蘇我馬子 - みる会図書館


検索対象: 天皇権の起源
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1. 天皇権の起源

男弟王の系譜 大 天皇 連 雄略大伴室屋・物部目 清寧大伴室屋 仁賢 武烈大伴金村 継体大伴金村・物部麁鹿火許勢男人許勢は継体 23 年 安閑大伴金村・物部麁鹿火 宣化大伴金村・物部麁鹿火蘇我稲目物部麁鹿火は宣化 元年七月薨。 欽明大伴金村・物部尾輿蘇我稲目 敏達 物部守屋蘇我馬子 用明 物部守屋 蘇我馬子 崇峻 蘇我馬子 推古 蘇我馬子 大臣 平群真鳥 平群真鳥 たことと、それまで女性の天皇が認め られなかったことから、後の皇統譜で は天皇とされて、よ、ゞ、 しオしカ明 , りかに一入 皇として即位したものとみてよいので ある。その飯豊青皇女がとかく世間の 噂にのばるのは、在位中に犯したただ 一回の浮気のためである。『日本書紀』 には左のように記されている。 秋七月、飯豊皇女、角刺宮におい つま まぐわ て、夫と初めて交う。人に謂りて おみな いわく、ひとはし女の道を知りぬ。 いかにけ また安ぞ異とすべきと。終に男と まぐわ 交うことを願わず。 「人がいうほどのことはなかった」 といったこのことだけが、彼女の唯一 の事績として記されているのである。 しかも彼女に夫があったかどうかわか 129

2. 天皇権の起源

え、臣下の身である蘇我馬子のカで、皇位継承が左右されたのは、歴史の上でこれが初めてである。 のその意味で、このときの皇位継承は重視しなければならない。 我しかし政敵として対立する大連の物部守屋が健在なとき、蘇我馬子ひとりのカで皇位継承が左右 されたとは思われない。そこには馬子の姪にあたる后の額田部皇女の発言が、決定的なものとなっ 章 第たとみてよい。それにしても、后を動かした馬子の存在を認めなければならない。しかも蘇我氏の 血をうける用明天皇を即位させたことが、その後に迎える蘇我氏の専横時代の発端となったのであ 蘇我馬子が敏達天皇の后と計り、強引に蘇我氏の血をうけた用明天皇を擁立したことによって、 当然のことながら、蘇我氏と物部氏の勢力の均衡は破られ、両者の対立はさらに深刻さを増した。 そのとき思わぬ事件が起こった。 あなほべ 物部大連の滅亡用明天皇の即位から八カ月後、用明元 ( 五八六 ) 年五月、穴穂部皇子が先帝の后で おか もがりのみや あった額田部皇女を奸そうとして、宮中に設けられていた先帝の殯宮に入ろうとした。それを三 さかし 輪君逆が守護の兵をもって門をとざし、皇子を宮中に入れなかった。ひそかに皇位をねらっていた 穴穂部皇子は、逆の無礼を物部守屋に訴えた。物部守屋は好機到来と思ったのか、皇子に組みして 物部氏の兵で皇記・化取り囲んだ。 敏后の額田部皇女は、用明天皇とともに、蘇我馬子の妺である堅塩媛と、欽明天皇の間に生ま 1 石 4

3. 天皇権の起源

他の皇子に替えようと思「た。そこで穴穂部皇子を淡路の狩猟に誘って、亡きものにしようとした が、その謀略がもれた。 しかし穴穂部皇子に対する憎しみを強く抱く蘇我馬子はついで六月、佐伯連丹経手らに命じて、 穴穂部皇子の宮を夜襲させて殺した。また皇子と親密であった宅部皇子も殺された。この宅部皇子 については、「日本書紀」は宣化天皇の皇子ともい「て不詳だとし、「紹連録」は欽明天皇の皇子 で、穴穂部皇子と同母弟だとする。 翌七月、ついに蘇我馬子は物部守屋の討滅を計画した。そして蘇我氏の血をうけた泊瀬部皇子・ うまやど 厩戸皇子・竹田皇子たちをはじめ、蘇我氏と同族の紀臣・巨勢臣・葛城臣・平群臣・坂本臣のほか、 かしわで 阿倍臣・膳臣・大伴連・春日臣なども加勢して、河内国渋河郡へ軍勢が押し寄せた。しかし物部 ぬりで 氏の勢力が強盛で、蘇我氏の軍はたじろいた。このとき厩戸皇子 ( 聖徳太子 ) が、白膠木を切って四 天王像を造り、戦いに勝てば四天王寺を建立することを誓願したという。 とみのいち 蘇我馬子も諸天王や大神王に祈請して、全軍を進めた。このとき迹見赤檮が木の上の物部守屋を 射落とし、その子らも誅殺した。これによ 0 て物部の軍勢は総崩れとな「て四散した。『日本書紀』 道はその滅亡を左のように記している。 かよね のがかく こら やから えだち この役に、大連の児息と眷属と、或は葦原に逃れ匿れて、を改め名を換うる者あり。或は逃 げ亡せて向にけん所を知らざる者あり。 それは名門を誇った物部氏にとって、あまりにも悲惨な末路であった。しかも蘇我馬子の妻は、 はっせべ 167

