馬子 - みる会図書館


検索対象: 天皇権の起源
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1. 天皇権の起源

即位するのに不足はなかったが、馬子はためら 0 た。聡明な厩戸皇子が馬子の言に盲従しないで、 崇峻天皇と同じく殺すことになって、世間から誹謗されることをおそれたからであろう。 そこで馬子は何を思ったか、馬子の姪にあたり、敏達后であった額田部皇女を即位させた。これ まで馬子の言うとおりに、手先となって動いた女であった。その彼女が第三十三代の推古天皇であ る。 推古女帝を即位させたことについて、その事情を十分に認識しておかなければならないことがあ る。その一つは、推古以後も幾人かの女帝がみられることから、当時の女性の社会的地位がすぐれ ていたとみてはいけないことである。したがって推古女帝が、賢明な方であったから皇位につけた のではない。 二つには、これまで天皇は男性に限られていた。そをこのとき、あえて女性を即位させたとい うことは、重視しなければならないことである。慣行というものは、よほどのことがないかぎり改 変することのできないものである。その慣行を破って、女帝を立てたということは、何ものにも拘 束されないほど、馬子の権力が絶大であったことを示すものである。 我その後の歴史をみると、皇室を取り巻く権力者によって、皇位は自由にあやつられるようになる。 と藤原氏も然り、さらに幕府将軍も同様であった。それは天皇権の上からみると大きな変革であった 教 仏 が、その渕源は蘇我馬子にはじまるものであった。後の権力者たちは、馬子の先例にならったので 飛ある。というより、馬子の出現を契機として、天皇権は実質的には、皇室外の権力者の掌中に移っ 175

2. 天皇権の起源

横物部守屋の妺であった。 おあねのきみ はっせべ 我天皇を弑する馬子の勢力この事件のあと、馬子の妹の小姉君と欽明天皇の間に生まれた泊瀬部皇 子が、第三十二代の崇峻天皇として即位する。そして馬子ひとりが大臣として任命された。泊瀬部 章 「皇子を皇位につけたのは、誰にはばかることなく、馬子ひとりのカで左右できたのである。 きたしひめ このころ朝廷で権力をもつものとして、敏達后の額田部皇女は馬子の妺の堅塩媛が生んだ娘、用 明后の穴穂部皇女も同じく妹の小姉君の娘、そして崇峻天皇はその弟で、彼らはともに馬子の姪や 甥にあたる。朝廷の実権は完全に、外戚としての馬子に掌握されたのである。それだけに政務のす べては、天皇よりも馬子の発言が決定権をもった。 みつぎ ろばん 崇岐朝元 ( 五八八 ) 年、百済から調を進め、また仏舎利をはじめ多くの僧侶・寺エ・鑢盤博士・瓦 博士・画工などが献上された。これらは馬子の願いによったものであろう。そこで難波に四天王寺、 ほ・つこ・つじ 飛鳥に法興寺の建立がはじめられる。仏法の興隆は馬子の思いのままであった。 しばたっと 他方、最初に尼となった司馬達等の娘の善信尼らを、百済の使者につけて学問尼として遣わした。 さでひこ 同三年に彼女たちは帰国するが、この年に得度した尼として、大伴狭手彦の娘の善徳をはじめ十一 たすな 人の尼の名が「日本書紀」に記されている。さらに司馬達等の子の多須奈、これは現在の飛鳥寺や とり とくさ、 法降寺の仏像を造って有名な鳥の父にあたるが、彼も出家して徳斉法師と名づけた。 また同四年八月には任那復興が計画され、十一月に二万余の軍勢を筑紫まで送られた。このとき 168

