〔第 1 節〕『出雲風上記』の混浴と歌垣 日本における混浴の記録は『常陸風土記』に始まるとされている。『常陸風土記』 は七二一年 ( 養老五年 ) に成立したものだが、その中には旧比浴に関する記述が二か所 見られる。ただし、それから一二年後の七三三年 ( 天平五年 ) に成立した『出雲風土 記』に比べて、混浴に関する同書の表現はかなり分かりにくい。そこで当時の混浴の 0 様子をはっきりさせるため、ここでは『出雲風土記』の記述から紹介する 『出雲風土記』の中にも混浴に関する記述は二か所見られる。一つは忌部の神戸の条 にあるもので、植垣節也校注の『風土記』 ( 新編日本古典文学全集 ) では次のように記さ 第一章混浴、歌垣と禊ぎ
である。 〔第 2 節〕『常陸風土記』と東国の世界 「風土記」は日本初の地方誌であり、出雲、常陸、播磨、肥前、豊後の五つの風土記 ( 『出雲風土記』だけが完本、あとは後世の写本 ) が残っているほか、一部だけ伝えられたも のが「逸文」と呼ばれている。「風土記」編さんの命令が出されたのは七一三年 ( 和 銅一六年 ) で、成立の年月日については「播磨」が七一五年 ( 霊亀元年 ) 頃、「常陸」は 七二一年 ( 養老五年 ) 、そして「出雲」と「豊後」が同じ七三三年 ( 天平五年 ) 頃といわ れている。ちなみに『古事記」が成立したのは七一二年 ( 和銅五年 ) 、『日本書紀』は 七二〇年 ( 養老四年 ) 、『万葉集』は七五九年 ( 天平宝字三年 ) だから、この頃、さまざ まな形で「この国の歴史を残そう」という機運が盛り上がっていたことが想像される。 「風土記」は地方の博物誌であるから地理的な説明、歴史的なエピソードや特産品、 名所名物などが網羅的に拾い出されているが、その博物誌に混浴や歌垣についての記 述が見られることは、それらが地元を象徴する風習と見なされていたわけである。 その中で『常陸風土記』には混浴の記録が二か所、歌垣 ( 燿歌 ) は三か所が残され なめがた ている ( 注 1 ) 。混浴の第一は水木 ( 現日立市 ) の条、もう一つは行方 ( 現麻生町 ) の大 25 第一章混浴、歌垣と禊ぎ
はじめに 第一章混浴、歌垣と禊ぎ 〔第 1 節〕『出雲風土記』の混浴と歌垣 〔第 2 節〕『常陸風土記』と東国の世界 〔第 3 節、イザナギ命の禊ぎと歌垣 〔第 4 節〔東南アジアの歌垣 第二章国家仏教と廃都の混浴 〔第 1 節〕国家仏教と「湯ーの語源 〔第 2 節〔奈良の大仏と「功徳湯」 〔第 3 節〕廃都の混浴 25 20
秋本吉郎校注の「風土記』 ( 『日本古典文学大系」第二巻、岩波書店 ) によると、ここで 坂とあるのは神奈川県足柄峠を指すという。足柄峠から筑波山までは直線距離にして やまとたける 二〇〇キロ、歩けば三〇〇キロくらいあるが、日本武尊が東国征伐を実施した頃は、 「足柄峠から東ーが東国、すなわち反朝廷派の勢力圏とされていた。この歌垣は反朝 廷派諸国の交歓の場だったことを表しているのである。 では、その歌はどういうものか。『常陸風土記』には男性が歌った歌が二首採録さ れている。 筑波嶺に逢はむと言ひし子は誰が言聞けばか嶺逢はずけむ ( 筑波山の歌垣で逢おうと約束した娘は、誰に口説かれて神の山で遊んでいるのだ ろう ) 筑波嶺に廬りて妻なしに我が寝む夜ろははやも明けぬかも ( 筑波山の歌垣で泊まりに来たのに、女性なしで一人で寝るのでは、夜も早く明け るだろう ) ・ 二首とも振られた男の嘆きを詠んだ歌だが、どこかューモラスで、悲痛さを感じさ
