はじめに 第一章混浴、歌垣と禊ぎ 〔第 1 節〕『出雲風土記』の混浴と歌垣 〔第 2 節〕『常陸風土記』と東国の世界 〔第 3 節、イザナギ命の禊ぎと歌垣 〔第 4 節〔東南アジアの歌垣 第二章国家仏教と廃都の混浴 〔第 1 節〕国家仏教と「湯ーの語源 〔第 2 節〔奈良の大仏と「功徳湯」 〔第 3 節〕廃都の混浴 25 20
第三章平安朝、風呂と温泉の発展期 〔第 1 節〔湯殿と町湯の始まり 〔第 2 節〕温泉付きの三三か所霊場巡り 第四章湯女の誕生と一万人施浴 〔第 1 節〕湯女の誕生と遊女 〔第 2 節〕「千人施浴」と頼朝の「一万人施浴」 第五章江戸の湯屋と地方の温泉 〔第 1 節〕江戸の銭湯とざくろロ 〔第 2 節〕湯女風呂の誕生と吉原遊郭 115 115 125 108
前にも述べたように、高級貴族の屋敷に湯殿が整えられるようになったのは一〇〇 〇年から一一〇〇年頃であり、係の女性が湯殿で主人の世話をするというシステムが 広がったのはそれから後だったはずである。その役割が定着したことによって、湯殿 での性的な関係もポピュラーなものとなった。ところが『吾妻鏡』の記述によれば一 一八四年には当時の田舎侍だった頼朝ですら、湯殿における女性との性的な関係を当 然の一、ととして扱っているのである。それはたかだか一〇〇年前後の期間に湯殿とい う入浴のための設備が権力の一つの側面となった、まぎれもない証しであった。 町湯の第一号 ところで内裏に設けられた湯殿は、いわば日本における「家湯」の第一号であった。 では家湯に対して銭湯 ( 町湯ともいう ) の第一号はいっ頃登場したか。これがなかな かの難問で、。 ヒタッと確定できる答えが見つからなし : 『公衆浴場史』は銭湯の歴史 をたどる上での基本史料だが、同書には、 「営業用の町湯が何時代、いつごろから出現したかは不詳である。従来、社会生活史 風俗史の研究学者が多く述べる平安時代の物語、公家日記の類に散見の史料によって これを推定し、平安時代としている」 として、これまでの史料で町湯の第一号として取り上げられた例を五つ紹介してい 83 第三章平安朝、風呂と温泉の発展期
は、その役目は伊勢神宮の近くにあって 「天皇に代わって天照大神を奉斎する」 とあるが、榎村寛之の『伊勢斎宮と斎 王』によれば、奉斎するという一一一口葉を具 体的にい、つと、折々に禊ぎをすることだ ったようである。同書は平安時代半ばの 一〇三八年 ( 長歴二年 ) 、後朱雀天皇の皇 女良子内親王が斎王として伊勢へ赴いた 時の記録をもとにした斎宮制度の解説書 である。 榎村によれば、先ず斎王に選ばれた女 性は他人との接触も極力制限され、出発一 までの数か月にわたって宮中などで禊ぎ を行った。伊勢までは五泊 , ハ日の日程で 旅行するのだが、宿泊先では必す禊ぎを したほか、鈴鹿山頂でも禊ぎをしたこと が記されている。さらに伊勢では一年に ( 第え主 ( 左 ) 第紀碆イお , 第光の第強に鬣を上立第 1 ド物整学大 大嘗祭の絵ハガキ 47 第二章国家仏教と廃都の混浴
の地名であるから、『勘仲記』の湯屋辻子は京都、『大乗院 : : : 』は奈良の話であり、 両者は同じ湯屋を指しているわけではない。だがこれらの用法からして、湯屋辻子と は路地にあった湯屋を指すものと見なすべきだろう。 『大乗院 : : : 』の湯屋辻子でもう一つ付け加えると、ここは一四八三年の話だから、 第一号の検討対象にはならない。なぜなら一二七八年 ( 建治四年 ) 一月に、日蓮上人 が弟子の四條金吾に出した手紙に、 「御弟共には、常に不便の由有べし。常に湯銭ざうりのあたひなんど有べし」 とある ( 注 2 ) 。弟などには心づかいを一、まやかにして、湯銭や草履代などは持たせ るようにしたいというのだが、 こういう文句が弟子との手紙のやり取りの中でつかわ れているところからしても、銭湯はすでに庶民の生活に根付いていたことがうかがわ れる。とすれば一四八三年は当然ながら対象外となり、一一一〇年に京の一条にあっ た「一条湯屋」か、一二七五年に今の岡崎公園の路地にあった湯屋あたりが第一号と えそ、つである。 ただし、この見方にも欠点がないわけではない。筆者は「銭湯の第一号はいっ頃登 場したか」という疑問に対する答えとして一条湯屋や湯屋辻子などの例を上げたが、 そこには銭湯という言葉も町湯の文字もまったく登場しない。さらに銭湯というから には入浴料を徴収していなければならないが、一条蘭湯にしろ湯屋辻子にしろそれに 87 第三章平安朝、風呂と温泉の発展期