3. 天皇権の起源

~ 、らはし る。そこが崇峻天皇の倉梯宮のあったところである。その宮址に比定された地に、今では立派な御 横 の陵がある。宮址に御陵が造営されるはすはよ、、ミ、 ナしカ埋葬地が不明なため、仕方なくその宮址に、明 我治に入って造られたのであった。墳墓の地もわからす、闇から闇に葬られた天皇であった。 馬子の行為はあまりにも残虐であった。しかし馬子をそのように仕向けたのは、多くの甥たちの 章 第中から選んで、皇位につけてや「た崇峻天皇の裏切りが、怒りを爆発させたのであろう。 それにしても、崇峻天皇は伯父の馬子の性格をよく知っていたはずであるし、またその権力のほ ども知りつくしていたのに、なぜ馬子に謀叛しようとしたのであろうか。もちろん馬子が天皇をな いがしろにし、権力をほしいままに振る舞うさまに、耐えられないものがあったであろう。だが、 それは天皇個人の馬子に対する感情だといってよい。そのことよりも、もっと大きな問題、天皇権 そのものにひびく重大な問題から、皇室を守ろうとしたのではなかったかと思う。 そのことを具体的に述べると、崇峻天皇の即位とともに、難波には四天王寺、飛鳥には法興寺が 起工されていた。それは国費を傾けての建立事業であった。しかしそれにあてる巨額な出費よりも、 国家宗教を神祇から仏教に転換しようとする馬子の政策が、天皇権の本質をゆるがすものとして危 惧されたのではなかったかと考えられる。 それまでの天皇権は、神祇祭杞の上において保障されていた。 天神地祇を祭ることが、天皇の基 本的行為であった。馬子が仏法の興隆を計ろうとするだけであればよいが、旧来の神祇を否定して、 仏教を国是とする国体の変革が企図されていたからではなかったかとみられるのである。 170

4. 天皇権の起源

実際、蘇我馬子の出現は、天皇権の歴史の上に、一大転機をもたらしたものであった。さきに皇 位継承の選定権が皇室から失われ、蘇我氏の掌中に入ったことを述べた。さらに神祇から仏教への 国体の転換、それは祭杞制度の根幹をゆるがすものであり、ひいては天皇権のあり方にひびくもの であった。 旧来の神祇を主張して対立した物部氏は滅亡した。その物部氏に加担した中臣氏は、神祇官とし て健在であったが、彼らを中心とする豪族たちの勢力を押さえる方便としても、馬子は仏教を国是 とする国柄に変え、蘇我氏の地位を確固たるものにしようと考えていたのではなかったであろうか。 少なくとも馬子によって、歴史の上に大きな転換期がもたらされようとしていたことは、事実であ ろう。 そうしたことはどこの国でもみられることで、近くの朝鮮でも王殿とならんで寺院が建てられ、 仏教が国教として定められるようになる。したがって、蘇我氏は朝廷の存続を認めはしたが、天皇 権にまさる権力を掌握していたので、その気になれば神柢を棄てて仏教を国是とすることができな いことはなかったはすである。 道あえてそうした行動に出なか「たのは、崇峻天皇を弑したことが直接の原因であ「たと思われる。 へ蘇我馬子は物部氏を討滅して天下の権を握ったとはいえ、まだ年月はあまり経ていなかった。しか 政も皇室を軽視する馬子の横暴から崇峻天皇を弑しただけに、馬子の専横をそしる声は他の豪族たち 蘇の間にひろがったであろう。あるいはそのことが馬子の心を変えさせ、仏教を国教とする方針に歯 171

5. 天皇権の起源

もともと崇仏論争は、欽明朝に百済王から仏像と経論などが献上されたことによった。そのとき 蘇我稲目を崇仏に傾けたのは、蘇我氏の勢力の背景になっていたのが帰化人、殊に百済帰化人であ ったことによる。帰化人と蘇我氏との関係は、馬子のときも同じであった。それだけに馬子の政治 理念には、帰化人からの文化的影響を強く受けていたものとみてよい しかも父の稲目のときと、馬子のときの二回にわたり、物部氏によって堂塔が焼かれ、仏像は難 波の堀江に投げ棄てられた。その怨念は、物部氏を倒した後でも、まだ馬子の心から去ってはいな かったであろう。それだけに神祇を主張した物部氏の滅亡後は、意地でも仏法一辺倒に傾かざるを 得なかったのである。しかも天皇権にまさる権力を馬子は掌握していた。 法興寺の建立は、そうした馬子の意地と執念からであ「た。それだけに前述したように、塔を中 心として三つの金堂を配する大規模な寺院を計画したのであった。この法興寺の建立は、物部守屋 を討滅した直後に発願された。 その翌年の崇峻朝元 ( 五八八 ) 年には、百済から仏舎利と僧六人・寺工二人・露盤博士 ( 塔の相輪製 作者 ) 一人・瓦博士四人・画工一人が献上された。馬子から百済王に対して、彼らの派遣を依頼し 我たものとみてよい。そして彼らによ 0 て、この年から工事が着手され、それは推古朝四 ( 五九六 ) 年 とに完成した。 教 仏 飛蘇我の私寺が国家的寺院になるそのことで付言しておきたいことは、この法興寺の建築の設計が、 181

