でしよう。でも、今この一瞬、どのように変化しているかは自分でも把握できません。 でも一瞬ごとの変化があるからこそ、一分ごとの変化があり、一日ごとの変化があり、 一年ごとの変化があるのです。 死にも同じことが言えます。医学的見地では、ある時点を指して「死んだ」と規定し ていますが、それも人間が便宜上引いた、生と死のポーダーラインに過ぎません。実際 の人間は自分で把握できないレベルで、少しずつ少しずつ死んでいくのです。 これは「刹那滅ーという仏教の考え方にも現れています。あらゆる物事は刹那の間に これ も生じて滅するという概念です。全て一瞬一瞬変化していて、同じ状態ではない。 が仏教でいう本当の意味での「無常」なのです。 刹那滅は人間には捉えることができない、非常に微細なレベルの現象です。しかし、 たとえ私たちの目には同じように見えていても、実は常に変化しているということをき ちんと認識することが大事です。 こう考えると、目の前の現状を嘆いたり、今持っているものに執着したりすることが、 150
真理を認めているのです。 ただし、私たちは世俗的な観念の方に縛られているので、なかなか二つのレベルに分 けて物事を実感するのは難しいものです。 チベットにも、なんとかこれを理解しようと瞑想している僧侶がたくさんいます。 実際にこの二諦を実感した人によれば、全ての物事の意味が消え、この世界が空つば のような状態を感じながらも、同時に自分の肉体に触れてその存在を実感したそうです。 つまり、究極的なレベルでは空であると悟りながらも、世俗的なレベルでは肉体の存在 て 在 を知覚し、自分がここにいると捉えている。この二つのレベルの真理を実感したのだそ にうです。 私 章 第 『般若心経』には「空」を悟った瞬間が書かれている この「空」の概念が説かれた有名な経典が『般若心経』です。
後半の「空であることは物質的である」は少しわかりにくいかもしれません。これは、 物事が存在していなければ「空」の性質は成立しない、物事が存在しているからこそそ れが「空」なるものだといえる、という意味です。先ほど説明したことが、まさにこの 短い一行で説明されているのです。 たった一文字に込められた真理 ージョンを漢訳 ちなみに、日本でよく用いられる『般若心経』は、「小本ーというバ したものです。サンスクリット語の原典には「小本、と「大本、があり、「小本、は教 義のみが書かれているのに対し、「大本、には細かな設定や説明が書かれています。よ り詳しく正確に内容を理解するのであれば、ぜひ「大本。にも触れるとよいでしよう。 たとえば「五蘊もまた、はそのいい例です。冒頭の「照見五蘊皆空」をそのまま日本 語に訳すと「。五蘊はみな空である。と見極めた」ですが、「大本、には「。五蘊もまた、
このように字宙論一つを例にとっても、科学と仏教が非常に近いことがおわかりにな ったと思います。双方に通じるのは、ただ純粋にシンプルに真実を追究したいという姿 あ勢です。そして知性によってあらゆる事象を検証し、論理によって物事を捉えようとい 由う考え方です。 必 もし仏教が一神教であれば、科学とこのように融合することはできないでしよう。唯 一絶対の神がこの世界を作ったという教義があり、それを疑うことは許されないからで す。それは論理を超越した観念なのです。 る 起私はこれを否定するつもりは全くありません。宇宙がどうやって生まれたのか、確か 世な答えはどこにもないからです。 ただし、「宗教は科学と対立する」というイメージは、仏教にはそぐわない。 「この世 七界の真理に迫りたい。そして少しでも良い方向へ導きたい」、仏教徒はこう考えて、あ らゆる物事を観察し、そのありようを論理的に検証してきたからです。 155
たとえ究極的に実体がないとしても、普通の世界では「真実」である。これは認めざ るをえません。つまり重要なのは、世俗的なレベルと究極的なレベルを分けて物事を整 理することだったのです。 私たちは普段、世俗で生活をし、世俗的なレベルで物事を考えています。この段階で は、私もあなたもこの場所にいて、お互いをはっきり認識しあっています。それはこの 世俗的なレベルでは真実です。 一方で、その概念を突き詰めて考えた時、何の実体もなく、ただ存在だけしか明らか このこともまた、究極的 でない。人も五蘊も、物も現象も、全ては「空」である なレベルにおける真実なのです。 このように、世俗のレベルと究極のレベルを分けて考え、それぞれ別の真理があると いう考え方を、「二つの真理」という意味で「「一諦」と呼びます。世俗的なレベルの真 しようぎたい しんたい ぞくたい せぞくたい 理を「俗諦 ( 世俗諦 ) 」、究極のレベルの真理を「真諦 ( 勝義諦 ) ーとし、それぞれ別の
