その後の大兄と男弟王この欽明朝でも、即位とともに大伴金村・物部尾輿を大連とし、蘇我稲目 を大臣として任命した。しかし即位元年に、大伴金村は対韓の政治的責任を負って引退した。そし て残った物部尾輿大連と蘇我稲目大臣とが、崇仏論争で敵対するようになったことは衆知のとおり 系である。 の やたのたまかっ いわのひめ 王この御代の男弟王は、后の石姫が生んだ長子の箭田珠勝大兄皇子であったと思われる。欽明天皇 男には異腹の弟たちも多かったが、あえてわが子を男弟王にあてたとみてよい。それは彼が嫡子であ や問題はないであろう。 その安閑天皇には子がなく、弟の桧隈高田皇子 ( 宣化 ) が即位したが、在位わすか四年で亡くなっ わくご ほのお かむえは 。上殖葉皇子と火焔皇子とがあったが、「日本書紀」の注記に「孺子は蓋し未だ成人らずして薨 せまつるか」とあるので、世継ぎとしては立てなかったのであろう。 この御代も先代と同じく、大伴金村と物部麁鹿火が大連となり、新たに蘇我稲目が大臣として任 命された。しかし男弟王については明らかでない。后の手白香皇女の生んだ皇子、すなわちつぎの 欽明天皇であったのであろうか。 欽明朝を契機として蘇我氏が抬頭し、つづく蘇我氏専横の時代へと発展するので、これ以降につ いては章を改めて精述したいと思う。そこでここでは、大王と男弟王のことに限って簡略に記して おきたい。 ひととな 747
男弟王の系譜 大 天皇 連 雄略大伴室屋・物部目 清寧大伴室屋 仁賢 武烈大伴金村 継体大伴金村・物部麁鹿火許勢男人許勢は継体 23 年 安閑大伴金村・物部麁鹿火 宣化大伴金村・物部麁鹿火蘇我稲目物部麁鹿火は宣化 元年七月薨。 欽明大伴金村・物部尾輿蘇我稲目 敏達 物部守屋蘇我馬子 用明 物部守屋 蘇我馬子 崇峻 蘇我馬子 推古 蘇我馬子 大臣 平群真鳥 平群真鳥 たことと、それまで女性の天皇が認め られなかったことから、後の皇統譜で は天皇とされて、よ、ゞ、 しオしカ明 , りかに一入 皇として即位したものとみてよいので ある。その飯豊青皇女がとかく世間の 噂にのばるのは、在位中に犯したただ 一回の浮気のためである。『日本書紀』 には左のように記されている。 秋七月、飯豊皇女、角刺宮におい つま まぐわ て、夫と初めて交う。人に謂りて おみな いわく、ひとはし女の道を知りぬ。 いかにけ また安ぞ異とすべきと。終に男と まぐわ 交うことを願わず。 「人がいうほどのことはなかった」 といったこのことだけが、彼女の唯一 の事績として記されているのである。 しかも彼女に夫があったかどうかわか 129
地位を占めることによって、これら豪族は他の豪族を大きく引き離して、ますます権勢を得るよう こよっこ 0 我しかし、これら大臣・大連に執政を一任したわけではない。その上に大王の弟である男弟王がい て、実権は天皇家に掌握されていた。しかも大臣・大連は二人以上の複数でおかれ、一氏族の豪族 に権力が集約されることを防ぐ方法がとられていたのである。そのために大臣家・大連家がいかに 権勢を誇ろうとも、その上に厳然として天皇家が存していた。 あらかび ところが宣化朝に、大連の大伴金村と物部麁鹿火とともに、はじめて蘇我稲目が大臣となった。 武内宿祢の子孫に世襲される大臣の職が、蘇我氏にめぐってきたのである。しかもつぎの欽明天皇 きたしひめおあねのきみ ( 皇子時代 ) に、蘇我稲目は二人の娘、すなわち堅塩媛と小姉君を妃として入れることに成功した。 こうした方法は他の豪族もしばしば行うもので、別に珍しいことではない。しかしその後において、 この布石は大きな効果をもたらすことになった。 