なせ邪馬台国か歴史から消えたか蘇我史観による国史の撰修で、もう一つの大きな事件がある。そ れー馬台国の実歴史の上から抹殺たことである。 最近刊行した拙著「大いなる邪馬台国」で論証したごとく、邪馬台国を樹立していたのは物部氏 の祖先であ 0 た。その子孫は大和朝廷に入 0 て、名門の大連として復興した。ところが欽町朝にお に対立した。それは子の代にまで引き . -. - 一 .... - - 、 - 、、 - 、ーいて、大連の物部尾輿は大臣の蘇我稲・目ど、崇仏論争で政・治・的 つがれ、 ( 部争新ど一亠俄み 6 笋い・どを 0 た。その抗争は憎悪というよりも怨念にまで高ま 0 てい た。そして馬子は守屋を殺し、物部氏は滅亡する。 そうした両者の関係を知ると、さきに見たごとく、神話と歴史をあれほど強引に蘇我史観で統一 て言録するであろうか。しかも した馬子が、憎みてもあまりある物部氏の王朝のことを、国 邪馬台国は葛城王朝に先行するものであった。 馬子は大和朝廷の前にひそかに葛城王朝をおき、神武天皇からはじまる一連の皇統譜として作為 した。もし邪馬台国を国史の中に認めるとなると、そうした苦心の皇統譜が、体系として破壊され 史ることになる。また神話体系も異なったものになるであろう。それは馬子にとって絶対に許されな 国 の いことであった。 勅政敵の物部氏を権威づけるいかなることも、時の馬子には考えられないことであった。邪馬台国 たといえる。しかしそのために、 タ心力 , 215
邪馬台国の女王卑弥呼についてはさきに紹介したが、実は女王卑弥呼の以前に男王が支配する国 であった。魏志倭人伝には左のように記されている。 とどま もとまた 其の国、本亦男子を以て王となし、住ること七八十年なり。倭国乱れ、相攻伐して年を歴る。 すなわち共に一女子を立てて王となす。名を卑弥呼という。 このように、もと男王が長く治めていた国であったが、倭国が乱れたため、卑弥呼を女王に立て たと記している。その卑弥呼は祭事権者で、彼女の弟が政事権者として置かれていたことについて ) わー一 1 二 よかろう。 ごかんじよ そして「倭国乱れーとは、「後漢書」や「北史」などから、後漢霊帝の光和年中 ( 一七八 ~ 八一一 l) の 戦乱とみられ、それは邪馬台国が北九州勢力と戦闘状態に入ったことを指すものとみてよい。拙著 なのくに 「大いなる邪馬台国』 ( 講談社刊 ) で考証したように、それまでの倭国の政治と文化の中心は、奴国 などのある北九州であった。ところが大和に勃興した邪馬台国が、北九州勢力を討つべく遠征を敢 行したのである。そしてこの戦争によって北九州勢力は滅び、大和王権としての邪馬台国の時代と 権なるのである。 重それだけにこの戦闘は、激戦を繰り返したものと思われる。国の運命を賭けたこの戦いに、国中 のでは前時代の女性の祭事権者を求める声が湧き上がったであろう。そして女性のもっ神的霊力によ って、勝利をもたらすことが願われたに違いない。その結果、卑弥呼を女王として擁立したものと
現在まで邪馬台国の実在をめぐって論争される結果をまねいたのである。 のその邪馬台国については、拙著でくわしく論証しているので、ここでは省略させていただきたい 我と思う。ところが読者から、邪馬台国と葛城王朝の関係についての説明が、不足しているという御 忠告をうけた。そこで本書をかりて、両者の関係についてだけ言及しておきたい。そのことは、馬 章 「台国を取り上げなか 0 た理由の一つにもなるかと思う。 物部氏は , 羽蜊 6 舅を中心としてひろく治めていた。それ邪馬台国みたのであるが、 くぬ 魏志倭人伝に「其の南に狗奴国有り。男子を王と為す。 : : : 女王に属せず」とある狗奴国と、邪馬 台国は長年にわた「て戦いをつづけていた。そこで大和平・ä・調・ロ・ 0 ・て、・、次第・北方べ・卸・刳 まさしく目 ひろげ、最後に物部氏を降月させた城王 しかも「葛城」という地名は後のもので、古くはこの地を「葛野」と呼んだが、一字一音の訓み では「カス・クヌ」となる。そうした地名からも、奴が葛主・弭にあたるものと考えられる。 しかし魏志倭人伝にみられる邪馬台国と狗奴国との戦いが、わが国の文献史料にみる葛城王朝の 歴史からも傍証されなければならない。そうした角度から、両者の関係を対比してみたいと思う。 まず葛城王朝の発展の歴史を述べることにしよう。 実は神武から開化に至る九帝を葛城王朝と命名はしたが、少なくとも第五代の孝昭帝までは、葛 城山麓における部族国家の段階であったとみてよい。もちろん孝昭帝は、現在の葛城山の中央部、 南葛城郡新庄町にいた尾張氏の首長の娘を娶っている。当時は政略結婚であるから、初めて異族の かどの 21 石
