一万人 - みる会図書館


検索対象: 混浴と日本史
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1. 混浴と日本史

僧尼各一〇〇〇人が出家。 七五二年 ( 天平勝宝四年 ) 、大仏開眼の年だが、聖武天皇の病気快癒を祈って僧九五 〇人、尼五〇人が得度を認められる。 七五七年 ( 天平宝字元年 ) 、聖武天皇の死亡により、八〇〇人が得度を認められる。 しかも、これだけではなかった。左大臣の長屋王は七二九年、藤原一族との対立か ら謀反を企んでいるという疑いをかけられて自害したが、その屋敷跡から出土した木 簡によると、この屋敷内に多くの尼さんがいて日常的に活動していたことが判明した。 またほかの木簡からも仏事を担当する宮廷内の部局は尼によって統括されており、そ の下で多くの尼が働いていたことも分かっている ( 注 5 ) 。とすれば他の有力貴族の屋 敷でも、沢山の尼がいたことが想像されるし、宮廷の他の部署にも尼の担当とされた 役職のあったことも考えるべきだろう。 こうして奈良の街には坊さんと尼さんがあふれかえっていた。その総数は明確でな いものの、少なく見積もって坊さんが一万五〇〇〇人に尼さんが一万人としても、そ の数は二万五〇〇〇人に達する。当時の奈良の人口は約一〇万人と推定されているか ら、僧尼だけでも人口の二割五分という膨大な数だった。 ところが大仏開眼から三〇年後、奈良は廃都となり、首都機能から商店などが長岡 京からさらに平安京へと移って行った。しかも国家仏教を柱として造られた都が放棄

2. 混浴と日本史

か「万人風呂ーと呼ばれ、昭和初期に町 が作製した温泉案内にも「北里万人風一 呂」と記されている。これが混浴の歴史、 ばかりか、日本の歴史にも大きな影響を 与えるできごとの引き金となった〇 「北里万人風呂」に続いて一九二七年、 町に温泉プールの第二号が誕生した。や まだ屋とい、つ温泉旅館を経営していた井 原兄弟が開設したもので、北里の「万人 風呂」に遠慮したのか「千人風呂」と称 した。ただ長さ二五メートル、幅八メ 1 トル、深さ一・五メートルとい、つ本格的 な施設で、当時、水泳の名選手として知 られた高石勝男を招いてプール開きを行一 っている 経営者の井原兄弟には温泉プールのほ かに、もう一つの目論みがあった。それ Ⅱ呂 , 風 を温 豆 ( 「旧小 203 第六章日本の近代化と混浴事情

3. 混浴と日本史

第三章平安朝、風呂と温泉の発展期 〔第 1 節〔湯殿と町湯の始まり 〔第 2 節〕温泉付きの三三か所霊場巡り 第四章湯女の誕生と一万人施浴 〔第 1 節〕湯女の誕生と遊女 〔第 2 節〕「千人施浴」と頼朝の「一万人施浴」 第五章江戸の湯屋と地方の温泉 〔第 1 節〕江戸の銭湯とざくろロ 〔第 2 節〕湯女風呂の誕生と吉原遊郭 115 115 125 108

4. 混浴と日本史

〔第 1 節〔湯女の誕生と遊女 一一九一年 ( 建久二年 ) は源頼朝が鎌倉幕府を開く前年にあたる。つまり平安時代 の貴族文化が実質的に終わりを告げ、武士の時代が幕を開けつつあった。 その年、入浴の風俗の面で画期的なできごとが起こった。有馬温泉 ( 現神戸市 ) に ゅな 「湯女」というサービスガールが登場したのである。その後の銭湯の歴史の大きな柱 となる「湯女」という名の遊女はここからスタートした。と同時に「湯女」を備えた 有馬温泉は遊郭の先駆けでもあったという点で特筆すべきことであった。 そこで有馬温泉の「湯女」について説明する前に、日本の遊女の歴史を簡単に振り 第四章湯女の誕生と一万人施浴 99 第四章湯女の誕生と一万人施浴

5. 混浴と日本史

行きが約五二メートルという世界最大の木造建築であった。この工事のためには国民 一人一人の協力が不可欠というわけで、「一枝の草、ひとっかみの土」を運ぶ運動が 展開され、聖武天皇は自ら「ひとっかみの土」を運んだという。 それだけに七五二年 ( 天平勝宝四年 ) 四月九日に行われた開眼供養は大変なにぎわい だったらしく、五位以上のすべての貴族のほか僧侶だけで一万人が参加して、 「仏法東帰より、斎会の儀、いまだかってかくのごとく盛んなることあらざるなり」 と、『続日本紀』には記されている。仏教が伝わってからこのかた、これほど盛ん だった法会はなかったというわけである。 とすればその後、庶民の参拝や観光旅行が後を絶たなかっただろうと推測される。 奈良の大仏は現在でも世界一だが、これが一三〇〇年前、まだ車も飛行機もテレビも と願、つのが普 なかった時代の世界一である。当時の庶民なら二度はお参りしたいー 通ではないだろうか。ましてや自分たちもその苦労を分かち合った工事である。 ところが『続日本紀』には四月九日以降、開眼供養の主役だった聖武天皇や光明皇 后の名前すら登場しないし、「その後の大仏」についての記述もまったく見当たらな い。大仏が完成する直前に死亡した行基の場合、彼の行くところには常に一〇〇〇人 以上の人が同行し、立ち止まって説教すれば数千人から一万人を越える人々が集まっ たといわれるのに、世界一を誇る奈良の大仏には、たった一人の観光客も立ち寄ろう

