けにあるかを考、んていきましよ、つ。 世界には様々な宗教がありますが、その最も根源的な分類は「普遍的な教義を持って いるか否か」でしよう。いわゆる「民族宗教」と「世界宗教。の違いです。 「民族宗教。とは、その土地の伝統や文化が混ざり合って自然に形成された宗教のこと がです。いっ誰が始めたというわけではなく、土地に古くから伝わる神様をそのまま信じ るていたり、生活と宗教が一体化されていたりするものが多いのが特徴です。 定 たとえばヒンドウー教はこの典型例でしよう。竜神、暴風神など様々な民間信仰や地 見 生元の神話が合体し、さらにインドの社会システムを組み込みながら自然にできあがった の宗教です。インドの文化や社会構造がそのまま宗教のシステムに投影されているため、 ・目 ヒンドウー教が他の国で成立することはありえません。 章 このように民族宗教は、普遍的な教義を持たないため他の民族に広がりにくいことが 第 特徴です。
このような時代に、僧侶や寺院に何ができるのか、私も常に模索しています。かって は地域の中心として、住民を教え導くという性質もありました。しかし個人の多様化が 進んだ現代社会においては、これはなじみませんし不可能です。これからは一人一人と 向き合い、それぞれに応じた教えというものが必要だと思います。そのためには私たち も広い知見を持ち、幅のある人間性を身につけなくてはと思っています。僧侶の世界は ある意味では閉鎖的で穏やかですから、ついそれに甘んじてしまう。そうではなく、こ れまでの枠組みから飛び出して、社会全体の問題にも取り組んでいかなくてはいけない と思っています。 現代の価値観を見直すためにも、仏教の教えには様々なヒントがあると思います。現 代の問題に対しては、どの教えが有効か、どう役立てていくべきか、そして自分には何 が必要か、日々の生活にどう活かしていくべきかを、みなさんにもぜひ考えていただき たいと願っております。 182
まれたり、原発事故による放射能汚染が日本中に広がったりと、災害は二重三重に重な りました。多くの人が家族を亡くされたり、家を失ったり、住む場所を追われたりしま した。被災の状況は人によって様々でしようが、それぞれ色々なことで傷つき、不安に なり、苦労をされたことでしよう。 これほどの震災となると、その大きさと複雑さゆえ、因果関係を単純に読み解くこと は大変難しいことです。カルマは長い時間をかけて積み重なって巨大化し、因や縁が非 常に複雑に絡まりあいながら、様々な条件がついに揃ってしまった。それがあの三月十 一日だったのです。ある因は津波の被害となり、ある因は原発事故となり、そうやって 様々な被害が次々引き起こされてしまいました。 だからといって、被災者の方が特別に悪いカルマを抱えていたかというと、決してそ うではありません。このように強大でめったに発生しない出来事は、個人のカルマで引 き起こされるレベルではなく、社会全体としてのカルマ、世界共通のカルマのレベルの 出来事です。大勢の方が一度に同じ類の苦しみを味わったということがその現れでしょ 1 川
人生をより良くするために仏教の考え方が役立っことが、少しずつわかってきたこと でしよう。そこで、これからはより詳しく仏教の教えや概念をお伝えしていこうと思い ます。 仏教の教えの中で非常に重要な概念が「空」というものです。 の他の教義や概念の土台になっており、仏教徒はこれをすっと研究しています。様々な る 経典にもこれが書かれていますが、これをただ読むだけでは非常に難しいと思いますの て で、これから身近な例で考えていきましよう。 在 存 ダライ・ラマは目の前にいない 私 = 一みなさんには今、私が座って話しているのが見えているでしようし、私の声も聞こえ ているでしよ、つ。
何らかの認知をしています。そしてそれにとらわれざるをえない。つまり、生物である 以上、煩悩から逃れることは非常に難しいのです。 私たちは生きている限り、必ず煩悩を持ってしまう。これを突き詰めると、「生きて いることは煩悩を持っことであり、そして煩悩を持ち続けることはずっと苦しむことで ある」という結論にたどり着きます。仏教が「この世に生まれてくることは苦である」 と説くのにはこういった理由があるのです。 生まれてくることは「苦ーであるということ こう説明しますと、「知性で苦しみをコントロールしよう」と言っていたのにどうい 、つことかと混乱される方がいるかもしれません。 いくつかのレベルがあるので しかし「苦」と一言で言っても、そこには様々な種類、 す。今お話しした類の苦しみは、日常の苦痛とは質が違うものです。仏教では、「三苦」 706