仏教興隆の推進力となった馬子 五推古勅撰の国史 蘇我史観による神話と歴史神話は葛城王朝 のものが中心神話構成は蘇我氏の手で なぜ邪馬台国が歴史から消えたか葛城王朝 と邪馬台国の関係邪馬台国は推古勅撰書が 消した 第五章天皇権の回復 一大化改新の前夜 蝦夷・入鹿の僣上入鹿誅殺の事件へな ロポット ぜ中大兄は皇位につけなかったか としての孝徳天皇 一一大化改新と中臣鎌子 中臣鎌子の素性中臣鎌子の政治的ねらい 難波遷都の目的は何か左右大臣の死と謎 中臣鎌子の陰謀 三中大兄皇子の苦難 225 204 226 242 263
横女王卑弥呼は即位してから約六〇年も経た景初三年にな 0 て、初めて魏へ入貢した。それは葛城 の王朝が南域を犯しはじめたので、大国の魏に倭国王として認知されることを乞い、その威光を示す 我必要があったからであろう。そのときは葛城王朝の第六代孝安帝の御代であったと思われる。その 理由を述べよう。れで 章 邪馬台は引きつづき正始四年に、窮状を訴える使者を魏〈遣わし、同六年に軍旗が授けられ る。そして翌七年と思われるが、さらに急ぎ救援を依頼し、同八年に魏の軍使が到着する。魏から 軍使が送られるほど、この戦闘は熾烈であ「たとみてよい。そしてこの戦いで、邪馬台国は南域の 磯城・十市・高市の各郡を失「たとみられる。ところが、つぎの第七代孝霊帝が、邪馬台国の領域 であった磯城郡に都を進出させているので、この戦闘は第六代の孝安朝の出来事であったとみてよ いのである。 孝安朝にこれほど大きな勝利があ 0 たがために、孝安帝の秋津嶋宮という宮名が、葛城王朝の記 念すべき国号とされたと思われるのである。 この戦いで大きく失地した心労のためか、年老いた女王卑弥呼は死ぬ。そして新たに年少の台与 が女王となり、邪馬台国の政体は変わる。さらに軍使の帰国したのをみて、第七代孝霊帝は一挙に 都を磯城郡黒田の地に進出させたと思われるのである。 その後しばらく小康がつづいたあと、第八代孝元帝が都を葛城山麓の旧地に後退させたのは、邪 馬台国と最後の興亡をかけた戦いのためであ 0 たと思われる。これによ「て邪馬台国はついに倒れ、 222
横中に取り入れるとなると、どういうことになるであろう。邪馬台国の滅亡後における葛城王朝の世 の代は、早くても第七代孝霊帝の末から、普通には癶代孝元帝と第九代開化帝のわずか一一代だけが 我存したことになる。そしてそれ以前の蹲からばし ' ま・ ま、国史カら孑消しなけはならなく よる。 章 政敵であ 0 た物部氏に対しては、限りない憎悪と怨念をいだいている馬子であ「たが、右に述べ た事青からも、邪馬台国を認めることはできなかったであろうと思う。 の から、それはまだ部族国家の段階にあった王にすぎなかったが、それから九代の王を大和朝廷に先 行させて置いたのである。 この馬子によるが、み ) ・の・後の回刎国刔曰渕引けた。そのために邪馬台国という 名は、わが国の文献から消え、わずか一 . 訂月目に遠きありし日の片鱗を残すだけとな「たので ある。 それほど馬子は大胆に、神話と歴史を政治的作為のもとに組み立てたのであった。それは天皇権 をしのぐ馬子の実権がなしえたわざであったといえよう。 224