6. 天皇権の起源

ロポットとして推古女帝を擁立崇峻天皇のあとの皇位継承について、馬子は悩んだ。崇岐天皇を弑 したことが突然の出来事であっただけに、つぎの皇位に蘇我一族の中の誰を選ふべきかについて迷 0 た。ここに「蘇我一族の中」と述べたが、皇位の継承権は馬子ひとりの掌中にあ「たからである。 実際、天皇を誰にするかという決定権、というよりも、天皇家を廃止する権力さえ、時の馬子は 握「ていたのである。馬子が崇峻天皇を弑し、しかもその日に埋葬して、墳墓地を不明にすること ができたのもそのためであ「た。天皇家にとって、最初に訪れた危機であったといえる。 我このとき馬子は天皇の制度を廃し、みすから主権者になろうと思えば、できないことはなか 0 た。 しくつかの理由があったと思われる。 とあえてその行動を起こさなかったのには、、 教 仏 一つには、天皇は国家的立場において神祭りをするという、聖なる人としての天皇の存在価値を、 飛政治的にも社会的にも必要とされていた時代であ「たことである。すなわち統治が、なお古代的宗 三飛鳥仏教と蘇我氏 173

7. 天皇権の起源

は使者を新羅と任那へ遣わしただけで、渡海して攻めるまでには至らなかった。しかしここで知っ ておかなけれはならないことは、任那復興は欽明天皇以来の遺詔ではあるが、新羅や高麗から圧迫 されていた百済救援と、つながりをもつものであるということである。さきに蘇我氏が百済ならび にその帰化人と密接な関係にあることを述べたが、このときの出兵も百済からの請願に対し、蘇我 馬子が裁断したものとみてよかろう。 万事が馬子ひとりの政策によって進められたのである。それだけに馬子の甥にあたる崇峻天皇で あったが、年若いだけに馬子の専横を憎んだ。それが天皇の言葉となって出て、取りかえしのつか ない事件を惹起した。 いず 明くる五年十月、猪を献上するものがあった。天皇はその猪を指して、「何れの時にか、この猪 あねた くびき の頸を断るがごとく、朕が嫌しとおもうところの人を断らん」といわれた。そして皇居に武器を集 められた。そのことが馬子の耳に入った。翌十一月の初め、馬子は東国から調が献上されるといっ やまとのあやのあたいこま わり、その朝儀のときに、東漢直駒に命じて天皇を殺させた。 ーもがり 臣下で天皇を殺したのは、歴史の上でこれがはじめてである。それだけではない。殯もなく、そ 道の日に葬られた。そのことも異例であるが、今もってその埋葬地は不明である。「延喜式』諸陵寮 への項にも、倉梯岡陵とみえながら、「陵地ならびに陵戸なし」と記されている。埋葬地を秘して、 政ひそかに葬られたのである。 ′、らまし 蘇近鉄桜井駅から多武峰へ行く道に、むかしの大和国十市郡、現在の桜井市に倉という集落があ みつぎ 169

8. 天皇権の起源

は破格の賞賜であった。蘇我馬子の専横ぶりを示したものといえる。 元興寺に安置されたその仏像が、わが国で最初に鋳造されたもので、現在の飛鳥寺にある釈迦仏 だとされている。ところが「日本書紀」には、推古朝十四年に仏像が完成し、その日に元興寺に安 置したとあるが、現在の定説では推古朝十七年だとされている。それは奈良朝に書かれて伝写され た「元興寺伽藍縁起并流記資財帳」に、推古朝十七年にあたる己巳四月八日に元興寺に安置したと みえるからである。参考までに付記しておく。 このように法興寺は、国家的最高の寺院として、壮大な伽藍をもって建立された。しかし、もと もと法興寺は、蘇我馬子の請願によって建立されたもので、いわば蘇我氏の私寺であった。それに もかかわらず、官寺のごとく扱われたのである。 これらのことをもってしても、馬子が仏法興隆の中心人物であったことがわかるであろう。一般 には聖徳太子によって、仏法の興隆が行われたように思われているが、実際にはそうではない。聖 徳太子は馬子の庇護のもとに、みずからも篤く仏法に帰依はしたが、真実の推進力となっていたの は馬子であった。 我仏教美術史の分野では、飛鳥時代・白鳳時代・天平時代に時代区分する。いつまでが飛鳥時代で とあるかについては諸説があるが、一般には皇極朝が終わり孝徳朝に入る大化元 ( 六四五 ) 年をもって、 仏飛鳥・白鳳の時代を区分している。したが 0 て飛鳥時代とは、馬子・蝦夷・入鹿にいたる蘇我氏の 飛 政権をほしいままにした時期である。推古朝を中心として展開された飛鳥時代の文化は、蘇我氏の 179

