。さらに朝鮮〈の遠征も敢行された。これに対し応神朝以後をみると、天皇 はもはや外征に赴いていない。征討の段階が終わり、大和朝廷の版図が確立されたからである。 神 そこで、応神朝からは、外征から内政〈の政治転換が行われた。それまでは外征に明け暮れて、

8. 天皇権の起源

第一章大王の誕生 一祭政の二重主権 神としての首長姉弟による祭政二重主権 男性の祭事権者の出現 二大王の継承権 天皇の起こりは俗なるもの兄は聖なる祭事 権者大王は第一一子が継承 三神なる大王の出現 なせ第一子・第二子は謀叛したか応神天皇 の皇子たちの争い仁徳天皇の皇子たちの争 妻帯した祭事権者の大王現人神とし ての大王の出現 第二章諸学説の批判 一河内王朝説批判 序 8

9. 天皇権の起源

の皇子たちの間で、皇位を兄弟で争う事件が起こったのである。したがって、さきの仲皇子の謀叛 生 のも、ただ痴情が原因であったとはいえす、兄弟間で血をもって皇位を奪い合う時代になっていたの 大である。 章それにしても、応神・仁徳の両朝において、ともに第二子が兄弟たちによ「て殺されるという事 第 件は、ただ偶然だとはいえないであろう。古来の相続の慣行が破棄されようとしたのに対し、第二 子は慣行を盾にして、皇位の継承を主張したのだとみてよかろう。だが慣行の掟はすでに効力を失 ついに第二子がともに殺されることになったのである。 妻帯した祭事権者の大王さて、以上の三つの事件から、何を探り出すことができるであろうか。 応神天皇にしても仁徳天皇にしても、その上に兄があった。古来からの慣行でいうならば、その兄 が祭事権者として、第一義的な地位につくはすである。ところが御陵が明らかに示すように、天皇陵 の中では仁徳陵が第一位で全長四八六メート ル、応神陵は第一一位で四一七メートルの巨墳である。 また第三位は仁徳天皇の子の三六五メートルの履中陵である。もし前時代と同じく、祭事権者の方が 政権者よりも に . る巨大・古墳・がなぐ・て・ばらない。この ことは応神・仁徳・履中が、それぞれの代で住を彑める権力者であ 0 たことを示している。 とくに第一子であった履中天皇に注意してほしいと思う。本来ならば、祭事権者として独身を守 るべきであった。ところが二人の妃を娶り、一一皇子・一一皇女を生んでいる。そこには前時代の独身

10. 天皇権の起源

第 1 章大王の誕生 天皇の起こりは俗なるもの文献で知りうるかぎりのわが国古代の統治のあり方は、姉妹のもっ祭 事権のもとに、兄弟の政事権が存する祭政二重主権の形態であった。そして祭事権をもっ姉妺が現 人神として、部族の首長の地位にあった。 これに対し、割では、その祭事権も女性の手から男性に移し、祭政の・両主権ども兄弟 が掌握するようになった。しかも、そうした道を早くたどった部族ほど強大となって、部族国家か , 第ー引家体べと発展して行「た。それは直接的には政治に関与しない祭事権であろうとも、 女性が神託を下す場合の保守的なのに対し、男性の進取的性格が、他部族を討たして領土をひろめ、 また生産を高めることにも役立ったからだと思われる。 だがその場合でも、第一子としての兄が事をもち、聖なる現人神とし虫身守り、部族の 首長の地位にあったことを忘れてはならない。したがって、皇統譜の初期に皇称されているも 二大王の継承権