だてしないでほしい ) この歌はあきらかに現代の夫婦交換、スワッピングを表している。この日ばかりは 結婚した男女も、相手を替えて性を楽しもうとしたのである。それは現代以上に成熟 した性の世界であったといえるかも知れない。 〔第 3 節〕イザナギ命の禊ぎと歌垣 ところで『出雲風土記』や『常陸風土記』などに湯あみや水あみが混浴や歌垣 ( 歌 ) という形で記録されていた頃、正史とされる『古事記』や『日本書紀』では違っ た形の水あみが記載されていた。 『古事記』と『日本書紀』では記述の仕方や内容にいくらかの違いがあるので、ここ では『日本書紀』にそって話を進めるが、黄泉の国から逃げ帰ったイザナギノ命は みそ 「何とも醜い、汚れた国に行ったものだ。禊ぎをして身体の汚れを洗い浄めよう」と ひゅ、つが をどのたちばなあはきはら いって、日向 ( 宮崎県 ) の小門橘檍原というところで禊ぎをしたという。この禊ぎ やそまがつひのかみかみなはびのかみおおなほびのかみそこつわたつみのみことそこつつのをのみことなかつわたつみのみこと によって八十枉津日神、神直日神、大直日神、底津少童命、底筒男命、中津少童命、 なかつつのをのみことうわっわたつみのみことうわっつのをのみこと 中筒男命、表津少童命、表筒男命の九人の神を生み、さらに左目を洗って天照大神、
図版多数 猥ら なのか、 おおらか なのか、 何故か頃 ほこ第ふ 温泉列島・日本に花開いた 混浴文化。常陸風土記にも 記され長い歴史をもち、と きに権力から弾圧されなが らも、庶民の日常生活の一 風景となっていた。いつぼう で、宗教や売春の歴史とも かかわる面を持っていたのも 事実である。明治維新後、 西欧文明の波が押し寄せ不 道徳とされながらも、消え ずに残った混浴。混浴が照 引し出す、日本人の心性に 大胆に迫るー 日本列島に 花開いた独自文化 混浴について 初めての通史 ! 書下ろし図版多数 筑摩書房 定価 ( 本体価格 1900 円十税 ) 小説、工ッセイと本の情報を満載の月刊第 ちくま お申し込みは小社サーヒスセンタ - へ ー E し 048-651 ・ 0053 FAX. 048-666-4648 ー Ⅳ必て ( 毎週金曜日更新 筑摩書房の web マガジン 混浴と日本史 筑摩書房
せない。それだけ歌垣というセレモニーが定着していたことがうかがわれる。 筑波山の歌垣は『万葉集』でも取り上げられているが、こちらは『常陸風土記』と す は別の意味でオープンである。すなわち「筑波嶺に登りて歌会を為る日に作る歌一↓ 首」として、こう歌われている。 鷲の住む筑波の山の裳羽服津のその津の上にあともひて娘壮士行 4- 一 , 「 , を き集ひかがう燿歌に人妻に我も交はらむ我が妻に人も言問 ( 一山の ) 0 ル一を ) うしはく神の ( / 昔より禁めぬ行 ネ蓍の蓙、ん乃住市第 3 心キへ与さ一 ぞ今日のみはめぐしもな見 そ言も咎むな ( 鷲の住む筑波山の女陰を思わせ 」羽る水辺で行われた歌に、乙女や も裳 男たちが誘いあって参加した。私 わ 行 も人妻に交わろう。他の人もわが 歌妻を誘ってほしい。この山を支配 で する神もいさめぬ行事であり、今 山 波 日ばかりは見苦しいといって咎め 筑 29 第一章混浴、歌垣と禊ぎ
