清水坂 - みる会図書館


検索対象: 混浴と日本史
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1. 混浴と日本史

ったという意味である。西林寺というお寺は現在も上京区の上御霊神社の近くにあり、 平安遷都の直後、奈良の西大寺の慶俊僧都が桓武天皇の命により開いたと伝えられて いる。この記述から推測すると、清水坂温室は西林寺の経営する湯屋だが、お寺から は距離のある清水坂にあったことが推測される。 この記事がどうして弱者に対する慈善活動を意味するかといえば、清水坂は延暦年 ( 七八二 5 八〇六年 ) に清水寺が創建されてから開かれ、参詣人に物乞いをする者、 坂の者と呼ばれる非人、さらにハンセン病者などの集まるところとなった。『建久御 巡礼記』にも「清水坂を根城にしている浮浪者」と記述されているが、彼らが京都か ら奈良まで物乞いに出かけるというケースもしばしばあったらしく、一二二四年 ( 貞 応四年 ) 三月二五日には清水坂で、大和奈良坂の非人と、清水坂の非人との合戦が発 生、一二四四年 ( 寛元二年 ) には両者の生業の権利などを巡るトラブルから清水坂が 焼き討ちにあったこともある。 きっき なお清水坂温室の名前は吉田神社の神職を務めた吉田経房の日記『吉記』にも登場 する。 「一一八四年 ( 元暦元年 ) 一一月一〇日、清水坂温室で、入浴の恩恵のない刑獄の囚 人に施浴が行われた」 というもので、こちらでは施浴料も施主も触れられていないが、善行を積みたいと 110

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考えた誰かが、清水坂温室で囚人に対する施浴を実施したというのであろう。そして この記述から清水坂には刑獄が設置されていたこともわかる。こういう背景もあって、 貴族や富裕な人々が極楽往生を願って清水坂で慈善救済を行うことはしばしば見られ た。施浴もその一環だったのである。新しい支配層として台頭してきた武士たちは、 先例にすがりつくことで地位を保持している割には庶民への軽蔑が露わだった王朝人 に比べて、部下や領民に対する気遣いや親密度がはるかに勝っていたのである。 このような施浴が流行したのはなぜか。その背景には武家という「零細権力者」が 乱立していたことが上げられる。彼らは剣のカこそ持っているものの、貴族など当時 の権力者との比較でいえば、地方で孤立した存在であり、庶民階級からようやく脱し たものの、周囲との ( すなわち庶民との ) 共感の中で生きてきたのであり、共感なしに は勢力を伸ばすこともあり得なかった。 この点は武家権力を最初に確立した頼朝の場合も同様である。彼は東国に勢力を築 いた河内源氏の直系で、一一五六年の保元の乱で、平清盛と共に後白河天皇に従った ことから宮廷で認められた。ただし長兄の義平は無官のまま、次兄の朝長の出世も超 スローモーなど、朝廷からはほとんど下僕扱いされていたような感じさえ受ける。 ところが一一八〇年 ( 治承四年 ) 一二月、平重衡が東大寺を焼失させると、頼朝は ただちに黄金や物資を寄進して僧重源に再興を命じた。また一一九二年 ( 建久三年 ) 111 第四章湯女の誕生と一万人施浴

3. 混浴と日本史

勢地方の豪族であった藤原実重の場合、対象が伊勢神宮や熊野権現などへも及んだ。 五来重の『熊野詣で』によれば、藤原実重は一二二四年 ( 貞応三年 ) から一二四一年 さんろ、つ ( 仁治二年 ) まで、しばしば野権現へ参籠し熊野道者のために千日の湯施行 ( 千日の無 料入浴の功徳行 ) を行ったという。さらに伊勢神宮や熊野権現、多賀神社 ( 滋賀県 ) に は米穀を献上し続けていた。 個人か積善のために行う施浴には、個人の屋敷の浴室で実施する場合と、寺院に費 用を納めて湯をわかしてもらう場合、湯屋を借りて自ら風呂を立て、有縁無縁の人々 に入ってもらうケースがあった。武田勝蔵『風呂と湯の話』によれば、いすれの場合 にも浴室や湯屋に棚を設け、回向される故人の位牌が安置されており、入浴する者は 入浴前後に礼拝して故人の冥福を弔うのが慣しとされていたという。 個人が行った施浴の例として、この頃にはいわゆる非人や現代でいえばホームレス など、社会的弱者に対する慈善活動としての施浴も目立つようになった。ボランティ アという精神は、社会においてこの頃から芽生えてきたようである。たとえば公家の 平信範の日記『兵範記』の一一六 , ハ年 ( 仁安元年 ) 九月一日の条に、 「朝、西林寺に詣り御経供養 : : : 清水坂温室料三石同前」 とあるのも、その一例である。日記の筆者の平信範が西林寺でお経による先祖の供 養を行い、同時に清水坂温室で施浴をしてもらう料金としてお経供養と同じく三石払 109 第四章湯女の誕生と一万人施浴