この欽明朝元年に、雄略朝以来の大連であった名門の大伴金村が、対韓政策の失敗の責任をとっ おこしたりあるしたり さた むる て退いた。それはさきの継体朝六 ( 五一一 l) 年に、任那の上蜊・下多蜊・娑陀・牟婁の四地方を、 こもんたさ 百済の願いによって与え、さらに翌年にも己浹・帯沙の両地方を百済に割譲したことである。これ によって百済は強力になるが、新羅はこのためにわが国を怨んだ。そして継体朝二十三 ( 五一一九 ) 年 きんかんとく ことんとくしゅ には、ついに新羅によって任那の金官・喙・己呑・卓淳の各地方が統合される。強大な勢力になっ た新羅を討てない責任が、大伴金村に問われたのであった。 150
のほどを見せたかったからであろう。それは一般の常識からみて強引な処置であった。そのために 男亡くなる日の病床で、あえて勾大兄皇子を即位させたのである。このことをみても、天皇の権力が 王強力であったことがわかるであろう。 常規を逸したともいえるこの処置に対し、安閑天皇の即位とともに、大伴金村と物部麁鹿火が大 章 第連に任じられていることからみても、彼らがその決定に賛成したことは確かである。また継体朝の さでひめかがありひめ 大臣であった許勢男人は、二十三年に亡くなっていたが、生前に娘の紗手媛と香々有媛を安閑妃と して入れているので、豪族の許勢氏も反対する理由はない。 ところが、安閑天皇の擁立に蘇我氏が反対したという説があるが、許勢氏と蘇我氏は同族である。 きたしひめおあねのきみ もちろん蘇我稲目は、娘の堅塩媛と小姉君を欽明妃として入れていたので、欽明天皇の実現を望む 心はあったであろう。だが大臣・大連家である大伴・物部・許勢の各豪族が擁立した安閑朝に対立 して、蘇我氏が欽明天皇を即位させて抗争したとみることは、あまりに無理な見解であろう。 しかも安閑朝につづく宣化朝では、大臣の職が許勢氏に代わって蘇我稲目にあてられている。そ れなのに蘇我氏の反対で、安閑・宣化の両朝が存在しなかったとみる説は、どう考えても合点のい かないことである。継体↓欽明という継承ではなく、継体↓安閑↓宣化↓欽明という皇位順序は、 「日本書紀」の記事のとおり認めるべきである。 安閑・宣化両朝を否定し、継体↓欽明という継承順位を認めようとしたのは、もとはといえば継 体天皇の崩年をめぐる疑問に発したものであった。それが前述のごとく解明できたとなると、もは 140
上のことを再び述べたものであろう。したがって、欽明朝六年九月に百済は仏像を造り、同年十月 に朝廷に献上したとみるのが正しいようである。そこで仏教伝来の年次を、改めて欽明朝六 ( 五四 五 ) 年とみたいのである。 その百済から献上された仏像をめぐって、「日本書紀」には左のように記されている。 にしのくに となめと さだ あれ 朕自らえ決むまじとのたまいて、すなわち群臣に歴問いてのたまわく、西蕃の献れる仏の相貌 いやま き、りきら かつみ 端厳し。全ら未だ曽て看ず。礼うべきや以不ゃ。 そむ とよあきつやまとあに 蘇我大臣稲目宿祢、奏してもうさく、西蕃の諸国、一に皆これを礼う。豊秋日本、豈独り背か みかどあめのしたきみ んやと。物部大連尾輿・中臣連鎌子、同じく奏してもうさく、我が国家の天下に王たるは ' っ まさ わざ いわいおが あめっちくにいえ ねに天地社稷の百八十神を以て、春夏秋冬に祭拝むを事となす。方に今改めて蕃神を拝まば、 恐らくは国神の怒りを致したまわんと。 このように意見の対立をみたので、天皇は崇仏を主張する蘇我稲目に、試みとして仏像を祭るこ とを許した。蘇我稲目は飛鳥にあった自分の家に安置し、それを寺とした。ここまでが仏教が伝来 した欽明六年のことである。 我ところが後に悪疫が流行した。そこで物部尾輿と中臣氏は天皇に奏上して、先年われらの意見を と用いられなかったための国っ神の祟りであるから、早く仏像を投げ棄てて、幸いの再来を求められ 伝るようにといった。天皇はその言葉にしたがって、仏像を難波の堀江、いまの大阪市の天満川に棄 てさせ、また寺を焼かせた。これが欽明朝十三年の出来事であろう。 いやま 157
