以上は流儀間というョコの違いであるが、もう一つ、時代によるタテの変化のほうはどうであろうか。じ こうざん つは、この方面についてはいまだ詳細な調査は行われてはいないが、『鴻山文庫本の研究』などに示された こくせつ 表章氏の研究によれば、観世流では、近世初期ころに観世大夫黒雪 ( 寛永三〔一六二六〕年没 ) による詞章や 節付の整理があって、それ以前とそれ以後で詞章がかなり改訂され、基本的にその整理の形が現行詞章に引 き継がれている、という。右の一覧でいうと、〔上純〕の石田少左衛門盛直節付本が黒雪による整理後のテ キストである。ただし、《敦盛》については室町時代と江戸時代以降とではそう大きな変化はない。また、 どうせつ とりカいりゆ、つ 「下掛り」の金春流では、文禄 5 慶長年間に鳥飼流の書家で謡の教授を業としていたらしい鳥飼道晰が節付 したいわゆる車屋謡本の詞章がそれ以前の金春流の詞章とはかなり異なっており、近世以降の下掛り系の謡 本はその車屋謡本の影響を受けて現在に至っている、という ( 『鴻山文庫本の研究』 ) 。ただし、《敦盛》につい ては、やはりそう大きな変化は認められない もとあきら なお、能の詞章の変化ということでは、明和二 ( 一七六五 ) 年に当時の観世大夫元章がそれまでの観世流の この元章による 詞章を大幅に改訂して刊行した、いわゆる「明和の改正」もあげておかなくてはなるまい 改訂はたんに詞章だけでなく、演出やアイ狂言など能全体に及ぶ、「能楽改革」ともいうべき事業であったが、 九年後の安永三 ( 一七七四 ) 年の元章の死去によって詞章は改正以前の形にもどされている。したがって、詞 章の変化という点では「明和の改正」は江戸中期の一時的な現象ということになるのだが、その影響はとく に発音の清濁において現在の観世流に少なからず残っていることを強調しておきたい。たとえば、それまで 「どうどうたらり」と濁音で発音されていた《翁》の文句が明和の改正によって「とうとうたらり」と清音に 238
戸時代の「座」とは比較にならないほど規模の小さいものであったようである。もっとも、この時代の「座」 については関連資料がきわめて乏しく、その実態の詳細は把握がむすかしいが、わすかに室町時代末期の てんもんにつき 『天文日記』や『多聞院日記』に、金剛座と観世座と金春座の規模をうかがわせる記事がある。 『天文日記』は石山時代の本願寺の門主だった証如の天文年間 ( 一五三二、・五四 ) の日記であるが、この時 期の本願寺には宝生座以外の大和の猿楽座がしばしば参上して演能している。たとえば、天文六 ( 一五三七 ) 年二月には金剛座が、天文八年九月には金春座が、天文九年には観世座がそれぞれ参上して能を演じている 、つじてる が、そのおりの金剛座は「金剛大夫一座、大夫迄廿四人」であり、金春座は金春大夫氏昭父子のほか一六人遷 変 の の座衆からなっていたし、観世座は「座衆悉来。十七、八人有レ之」という構成であった。 そ たっちゅ、つ レ」 また、『多聞院日記』は興福寺の塔頭多聞院の院主だった英俊の日記であるが、同記によれば、天文一二 年 ( 一五四三 ) 二月の薪能には観世大夫一行が八〇人ばかりで奈良に下向している。 管見では、室町時代の「座」のようすを伝える資料はこのくらいしかないが、これらを総合すると、室町て 宀典 後期の「座」の座衆は二〇人前後というものであったように思われる ( 『多聞院日記』が伝える八〇人には役者 を ヒ匕 以外の者が含まれているのであろう ) 。これは前項で紹介した江戸時代の「座」とくらべると差が大きすぎて、◎ 講 五 あるいは信じがたいと思われるかもしれないが、どうもこれが当時の「座」の平均的な規模であったらしい 第 そもそも考えてみれば、一番の能を上演するには、一二、三人の役者がいれば、それで十分である。しかも、 室町時代は一つの催しに一〇番前後の能が上演されたが、それは同じ役者によって演じられるのがふつうだ ったから ( かっての能はそれくらい軽い芸能だったのである ) 、二〇人近くの役者がいれば、それで狂言も含めた に 5
