世阿弥 - みる会図書館


検索対象: 現代能楽講義 : 能と狂言の魅力と歴史についての十講
118件見つかりました。

1. 現代能楽講義 : 能と狂言の魅力と歴史についての十講

ん』」と思ひしを、「『世阿なり』と仰せけると見てありける」と云々。 しよ、つこくじ 相国寺あたりの大工の娘が重病に陥ったとき、親の大工に天神の霊夢があり、「東風吹かば匂ひおこせよ 梅の花 : ・」の三一文字を頭に歌を詠んで、「観世」に選ばせて神前に籠めよ、と告げた。その頃、世阿弥は 出家したばかりだったので、大工は、「観世というのは親の世阿弥だろうか子の元雅だろうか。と思ったと ころ、天神が「世阿弥だ」と仰せになった、という話である。その結果がどうなったかは記されていないが、 たぶん娘は助かったのであろう。それはともあれ、この大工が霊夢を得たのが、応永二九年一一月のことだ というのだから、世阿弥の出家はその少し前ということになる。 - 竏市月気日ま月 礒ノ 業 条の醍醐清滝宮の祭礼能の記事には、世阿弥が「観 の 涯 当を弯吽 0 「ナ一月十八日、キ日第ト「 1 ・ /. 世入道」と呼ばれていて、世阿弥の出家がその年の生 弥 紲四月以前であることが知られる。 目 / 》ま背十一↓ニ 9 これらを総合して、世阿弥の出家は応永二九年の◎ 一「み一下列 ら 1 、 はじめころと考えられているのであるが、それは曹 至坪八月 ( 第 左 帳洞禅への帰依による出家であった。 ) 4 へ事ネる年冬ゞ日一広を 世阿弥と褝との関係は世阿弥の芸論などによって ー、にに」補早くから注意されていたが、それが曹洞禅を基盤に とうぜん 205

2. 現代能楽講義 : 能と狂言の魅力と歴史についての十講

で《井筒》とは異なっている。つまり、これらは《通小町》と《井筒》のあいだにあって、なお多分に《通 小町》的な要素を残しているわけである。曲数からしても、これらが世阿弥が作りあげた夢幻能の標準型と いうべきで、《井筒》はそこからさらに飛躍をとげた作品ということになる。これら標準型とした《桧垣》 などの夢幻能が曲ごとに個性をもっていることはいうまでもないが、それに《井筒》を加えた世阿弥の手に なる一群の夢幻能を前にすると、《通小町》から《井筒》にいたる夢幻能の洗練を主導したのは、ます確実 に世阿弥であったとみてよいであろう。 世何弥以後の夢幻能 夢幻能の展開ーー 因果応報的な色彩の濃い《通小町》のような夢幻能から、世阿能 在 捨弥の作品のような詩的な心理劇へと展開した夢幻能は、そこから現 ヒじ 姨さらに新たな展開をみせる。それは時期としては世阿弥の晩年期 夢 ◎ たる応永末年ころから永享 ( 一四二九 5 ) 以後のことで、さきに 講 みた《井筒》が示すように、世阿弥自身もその新しい動きの担い 第 手の一人であっこが「この時期の新たな夢幻能の開拓者は世阿弥 こんばるぜんちく の女婿。あ金春禅はど、世阿弥の薫陶をうけた世阿弥周辺の 一世代若い能作者たちであったようである。その時期に作られた

3. 現代能楽講義 : 能と狂言の魅力と歴史についての十講

「座」ゆくえ この第五講では、能や狂言はどのような組織によって演じられてきたのか、そして、それが現在はどのよ うに演じられているのか、ということについて述べてみたいと思う。 能を上演する組織といえば、多くの人はただちに「観世座」「金春座」などの「座を思い浮かべるので はないかと思う。観阿弥や世阿弥の観世座、あるいは金春禅竹の金春座というよう。。しかし、あらためて われわれの日常をかえりみると、「観世座ーや「金春座」という一言葉はほとんど耳にすることがない。その かわり耳にするのは、「観世流」や「金春流」という言葉である。この「観世流」や「金春流」は「観世座」 や「金春座」と同じ意味の言葉なのか、それともちがう言葉なのであろうか。同じなら問題はないが、もし ちがうのであれば、「観世座」と「観世流」とはどこがどうちがうのか、また、「観世座」という「座」はど うなってしまったのか、そういったことが問題となるはすである。 この「座」のゆくえについて、あらかじめ結論的なことを述べておくと、現代に「観世座ト、ば存在して な : 同様に、「金春座」も存在していない。さらにいえば、かっては「観世座」や「金春座」とともに存 在していた「宝生座」や「金剛座」や「喜多座」も現代には存在していない。それらは江戸時代以前には存 在したが、 徳川幕府の崩壊とともに消滅して、いまは存在・・、ていない・のである。現在それらの言葉を耳にす ることがないのは、それらの「座」が存在していないからにほかならない。そのかわり、現代には「観世流」 k. Ⅱ ) 2