前が貴族や高級僧侶たちのサロンの創始 者として名を残すことは誇りだったと思 われる ( 注 1 ) 。要するに湯女制度は衰退 した有馬温泉の復興策どころか、さらな る繁栄を確立するためのアイディアだっ たのである。 このアイディアがク卓抜クだったのは 奈良時代の「功徳湯」を巧妙な形でパク ったことである。「功徳湯」は東大寺や 興福寺などの大寺院で実施された純然た る宗教活動だったが、有馬温泉では全体 が仏教施設である「とを強調するために、 行基が開創し、温泉の氏神的な存在とさ れていた温泉寺を有馬温泉寺と改称し、 それまでの旅宿は有馬温泉寺の傘下にあ る施設という意味で宿坊と呼ばれること になった。そして東大寺や興福寺などの トみィ、トド 心・。砿第気、イ 第式ぎを す一第等外よ 一ラク 有馬温泉寺 ( 「摂津名所図会」より ) 105 第四章湯女の誕生と一万人施浴
〔第 1 節〔国家仏教と「湯」の語源 斎宮と禊ぎの儀式化 あすか 日本初の律令が制定されたのは白鳳時代の六八九年である。持統天皇によって飛鳥 羞一よみはらり・よ、つ 浄御原令三二巻 ) が発せられた。律令とは法律のことであり、法律に基づいて運営 されない国家は国家とはいえないから、日本もようやく国家として歩み始めたわけで ある。この法律では戸籍を六年に一回すっ調査するとか、その戸籍に従って農地を支 給したり、朝廷へ戻させるなどのことが決められた。その後、七〇一年に大宝律令が 制定されて、制度上の体裁がさらに整った。一方、それまで天皇が変わるたびに、あ 第二章国家仏教と廃都の混浴
〔第 3 節〕入り込み湯と混浴禁止令 〔第 4 節〔湯殿姫と湯殿腹 〔第 5 節、地方の温泉と入り込み湯 第六章日本の近代化と混浴事情 〔第 1 節〕明治の近代化と混浴禁止令 〔第 2 節 , 地方の反発と画学生の裸体蔑視 冖第 3 節〕「千人風呂」と「フジャマのトビウォー 〔第 4 節〕現代の混浴事情 亠め A 」が」 210 137 155 168 181 197
さらに一六 , ハ九年 ( 寛文九年 ) 、移転後にできた湯女風呂七四軒が吉原で遊郭として営 業するよう命じられ、一 , ハ八四年 ( 天和四年 ) には三〇〇人の湯女が検挙され、遊女 として吉原に送り込まれたのであった。 こうして湯女風呂の時代は終わりを告げることになった 〔第 3 節〕入り込み湯と混浴禁止令 江戸の入り込み湯は五〇〇軒 ところで江戸時代の銭湯については不明な点が沢山ある。第 1 節で「江戸時代の銭 湯の最大の特徴として、ざくろ口がある」と指摘したが、それがいつ、どこで始まっ たかとなると、きわめてあいまいである。 また湯女風呂の項で、西鶴の『好色一代男』の挿し絵を紹介したが ( 一二九ページ ) 、 ふんどし この絵の男性は下帯を着用しているし、女性も派手な浴衣を身にまとっている。しか し同じ湯女風呂の光景でも、花咲一男の『江戸入浴百姿』にある絵 ( 一三九ページ ) は 菱川師宣作 ( 今野信雄による ) というが、描かれた男は全裸で、湯女も申し訳程度に腰 布を付けているだけである。男女が下帯や浴衣を着けている場合と、裸の例がいっ頃、 どんな背景から分かれたのだろう ? 137 第五章江戸の湯屋と地方の温泉
つくよみのみこと 右目から月読尊、鼻からスサノヲノ命をもうけたとされている。 これが禊ぎの第一号で、以来「川原などで水によって身を浄め、罪や穢れを祓い落 とす」 ( 『時代別国語大辞典 / 上代篇』 ) という宗教的な儀式として、禊ぎは日本の文化の 中で大きな比重を占めることになった。 しかし注目すべきはまさにその場面で、この場面を具体的に思い描いて見ると、水 切で女性と次々に性的関係を結び、相手の女性が出産したというのだから、これは水 つまり禊ぎとは歌垣の一つの形式を指しているのである。 辺の歌垣にほかならない さらに前に触れたように、この時代には湯につかることは「湯あみ」であり、川で の水あびは「川あみ」と呼ばれ、両方が結びついた「ゆかはあみ」という一一一口葉も用い られていたが、 禊ぎも歌垣も、そして混浴も「ゆかはあみ」の一部をなしていた。そ の点を示しているのが一一三ペ 1 ジの絵である。これは一八〇五年 ( 文化二年 ) に出版 された『木曾路名所図会』にある鹿島神宮の絵で、「みたらし、という詞書が付いて いる。みたらしとは「御手洗」と書き、神仏にお詣りする前に禊ぎのために手を洗、つ ことだが、 同神宮における「みたらし」は禊ぎと混浴をも含む水遊びであったことが 分かる。一八〇五年という幕末に近い頃でもこのムードなのだから、古代になればな るほどより素朴というか、禊ぎとは旧比浴に近い水遊びだったことが想像される。 この禊ぎのシーンが持つ意味はほかにもある。第一にこの禊ぎによって天照大神 31 第一章混浴、歌垣と禊ぎ