遺族は娘と姪を、また一族の河内国の首長も娘を献上して、完全に降服した。それは西暦二八〇年 ころであったと思われる。台与はそのころ四十歳あまりであるが、多分彼女の代で邪馬台国は滅亡 したものとみてよかろう。 帝は都を現在の奈良市域にまで進出させたのであろう。さらに、かって邪馬台国の支配下に属して いた国々へ軍を進めるべく計画し、まず要衝の丹波国・吉備国を征した。紀伊国はそれ以前に服属 にする。 それは四世紀前半であったとみてよい へ軍を進めた。この御代には、このほかに伊賀国を討っただけである。ついで垂仁朝には、近江・ あずま 尾張・美濃・三河・伊勢の国々を征服する。さらに景行朝では、東は駿河国から東国へ、西は周防 国から九州への遠征が試みられる。 このように、わが国の文献からみこ城王朝物部氏との関は、そのまま魏志倭人伝の狗奴国 0 ゝ ノ代孝安朝 史と邪馬台国の関係に 国 勅そこで問題をもとに返してみよう。一蘇我史観によ「て、大和朝廷の前に神武帝からはじま 推 る葛城王朝九代をおき、これを一連の皇統譜として体系づけた。ところが、もし . 馮紿准国史の 223
敵をお鎮めなされて、 このように現人神としての聞得大君の霊力が、緒戦に敵地へ風のごとく送られる。いわゆる神風 であるが、神もまた共に戦場へ赴いて戦うものであるとの観念は、古代社会に普遍的にみられる思 想である。 邪馬台カ九州勢力を討っときも、そうした神的霊力の助けを願う声があったとみてよい。と ころが男性が祭事権者になったのは日が浅く、そのための不安から、男王に代えて女王卑弥呼を即 位させたものと考えられる。したが 0 て第早弥呼・の立は、戦争という特殊な事情がもたらした ものであった。 これに似た例が卑弥呼の死後にも繰り返される。卑弥呼の死後、再び男王が即位した。ところが 当時、邪馬台国は南の狗奴国と激戦中で、それも邪馬台国に不利であった。そのため魏から軍使の 派遣を乞うて、やっと小康をえるという状態であった。そうした政情の中で立った男王のため、再 とよ び男王を下ろして、わずか十三歳の台与を女王として即位させる。 こもご・も 更に男王を立つるも国中服せず、更相誅殺し、当時千余人を殺せり。復た卑弥呼の宗女、台 与の年十三なるを立てて王となす。国中ついに定まる。 権 重女王台与の擁立も卑弥呼と同じく、戦争という特殊事情が、女性のもっ霊的力を必要としたため のであった。 祭 だが、卑弥呼の死後も男王を立てたことでわかるように、すでに邪馬台国では男王が即位する政
第 4 章蘇我氏の専横 倭国大乱、 北九州勢力の崩壊 178 \ ・ 183 / 葛城王朝 約五六年 約六四年 魏おこる . 220 6 代孝安 . 239 ( 景初 3 ) 卑弥呼、魏へ入貢 魏使来朝 ・ 240 ( 正始 1 ) ・ 243 ( 正始 4 ) 魏へ使者派遺 魏使来朝 ・ 245 ( 正始 6 ) ・ 247 ( 正始 8 ) 邪馬台国は狗奴国と苦戦 魏から軍使来朝 女王卑弥呼死す 女王台与の即位 ・ 249 ごろ 7 代孝霊 ・ 266 ( 泰始 2 ) 晋へ入貢 8 代孝元 物部氏滅亡 ・ 280 ごろ 邪馬台国の滅亡 218
しかないので、山城国も領土に入っていたとみてよい。そして后として物部氏の娘、すなわち先帝 の妃を迎え、さらに丹波国の首長の娘を妃として娶った。そのことは丹波国も服属したことを示し ところが、第七代孝霊帝の皇子が吉備国の征討におもむいているので、それは第八代か第九代の 出来事であったとみてよかろう。またこの開化帝で葛城王朝は倒れ、政権は大和朝廷に更迭するが、 ・ー衂衂の・子たちが紀伊国・ヘ藩ぢ・のびた閂からみて、紀伊国も服属していたと思われる。 北九州が征服できない前は、丹波国が朝鮮や中国への海路の基点となった。また紀伊国の紀ノ川 の河口は、往古西国への交通の門戸であった。さらに吉備国は二世紀後半に瀬戸内海の海上権を掌 握していた。葛城王朝が全国制覇を夢見るかぎり、それらの国々はまずもって版図に入れなければ ならないところであった。その国々を討ち、目ざましい発展をみせた葛城王朝であったが、この段 階で王朝は崩壊したのである。 葛城王朝と邪馬台国の関係さて、以上のことを念頭において、魏志倭人伝と対比してもらいたい。 「後漢書」・「梁書」・「北史によると、「漢の霊帝の光和中、倭国乱れ、相攻伐して年を歴るー 史 八 ~ 一八三にあたる。この一司」は、邪馬台国によ 0 て北九 のとみえる。光和年間 ( 勅州勢力が一「口されたことを一もある。そして邪馬台国について左のような記事がみえる。 とど もとまた 推其の国、本亦男子を以て王と為し、住まること七八十年なり。倭国乱れ、相攻伐して年を歴る。 279