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検索対象: 現代能楽講義 : 能と狂言の魅力と歴史についての十講
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1. 現代能楽講義 : 能と狂言の魅力と歴史についての十講

様」はもちろん義満である。 なお、この良基の手紙は、昭和四〇年に中世和歌研究が専門の福田秀一氏によって芸能史研究会の機関誌 『芸能史研究』一〇号に紹介されたもので、世阿弥の伝記資料としては比較的近年の新出資料であるが、こ の手紙については、江戸時代頃の贋作であろうとする説が出ている ( 百瀬今朝雄氏「二条良基書状。・ー世阿弥の 少年期を語るーー」『立正史学』六四号、昭和六三年 ) 。その論拠は、当時の手紙としては長すぎること、「尊勝院 へ」「将軍様、という表現が当時のものとは思えないこと、などというものである。これは書状研究の専門 家の指摘であり傾聴すべき意見とは思われるが、筆者などは、この手紙の発見者である福田秀一氏が指摘さ れている良基の連歌論の用語との近似や、この手紙が良基でなければ書きえない内容を有していることに加 えて、良基がこの手紙のような当時の公家としては異例の仮名書の手紙を他にも残していることーー『師守 記』に所見ーーなどを理由に、この手紙はやはり良基の手紙とみてよいと考えている。 さて、この良基の世阿弥寵愛については、もう一つ興味深い資料が知られている。それは永和四年四月に、 良基が自邸で催した連歌会に世阿弥 ( 藤若 ) が出席して詠んだ句が、良基を感嘆させたことである。それを こよ、少年世阿弥が良基邸で詠んだ句がつぎのように記 伝えるのは先述した崇光上皇の『不知記』で、同記 : ( されている。この『不知記』も昭和四二年に紹介された比較的近年の資料である。 今を捨つるは捨てぬ後の世准后 罪を知る人は報ひのよもあらじ児 第八講◎世阿弥の生涯と業績 191

2. 現代能楽講義 : 能と狂言の魅力と歴史についての十講

たいさんもく 謡による《泰山木》」であった。この試演的上演には筆者も企画段階からかかわっていた関係で、当日配布 の小冊子 ( 一二頁 ) に筆者はつぎのような一文 ( 「名作で復元する世阿弥時代の地謡ーー復曲《泰山木》上演の意義と 経緯ー。」 ) を寄せている。これまで述べてきたことの補足にもなると思うので、ここに全文をかかげさせて いただくことにする。 現在の能が世阿弥時代の能とはいろいろな点で異なっているということは、今日ではもうあたりまえの 知識であろうが、それが実感できるかどうかは、また次元を異にする別の問題である。たとえば、現在の ーー三倍以上の延伸ーーでも、 能と世阿弥時代の能のちがいとしてしばしば例にあげられる上演時間のちがい それを示す確実な資料によって理屈では理解しているのだが、その実感となると、もうお手あげである。 地謡の変化もそれと同じで、世阿弥時代は、地謡は今日のように能の上演機構のなかの一セクションとし て固定していす、今日の地謡の一部は出演している立役が兼ねて、それをワキが統率していたーー・・というこ とは分かっていても、実際にそのやりかたで上演された舞台を想像することは、きわめてむつかしいので ある。 その世阿弥時代の地謡のかたちで能を上演してみたいので、ますはそれにふさわしい曲を選んでもらえ まいか、という依頼を福王茂十郎氏からうけたのは、三年ちかくも前のことである。それを聞いたとき、 私はそれより何年も前に、福王家でお盆に行われている装東の虫干しに便乗して、同家が所蔵する能楽資 料の調査のため、伊藤正義先生や小林健二・大谷節子氏などとともに、三年つづけて平野町のお宅にうか 第九講◎能の変化 227