4. 現代能楽講義 : 能と狂言の魅力と歴史についての十講

ここには、将来を嘱望されていた優秀な後継者に先立たれた老芸術家世阿弥の心情が、身についた巧みな したた レトリックから溢れるようにして認められている。世阿弥はここで元雅の死を観世座の破滅としているが、 ここに元重との確執がこの時期には決定的な亀裂を生んでいたことがうかがわれる。本来なら、元雅亡き後 は、「三郎」の名を与えて、一時は後継者と定めた元重が観世大夫を継げば、「道の破滅」という事態は避け られるはすだからである。事実、翌年の永享五 ( 一四三三 ) 年には、元重は正式に観世大夫となり、義教の ただすがわら お声がかりでその披露のための盛大な勧進能を糺河原で催している。客観的にはそれで観世座は安泰とい うことになるのだか、 世阿弥にはそれは「道の破滅」以外の何物でもなかったのである。 世阿弥が義教によって佐渡に流されたのは、元重が観世大夫就任記念の勧進能を催してからほほ一年後の 永享六 ( 一四三四 ) 年五月のことである。配流の理由はつまびらかではないが、いずれにしてもそれは、以 上に紹介してきたような義教や元重との関係を基盤に考えられるべきであろう。元雅亡き後、元重が晴れて 観世大夫となったあとに、義教をして世阿弥を佐渡にまで流そうと決意させたものは何であったのかを考え てみると、それは世阿弥が著した数々の秘伝書を観世大夫たる元重に渡さなかったことによるのではないか とも思うがーー現に、元重の後裔である観世家に伝存する世阿弥の自筆伝書は応永一一六年以前のものでそれ 以後のものはない もとよりこれは想像の域を出るものではない。 佐渡に流された世阿弥は、そこで二年ほど流人としての生活を送ったあと、永享八 ( 一四三六 ) 年二月こ ろに許されて帰還したと思われる ( 拙稿「世阿弥は佐渡から帰還できたかーー・『金島書』の成立事情の検討からみた 帰還の蓋然性ーー」『能と狂一一「〔』創刊号、平成一五年 ) 。帰還後の状況は不明だが、佐渡から女婿の禅竹にあてた手 210

5. 現代能楽講義 : 能と狂言の魅力と歴史についての十講

従五位下左衛門大夫秦元清書 と日付と署名が記されている。「従五位下左衛門大夫」は正式の官位ではなく、世阿弥の私称らしいが、そ こには役者として「盛りの極め」にある世阿弥の気負いのようなものが感じられる。 ついで、応永八 ( 一四〇一 ) 年の九月ころに、世阿弥は「世阿弥」という名を義満から与えられる。その 間の事情は、『申楽談儀』第二十三条に、 どうあ 道阿の「道ーは、鹿苑院の「道義ーの「道」を下さる。「世阿ーは、鹿苑院、「『観世』のときは『世』濁り けんみ たる声あり。ここを規模」とて、「世阿」と召さる。その比、勘解由小路殿武衛、兵庫にて御大の検見に せん 将軍家、御着帳、自筆に、「先管領」とあそばされしより、今に「先管領」と云。同じゃうに御沙汰、世子 面目の至りなり。 とあって、具体的に知ることができる。右は、義満の周辺で活動していた御用役者で、義満から芸名を与え られた役者が列挙されている箇所であるが、そこに、「『観世』の『世』は濁って発音するから、それに従っ て『世阿弥』としよう」という、義満による世阿弥命名の経緯がきわめて具体的に記されている。これによ ると、「世阿弥」を「ゼアミ」と読むか「セアミーと読むかで意見がわかれたが、義満が「観世」の「世ー 于時応永七年庚辰卯月十三日 ど、つぎ ころ かでのこうじふえい せん 196

