天皇 - みる会図書館


検索対象: 混浴と日本史
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1. 混浴と日本史

六日間だけ伊勢神宮に出かけたが、 前日には川や海で禊ぎを行う習わしだった。その ほか京都へ帰る時も、大阪に寄り道して海で禊ぎを行うなど、斎王とは禊ぎの専門職 といえるほどであり、斎宮とは禊ぎを儀式として制度化したものといっていいようだ。 とよすきいりひめ 斎宮制度の創始者は天武天皇ではなく崇神天皇であった。同天皇が皇女の豊鋤入姫 おおくのひめみこ を伊勢へ送ったことから始まり、それが六七三年、天武天皇が大来皇女を斎王として 派遣して以来、制度として確立されたのである。 ただし「確立された」という一言葉には、 かなりややこしい意味が含まれる。先ず天 武天皇個人としては壬申の乱 ( 六七二年ばっ発 ) のお礼という直接的な理由があった。 天武天皇はもともと天智天皇の弟で大海人皇子といった。天智天皇亡き後には皇太子 の大友皇子が皇位に就くはずであったが、大海人皇子は甥の大友皇子に叛旗をひるが えして勝利したもので、その勝利のためには伊勢地方など、地方豪族の支持を得たこ とが大きな要因となった。これが壬申の乱で、そのお礼に皇女を派遣したというわけ である。 とすれば、伊勢地方には相当な軍事勢力が存在していたことが想像される。榎村や 直木孝次郎によると、伊勢神宮は東国支配を意識して造られたところだというから、 当時の伊勢神宮界わいには、皇室の勢力図からすれば傍流に属する集団がいたと思わ れ、この反乱で天武天皇は彼らの支援を受けたらしいのである。

2. 混浴と日本史

天武天皇の施策の中で、現代に至るまで皇室のあり方を方向付けたものに大嘗祭が ある。大嘗祭は天皇が即位した際に行う儀式として皇極天皇 ( 在位六四二、・六四五年 ) ゅうき すき の頃に制定されたようだが、 その儀式の基本となる悠紀や主基と、その役割などは天 武天皇の代に設定されたものという。ちなみに悠紀や主基とは大嘗祭に用いる米や栗 などを収穫する田んばや、酒、魚などを進上する地方を指し、それらを収蔵したり味 わうことも悠紀や主基なら、そのための神殿も悠紀殿や主基殿と呼ばれた。この悠紀 という一言葉がお湯の「湯」の語源となったという説がある。その点については後にく わしく触れる。 一方、混浴の変遷史という面から、天武天皇を抜きには語れないのが斎宮制度であ る。禊ぎは前に指摘したように水あびの一種だが、 今では宗教的な意味を持っ荘厳な もののように見なされている。そのイメージが創られたのがこの天皇の治世に確立さ れた斎宮制度で、それまでは単なる水あびだったものが「国民に分かりやすい儀式」 として再構築されたのである。 斎宮は天皇が代わるたびに天皇の内親王や女王の中から選ばれた。「さいぐう」も しくは「いっきのみや」と呼ばれ、斎王と呼ばれることも多い。伊勢神宮から十数キ ロ離れたところに長官以下、女官、将兵など五〇〇人の役人が常駐する斎宮寮が設け られ、斎王もそこで数年から長い場合は数十年を過ごした。『国史大辞典』の説明で