3. 現代能楽講義 : 能と狂言の魅力と歴史についての十講

ゅうがくしゅどうふうけん 『遊楽習道風見』『五位』『九位』もこの間の著作である。 1 ) 竹それぞれの内容などは、これも『岩波講座能・狂言Ⅱ , 神いく、 : 事ハ》く、単 当乞を。 ~ 〔能の伝書と芸論〕』などに譲るが、これらは世阿弥五〇 ぞ - 新、「い躔三杯 ' ~ 全 代後半から六〇代前半にかけての思索の成果である。し 一一 - く内 ~ ( 4 林・エ舅富 心″「うなをユイ 01 ん図 かも、これが著述を業としない能役者の仕事であること 気 ~ 、めら、 = 2 上チ形 上 % 毳アて髷第人 。オ【。ち二 ~ 新 , 罸、 0 、一一体を思、つと、まことに驚くべきものがある。これらの芸咄 には共通して用語や発想のうえに褝の影響が認められる が、そのような禅的な要素も、これらの芸論の内容を深 め、また特徴づける結果になっている。 一方、この時期までに世阿弥がどのような能を制作していたかであるが、『三道』と『申楽談儀』の記述 によれば、応永末年までに世阿弥が制作していた能は、つぎの二二曲である ( ・印は廃絶曲、。印は散逸曲 ) 。 弓八幡、高砂、養老、老松、融、蟻通、・箱崎、・鵜羽、。 盲打、松風、百万、桧垣、忠度、実盛、頼政、 清経、敦盛、高野物狂、逢坂物狂、恋重荷、船橋、泰山府君 世阿弥は『三道』で、「これらは応永年間の自信作で、今後制作される秀作に比べてもヒケはとるまい」 と、自信たつぶりに述べているが、事実、これらの多くは現在も名作として上演されていて、世阿弥の評価 202

4. 現代能楽講義 : 能と狂言の魅力と歴史についての十講

のであるが、二日目の五月二五日には、義満は「御大飲」のていであったとある。同じ二日目に「猿楽数辺、 能を尽くし了んぬ ( 能は数番上演されたが、いすれも技能のかぎりを尽くしたものであったことあるのは、断片的 ながらそのときの世阿弥の熱演を伝えたものである。 この一条竹ガ鼻での勧進能の興行は、世阿弥にとっては、その能役者としての生涯を左右するような意味 をもっていた。というのは、この翌年に著された『風姿花伝』第一の「年来稽古条々」の「三十四五」の項 に、世阿弥自身が、三四、五歳は役者としての盛りの極めの時期で、名手であれば、この時期に「天下の許 され . を得、また「天下の名望」をも獲得できるだろう、と記しているからである。応永六年に一条竹ガ鼻 で勧進能を催したときの世阿弥は三六歳で、まさに盛りの極めの年齢であったが、そのような時期に将軍を はじめ公武の貴顕が見物する公開の勧進能を催したのは、まさしく「天下の許され」と「天下の名望」を獲 得したことにほかならなかった。 そのような順境のなかで、世阿弥は翌応永七 ( 一四生 っ羅のリをとりわれソ 41 め弥 、くっ・ ? はれ。 ~ 、 ( く 0 〇〇 ) 年に、はじめての芸論である『風姿花伝』の第 、オ・かさいゅ 修三編までを執筆する。その三編とは、「年来稽古条々」◎ 「「物学条々」「問答条々」であり、その内容は役者の魅 のクイ〕もよ。光〕りグ・一「々く多、既 力を「花」の語で表した、わが国初の演劇論というべ 。ワさのら ) 、ワへ昀ー 4 イ、 花きもので、末尾には、 と弋 1 おわ 円 5

5. 現代能楽講義 : 能と狂言の魅力と歴史についての十講

いうほどのものではない。《井筒》ではそのかわ り主題としては「懐旧 , というきわめて普遍的 な観念をうちだしている。一方は具体的・即物 的であり、一方は象徴的・観念的である。同じ 夢幻能とされてはいるが、《通小町》と《井筒》 のあいだにはこのような大きな、あるいは質的 なちがいがあるわけである。 このような《通小町》と《井筒》のちがいは、 もちろん作者のちがいにもよるのだが、 両曲の 成立時期を考えると、それは基本的には成立時期のちがいに由来するとみてよいであろう。ようするに、最 初は《通小町》のような素朴な内容だった夢幻能は、五〇年ほどをかけて、《井筒》のような洗練された劇 へと発展をとげたことになるわけである。 もっとも、ここで世阿弥の作としてとりあげた《井筒》は、じつをいうと、世阿弥の夢幻能のなかでもと りわけ洗練度の高い作品で、かならずしも標準的な世阿弥の夢幻能というわけではない。標準的な世阿弥の ひがき たたのり きよっね より・士さ あつもり 夢幻能というなら、それは《井筒》以前に成立していた《桧垣》《忠度》《清経》《敦盛》《頼政》などをあげ るべきであろう。これら《井筒》以前の夢幻能は、シテが生前の姿で登場する点は《井筒》と同じだが、懴 悔のために生前のできごとが再現的に物語られている点や、「執心からの解放」という要素が濃厚という点