この国に、もう一つの混浴として歌垣が伝えられたのである。 水あみによる若い男女の歌垣は、温泉での混浴が定着している日本でも受け入れや すいものであり、それが稲という新しい食糧確保の手段とすれば、さらに模倣したい 習俗だったはすである。こうして普通の混浴と、歌垣という二つの混浴の形が一、の国 に定着することになったのであった。 『国史大辞典』によれば、縄文時代の終わりには九州の人口は全体で六三〇〇人くら いっきょに一〇万五〇〇〇人を突 いと推定されるという。それが弥生時代になると、 破した。そのほとんどは半島から渡来人だったと思われる。 ( 注 1 ) 『常陸風土記』には鹿島神宮の四月十日の行事として「年ごとの四月十日に、祭を設けて酒飲みす。 やから ト氏 ( 神宮の神官 ) の種属、男も女も集ひて、日を積み夜を累ねて、酒を飲み楽しみ歌ひ舞ふ」という記述 も見えている。「日を積み夜を累ねて、酒を飲み楽しみ歌ひ舞ふ」という表現は明らかに歌を表しているが、 ここでは燿歌としての特徴に欠けるので取り上げないこととした。 ( 注 2 ) この風習は遣唐使の無事を祈願した祭りの名残との説もある。 ( 注 3 ) 藤森栄一「古き信濃の湯」 ( 藤森栄一全集・第 4 巻 ) 、川合勇太郎『草津温泉史話』、『愛媛県の地 名』 ( 日本歴史地名大系・第巻 ) 41 第一章混浴、歌垣と禊ぎ
もともに混浴の客が行列をなしている上、玉造温泉の場合、客が多くて市が立っとい うのだから、そのにぎわいが想像されるし、『出雲風土記』が編さんされた頃には昆 浴が庶民の娯楽として、すでに定着していたこともうかがわれる。玉造温泉は現在、 美肌効果のあるところとして知られているが、「ひとたび湯を浴びればただちに端正 : 」とうたわれているところからすると、その効能は一三〇〇年 な美しい体になり : 前にはすでに知れ渡っていたようである。 ゅあみ ところで温泉で湯を浴びるから「沐」であり、 ここでは混谷のことも同じよ、つに呼ばれているか 水辺や海辺、泉のほとりでの水浴びば、古代には 川あみと呼ばれた。『出雲風土記』には川あみの さ一はら おほみしみづ 記録も二つ見えている。「邑美の冷水」と「前原 さ、さ の埼」の二か所がそれで、「邑美の冷水ーは現在 の松江市大井町の大海崎にあたり、 ( 東と西と北は山に囲まれ、みなけわしい。南 の海は広々として、中央に潟があり、泉の水が たいへんきれいだ。男も女も老人も子どもも、 島根県松江市・邑美の冷水 かわ 23 第一章混浴、歌垣と禊ぎ
いられたことは容易に想像がつくし、それから材料を探して : : : などの時間を想像す ると、器一個作るだけでも、一年や二年はたちまち過ぎ去ってしまうはずである。 それにもかかわらす、彼らは ( 想像の上では ) 渡来したその日からこの地に受け入れ られ、同化していったように感じられる。とすれば何がそのことを可能にさせたのか それを知る手がかりが温泉の歴史である。温泉の中には長野県の諏訪温泉や群馬県 の草津温泉、あるいは松山市の道後温泉のように縄文時代から湧き出ており、しかも 当時の住民によって活用されていたことが確認されているところがある。諏訪温泉の 場合、諏訪湖東岸から約六〇〇〇年前の縄文前期の土器が発見され、集落跡から岩石 に囲まれた温泉の跡が掘り出されたのである。同じように草津温泉の泉源近くでは縄 やじり 文土器や石の鏃や動物の骨で作った道具が発見され、縄文時代から温泉を中心として 生活を営んでいたことが確認された。さらに道後温泉の場合も温泉に隣接する湯神社 に至る階段から縄文土器や弥生式土器が発見され、この地の人々が約三〇〇〇年前か ら途切れることなく温泉に親しんでいたことが確認された ( 注 3 ) 。 一方、別府温泉の場合、『豊後国風土記』や『万葉集』に血の池地獄にあたる「赤 かんなわ 湯の泉」や、鉄輪温泉の地獄地帯にあたる「玖倍理湯の井」などの記述が見られるが、 考古学的にそれ以前まで逆のばる材料は見当たらない。しかし『伊予国風土記』逸文 おおくにぬしのみこと には、大国主命が大分の鶴見岳の山麓から湧く「速見の湯」 ( 別府温泉 ) を海底に管を 39 第一章混浴、歌垣と禊ぎ