仏教伝来と蘇我氏 だが、ここで考えておかなければならないことは、大臣・大連がいかに権威を誇る地位にあろう とも、天皇の命令には背くことができず、完全に服従したことである。欽明朝の蘇我稲目が、天皇 の命で仏像を川に棄てられ、寺が焼かれても、それに反抗することはできなかった。同じく敏達朝 に、塔を倒され寺を焼かれ、仏像も川に棄てられ、さらに尼たちまで捕えられて鞭打たれても、蘇 我馬子は手をこまねいて何ひとつできなかった。このころまで天皇の権力は、絶対なものとされて いたのである。 ところが、蘇我・物部両氏の怨恨がはげしかっただけに、それが原因で物部氏の滅亡を早め、ひ いては蘇我氏の専横時代を迎えることになる。そして天皇の権力を凌駕する蘇我氏の抬頭が出現す るのである。それは天皇権の歴史の上において、大きな変革であったといえよう。 161
たるものとした。官職としての地位は優遇されたといえるが、政治権力の上に超然とあるべき仏法 者のあるべき姿ではなかった。しかし、すでに中国で国家の統制下にあった仏教を見習ったわが国 では、仏教を国家組織の中に組み入れることによって、仏教を充実させたものと考えたのである。 「日本書紀」の同年秋九月の条に、 かんが いえで 寺また僧尼を校えて、つぶさにその寺の造られし縁、また僧尼の入道の縁、また度せる年月日 しる を録す。 とあり、こうして寺院四六所、僧尼一、三八五人は、国家の統制のもとにおかれることになった。 そして翌年に高麗王から献上された僧恵潅も僧正とされ、当時の施政者の考えでは、仏教は制度の 上でも完備したことになったのである。 仏教がわが国に渡来したのは欽明朝で、ときの大臣であった蘇我稲目の支持をうけたが、実際に 仏教を定着させ、その興隆をみちびいたのは、その子の馬子の力に負うものであった。もちろん仏 教の興隆は、馬子が権勢を誇示しようとする政治的野心によるものであった。しかし天皇権をしの ぐ馬子の権力がなかったならば、これほど短期間に、仏教を中心とした華やかな飛鳥文化は生まれ 丸なかったと思う。これに対し聖徳太子は、その脇役として活躍した偉大な仏法者であったといえる。 ところが、仏教が国家的に制度化された二年後、「日本書紀」の紀年では推古朝三十四年五月に AJ 寺蘇我馬子は亡くなった。そしてさらに二年後に推古女帝も崩御された。こうして馬子の専制時代は 法終わるのである。 おこない 203
( 太子町 ) に居住していた分家が、倉山田臣を名告っているので、蘇我氏は代々三蔵の職についてい たのを、蘇我稲目が大臣になってから、その職を分家に譲ったものとみてよいかもしれない。 いずれにせよ、蘇我氏は帰化人の最有力氏族である秦氏や文氏と、早くから密接な関係にあった。 それだけに帰化人から財政的援助と、文化的影響をうけていたのであろう。その中でも百済系帰化 人の居住地が、蘇我氏の本貫地を取り巻いていたのである。蘇我氏が百済系帰化人と密着していた ことは明らかである。そこで百済王から仏像が献上されたとき、蘇我氏が崇仏を主張するのは当然 の成りゆきであった。 蘇我・物部の崇仏論争その蘇我氏に対して、物部氏が崇仏を拒否しようとしたのも、また理由の あることであった。 当時の神祇官は中臣氏であったが、中臣氏は物部氏と同族であった。神祇官の中臣氏が物部氏に 泣きついて行ったことから、物部氏も渦中に入らざるをえなくなったのであろう。