甥でのちの音阿弥 ) が引き立てられる。 ( 頁 ) 永享四年〔八月〕世阿弥の息男観世十郎元雅、伊勢安濃の津 ( 現在の津市 ) で客死。 ( 鰤頁 ) 永享五年〔四月〕観世三郎元重、糺河原で義教の後援になる観世大夫就任披露の大がかりな勧進能を 催す。 ( 四頁、跚頁 ) 永享六年〔五月〕世阿弥、義教により佐渡に流される。 ( 跚頁 ) 永享八年〔二月〕世阿弥、佐渡で謡い物集『金島書』を編む。この直後に帰還したか。 ( 跚頁 ) 一四四一 嘉吉元年〔六月〕将軍義教、赤松満祐亭で音阿弥の《鵜羽》見物中に暗殺される。 一四六四 寛正五年〔四月〕音阿弥、嫡男の観世大夫又三郎が将軍義政の後援で糺河原で催した勧進能に出演。 老年ながら十二番の能を演じる。 ( 四頁 ) 応仁元年〔一月〕音阿弥、没す。享年七〇。 文明一四年〔二月〕手猿楽内藤七郎と塩瀬、禁裏で演能。これ以後、京都の富裕な町人出身の手猿楽 ( 素人猿楽 ) の活動が活発になる。裔頁 ) 大永四年〔五月〕『能本作者注文』成る。同書は三五〇番の能を作者別に掲げる。 元亀二年〔八月〕観世宗節・観世元尚父子、浜松の徳川家康のもとで演能。以後、観世大夫は徳川氏 の後援を受けることになる。このころ、他の大和猿楽の大夫も京都を離れて地方に下向。 天正一三年〔二月〕薪猿楽、「田舎の秋祭の風情」と評されるほどに衰退。 (E 頁 ) 文禄二年〔一〇月〕秀吉、能に熱中し禁裏で三日間の能を催し、自身も一二番の能を演じる。 一五七一 引 8
ら鎌倉時代後期ころに滑稽性をそぎ落とした能という新しい劇が誕生したこと、その能にたいして、猿楽本 来の滑稽主体の芸がその後は狂言として発展したこと、などを述べている ( ↓三五頁 ) 。 能にしても狂言にしても、それがどのようにして成立したかは、現時点ではこのていどの推定しかできな いのであるが、「笑劇、という点に着目すると、狂言の源流が平安時代や鎌倉時代の猿楽であることは確実 しん当、るがくき あきひら であろう。そのころの猿楽については、たとえば一一世紀中頃の成立になる藤原明衡の『新猿楽記』や『明 じんなんじようえんきようのうあがた ご、つお、つらい 衡往来』の記事がよく知られているが、それによると、当時は、「件太 . 「仁南」「定縁」「形能」「県の井戸 さちまろ もどりよしとくたか せそんし ど、ったっさかの、つえきくまさ せんじよう の先生 , 「世尊寺の堂達 , 「坂上の菊正」「還耨の徳高」「大原の菊武」「小野の福丸」といった滑稽芸を専業 とする猿楽の役者がいて、彼らによって、聖法師とのあいだに子どもができた尼が赤子の繦褓 ( おむつ ) を さがし求めるような寸劇や、「仮に夫婦の体をなし、衰翁をまねて夫となり、顔よき女をまねて婦となる。 はじめは艶言を発し、のちに交接におよぶ」といった内容の寸劇が演じられていたようである。これらが現魅 レ」 在の狂言によく似ていることは明らかであろうが、このような狂言成立以前の狂言的な芸能の存在は、『新史 の 猿楽記』や『明衡往来』以外にもみえる。それらも紹介しておこう。 平安後期の比叡山で東塔の学生が苦住者 ( 修行僧 ) ◎ これは『長秋記』という記録にみえるエピソードだが、 をからかうような内容の「猿楽」を上演したため、修行僧の怒りをかい、学生とのあいだに大乱闘が起きて十 いる。能勢朝次氏の『能楽源流考』はこのエピソ 1 ドを、「苦住者が怒ったといふ点から考へると、学生の 演じた猿楽は相当に思切った風刺滑稽が行はれた」と説明している。 ごせち また、九条兼実の日記『玉葉』には、禁裏の五節の設営を担当したある国守が警護役の滝口に贈り物をし 257