3. 混浴と日本史

例外が男女の関係で、これには先例とすべき決まりがなかったから、男たちは女を口 説く時だけ本気になれたようである。華やかな王朝文化も、一皮むけば「日本的」と いう名目の因襲に覆い尽くされた反動という側面も大いに影響していたというわけで ある。 なお平安時代の和風化という点では、ほかにも注目すべき点がいくつかある。その 一つがファーストレディーの問題である。平安時代には天皇の皇后すなわちファース トレディーが藤原一族から選ばれたことはよく知られている。皇后という第一夫人で はないにしろ女御、更衣などの名称で側室として迎えられ、一族の勢力拡張に貢献し その始まりは奈良時代で、藤原一族の総帥である藤原不比等が娘の宮子を文武天皇 の皇后とし、二人の間に聖武天皇が生まれると、宮子の妹の光明子を聖武天皇の皇后 として送り込んだ。これが勢力拡大を目論んだのか、百済一族の勢力を内側から排除 しようとしたのかは不明だが、朝廷から排除されることを恐れた百済一族は光仁天皇 たかのにいが の側妾として高野新笠を送り込んだ。新笠は身分の低い女性だったが百済王族の末裔 ということで選ばれたのである。彼女は後の桓武天皇を出産、桓武天皇は百済教法、 教仁、貞香、永継などの一族を宮人 ( 高級女官 ) という名の側室とした。さらに平安 寺代に入っても、桓武天皇の第二皇子である嵯峨天皇が百済貴命、慶命などを女御と

4. 混浴と日本史

の梅を愛でることがもっともファッショナプルとされ、「梅花の宴」と呼ばれる会が ししんでん 盛んだったが、内裏の紫宸殿の前庭にあった橘と梅が「左近の桜、右近の橘ーという 組み合わせに変更され、それをきっかけに桜プームが起きたのである。 入浴の風習の和風化もこの時代の大きな特徴のひとつであった。 入浴することが、なぜ和風化なのか。前章で、奈良時代には大寺院の湯屋が浴室や 温室などと呼ばれていたことを紹介した。入浴の風習はインド仏教の教えが中国を経 由して持ち込まれたものであり、温室、浴室という一言葉も中国語に翻訳された仏教用 語か日本に移入されたものであった。しかし平安京には天皇の入浴の便に応じるため に最初から御湯殿が設けられていた。平安京の内裏の図 ( 次ページ ) を見ると、清凉 殿のすぐ上に天皇が就寝する夜御殿があり、その斜め上に御湯殿と御湯殿上の間が並 んでいる。御湯殿上の間とは湯殿で天皇の世話をする女官たちの控室である。つまり 平安京では最初から湯殿が設置されていたのである。しかも新村出の『言葉の歴史』 によると、湯殿という名称は日本で新しく造られた言葉だったという。 後醍醐天皇 ( 在位一三一八、・一三三九年 ) 撰といわれる『日中行事』には、天皇が入浴 する際の手順が採録されている。後醍醐天皇は鎌倉時代の人だが、手続きは平安時代 も大差なかったはすである。それによると辰の時 ( 午前七 5 九時 ) に主殿寮 ( 宮内省の役 人 ) が釜殿で湯をわかし、お湯殿に運んでくると、洗濯などを行うすましと呼ばれる 75 第三章平安朝、風呂と温泉の発展期

5. 混浴と日本史

九、一二月の一六、一七日、伊勢神宮の三節祭と呼ばれる時である。一六日は外宮、 一七日は内宮に参拝することになっており、その朝早く、神宮近くの宮川で禊ぎを行 ったあと斎王候殿というところに入った。そこで何をするかといえば何もしなかった。 ただ座っているだけで、本当に何もしないのである。いってみれば年にたった六日間、 神宮の中にじっと座っているだけのために五〇〇人からなる役所が設けられていたの であった。そしてそのことが同じく天皇一族に属するにもかかわらず、その天皇すら 手出しができなかった人々の存在を感じさせるのである。 もっとも斎王のそういう役割は天武天皇の国造りにとって、思わぬ効果ももたらし た。斎宮制度は崇神天皇の時代から行われていたが、約五〇人の女官を含む一行がき らびやかに着飾って行列するという光景は天武天皇によって創始されたものであった。 ところが戦争で軍勢が移動する場合のほか、大勢の人々の行列を見たことがなかった 庶民の間で、これが大きな関心を呼んだのである。その結果「斎宮群行」と呼ばれて 華やかなものの代名詞となり、途中何度かの中断を含みながら、六〇〇年以上にわた って継続されることになったのである ( 注 1 ) 。 こうして国家が成立した際に権力の基盤となった禊ぎが、皇室行事における基本的 な営みの一つとして定着することになったのである。