9. 天皇権の起源

三つの金堂をもっ法興寺実際、推古朝の全期にわたって蘇我馬子が君臨した。仏法の興隆も馬子 の意思で、前代につづいて力がそそがれた。物部氏の討滅後に着手された難波の四天王寺と飛鳥の 法興寺も、前者が推古朝元 ( 五九一一 l) 年に、後者が同四年に埈工した。 四天王寺は厩戸皇子の誓願によって建立されたが、法興寺は蘇我氏の氏寺としての性格をもった。 我それだけに両者には規模においても大きな差が認められる。 と四天王寺は南大門・中門・塔・金堂・講堂が縦に一例に並ぶ伽藍配置である。これに対し八年余 教 仏の歳月で建立された法興寺の特徴は、塔を中心にして、東・西・北の三方に金堂があり、それらの 飛金堂は塔の方に向いている。塔と三つの金堂、しかも回廊をめぐらした大規模な法興寺の伽藍配置 ここで述べたいのは右の記事の後段である。すなわち推古女帝は、みずからも蘇我氏の出身だと 馬子の申し出に対しては、何事によらず直ちに聞きとどけたと明言している。馬子はこの二 年後に亡くなり、女帝もさらに二年後に崩御されるので、女帝が馬子の言を退けたのは、右の一件 だけであったとみてよい。それほど馬子の意のままに、推古女帝は動かざるを得なかったのである。 それだけに推古女帝は、皇位につくことを三たびも辞退された。そのため即位されると、厩戸皇 ことごと よろずのまつりごとも 子 ( 聖徳太子 ) を摂政とした。「日本書紀」には「万機を以て悉に委ねたもう」とみえるが、 それは厩戸皇子が男弟王であったことにもよるが、馬子との間に距離をおきたい気持ちもあったで あろ , つ。 177

10. 天皇権の起源

横教観念に規制されていたからである。 の このときから九年のちの推古朝八年の遣隋使が、わが国の政治のあり方を隋の皇帝に述べた内容 我については、第三章一節で紹介しておいたが、それを想起されたいと思う。すなわち天皇は夜の明 まつりごと けないうちに政を聞き、それを神に奉告することがっとめであった。そして実際の政務は、男弟 章 第王がとりしき「ていたのである。そうした立場の天皇の地位に、馬子は魅力を感じなか「たのであ ろう。 二つには、天皇家に蘇我一族の血をうけた者が幾人もあるので、あえて天皇を廃するという冒険 を犯さなくても、彼らの中から天皇を選ぶことができた。それによって、実質的には天下の権を馬 子が掌握することが可能であったからである。 さきに馬子の甥の用明天皇を即位させたときは、大連としての物部氏が健在であった。しかしそ の崩御とともに、物部氏は壊滅した。そして同じく甥の崇峻天皇を皇位につけた。このときまでは、 天皇家の外戚として権威を得ることが、馬子にとっての唯一の願いであったであろう。しかし崇峻 天皇を弑するに至った段階からは、事情が変わったとみてよい。このときこそ天皇家を廃し、みず から主権者となることができた好機であった。しかし馬子は、強いてその行動をとらなかった。 蘇我氏の血をうけた皇子の中で、皇位継承の順位からいうと、用明天皇の子の厩戸皇子 ( 聖徳太 おあねのきみ はしひとのあな 子 ) になるべきであった。厩戸皇子の母も、馬子の妹の小姉君と欽明天皇との間に生まれた部穴 穂部皇女であった。ハ 乂も母も馬子の二人の妺から生まれたものである。皇子の年齢は時に十九歳、 ほべ 174