に「家元」が存在しているわけである。 さて、このうちもっとも歴史が古いのは、シテ方の観世流・宝生流・金春流・金剛流の四流である。この よざ 四流はおそくとも南北朝時代には結成されていた大和猿楽四座 ( 観世・宝生・金春・金剛の四座 ) の直系に位 置する「流儀」で、現在の四流の家元はかっての四座の大夫の直系にあたる。右の大和猿楽四座のなかに現 在の喜多流につながる座がみえないのは、現在の喜多流の源流は江戸時代初期に樹立された喜多座であり、 その歴史は室町時代まではさかのばらないからである。ちなみに、現在の観世流の家元 ( 宗家ともいう ) は ふさてる 二六世の観世清和、宝生流の家元は一九世の宝生英照、金春流は七九世 ( 代数は同家の系図による ) の金春信 ひさのり 高、金剛流は一一 , ハ世の金剛永謹、喜多流は一六世の喜多六平太である。 シテ方以外の「流儀 , もそれぞれに古い由緒を持っている。たとえば、大鼓でいうと、もっとも歴史が 古いのが大倉流や高安流で、大倉流の実質的な流祖は天文一三 ( 一五四四 ) 年没の金春座 ( のち観世座に移籍 ) どうぜん 所属の大倉九郎能氏、高安流の流祖は弘治三 ( 一五五七 ) 年没の観世座所属の高安道善である。江戸時代に かどの は大倉流は金春座の、高安流は金剛座の所属だった。葛野流と石井流は初代はともに安土桃山時代に活躍し た素人出身の役者で、江戸時代には葛野流は観世座の所属、石井流は幕府のお抱えではなく ( したがってど の「座」の所属でもなく ) 、尾張徳川家と加賀前田家のお抱えであった。また、残る観世流は元禄七 ( 一六九四 ) 年に生まれた新しい「座」であるが、この大鼓観世流についてはちょっと興味深い歴史があるので、すこし くわしく紹介しておきたい。 現在、大鼓観世流の能楽協会会員は一名だけという小さな流儀で、昭和三四年生まれの守家由訓が家元代 おおつづみ 106
阿部豊後守正武 36 安倍能成 234 在原業平 55 , 300 ~ 302 井伊直孝Ⅱ 8 イエーツい 2 池内信嘉 38 , 48 コ幻コ 65 コ 67 , 石田少左衛門盛直 232 , 238 —21, 25 , 川 8 , 23 ( ) ロ 9 梅若九郎右衛門Ⅱ 3 梅津正利 234 宇治 ( 大蔵 ) 弥太郎 272 兎大夫 27 し 272 岩本秀清 232 岩倉具視 37 , 175 今川了俊引 伊藤正義 227 , 300 伊東俊太郎 308 , 309 市川染五郎に 市川新之助に 和泉元弥 273 惟肖得巌円 9 梅若大夫 82 , 83 梅若猶彦 4 , 幻 梅若万紀夫 24 梅若六兵衛Ⅱ 4 梅若六郎に , 円 浦田保利幻 英俊に 5 英照皇太后ロ 5 工ズラ・ノヾウンド ェリオット 132 黄檗 30 大蔵虎明 96 , 272 大蔵大夫 78 , 80 大倉九郎能氏 106 133 太田喜二郎 94 大谷節子 227 大槻文蔵円 , 20 , 大槌 269 ~ 271 大原の菊武 257 岡部六弥太 296 , 298 岡本さとる幻 岡緑蔭 285 押小路公忠 6 小野小町 54 , 55 , 248 小野福丸 257 田 8 , 230 , 285 ~ 幻 8 , 225 , 228 , 238 表章 41 コ 07 , 1 Ⅱ , に 8 , 133 , 4 , 5 , 幻 6 加賀乙彦 21 片山九郎右衛門円 , 108, に 3 片山伝七 123 片山博通 93 葛野九郎兵衛Ⅱ 3 狩野琇鵬 25 川路聖謨 74 河村信重 21 河村晴久 25 観阿弥 54 , 70 , ー 02 , 1()8, い 2 , 5 ~ 7 , 円 3 , 197 , 255 , 266 , 268 , 270 観世暁夫 21 , 24 観世清和 19 , 106 , 川 8 , 230 観世小次郎信光 2 引 , 235 観世左近 93 観世四郎 208 力、彳テ 観世大夫元広 ( 道見 ) 制 観世大夫之重 79 ~ 観世大夫政盛 79 , 272 幻 8 , 269 , 272 観世大夫元重 ( 音阿弥 ) 79 , 207 ~ 210 , 2 ロ , 観世新九郎Ⅱ 3 観世十郎元雅 ( 善春 ) 205 ~ 209 , 246 , 269 喜多実 22 喜多七大夫長能 85 コⅡ 北川忠彦 3 , 275 ~ 277 菊 269 , 270 , 2 引 喜阿弥 197 観世善之 21 , 1 ( ) 8 観世与左衛門Ⅱ 3 観世弥三郎 107 観世三左衛門Ⅱ 3 観世栄夫円 観世寿夫 108 観世銕之丞華雪 93 観世銕之丞 21 観世大夫清長 86 観世大夫清賜 86 観世大夫元章 86 , 238 , 239 , 244 , 245 観世大夫重清 86 観世大夫重行 8 観世大夫重成 85 , Ⅱ 3 , 168 観世大夫身愛 ( 黒雪 ) 85 , 238 観世大夫元尚 83 , 2 引 観世大夫元忠 ( 宗節 ) 82 , 83 コ 72 コ 73 北村透谷 133 327 索引
たのであった。 つぎの昭和五二、三年ころのプームは、コーヒーメ 「寰 0 ーカーの「違いがわかる男」というキャッチフレーズ のコマーシャルに和泉流の野村万作が起用されたこと をきっかけに、狂言にたいする社会の関心が高まった つりぎつね ものである。野村万作が大曲《釣狐》を四回連続で 上演して話題を呼んだのも、このときのことである。 このプームはテレビとい、つマスメディアが重要な役割 訒をはたした。 これにたいして、現在の狂言プームはマスメディア魅 、 ' ・ ( 、、ー強を・す狂が媒体となっていることは昭和五二、三年ころと同じ史 だが、当然のことながら、現在の状況は過去二回のそ れとは違、つ側面をもっているよ、つに思われる。これま◎ でのところ、現在の狂一言プームは、どちらかとい、つと、 社会的には新しい芸能人の登場というような受け止め られ方をされている印象が強く、少なくともかっての 狂言プームにおける、狂言そのものへの関心という側 253
三つの狂一 = 。プ ( ム 平成八年あたりからはじまった狂言にたいする高い社会的関心は、狂言プ 1 ムと評してよい現象だと思う が、じつは近代における狂言プームはこれがはじめてではない。これ以前の狂言プームとしては、今からお よそ半世紀ほど前、昭和三〇年代の狂言プームがまずあげられるし、それほどの規模ではなかったが、昭和 五二、三年ころにも狂言プームと呼べる現象があった。 しろき そのうちの昭和三〇年代の狂言プームは、東京の「白木狂言の会」や京都の「市民狂言会」など伝統的な 能舞台以外の場を会場にして催された狂言だけの催しの充実、《濯ぎ川》《東は東》《彦市ばなし》などすぐれ た新作狂言の意欲的な上演、野村万蔵、三宅藤九郎、山本東次郎、茂山弥五郎、茂山千五郎、茂山忠三郎な ど多くの名手の活躍、それに狂言研究の進展、といったさまざまな事象によって支えられていた。プームの 具体的な状況やその意義などについては、『岩波講座能・狂言〔狂言の世界〕』 ( 昭和六二年 ) の「三、狂言 の形成と展開」に要領よく整理されているが、いまあらためて振り返ってみると、昭和三〇年代の狂言プー ムは、狂言界全体を覆う現象であり、また、狂言にたいする社会の関心も狂言全体に向けられていたところ にその大きな特色が見いだせるように思う。その背景には、戦後という新しい価値観が積極的に模索されて いた時代があり、そうした時代環境のなかで、長いあいだとかく能のかげにかくれがちであった狂言がその 歴史のうえではじめて単独の演劇として注目され、その全体が演劇的にも文化的にも社会の強い関心を集め 252