6. 混浴と日本史

み」、「游沐」なら「かはあみ」と変化している。 「沐」という字が崇神天皇の項で初めて使われていること、しかも『日本書紀』にあ る六回の使用例中四回が同天皇の項に集中していることからして、崇神天皇の時代に は「ゆかはあみ」あるいは「かはあみ」の問題が大きな意味を占めていたらしいこと が想像される。前節で禊ぎを儀式化した斎宮制度は崇神天皇に始まると述べたが、そ れもこのことと関わる ( 注 2 ) 。ただ資料不足から、これ以上は踏み込むことができな ゝ 0 ところが『公衆浴場史』はこの記述に続いて、意外な話を紹介している。『広辞 苑』の編さんで知られる国語学者の新村出が一九四三年に発表した「風呂雑考」 ( 『一一一一口 葉の歴史』所収 ) という読み物で、次のように記しているのである。 「ユといふ語源は、斎の意味である。潔斎の意味なのである。この斎忌の意からして、 皇室の重大な祭事たる大嘗祭の悠紀が出てくる。この語は『日本書紀』の天武天皇五 年の条には、真仮名をあてないで、斎忌といふ正訓文字を使って、これを踰既と読む のだと註してあるのが、文献上の初出である」 新村によれば大嘗祭の悠紀とは斎忌であり、「斎とい字は潔斎の意味から始まる」 こ、つも続けている というのである。新村はさらに、 「クユキのクキクは城の意とも酒の意ともいわれて定説がないが、クュクについては ユキ

7. 混浴と日本史

である。その疑問をさらに押し進めたのが郷土史家である春木一夫氏の『兵庫史の 謎』で、それによるとこの間に湯治にきた有名人には白河法皇や後白河上皇のほかに、 建春門院 ( 後白河上皇がもっとも愛したといわれる女性 ) や権大納言で、後堀河天皇の外戚 にあたる藤原兼良、さらに当代を代表する歌人で、『新古今和歌集』の撰者として知 られる藤原俊成などもいたとして、田中の疑問を後押ししている。 とすれば仁西上人とは実在の人物なのか、彼が一一九一年に湯女という画期的なア イディアを思いついたとい、つのは、どの程度の信憑性を持っているかが問題となるが、 春木氏の著書で、もっとも興味深いのはその疑問を追跡した部分である。春木氏の郷 土史仲間の研究も含めて、その結論を要約させてもらうと、大和国吉野郡には福原寺 というお寺があり、仁西上人が再興したと記述された資料はあるが、高原寺というお 寺はないし、仁西上人に関する資料もほかにまったく見当たらないという。ただし福 原寺は吉野木地師の本場で、有馬地方には昔から吉野木地師が進出していたし、彼ら の技倆がすぐれていたことは、「東寺百合文書」に京都・東寺の修造を受け持った一 三八一年 ( 康暦三年 ) 二月と一四一三年 ( 応永二〇年 ) の五月と七月の活躍ぶりが記載 されていることからもうかがわれる。これらのことを総合して見ると、地元で湯女の 制度を導入しようという機運が高まった時、吉野木地師の間で語られていた上人の名 前が利用されたのではないかと想像される。木地師たちにとっても、故郷の名士の名 104

8. 混浴と日本史

『日本書紀』には寺四六か所、僧八一六人、尼五六九人の計一三八五人と記録されて いる。この数字からすると尼さんの数は想像以上に多かったことがうかがわれる。 僧尼の大量生産をはかったのは、斎宮制度を創始した天武天皇である。同天皇は六 七 , ハ年 ( 天武天皇五年 ) 、僧尼二四〇〇人余を集めて大規模な設斎を催した。さらに六 八六年 ( 朱鳥元年 ) 八月二日には天武天皇の病気平癒のため、僧尼合わせて一〇〇人 の得度が認められるなど、僧尼の大量生産おこなった。 天武天皇という人物は斎宮制度を民衆の楽しみとして定着させ、それによって禊ぎ の神秘性を演出したように、二四〇〇人という大量の僧尼を集めて開催した設斎は、 国家仏教を庶民に印象づけるデモンストレーションとしてきわめて効果的であったこ とが想像される。その結果、七〇〇年代に入ると新しい僧尼作りのスピードはさらに 加速される。この点を年表風にまとめて見ると、 七二一年 ( 養老五年 ) 、浄行の男女一〇〇人を選び、出家させることが決められる。 こくぶんにじ 七四一年 ( 天平一三年 ) 、聖武天皇によって全国に国分寺、国分尼寺を建立する一、と が定められ、国分尼寺は通称法華寺とか法花寺と呼ばれた。国分寺の僧は定員が一一〇 人、尼寺の尼は一〇人とされた。 七四五年 ( 天平一七年 ) 九月、聖武天皇の病気平癒のため三八〇〇人の僧尼が出家。 七四八年 ( 天平二〇年 ) 一二月、亡くなった元正太上天皇の鎮魂のためという名目で、 69 第二章国家仏教と廃都の混浴

