認識 - みる会図書館


検索対象: 傷ついた日本人へ
49件見つかりました。

1. 傷ついた日本人へ

、つことです。 意識も、そのまま意識が転移するのではなく、生物が意識を持っていたありよう、そ の本質的な念やエネルギーのようなものが、他の生物に転移すると考えられます。 もちろん一般的には、意識は生まれたときに誕生し、死ぬときには消滅してしまうよ うに思われています。でもそれは、私たちが認識できているごく表層的な意識に過ぎま せん。それは生物に意識が宿るということの本質ではないのです。 肉体が死んで別の物質に分解されるように、意識の本質は生命全体のサイクルのなか もと へ戻る。そして別の生命の意識を生み出す素となっているのです。 これが「輪廻」です。輪廻とは、意識における因果のシステムなのです。始まりも終 わりもない、本質的な連続性がそこにはあります。 「因果の法則」三つのル 1 ル 158

2. 傷ついた日本人へ

な意識についてはうまく説明がっかないでしよう。 とはいえ、私たち自身も『意識はある』と認識しています。意識については、これか ら一番真剣に考えなければいけないことの一つだと考えています。 一方で仏教の方々は、長い伝統の中でずっと意識の研究を重ねています。そこで、仏 教では意識をどのようなものと捉えているか、ぜひお伺いしたい 輪廻には論理性がある たしかに、意識や精神というものは、目で確かめたり、計算したりできるものではあ でりません。たえずそれと向き合い、検証し、研究し、修行をし、ようやく少しずつわか 数ってくるものです。大切なのは、固定観念を持たず、現実に起こっている様々な現象を 六つぶさに観察することです。そして部分をつなぎあわせて全体像を把握することです。 たとえば、「意識」とひとことで言ってしまいがちですが、細かく分析していくと、 131

3. 傷ついた日本人へ

この事例は、死んでもなお意識が残る可能性があることを示しているのではないかと 思います。たとえ臨床的には死亡の判断が出ていたとしても、それは現在の医学が線引 きした便宜上の死にすぎません。医学的に死亡が宣告されても、意識が消失したことに はならないのです。 逆に仏教では、死後も意識は消失せず、他の生命の意識として生まれ変わるものと考 えています。これを仏教では「輪廻ーと呼びます。 死後の肉体は分解されて別の物質となり、新たな命の素となります。これと同じよう に意識も、新たな生命に乗り替えると考えるのです。 輪廻が運んでいるものは「意識」や「認識」なのですが、私たちが日頃感じている意 識はただの「そう思われるもの」であり、輪廻によって運ばれるものとは違います。も っと究極的なレベルにおける意識のありようなのです。 意識はこうして前世から現世へ、そして現世から来世へ、連続して持続していくと考 えられています。意識は何かから生み出されたわけでも、突然消失するわけでもなく、 134

4. 傷ついた日本人へ

こうした考え方は、仏教でいう「虚空」の概念に通じています。これは、「何もないー ように思えるけれど、同時に「あらゆるものを包括している」という状態を指すもので す。人間の把握できない非常に微細なレベルの事象が実際にはたくさんあり、そのすべ てを含めて本質なのです。 最新の科学でも、「未知の物質ーの存在が少しずつ明かされつつあります。その研究 の うによれば、宇宙の物質は今の科学では把握できない物質ばかりだそうです。「何もない」 とように見える世界も、それは私たちの狭い認識。、 こ過ぎないとい、つことです。 三つ目の仮説は、「この世界と相互依存しているものがないーということです。 れ たとえば「ここに〇〇がある」というとき、それを認知する者の存在があり、〇〇と で いうものを判別できる力があり、なおかつ「それがないー状態との比較ができなければ、 式 数 その存在を認めることはできません。 章 つまり、「この世界にあるーものは、私たちの認知によって存在が認められたものに 5 第 限られているのです。全ての事象は何らかの形で世界とつながり、他の事象に依存して

5. 傷ついた日本人へ

に達することのできたものは釈尊しかいないとされています。 もちろん、私もこの段階にはありません。さきほど「ダライ・ラマ法王は生き仏と言 われていますが」とおっしやった方がいましたが、私自身そのような自覚は全くありま せん。 仏陀はこの世界の全てを悟ったものですが、私はとてもそんな高い悟りの境地に達し ていません。私はただの一人の人間で、みなさんと何も違いがないのです。強いて言え ば、私の方がみなさんより長く密教や仏教の勉強をしているため、少々知識が多いとい 、つことハらいでしよ、つか もしくは、仏教を熱心に勉強していた前世の力が、今の私にはたらいているのかもし れません。もちろん私も前世を正確に認識することはできないのですが、そのような存 在をよく感じ取ることがあるからです。 〃 4