「日本書紀」に よると、物部尾輿と中臣氏とが共に天皇に奏上し、蕃神を拝むと国っ神の怒りをまねくといって反 我対したことがみえる。大臣の蘇我氏と大連の物部氏とが、政敵であったということを強調する前に、 と崇仏論争を契機として、争わねはならぬように運命づけられたとみる方が正しいであろう。 一ム 蘇我対物部の崇仏論争に発端した事件は、その後の歴史を大きく狂わせた。すなわち物部氏の滅 仏 亡を経て、蘇我氏の専横時代を迎える。さらに復讐を期した中臣鎌子 ( 鎌足 ) が、中大兄皇子 ( 天智 ) 155
大伴金村の引退によって、残るのは名門の物部尾輿大連と、新興の蘇我稲目大臣とになった。そ して衆知のように、崇仏論争を契機として、両者の権力争いは明らかになって行く。だが、それに は理由があった。 蘇我氏をめぐる百済帰化人この欽明朝は対韓政策に明け暮れた御代といえるが、ことに任那の存 亡をめぐる問題があり、また高麗・新羅に圧迫されていた百済が、わが国に救援を強く求めてきた。 百済の聖明王が金銅の釈迦仏や経論などを献上したのも、百済がわが国を頼みとするところがあっ たからである。ところが献上された仏像をめぐって、蘇我氏が崇仏を支持したのは、蘇我氏と百済 帰化人との密接な関係があったことによる。 たけち 蘇我氏は後に大和国高市郡へ開拓をひろげて発展するが、もとの本貫地河内国石川郡属した ふるいち 」ちすかべ 現在の大阪府南河内郡太子町を中心とした地域であった。その北に接して安宿郡・ゝり、 。あって、ともに百済帰化人の居住地であった。蘇我氏の周辺がすべて百済の帰化人であったこ とを知っておく必要がある。 あすかべのみやっこ 我北に接する安宿郡は、「和名抄」でアスカべと訓ませているが、それはこの地に住む飛鳥戸造の と名によるもので、正しくはアスカである。その語源は朝鮮語のアンスク、すなわち「渡り鳥の安住 あすか 伝の地」という意からの転訛だといわれる。同じ名をもっ地名は、安芸国豊田郡安宿郷をはじめ各地 とものみやっこ あすかべ 仏にみられるが、この地の飛鳥戸造は、各地の飛鳥部を統括する総領的伴造であ 0 た。 151
もともと崇仏論争は、欽明朝に百済王から仏像と経論などが献上されたことによった。そのとき 蘇我稲目を崇仏に傾けたのは、蘇我氏の勢力の背景になっていたのが帰化人、殊に百済帰化人であ ったことによる。帰化人と蘇我氏との関係は、馬子のときも同じであった。それだけに馬子の政治 理念には、帰化人からの文化的影響を強く受けていたものとみてよい しかも父の稲目のときと、馬子のときの二回にわたり、物部氏によって堂塔が焼かれ、仏像は難 波の堀江に投げ棄てられた。その怨念は、物部氏を倒した後でも、まだ馬子の心から去ってはいな かったであろう。それだけに神祇を主張した物部氏の滅亡後は、意地でも仏法一辺倒に傾かざるを 得なかったのである。しかも天皇権にまさる権力を馬子は掌握していた。 法興寺の建立は、そうした馬子の意地と執念からであ「た。それだけに前述したように、塔を中 心として三つの金堂を配する大規模な寺院を計画したのであった。この法興寺の建立は、物部守屋 を討滅した直後に発願された。 その翌年の崇峻朝元 ( 五八八 ) 年には、百済から仏舎利と僧六人・寺工二人・露盤博士 ( 塔の相輪製 作者 ) 一人・瓦博士四人・画工一人が献上された。馬子から百済王に対して、彼らの派遣を依頼し 我たものとみてよい。そして彼らによ 0 て、この年から工事が着手され、それは推古朝四 ( 五九六 ) 年 とに完成した。 教 仏 飛蘇我の私寺が国家的寺院になるそのことで付言しておきたいことは、この法興寺の建築の設計が、 181