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れていた。歌垣における歌の掛け合いは和歌という日本独特の芸術に昇華されたし、 むつがた 性的な要素については男女の交接の様子を描いた奈良県川西町の六県神社の「御田植 祭」がすでに平安時代以前から始まっていた。また愛知県小牧市の田県神社の「への こ祭り」や佐渡の「つぶろさし」のように、「風流」と呼ばれる郷土芸能の中で性的 な部分を強調した祭りも誕生して行った。さらに「雑魚寝」という即物的な性の習俗 も各地で生まれた。これらは踏歌節会や田植え祭りなど、歌垣をきれいごとの枠内に 収めようとする権力者への庶民の意地の表れと見ることができる。 ところで話は変わるが、飛鳥浄御原令の編さんを命じて律令国家への方向付けを行 ったのは、持統天皇の前の天武天皇である。天武天皇は在位六七三年から六八六年、 日本の国造りを軌道に乗せた点で、大きな業績を残した人物であった。 こんこ、つみよ、つ医」よ、つにんの、つきよ、つ 天武天皇は仏教に熱心で、中でも金光明経、仁王経という二つの経典を重視してい たが、両経典は鎮護国家の功徳を説いているところから「護国教典」と呼ばれた。例 えば金光明経の四天王品には、国王がこの教典を重視すれば、四天王がその国王の統 治する国土を守護すると説かれている。要するに「国王がこのお経を奉すれば、その 地位は安泰ですよ」というわけである。奈良の大仏を造ったことで知られる聖武天皇 の時代になると、全国に国分寺が造られ、七重塔の中に天皇直筆の金光明最勝王経 ( 金光明経の同本異訳 ) が納められたが、これはその教えを具体化したものであった。 45 第二章国家仏教と廃都の混浴

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を加えるとざっと三〇〇万人、当時の国民の二人に一人が動員された。しかもこのエ 事と並行して奈良の大仏の立案者で、大仏開眼後まもなく亡くなった聖武天皇 ( 七五 六年死亡 ) を供養するため、光明皇后は東大寺と同等の規模を誇る新薬師寺の建立を 計画、庶民はそちらにも駆り出されたのである。これだけ多くの人々が行き倒れにな る恐れがあったとしたら、当時の庶民はどのような思いを抱いただろうか 「功徳湯」はそういう条件下での民衆サービスだった。「人気沸騰」とは行かないの も当然というべきだろう。大湯屋がいっ頃できたかなど基本的な事項が曖味なのも、 仏教のそういうあり方と関わりがあるように田 5 われる。 〔第 3 節〕廃都の混浴 七八一年 ( 天応元年 ) 、光仁天皇が退位して桓武天皇が即位すると、最初に決められ たのが平城京や東大寺などを放棄して、新しい都を造ることであった。これが長岡京 遷都といわれるもので、三年後の七八四年 ( 延暦三年 ) に実現した。ところがそれか ら九年後の七九三年 ( 延暦一二年 ) 一月、桓武天皇は再び遷都を宣一一一只京都に平安京が 誕生することになった。桓武天皇は後に述べるように ( 第三章第 1 節 ) 、母親が百済一 族の中でも身分の低い女性であったために、当初は皇族としてさへ認められなかった