4. 天皇権の起源

こうか その十三年九月に、百済から帰国した鹿深臣が弥勒石像一躯、同じく佐伯連が仏像一艦を持ち帰 ・ ) つつくりのすぐりしばたっと ひた ったのを知り、蘇我馬子はそれを請いうけた。そして帰化人の鞍作村主司馬達等と池辺直水田を 各地へ遣わして、仏法の修行者を探させた。播磨国で僧の還俗者である高麗恵便を得た。そこで彼 を師とし、司馬達等の十一歳の娘を出家させて善信尼とし、またその弟子として帰化人の娘一一人を 出家させた。 さらに仏殿を蘇我馬子の居宅の東方に造り、弥勒石像を安置して、三人の尼を座につかせて法会 をひらいた。また蘇我氏の故里である河内国の石川の里の家にも仏殿を造った。そして蘇我馬子を はじめ司馬達等・氷田などが、仏法の修行にはげんだ。「日本書紀」には、「仏法の初めは茲より 作れり」と記されている。 この司馬達等の孫が、わが国で初めて仏像を鋳造した有名な鞍作鳥である。彼の作品が大和の飛 鳥寺の釈迦仏や法隆寺の釈迦三尊として伝えられているのは衆知のことであるが、後に彼が馬子に よって造仏工として取り上げられたのも、彼の祖父からの関係があったからである。なお帰化人と しての出自は明らかでないが、蘇我氏の故里である河内国の石川村に接する春日の地に住んでいた 我ので、百済系であったとみてよかろう。 と さらに翌十四年二月には、蘇我馬子は大和の高市郡の大野丘の北に塔を建てた。馬子の仏法への 来 伝帰依はひたむきであ「た。欽明朝における父の挫折を一気に取り返すがごとき勢いであ「た。それ 仏 だけに物部氏を・刺激した。そして再び事件が起こったのである。 とり えびん これ 159

5. 天皇権の起源

横崇仏論争では最後に勝利を得た物部尾輿であったが、彼はその年に亡くなった。その後は蘇我稲 の目がひとり大臣として残ったが、仏像を失い寺も焼かれたためか、この御代には再び仏教に関する 我記事は見えない。そして欽明天皇の崩御の前年、欽明朝三十一 ( 五七〇 ) 年に蘇我稲目も逝去した。 こうして崇仏論争も終わり、蘇我・物部の対立も解消したかにみえたが、つぎの敏達朝に入って 再燃した。敏達天皇の即位とともに、物部守屋が大連に、蘇我馬子が大臣として任命された。舞台 はともに子の代に移った。 怨念にかわる崇仏論争その敏達朝四 ( 五七五 ) 年十一月に、后の広姫が亡くなった。そのため蘇我 ぬかたべ 馬子の妹の堅塩媛と、欽明天皇の間に生まれた額田部皇女が、翌五年三月に妃から后に改められた。 大臣となった蘇我馬子の姪が后となって、情勢は蘇我氏に有利となった。 きようろん りつじ そうした事情を知ったのか、翌六年十一月に、百済の威徳王は経論若干巻のほか、律師・褝師・ びくに じゅごんじ おおわけのみこ 比丘尼・咒禁師・造仏エ・造寺工の六人を、帰国する使者の大別王につけて献上した。この大別王 の出自については不明であるが、難波の大別王の家に彼らは住みついた。 ふみこの しかし敏達天皇については「日本書紀」に、「天皇、仏法を信けたまわず、文史を愛みたもう」 とみえるので、このことが直ちに情勢を変えることにはならなかった。それにしても、先代の父の 遺恨を胸にもっ蘇我馬子は、これを端緒として、姪の后を通じ天皇に働きかけたであろう。そして ついに敏達朝十三年から、蘇我馬子は父の意思をついで、積極的に仏法に傾倒しはじめる。 158