6. 混浴と日本史

. 物プ大ま考ルチホ果測 4 東 も , 要ト・第きを : 呂風人高 ( 泉泪原 ) 栃木県・塩原温泉の万人風呂 栃木県・鬼怒川温泉の温泉大ブール 207 第六章日本の近代化と混浴事情

7. 混浴と日本史

どり着けた裏には二つの力が働いていた。一つはそれまでの京都中心の国家観と違っ て、九州から東国までも含めた広大な領域を国家として捉えていたこと。第二点はそ の土地土地に「零細権力者」が乱立する状況下で彼らとの連合と離反を繰り返すには 庶民という実態のない存在の共感を得ることが何よりも求められたのだ。 東大寺の復興に功績のあった重源が、頼朝の政権樹立とともに東大寺勧進職とい、つ 重職に昇進し、上醍醐寺や東大寺の高野新別所、備前国など全国一五か所に大釜や湯 船を設置して「施浴」の普及をはかったこと、奈良時代の光明皇后の「千人施浴」が あしゆく 再評価されたり、忍性という西大寺の僧が光明皇后の故事を慕って、阿闕寺の近くに ハンセン病の病院を建設したことなどは、庶民に追随することの大事さを知っていた 者の動きといえるだろう。 き一よ、つ、刀ノ、、しよ、つ そしてその系譜は時の権力者たちによって着実に受け継がれて行った。『経覚私要 しよ、つ 鈔』や『大乗院寺社雑記』など当時の寺社の記録を見ると、有力貴族や富豪などが行 った施浴が「念仏風呂」「念仏温室」「功徳風呂」「追善風呂」などの名称で次々に登 場する。功徳の精神がなくては自分の権力の基盤も危ういことに、彼らも気がついた のであろう。 ちなみに有馬温泉に湯女が誕生したのは一一九一年で、頼朝が「一万人施浴」を実 施したのはその翌年の一一九二年である。しかもその発端は、いずれも奈良時代の 113 第四章湯女の誕生と一万人施浴

8. 混浴と日本史

三月一三日、後白河法皇が崩御。その知ら せを受けた頼朝は、同月一九日の初七日に 追善の大法要を営むとともに、その日から 鎌倉山内の浴室で一〇〇日間の施浴を実施 した。施浴の趣旨を記した立て札を各所に 立て、往来の諸人、土地の者を一日一〇〇 人ずつ、一〇〇日間にわたって入浴させる というもので、その世話係として奉行まで 置いたほどであった。 頼朝が東大寺の復興と後白河法皇の追善 のために実施した施浴は、平家がないがし ろにした国家的な遺産を守るという、権力 奪取の分かりやすい大義名分となったはず だし、「往来の諸人、土地の者」を一万人 も入浴させるという慈善活動も人気取りの政策としてはかっこうのものであった。 と同時にそれが必要不可欠の施策であることを頼朝は知っていたのではないかとも 想像される。なぜなら武家という貴族からは下男扱いされるような男が権力の座にた 光明皇后の「千人施浴」のエピソード 112

9. 混浴と日本史

ゅあみ 川の辺に薬湯あり。一たび浴すれば みやはら すなはち身体穆平ぎ、再び濯げばすな わち万の病消除ゅ。男も女も老いたる わか も少きも、昼も夜も息まず、駱駅なり 往来ふ。験を得ずといふことなし。故 くにひとなづ れ、俗人号けて薬湯と云ふ。 ( 川の辺に薬湯がある。一たび入浴す ればただちに体はゆったりとし、ふた たび湯にはいるとただちにあらゆる病 気が消え去ってしまう。男も女も老人 も子どもも、昼も夜もとぎれることな く、行列して行き来する。効き目がな かったとい、つことかない。だから、土 地の人は名づけて薬湯といっている ) とある。こちらは湯村髓泉 ( 島根県雲 南市 ) を指しているという。玉造も湯村 や →第ご、・ = 、 3 を第診こ 1 島根県・玉造温泉 ( 大正時代 )

10. 混浴と日本史

前が貴族や高級僧侶たちのサロンの創始 者として名を残すことは誇りだったと思 われる ( 注 1 ) 。要するに湯女制度は衰退 した有馬温泉の復興策どころか、さらな る繁栄を確立するためのアイディアだっ たのである。 このアイディアがク卓抜クだったのは 奈良時代の「功徳湯」を巧妙な形でパク ったことである。「功徳湯」は東大寺や 興福寺などの大寺院で実施された純然た る宗教活動だったが、有馬温泉では全体 が仏教施設である「とを強調するために、 行基が開創し、温泉の氏神的な存在とさ れていた温泉寺を有馬温泉寺と改称し、 それまでの旅宿は有馬温泉寺の傘下にあ る施設という意味で宿坊と呼ばれること になった。そして東大寺や興福寺などの トみィ、トド 心・。砿第気、イ 第式ぎを す一第等外よ 一ラク 有馬温泉寺 ( 「摂津名所図会」より ) 105 第四章湯女の誕生と一万人施浴