6. 傷ついた日本人へ

となのです。 「空」は存在があって初めて成り立っ概念です。物事は存在があって初めて認識される けれども、どんな認識も単なる概念に過ぎないので、だからあらゆる実体は「空」であ る。こういうわけです。 この世界には二つの真理がある しかし私たちの認識が実体ではないからといって、全くのデタラメかというと、決し てそうではありません。 あくまでその事象の構成要素に基づいて認識を生み出しています。さまざまな要素か ら一部を切り取ったり、並べて意味付けたりしながら、自分の中の鏡に像を映し出して いるようなものです。 それでは人間を認識するための構成要素とは何でしようか。

7. 傷ついた日本人へ

ごうん 仏教ではこれを「五蘊」という五つの要素に分けています。 しき・つん 一つは、姿、形、声や匂いなどの要素、すなわち「肉体 ( 色蘊 ) 」です。これに対し て精神的な要素については、一くくりではなく四つの要素に分けて整理しています。そ レ ) ゅ・つん そううん ぎよううん しき・つん れが知覚 ( 受蘊 ) ・感情 ( 想蘊 ) ・意志 ( 行蘊 ) ・思考 ( 識蘊 ) の四つで、それぞれが精 神を構成している一つの要素なのです。 仏教は、この五つの要素でもって人間が構成されていると考えています。そして人が 人を認識するときは、この五蘊を組み合わせたり、一部を取り出したりしながら、その 人の概念を勝手に作り出しているのです。つまり自分や他人の「自我」は、五蘊によっ て生み出された仮の姿なのです。 蛯五蘊という構成要素がある以上、私たちの作り出す概念には一定の妥当性があります。 私実際、私たちは常に色々な物事を認識し、その概念でもって物事を考えたり生活したり 三しています。姿も見えるし、言葉も聞こえる。もちろんそこから生まれた概念に実体は ないのですが、ある程度それは共有され、共通の認識としてはたらいているのも事実で

8. 傷ついた日本人へ

に過ぎないのです。 刹那の変化を捉えることはできない 仏教では、古くから時間への考察を続けてきました。その中では、時間に実体はなく、 の 人間の認識の中で捉えている概念に過ぎないことも言及されています。 せつな そのため、人間の理解を超える長い時間を「劫」といい、逆に短い時間を「刹那」と 呼び、その限界を認めているのです。 れ このように、私たちの時間の認識には限界があります。たとえば、一年ぶりにあった で人であれば、老化した、太ったなどの変化を発見することは簡単です。しかし、いま目 数 の前にいる人が、一瞬一瞬老けていくのを見ることはできるでしようか ? 私たちは一 六瞬の変化を捉えることができないのです。 第 自分自身の体も同じことです。一年前の体と今の体を比べれば、明らかに変化がある こう 749

9. 傷ついた日本人へ

そこで、簡単な例で説明しましよう。たとえば先ほど私たちは昼ごはんを食べました ね。食事を食べたからこそ美味しいと感じたし、空腹も満たされました。もしごはんそ のものが存在していなかったら、そのような感覚や作用はなかったはずです。私たちは 全くの空想の中で夢幻を食べたわけではありません。 つまり、ごはんは確かに存在したのです。ただし、それぞれ自分の味覚で味わい、自 分の知覚で認識したに過ぎません。昼ごはんのいわゆる実体、確固たるありようという る いものは誰も捉えることができないのです。 し 在 このように究極的なレベルまで追究すると、あらゆるものは単なる個人の概念や世俗 存 的な通念に過ぎないことがわかります。だからといって、存在や現象そのものが否定さ どれることにはならない。 私 むしろ概念が生じるのは、その存在があるからなのです。存在すらなければ、それを 三表す概念も生まれません。何らかの認識が生まれたり、それについて語られたりしてい るとい、つことは、概念がどんなにめちゃくちゃだったとしても、存在しているとい、つこ

10. 傷ついた日本人へ

いるとい、つことです。 それではもし、この依存関係と全く関係のない、完全に独立した世界があったとした 1 らどうでしようか。この世界と何ら関係のないものを、私たちが認識することは決して できません。確かに存在していても、それが「ある」と把握できないからです。こちら からすれば、その世界は「無」の存在ということになります。 科学的な見地でも、ビッグバンの前には「全く別の宇宙」が存在したのではないか、 という説があります。それは今私たちがいる宇宙から完全に独立した、全く別の宇宙の ことです。前に存在した宇宙の全てが一度無に還元され、それからビッグバンが引き起 こされ、今の宇宙が始まったという考えは、決して机上の空論ではなく、最新科学でも 検証され続けていることなのだそうです。 もし時間に単位がなかったら