6. 天皇権の起源

できる唯一の方策であった。 の蘇我馬子は穴穂部皇子を諌めたが聞きいれす、ついに逆は物部氏の兵によって殺される。その死 いたみなナ - 我のあとで「日本書紀」には、「ここにおいて馬子宿祢、惻然頽歎きていわく、天下の乱れは久しか らじ。大連聞きて答えていわく、汝小臣の識らざるところなりと」と記している。物部守屋が蘇我 章 第氏の血をうけた皇子に組みしてまで、馬子に敵対しなければならなかったことは悲劇であったが、 それほど守屋は窮地に落ちていたのであった。 さらに事件はつづいて起こった。翌二年四月、用明天皇は病床の身となられた。そして仏法に帰 かつみ みことのり 依したいことを願われた。物部守屋と中臣連勝海は、国っ神にそむく行為として詔に反対した。 蘇我馬子は法師を連れて内裏に入った。 おさかべのふびとけくそ このとき馬子の計略で、押坂部史毛屎をして、物部守屋に身の危険があることを告げさせた。守 しぶかわ あと 屋は急ぎ皇居から出て、河内国渋河郡にある彼の別邸、阿都の第へ走って兵をかき集めた。そこは 物部氏の発祥の地であり、本拠地であった。これに呼応して、中臣連勝海も家に兵を集めた。そし みまた て押坂彦人大兄皇子の住む水派宮 ( 奈良県北葛城郡馬見村 ) へ参加を求めに行ったが、勝海がそこから とみのいち 退出するところを、待ち伏せしていた迹見赤檮が斬り殺した。他方、蘇我馬子の家には、大伴連砒 らふ 羅夫が武装して守護した。戦いをはらんだ不穏な情勢の中で、用明天皇は数日後に崩御された。 その翌五月、物部守屋は援けを求めにきた穴穂部皇子を、行きがかりで皇位につけようと考えて いたが、蘇我馬子との対戦を迫られた段階で、蘇我氏の血をうけた穴穂部皇子の擁立の考えを棄て、 さかし 166

7. 天皇権の起源

塔を建立したその月に、馬子は病いに倒れた。また悪疫が国々でおこって、多くの人が死んだ。 かつみ のそこで大連の物部守屋と中臣勝海とが、またもや天皇に奏上して、蘇我氏が仏法を興隆させようと 我したための災害であると述べた。それは先代の欽明朝に、物部尾輿と中臣氏が反対したのと同じで あった。、 父子二代にわたる崇仏論争がまたはじまったのである。 章 天皇は「宜しく仏法を断めよ」と命じた。そこで物部守屋みすからが寺へ行って、塔を倒し、火 第 をつけて焼いた。また仏殿と仏像も焼 いた。そして焼けた仏像を、難波の堀江に棄てさせた。それ は父の物部尾輿がしたのと全く同じであった。 つばいち さらに善信尼ら三人の尼を捕えて法衣を脱がせ、海石榴市の旅館に監禁して鞭打った。ところが 天皇と物部守屋が天然痘にかかり、また国々に流行して死者が増えた。仏像を焼いた罪だという声 が、ちまたに流れた。 そこで六月、蘇我馬子は天皇に奏上して、自分の病いは仏法の力をかりずしては治らないことを 訴えた。天皇は「汝、独り仏法を行うべし。余人を断むべし」といって許した。そして三人の尼を 馬子に返された。馬子は新たに精舎を造って尼たちを迎え入れた。 もがり しのびごと しかしその八月、天皇は天然痘のために崩御された。その殯に、蘇我馬子は刀を差して誄を述 べた。その姿を見て物部守屋は、猟の矢があたった雀のようだと、あざけり笑った。つぎに物部守 屋が手足をおののきふるわして誄をすると、蘇我馬子は笑って、鈴をつけたらどうだと悪口をいっ た。このように両者が怨恨をはらんだままで、敏達朝は終わったのである。 160