6. 現代能楽講義 : 能と狂言の魅力と歴史についての十講

った。わすかにバイロンの影響下に書かれた北村透谷の《蓬莱曲》、森鴎外の《玉篋両浦島》、幸田露伴の 《有福詩人》などがあるのみである。 と、ふたたび日本の能への言及があって終わっている。 このように、世界の演劇史においては、能はまぎれもなく「詩劇」と位置づけられているのだが、これに たいして、われわれ日本の能楽の研究者や愛好者は、かならすしも能をそのようにとらえてはいないように 思われる。たとえば、現在の代表的な能楽の事典や解説をみわたしても、能を「詩劇」という視点で位置づ けようとしたものはあまり多くはなく、わすかに、昭和六二年刊行の『能・狂一言事典』 ( 平凡社 ) の「世阿弥 ヒヒ の項 ( 表章氏執筆 ) に、世阿弥の能作者としての業績を、「古歌や古文を巧みに応用し、和歌的修辞や連歌的 展開で彩った流麗な謡曲文は、抒情と叙事の適度の配合やイメージの統一とあいまって、見事な詩劇を創造て し している」としている例や、昭和六二年刊行の『岩波講座能・狂言Ⅲ〔能の作者と作品〕』で、世阿弥の能と の特色が「詩劇の達成」という項目のもとに説かれている例 ( 西野春雄氏執筆分 ) や、平成一〇年刊行の岩波 詩 新日本古典文学大系『謡曲百番』の解説 ( 西野春雄氏 ) が、「詩としての謡曲ーという一節を設けて、詩人の◎ 講 野口米次郎が謡曲 ( 能の台本 ) を「リリカル・ドラマ」と英訳したことなどをあげて、能の詩的な側面への六 注意を喚起している例などが知られるていどである。 この傾向は、事典や解説類から専門的な研究論文や研究書に目を転じても同じである。この方面では、昭 和三七年に小西甚一氏がイギリスの詩人工ズラ・パウンドの指摘をふまえて、世阿弥や世阿弥周辺の作者の 133

7. 現代能楽講義 : 能と狂言の魅力と歴史についての十講

が誤りでなかったことを裏づけている。なお、これ らは自信作のみをあげたものであって、世阿弥が応 永末年までに制作した能はこれ以外にも少なくなか ったはすである。 さて、この時期は世阿弥が出家した時期でもある。 世阿弥の出家は五九歳だった応永二九 ( 一四二二 ) 年のこととされているが、それについては、つぎの 『申楽談儀』第二十四条の記事が参考になる。 また、応永廿九年霜月十九日、相国寺のあたり、 檜皮大工の娘、病重かりし時、北野聖廟より霊 夢ありて、「東風吹かば , の歌を冠に置きて、 歌を詠みて、勧め歌なり、観世に点取りて、神 前に籠むべきと、あらたに見しかば、歌を勧め て、縁を取りて、世子に点を取る。否みがたく て、行水し、合点せしなり。その頃ははや出家 しつれやら ありしほどに、「夢心に「観世とは、・ 204