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酌年 ) 二月八日や、一一二九年 ( 大同四年 ) 二月二日の条 にも記録されている。ここで塩湯を楽しんだ後、平城 哂旧都へ旅行することは貴族にはきわめて懐かしさをそ 風そるものだったと思われる。 ′窯 の⑩ 5 ⑩は滋賀県大津市に属する岩間寺、石山寺、三 井寺で、これらは天台宗の祖である最澄が開いたとい われる雄琴温泉からほど近い。冗 ) 続して⑩—@は今熊野 観音寺 ( 京都市東山区 ) 、清水寺 ( 京都市東山区 ) 、 , ハ波羅 蜜寺 ( 京都市東山区 ) 、頂法寺 ( 京都市中京区 ) 、行願寺 ( 京都市中京区 ) 、善峯寺 ( 京都市西京区 ) と、いずれも京 都市中のお寺だが、嵐山を流れる桂川の岸にはそれら の参詣人を目当ての温泉が開業した。武田勝蔵の『風 呂と湯の話』によると、鉱泉を沸かしたものだったと し、つ さらに「堺の塩湯」と並んで郊外型レジャー施設の走りとされる「八瀬の窯風呂」 ( 京都市左京区 ) も、この頃には誕生していたことが想像される。「八瀬の窯風呂」は、 「半円形の窯の中に青松葉をたき、窯中の土が十分に熱せられた頃合いをみはからっ

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もちろんその姿は同浴の男性からチラチラと見られることになるし、彼女たちもそ のことは覚屠の上だが、といってそれは行政が「予測」するように売春を助長すると いうのとは無縁の情景である。 少なくともこの国の混浴という習俗は生に関するきわめてユニークな、そして精神 性の高い文化を創り上げてきたことは確かである。庶民の方が役人たちよりはるかに 純化された生き方を貫いているという一例といってもよい。 ( 注 1 ) 井上勝生『開国と幕末変革』 ( 「日本の歴史」絽 ) ( 注 2 ) 松井大英「異人の見た幕末期下田の銭湯」 ( 『伊豆の国』第二集所収 ) ( 注 3 ) エドワード・モース著、石川欣一訳『日本その日その日』 ( 注 4 ) 清水勳「絵で書いた日本人論』 ( 注 5 ) 佐藤巌『別府温泉』 ( 注 6 ) 時間湯に関する史料の中には時間湯が「江戸時代から始まった」とする記述がいくつか見られる。 しかし日本で「時間」という観念ができたのは一八七二年 ( 明治五年 ) 八月三日、近代教育制度が始まり、 子どもはもちろん、親たちも子どもを学校へ通わせるために時間の観念が不可欠となった。さらに東京の場 合同じ年の五月七日、品川・横浜 ( 現在の桜木町 ) 間に鉄道が開通し、汽車に乗るために時間を守ることが 必要となったことから時間という言葉が広がった。 ( 注 7 ) 中之条町 / 歴史と民俗の博物館「ミュゼ」による。 ( 注 8 ) 二〇一二年一〇月二一日付 / 東京新聞 ( 注 9 ) 青森県酸ケ湯温泉の場合、プールのような広大な混浴の浴場を造ったわけではなく、以前からあっ 218

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ころ。そして総持寺 ( 茨木市 ) 、勝尾寺 ( 箕面市 ) 、中山寺 ( 兵庫県宝塚市 ) は有名 な有馬温泉へ向かう道筋に位置し、その途中には多田院 ( 川西市 ) の平野湯や一庫湯 などがあった。ちなみに平野の平野水は一八八四年 ( 明治一七年 ) 、「三ッ矢サイダー」 という商品名で売り出された、日本初のサイダーである。 3 清水寺 ( 兵庫県加東市 ) からの一乗寺 ( 兵庫県加西市 ) 、圓教寺 ( 兵庫県姫路市 ) は 有馬温泉を通り過ぎた場所に位置しているが、巡礼の人々は帰りに有馬に逗留するこ とを夢見て歩を運んだはずである。さらに 3 成相寺 ( 京都府宮津市 ) と 3 松尾寺 ( 京都 府舞鶴市 ) は亀岡の湯の花温泉を通って進み、成相寺から有名な天橋立までは半日コ ース、丹後半島の木津温泉までは足を伸ばせば一日の行程である。 最後に滋賀県内の三か寺、①宝巌寺 ( 竹生島宝厳寺Ⅱ長浜市 ) 、長命寺 ( 近江八幡市 ) 、 ①観音正寺 ( 近江八幡市 ) から①の岐阜県華厳寺へ向かうのだが、このコースにはいわ ゆる「おたまじゃくしーの本場で、「お伊勢七度熊野へ三度お多賀さまへは月参り とうたわれた多賀大社が組み込まれているといった案配で、西国三三か所の霊場巡り の旅は、日皿泉と名所巡りがセットになった上に、地方の枠を越えた新しいレジャープ ランだったのである。貴族たちはお寺で極楽往生を祈りつつ、温泉で混浴を楽しんで いたのであった。 97 第三章平安朝、風呂と温泉の発展期