性格や関心によって様々です。人によって幸福の定義が違う以上、それを説く宗教も 色々な種類があって当然です。 そしてそれぞれが自分に最もあった宗教を選ぶことが大切です。 たとえ何千年続いていようと、世界中に信者がいようと、教義の内容が画期的なもの であろうと、宗教に優劣は付けられません。自分の宗教だけが正しいと信じこんだり、 他の宗教をバカにしたりすることも、全く無意味なことです。 宗教は誰かの心を平和にしたり、誰かの助けになっていたりすれば、それだけで価値 があるものなのです。 自分にあった宗教が、その人にとっての「最高の宗教」です。 だからこそ、自分が信じていない宗教のことも認め、理解し、尊重しあわなくてはい けません。私も仏教を信仰している仏教徒ですが、他の全ての宗教に敬意を払い、関心 を抱くようにつとめています。
観念で捉えていたものに過ぎなかったのです。そこに何の実体もありません。 あなたの周りにいる人々は、あなたの姿や形、声やにおい、言葉や性格など、もろも ろの要素の集合体を「あなた」と呼んでいただけだったのです。一つ一つを分解すれば、 どれも決して「あなた」そのものではない。自分も他人も「あなた」を観念的に認知し ているだけなのです。 ダライ・ラマとは何なのか、自分はどこにいるのか この疑問からそれぞれの実体を探してみましたが、どこにも存在しませんでした。肉 体も精神も実体ではありませんでした。全ては自分が考えた観念に過ぎなかったのです。 つまり「自我」だと思っていたものは「自我、ではない。そもそも「自我、に確固た る実体はない。 仏教ではこれを「無我 [ といいます。「我は無い [ ということです。 実体がないのは人間の存在だけではありません。同じように様々な事象を追究しても、
幸せは単なる快楽と反応に過ぎないのか まずは、「幸せとはなにかーということについて今一度きちんと考えてみましよう。 みなさんはどのようなときに「幸せ」を感じるでしようか。いいことが起きたとき、 好きな人といるとき、美味しいものを食べたとき、欲しいものを手に入れたとき : 人によって実に様々でしよう。 それでは、この「幸せーとはどのような感情、状態なのでしようか。なぜこのような せときに「幸せ」だと感じるのでしようか。 幸 の たとえば美味しいものを食べたとき、私たちはまずその味を楽しみます。味だけでな 当 本 く見た目やにおいにも心を惹かれますし、食後の満腹感にも幸せを感じることでしよう。 一一ただし、こうして考えてみますと、味覚、視覚、嗅覚など全て感覚器官によって、幸 せを感じていることがわかります。つまり、より科学的に言えば「食事をして幸せだ」
な意識についてはうまく説明がっかないでしよう。 とはいえ、私たち自身も『意識はある』と認識しています。意識については、これか ら一番真剣に考えなければいけないことの一つだと考えています。 一方で仏教の方々は、長い伝統の中でずっと意識の研究を重ねています。そこで、仏 教では意識をどのようなものと捉えているか、ぜひお伺いしたい 輪廻には論理性がある たしかに、意識や精神というものは、目で確かめたり、計算したりできるものではあ でりません。たえずそれと向き合い、検証し、研究し、修行をし、ようやく少しずつわか 数ってくるものです。大切なのは、固定観念を持たず、現実に起こっている様々な現象を 六つぶさに観察することです。そして部分をつなぎあわせて全体像を把握することです。 たとえば、「意識」とひとことで言ってしまいがちですが、細かく分析していくと、 131
疲れ、傷ついているのではないかと思います。 しかし、震災が起きてしまったという事実を変えることはできません。大変悲しい出 来事でしたが、いつまでも悲しみに打ちのめされていては、前を向いて進むことができ ません。 むしろこの逆境を乗り越えて、日本がより豊かに変わるきっかけにしていただけたら と思います。そして今ある障害を乗り越えた先に、以前より前向きに、自信を持って生 きることのできる日本人がいることでしよう」 来日中、ダライ・ラマ十四世は成田、大阪、高野山、石巻、仙台、福島と様々な場所 を訪れ、行く先々で多くの日本人に語りかけ、抱きしめ、叱咤と激励を繰り返した。そ して十日間の滞在を終えると「復興の折には必ず再訪する、と誓い、日本から去ってい った。 ( 新潮新書編集部 )