8. 現代能楽講義 : 能と狂言の魅力と歴史についての十講

法師にたしなめられ、また、天王寺の西門が極楽の東門にあたるということをめぐって弱法師に諭される場 面がある。つまり、現行の《弱法師》では、親が二度もわが子からたしなめられているわけである。これを 世阿弥本でみると、弱法師に対しているのは天王寺の僧であり、高安はさいごの場面になって人込みのなか から名乗り出る形になっており、二度も諭されるのは天王寺の僧なのである ( 最初は妻が二度目は弱法師が諭 している ) 。こうしてみると、現行の《弱法師》がいかに不自然な形になっているかが知られるであろう。 《弱法師》が現在のような形に改編されたのはおそくとも室町後期のことであるが、このような不自然さは 世阿弥本が昭和一六年に紹介されるまでは、気づかれることがなかったのである。《弱法師》は世阿弥本の 形で平成三年に上演され ( シテは浅見真州、高安 道俊にはワキ方の宝生閑 ) 、以後、その形で何度 か上演されている。 はなご よしたの つぎは、「班女ーと呼ばれる遊女花子と吉田 しよ、つしよ、つ 変 少将の別離と再会をとおして、「恋慕」をテー マとした世阿弥の《班女》の事例である。班女「 はたがいに扇を取り交わして再会を約東した少九 将を探し求めて美濃の野上の宿から京に上り、 ただす 下鴨社の糺の森あたりで「狂女」 ( 舞芸人という 設定 ) として過ごしている。そこへ吉田少将が as•s 第了ーをー一 さいもん 班女 はんじよ 247

9. 現代能楽講義 : 能と狂言の魅力と歴史についての十講

描いたあと、一曲は「また車にうち乗りて、火宅の門をや出でぬらん、火宅の門」という文句で終わってい る。ただし、右のように「火宅の門」で終わるのは観世流と宝生流で、金剛流では「火宅の門を」で終わり、 金春流と喜多流では「火宅」で終わる。たぶん、「火宅」で終わる金春流と喜多流の形が原形かと思われる が、そのいすれであっても、六条御息所は成仏できす、永遠に深い寂寥感のうちにあることが暗示されてい る。 《通小町》から出発した夢幻能は、世阿弥の時代に心理劇として洗練されたが、世阿弥のあと、さらにこ のような展開をみせたのである。この ような世阿弥以後の夢幻能の展開 ( あ るいは洗練 ) については、右に紹介し た《姨捨》《芭蕉》《定家》などをめぐ 在 って、それらに共通する戯曲構造を終現 A 」 わりのない「円環構造」ととらえ、そ こに提示されたものを「荒れたる美ー◎ 講 と呼んで、それらを金春禅竹の演劇的三 創造としたすぐれた論が出ているか ( 山木ュリ氏「「荒れたる美」とその演劇的 成立ーー「芭蕉」・「定家」・「姨捨」と褝竹 野宮

10. 現代能楽講義 : 能と狂言の魅力と歴史についての十講

とはなっていない。その後、世阿弥時代から現代までの能の地謡の機能の変遷を詳細にたどった藤田隆則氏 の労作『能の多人数合唱』 ( 平成一二年、ひつじ書房 ) も刊行されたが、状況はほとんど変わっていない。そ もそも、能の「地謡」部分については、それを作者による三人称的な文章とする理解がたぶん今でも一般的 ではないかと思う。それは今日にはじまったことではなく、坪内逍遥や野上豊一郎でさえそう理解していた のだから、その理解はほとんどの日本人のものだったと思われる ( 逍遥の理解については拙稿「世阿弥時代の地 謡と世阿弥の《泰山木》」『国立能楽堂』平成一四年五月に言及した ) 。そして、「地謡」部分をそのように理解して きたわれわれは、ヒヒ、 育としう演劇を、登場人物の人称がつぎつぎと変わる、不思議な演劇であるとみなし、そ のような不思議な点こそが能の能らしい特色であると考え、また、そのような点をもって、能はたんなる演 劇とは異質の何かである、とい、つよ、つにも考えるようになったわけである。 しかし、以上に述べたことで明らかなように、能の「地謡」部分は多くはシテやワキのセリフなのであり、 その点では現代の演劇と少しも変わることはないのである。かっての能の「地謡」部分の形が解明されたこ とは、たんに能の古い上演機構が判明したというだけのことではなく、現代のわれわれを呪縛してきた、能 についてのある種の固定観念の打破という点でも、大きな意味があるというべきであろう。なによりもそれ は、われわれの今後の能の読み方に根本的な変革を迫るものと思う。 ところで、このような「地謡」部分の変化が明らかになってみると、かっての「地謡」の形を舞台で実際 にみてみたいと思うのは当然であろう。それを強く希求して実践したのがワキ方福王流の福王茂十郎氏で、 その実践の場となったのが、平成一二年一〇月四日に福王氏が大槻能楽堂で催した「世阿弥時代の同音・地 226