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もともに混浴の客が行列をなしている上、玉造温泉の場合、客が多くて市が立っとい うのだから、そのにぎわいが想像されるし、『出雲風土記』が編さんされた頃には昆 浴が庶民の娯楽として、すでに定着していたこともうかがわれる。玉造温泉は現在、 美肌効果のあるところとして知られているが、「ひとたび湯を浴びればただちに端正 : 」とうたわれているところからすると、その効能は一三〇〇年 な美しい体になり : 前にはすでに知れ渡っていたようである。 ゅあみ ところで温泉で湯を浴びるから「沐」であり、 ここでは混谷のことも同じよ、つに呼ばれているか 水辺や海辺、泉のほとりでの水浴びば、古代には 川あみと呼ばれた。『出雲風土記』には川あみの さ一はら おほみしみづ 記録も二つ見えている。「邑美の冷水」と「前原 さ、さ の埼」の二か所がそれで、「邑美の冷水ーは現在 の松江市大井町の大海崎にあたり、 ( 東と西と北は山に囲まれ、みなけわしい。南 の海は広々として、中央に潟があり、泉の水が たいへんきれいだ。男も女も老人も子どもも、 島根県松江市・邑美の冷水 かわ 23 第一章混浴、歌垣と禊ぎ

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われる長峡の浦で数百人の男女が押し合いへし合いで海水を浴びるというもので、一 九一一年 ( 明治四四年 ) 七月一三日付の「大阪朝日新聞」には「官許の男女混浴場」と いう見出しで、その様子が次のように報じられている。 「何百人という男女老幼が朝から晩までかわるがわるドプ、ドプと入る。流石にうら 若い女は湯巻一つでと言いたいが、その実は真の丸裸体である。しかも真っ黒な汚い 下水の溜まったドプである。 : ご丁寧にドプを抄い取って顔から腹、背、さては股 の下にまで一面に塗り立て塗り立てしている。何でも昔からこのドプを住吉様の御湯 と唱え、渡御の前後数日の間にこのドプに入れば腫れ物、汗疣に特効があると言い伝 え、付近の物は言うも愚か、紀州、河内、丹波、丹後辺からわざわざ高い汽車賃を使 って泊まりがけで来る」 この記事ではさらに不潔さが強調されているが、同じ話が一八〇九 5 一〇年 ( 文化 六、・七年 ) 頃に刊行された『摂陽見聞筆拍子』巻五にも採録されており、そこでは、 「その日 ( 神輿渡御 ) は前の海がうしお湯となりて、諸人浜に行き湯あみする とあって、水の汚いことには一言も触れず、海から温泉が湧出していたような記述 となっている。あるいはこの頃まで、長峡の浦では海中から温泉が湧出していたが、 ) 0 ) ヾ その後枯渇したのかも知れなし しすれにしろ正確な事実がどういうことなのかは判 断しがたいが、 地元ではこの混浴は神功皇后の時代から伝わるとも聞いた ( 注 2 ) 。と ながお

9. 混浴と日本史

に憧れていた二人は、燿歌の場で初めて結ばれた感動から眠り込んでしまい、気がっ いたら全裸で寝込んでいた。その姿を他人に見られたかも知れないと思った二人は、 恥すかしさのあまり松の木になってしまったという。これに対して高浜の歌では働 く男女の活気に満ちた関係が記述されており、植垣によると、その場面の描写は『常 陸風土記』の中でも、最高の美文と評価されている。そして筑波山の記述では現代の 夫婦交換を含む成熟した性の関係が表現されている。つまり少年少女の初恋、青年男 女のダイナミックな恋、そして壮年の成熟した関係と、三つの世代の関係が活写され ているのである。ただしここではすべての燿歌に触れる余裕はないので、筑波山の様 子を紹介するに留める。 先す、筑波山の歌には次のような詞書きがついている。 もみ たづさ 坂より已東の諸国の男も女も、春の花開く時、秋の葉の黄たむる節りに、相携ひ もちき 駢り、飲食を齎賚て、騎より歩より登臨り、遊楽しみ栖遅ふ ( 坂から東の国々の男女は、春の花の咲く頃、秋の葉の黄色く色づく頃になると、 筑波山に登って遊んだ。馬で登る人も、徒歩の人もいるが、いっしょに食べ物を持 って楽しむ ) つらな ひむがし 27 第一章混浴、歌垣と禊ぎ

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( 注 3 ) 興福寺は藤原不比等が創建した時は山階寺と称したが、その後厩坂寺、興福寺と改称した。 ( 注 4 ) 『長秋記』の一一一九年 ( 元永二年 ) 四月一四日の条にはこの日、仁和寺の金堂が全焼し、大湯屋 も焼失したとある。また『中右記』の一一三〇年 ( 大治五年 ) 八月二一日には醍醐寺に大湯屋が造られたこ とが記述されている。 ( 注 5 ) 勝浦令子「尼と尼寺 ( 大久保良峻ほか編『日本仏教引の鍵』所収 ) 73 第二章国家仏教と廃都の混浴