す。 彼かもともといたインドのナーランダー大僧院は、寺というより大学のような場所で、 大勢の僧侶が仏教の教えを学んでいました。特に、仏教の考え方が論理性を重んじるこ とから、ここにいた僧侶たちも盛んに論理学を勉強していたのです。シャーンタラクシ タは大変優れた論理学の学者だったため、そこで指導をしていました。 がチベット仏教は、彼の指導やナーランダー大僧院の教えから発展したため、仏教の中 るでもとりわけ論理学の影響を強く受けていて、物事を考える際にも論理的思考をとても 定重要視しています。 生このように仏教は、論理的に物事を捉えることで、真理にアプローチしようという宗 の教です。人間とはなにか、心とはなにか、幸せとはなにか、世界とはなにか。その概念 自 を見直し、徹底的に探究し、その中にある真理や法則を解き明かします。 一その上で、一人の人間としてどう生きていくべきかを見定める。だからこそ、自分だ けでなく、仏教徒だけでもなく、全ての人間に当てはまる答えに帰結するのです。
ごうん 仏教ではこれを「五蘊」という五つの要素に分けています。 しき・つん 一つは、姿、形、声や匂いなどの要素、すなわち「肉体 ( 色蘊 ) 」です。これに対し て精神的な要素については、一くくりではなく四つの要素に分けて整理しています。そ レ ) ゅ・つん そううん ぎよううん しき・つん れが知覚 ( 受蘊 ) ・感情 ( 想蘊 ) ・意志 ( 行蘊 ) ・思考 ( 識蘊 ) の四つで、それぞれが精 神を構成している一つの要素なのです。 仏教は、この五つの要素でもって人間が構成されていると考えています。そして人が 人を認識するときは、この五蘊を組み合わせたり、一部を取り出したりしながら、その 人の概念を勝手に作り出しているのです。つまり自分や他人の「自我」は、五蘊によっ て生み出された仮の姿なのです。 蛯五蘊という構成要素がある以上、私たちの作り出す概念には一定の妥当性があります。 私実際、私たちは常に色々な物事を認識し、その概念でもって物事を考えたり生活したり 三しています。姿も見えるし、言葉も聞こえる。もちろんそこから生まれた概念に実体は ないのですが、ある程度それは共有され、共通の認識としてはたらいているのも事実で
となのです。 「空」は存在があって初めて成り立っ概念です。物事は存在があって初めて認識される けれども、どんな認識も単なる概念に過ぎないので、だからあらゆる実体は「空」であ る。こういうわけです。 この世界には二つの真理がある しかし私たちの認識が実体ではないからといって、全くのデタラメかというと、決し てそうではありません。 あくまでその事象の構成要素に基づいて認識を生み出しています。さまざまな要素か ら一部を切り取ったり、並べて意味付けたりしながら、自分の中の鏡に像を映し出して いるようなものです。 それでは人間を認識するための構成要素とは何でしようか。
した。その研究の蓄積や実践の成果は、科学者の方にとって貴重な情報なのだと伺いま した。 みなさんにとっても、今まで当たり前だと思っていた物事を科学的に検証したり、違 った切り口で見つめ直したりすることは面白いはずです。そして、新しい発見や気づき かあることでしよ、つ。 仏教と科学の関係については後で詳しくお話しします。 さて、これからいよいよ仏教の教義のお話をしていきます。 ただし、仏教の話の根底には、人類共通の真理や世界の道理があるということを、心 に留めながら聞いていただければと思います。そして、仏教の教えをきっかけに、世界 中のみなさんに何らかの貢献ができ、心の平和が生まれればと願っています。
いことが起きないかと期待したり、いつも欲求不満だったり。実は今でも似たような 思いが時々湧き起こります。 このように、知性をネガテイプに使ってしまい、自らを不幸や苦悩に陥れている人が かなり多いのです。 それでも知性は、人間が持っている素晴らしい資質です。これによって、物事を冷静 に多角的にそして建設的に見ることが可能です。感情を乗り越えたり、苦しみを分析し て理解したり、長い目と広い視野を持っことは、知性のある人間しかできないことです。 この知性をぜひポジテイプに使っていきましよう。不幸になるために知性を使うのは もったいないことです。せつかくですから、幸せになるために使うのです。 知性というものは、使い方次第で不幸にも幸せにもなるーーこのことを忘れてはいけ ません。 102