8. 天皇権の起源

おさかのひこひと は、この麻呂古皇子は押坂彦人大兄ともいうので、この皇子が敏達朝の男弟王であったということ になる。ところが敏達朝の男弟王として、もう一人の該当者がいる。それはつぎの皇位を継承した 橘豊日皇子 ( 用明 ) が、大兄皇子と呼ばれていたからである。これら二人の大兄の関係はどうであっ たのであろうか。一四二ページの系譜を参照していただきたい。 敏達天皇も前例にならって、后の広姫が生んだ麻呂古皇子を男弟王として、押坂彦人大兄皇子と 改名させたものとみてよかろう。ところが蘇我馬子の姪の額田部皇女を改めて后としたことから、 事情が変わったものと思われる。すなわち大臣の蘇我馬子が、姪である后を通じて、后の兄にあた り馬子の甥でもあり、また天皇の異母兄弟である橘豊日皇子を、男弟王に改めるべく働いたのでは なかったかと思われるのである。 さきにも述べたことであるが、敏達天皇の崩御に先立ち、天皇は橘豊日皇子を枕辺に呼んで、任 那の復活を遺言された。そのことをみても、敏達朝の末においては、橘豊日皇子が男弟王であった ことは明らかであろう。もちろん男弟王のことは文献にいっさい見えないので、確かだとはいいゝ ねるが、そうした見方が妥当ではないかと思う。 いずれにせよ、敏達天皇の嫡子である押坂彦人大兄皇子は、つぎの皇位にはつけなかった。皇位 道 へについたのは、蘇我氏の血をうけ、大兄皇子と呼ばれた橘豊日皇子で、それが第三十一代の用明天 政皇である。 しうまでもなく蘇我馬子によるものであった。大臣とはい 押坂彦人大兄皇子が排斤されたのは、、 163

9. 天皇権の起源

の逝去については、特別な事件に関係しないかぎりは記載しないので、そのことからみても重職に あったことがわかる。 ぬなくらふとたましき ところが二年後に、第二子の渟中倉太珠敷皇子を太子と定めた記事が見える。もちろん、この名 前は即位後の諡号で、皇子時代の名前は不明である。この場合は、この皇子が男弟王をかねて、太 子でもあったとみてよかろう。その欽明朝は三十二年で終わった。 つぎは太子であった渟中倉太珠敷皇子が即位して敏達天皇となった。即位とともに物部守屋を大 連に、蘇我馬子を大臣に任じた。 おさかのひこひと まろこ このときも男弟王は、后の広姫が生んだ麻呂古皇子 ( 押坂彦人大兄 ) であったとみてよい。この皇子 にも大兄の称がついているが、太子となったという記事は見えない。しかも麻呂古皇子というのが もとの名で、押坂彦人大兄というのは男弟王としての名とみるべきであろう。 ところが、后の広姫は四年十一月に亡くなった。そこで翌五年三月に、妃であった額田部皇女 きたしひめ ( 推古 ) が后となる。彼女は蘇我馬子の妺の堅塩媛と欽明天皇との間に生まれたもので、蘇我氏の血 をうけたものである。これによって、大臣としての蘇我馬子の権勢は、朝廷に強く反映するように よる。 たちばなのとよひ そのことで注目すべきことがある。実は后となった額田部皇女の兄にあたる橘豊日皇子 ( 用明 ) またのな が、亦名を大兄皇子と呼ぶことである。これは何を意味するものであろうか。ところが、敏達天皇 男は十四年八月に亡くなるが、死の原因とな「た天然痘にかかった三月に、遺一言を伝えたのは橘豊日 143

10. 天皇権の起源

第 4 章蘇我氏の専横 蘇我の血をうけた天皇の誕生敏達朝の終末に、大臣の蘇我馬子と大連の物部守屋とは、崇仏論争 ではげしく敵対した。その最中に、天皇は十四年の在位で崩御された。それだけに、つぎの皇位継 承については問題であった。 「古事記」はこの皇子を 敏達天皇には后の広姫が生んだ麻呂古皇子 ( 押坂彦人大兄皇子 ) があった。 おさかひこひと、、 それは敏 忍坂日子人太子と記しているが、「日本書紀」には太子であったという記事はみえない。 達朝四年に后の広姫が亡くなり、五年三月に蘇我馬子の姪にあたる妃の額田部皇女が后に改めら れていたので、前后の生んだ麻呂古皇子の存在がうすれ、ついに太子にはなれなかったとみるべき であろう。そして実際この皇子が正当な世継ぎでありながら、つぎの皇位を継ぐことはできなかっ たのである。 おおえ しかし前章で述べたごとく、もし「大兄ーが世継ぎの皇子を男弟王としたものの称であったなら 二蘇我政権への道 162