6. 現代能楽講義 : 能と狂言の魅力と歴史についての十講

観氏家譜 182 勧進能見聞記 89 観世 307 , 308 観世小次郎画像讃 2 Ⅱ 観世文庫設立十周年記念能 295 観世流古型付集 240 かんのう 42 観能図屏風 170 看聞御記 256 喜多流の成立と展開 木下順二著作集 62 却来華 2 Ⅱ 九位 202 岌蓮江問日記 170 112 狂言ーー「をかし」の系譜 275 玉葉 257 近代能楽集 282 近代四座役者目録 272 , 273 金島書 207 , 2 Ⅱ 慶長見聞集 85 芸能史研究円 1 , 274 研究年報 ( 大阪女子大学 ) 今昔物語集 58 国立能楽堂 226 後愚昧記 186 コ 89 国書総目録 2 引 国語と国文学 225 , 303 五音曲条々 2 Ⅱ 五音 2 Ⅱ 迎陽記 194 , 198 鴻山文庫本の研究 五位 202 源氏物語 34 238 284 さ行 申楽談儀 4 , 32 , 54 , 58 , 68 , 70 , 凵 0 , 185 , 187 , 188 , 194 , 196 ~ 円 9 , 202 , 204 , 新猿楽記 257 浄瑠璃御前物語 28 常楽記円 3 正法眼蔵 30 習道書 209 , 2 Ⅱ , 255 , 256 , 258 , 265 , 278 拾玉得花 201 沙石集 258 至花道ー 99 , 201 三道 140 , 2 田 , 202 209 , 2 Ⅱ , 255 , 268 ~ 270 , 285 周防仁平寺本堂供養日記 255 世阿弥 183 , 184 世阿弥研究 3 世阿弥十六部集 2 コ 84 世阿弥十六部集評釈 4 寧府記事 74 人間世阿弥 183 日本文学史論 170 日本文学誌要 216 , 2 ロ 日本文学史 293 日本文学 62 日本の美学 295 , 296 日本の芸術論 295 日本国語大辞典 29 , 引 , 33 二曲三体人形図 2 田 な行 徳川実紀 35 , 36 , Ⅱ 7 , Ⅱ 8 童舞抄 169 東大寺続要録 258 東海聒華集 200 天文日記に 5 徒然草 33 筑波問答 9 菟玖波集 189 長秋記 257 丹後国分寺建武再興縁起 255 多聞院日記 125 , 216 玉篋両浦島 133 糺河原勧進猿楽日記 272 薪能番組 74 太平記 83 大百科事典 132 , 134 続世阿弥新考 3 千載集 298 , 299 世子参究 183 世界の中の能 62 世阿弥弥十六部集 182 世阿弥元清 183 世阿弥花の哲学 3 世阿弥の能芸論慴 3 世阿弥の字宙 158 世阿弥神竹 4 世阿弥新考 3 コ 84 , 206 329 索引

7. 現代能楽講義 : 能と狂言の魅力と歴史についての十講

能楽史略年表 ■この略年表は本書の記述を能楽史の流れのなかで理解していただくべく作成したもので、かかげた事項は 本書で言及したことがらを中心に選択した。項目の末に本書における言及頁を記したので、索引としても利 用していただけるものと思う。 建長七年〔二月〕興福寺で薪猿楽 ( 薪能 ) 催される。現在も催されている興福寺の薪猿楽の創始はこ れ以前。 ( ー頁 ) 暦応一一年〔三月〕紀州繙河寺で勧進能あり。勧進能の初見。 ( 行頁 ) 三四九 貞和五年〔二月〕春日社の若宮祭で巫女の能 ( 猿楽の能 ) 二番と禰宜の能 ( 田楽の能 ) 二番が演じら れる。能の具体的な内容が知られる最古の事例。 ( 芻頁 ) 〔 , ハ月〕京都四条河原で大規模な勧進田楽が催され、熱狂のあまり桟敷が倒壊。将軍尊氏や 一一条良基らも見物。 ( 爲、頁 ) 貞治三年〔この年〕世阿弥、生まれる。前年の可能性もある。 ( 頁 ) 永和元年〔この年〕観阿弥、洛東今熊野で能を興行。将軍義満が見物し、以後、観世父子は義満の後 援をうけることとなる。この能は前年の応安七年の可能性もある。 ( 頁 ) 316

8. 現代能楽講義 : 能と狂言の魅力と歴史についての十講

きんと、つしょ 紙や佐渡で編んだ謡い物集の『金島書』によれば、帰還後はかっての悲嘆や怨念から解放されて、悠々たる 余生を送ったのではないかと思われる。没年・享年とも不明であるが、享年は関連資料のなかでは最も信頼 できる『観世小次郎画像讃』が伝える八十一歳である可能性が高い。そうだとすると、没年は貞治三年生誕 説では嘉吉四 ( 一四四四 ) 年、貞治二年生誕説では嘉吉三 ( 一四四三 ) 年ということになる。 なお、佐渡配流の少し前の世阿弥は、永享四 ( 一四三二 ) 年一月に室町御所で元雅とともに一番すっ能を カ′、と、つ 演じ、永享五年四月には楽頭だった醍醐清滝宮の祭礼能に出勤して「芸能神妙」と評されている ( 『満済准后 日記』 ) 。後者の清滝宮での能が記録にみえる世阿弥の最後の舞台である。 また、この時期の世阿弥は引き続いて芸論の執筆と能の制作にも励んでいた。この時期に著された芸論と しゅど、つしょ きやくらいカ むせきいっし しては、永享二年三月の『習道書』、永享四年九月の『夢跡一紙』、永享五年三月の『却来華』、年次不明の ごおんぎよくじよ、つじよ、つ ごおん ものに『五音曲条々』『五音』がある。世阿弥自身の著述ではないが、永享二年一一月に息男元能がまとと 涯 さるがくだんど、 生 めた世阿弥の芸談『申楽談儀』もこの時期のものである。 の はんじよ はながたみきぬた また、世阿弥がこの時期に制作した能としては、《井筒》《班女》《花筐》《砧》などがある。これらは前 阿 項に紹介した応永末年以前の世阿弥の自信作にくらべて、詞章や趣向や主題の点で、またいっそう洗練の度◎ 1 、 を加えているように思われる。この講では、「世阿弥の生涯と業績」と題しながら、その記述は「生涯」に 第 偏って、「業績」に及ぶことが少なかったが、能楽史における世阿弥の業績は、第三講の「夢幻能と現在能」 や第六講の「詩劇としての能」で述べてもいるので、そちらをも参照していただきたい。 2 Ⅱ