自然というべきであろう。 以上、やや私見もまじえて、現在の舞台の不自然な演出をあげてみた。このほかにも、筆者は、《朝長》 ふじと や《藤戸》や《天鼓》など、前ジテと後ジテとが別人格の能で、前ジテとして登場した人物が前場だけで退 場してしまい彳 、麦場まで居残っていない形も不自然だと思っている。《朝長》の前ジテは朝長の最期に立ち おおはかしゆくちょ、つ 会った青墓の宿の長 ( 女性 ) であり、《藤戸》の前ジテは漁師のわが子を佐々木盛綱 ( ワキ ) に殺害された母 親であり、《天鼓》の前ジテはわが子を皇帝に殺害された父親であるが、かれらは朝長や漁師や天鼓の亡霊 が現われる後場にいるべき人物であるのに、前場だけで退場してしまうのである。この三曲は本来は、前ジ テと後ジテを別の役者が演じて、前ジテはそのまま後場まで残っていたのが、前後のシテを一人の役者で演 じる他の多くの夢幻能の影響をうけて、前ジテが退場する形に変えられたものではないかと思う ( 拙稿「青 墓の長は《朝長》の後場に残っていた」『おもて』八〇号 ) 。 このような現象はなお多くあるはすであり、また、詞章にも明らかな誤謬と思われる例が少なくないのだ が、古典劇である能においては、このような不自然な場面や明らかな誤謬がほとんど気づかれることなく上 演されているのである。事情はたぶん歌舞伎や文楽でも同様であろう。それは「古典」というものを完成さ れたものとみて、それに疑問というものを抱こうとしないわれわれの習性によるカ育力士イ ( ゞ、ヒヒゞ見弋こ上寅されて いる「現代劇 . である以上、他の演劇と同じような疑問を能にたいしてもっことが、能にたいする礼儀とい うものではないだろうか てんこ と・もかみが 250
町も若い女性姿で登場しているから、この矛盾はすいぶん長く続いているわけである。これにたいして、前 場の小町を姥姿で登場させる演出が現在たまに試みられているのは、当然とはいえ演者の模索の姿勢が感じ ともえ られて好ましい。これはセリフと登場人物の姿がチグハグな例であるが、《巴》の後場に登場した巴御前の 亡霊が、「所はここぞお僧たちーといっているのに、舞台には僧一人しかいないのも、似たような例である。 みちもり さいごは世阿弥時代の修羅能《通盛》の事例である。《通盛》 の前場には、一の谷で討死をとげた平通盛と鳴門の沖で入水 した小宰相の局夫婦の化身が登場する。つまり、二人はとも に死者となっているのだが、そこに現われた通盛は老人 ( 漁師 姿 ) であるのに、小宰相の局のほうは若い女性姿なのである。 のちば この夫婦は亡霊として後場にも揃って登場するが、そこでは 通盛も小宰相の局も往時の若い姿になっている。《通盛》の前 変 場は古い演出資料でも現行と同じであるが、これはやはり小 の ヒ匕 ム目 宰相の局も老人姿であるのが本来の形だったのではないかと◎ 思う。それを、「場面性」を優先させて、小宰相の局の化身を九 若い女性の姿にしたのではないだろうか。あるいは、そのよ うな「場面性」優先が原作以来のものである可能性もないで はないのだが、 「理屈ーを優先させると、この場面はやはり不 こざいしようつほね 249