9. 現代能楽講義 : 能と狂言の魅力と歴史についての十講

要約している ( すこし詳しい『日本文学誌要』の要約をかかげる ) 。 これまでの考察の結果を要約して言えば、能時間は室町中期までは今の半分以下であった。音阿弥の頃に は鬨 % 程度であったろう。それが漸次に延びて来て、室町末期には 8 % に達し、江戸初期に間 % に近づき、 中期には部 % まで接近し、末期には % を越えるに至っていたと見られる。逆に、今の % だったろう音 阿弥時代の能時間を燗 % とすると、室町末期は % 、江戸中期が % 、今が跚 % になる。将来は繝 % に近 づくのではなかろうか あたか これを現在の《安宅》 ( 安宅の関における義経主従の危機と弁慶の活躍を描いた能 ) の上演時間にあてはめてみ ると、《安宅》は現在は八八分を要しているから ( 表章氏が基準にした昭和三七年の所要時間による ) 、室町中期 おんなみ には四四分以下、少しさかのばる音阿弥の時代は三五分ていど、室町末期には五三分ていど、江戸初期には 六二分ていど、江戸中期には七〇分ていど、江戸末期には七九分ていど、となる。音阿弥の一世代前が世阿変 ヒ匕 ム目 弥であるから、世阿弥時代の《安宅》も三五分ていどで演じられていたことになる。 ここで、参考までに、一つだけ具体的な資料をかかげてみよう。野々村氏と表氏が資料としている『満済九 准后日記』の永享二 ( 一四三〇 ) 年四月二三日条の記事である。 今日、為一申楽御見物一、室町殿御入寺。午初刻也。 ( 中略 ) 先於一一会所一三盞進レ之。予対謁申入了。五重盆、 217

10. 現代能楽講義 : 能と狂言の魅力と歴史についての十講

記憶している。しかし、いろいろ希望はのべたものの、まさかそれが実現するとは、正直、思わなかった。 それが実現することになって、私が候補としてリストアップしたのは、世阿弥の作になる《清経》《融》 《泰山府君》の三曲である。ワキが地頭をかねるこの演式だと、《井筒》の前場のように、地謡によって、 シテが長々とワキに物語を語るような場面がある能は、物語を聞いているはすのワキが地頭として ( シテ も加わった ) 地謡をリードする、という奇妙な形になる。いくらそれが世阿弥時代の形であっても、やは りそれは違和感がある。世阿弥時代の地謡の形での上演といっても、それにふさわしい能は、現代ではそ う多くはないのである。《清経》と《泰山府君》を候補にあげたのは、後場にワキの謡がなくワキが地頭に 専念できるからであり、《融》をあげたのは、かってはワキもその地謡部分 ( ほとんどがワキの言葉 ) に加 わっていたロンギが前場と後場の二カ所にあって、それだと昔の地謡の形を明確に示せると考えたからで ある。その結果、上演曲は《泰山府君》に決まった。《泰山府君》は現在は金剛流でしか演じられていない から、観世流と福王流の演者によって、観世流の能として上演される場合には、それは復曲ということに なる。つまり、このたびの試みは、世阿弥時代の同音・地謡 ( その区別は上演詞章の凡例を参照されたい ) による上演というだけでなく、それに復曲をも兼ねた、まことに欲張ったものなのだが、欲張りついでに、 後場の天女の舞についても、現在の天女の舞のままではなく、世阿弥時代の「天女舞。の「創造的復元」 をはかり、さらに曲名は世阿弥に従って《泰山木》とすることにしたのである ( 曲名については表章氏の 一文を参照されたい ) 。 じつをいうと、《泰山府君》 ( 《泰山木》 ) は、三曲の候補のなかでは、もっとも上演してほしいとひそか 第九講◎能の変化 229