世阿弥 - みる会図書館


検索対象: 現代能楽講義 : 能と狂言の魅力と歴史についての十講
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1. 現代能楽講義 : 能と狂言の魅力と歴史についての十講

の読み方を持ち出して決着をみた、ということのようである。それに続けて世阿弥は、その頃、前管領だっ せん た勘解由小路殿 ( 斯波義将 ) の呼称について、「前管領」と「先管領」の二通りの呼び方があったが、兵庫の いぬおうもの 湊で大追物を催したときに、義満が大追物の検見 ( 審査役 ) である義将の名を手ずから名簿に「先管領」と 記したため、以後は「先管領」に決まったことをあげ、世阿弥という名が斯波義将の「先管領」と同様に義 満の判断によったことを、「面目の至り」だと誇らしく語っている。なお、その命名の時期を応永八年九月 ころとしたのは、都合一二回が知られる義満の兵庫行に斯波義将の同行が確認できるのが、同年九月の兵庫 行だけだからである。 こうして、世阿弥は応永八年に「世阿弥」になったのであるが、この「世阿弥」という名は出家とか信仰 とかには関係のない芸名とみるべきもののようである。じつは、義満の周辺の役者には、「ーー阿弥」という どう 阿弥号を名にもっ役者が世阿弥以外にもいる。そもそも世阿弥の父観阿弥がそうであり、近江猿楽の道阿弥 とうあみ せいあみ いぬおう ( 大王 ) と童阿弥、田楽新座の喜阿弥と増阿弥、素性不明の井阿弥などがそうである。『申楽談儀』第二十三生 条によれば、そのうちの「道阿弥」が義満の命名になることが確実であり、「観阿弥。や「喜阿弥」もまた 義満の命名らしいことが知られる ( 掲出を省略した箇所にそのことが記されている ) 。また、義満の周辺には、能◎ なあみ すきしゃ 役者以外にも、連歌師の琳阿弥や南阿弥のように阿弥号を名にもっ数奇者がいる。これらを総合すると、阿 弥号は義満周辺の数奇者に与えられた名誉ある芸名のようなものであり、世阿弥たち能役者の阿弥号も同じ ように考えてよいと思われるのである。 こうして、この時期の世阿弥は、義満という一大権力者のもとで、能役者として充実した日々を過ごして 197

2. 現代能楽講義 : 能と狂言の魅力と歴史についての十講

永和四年〔六月〕将軍義満、祇園会の鉾見物の桟敷に少年世阿弥を同席させて、一部の公家の顰蹙を かう。頁 ) 〔四月〕少年世阿弥、関白良基邸で連歌を詠み、良基に激賞される。 ( 期頁 ) 至徳元年〔五月〕観阿弥、駿河にて客死。二一歳の世阿弥も同道していた。 ( 鵬頁 ) 応永六年〔五月〕世阿弥、京都一条竹ガ鼻で勧進能を興行。義満も見物。「天下の許され」の証明。 ( 爲 応永七年〔四月〕世阿弥、『風姿花伝』の「第一ーから「第三」までを執筆。 ( 頁 ) 応永八年〔この年〕世阿弥、義満から「世阿弥」の名を与えられる。頁 ) 応永一五年〔三月〕後小松天皇、義満の北山第に行幸。能の演者は大王が判明。この直後に義満没し、 義持が家督を継ぐ。 ( 頁 ) 応永一九年〔九月〕田楽新座の増阿弥、冷泉河原で義持後援の勧進能を興行。増阿弥はこれ以後、応永 二九年まで、毎年義持の後援になる勧進能を興行する。 ( 爲頁、 跚頁 ) 応永二〇年〔五月〕大王道阿弥、没す。 (±頁 ) 応永二九年〔一一月〕世阿弥、これ以前に出家して、観世大夫を息男元雅に譲る。 ( 頁 ) 応永三〇年〔二月〕世阿弥、『三道』を著し二九曲を秀作の模範曲とする。 ( 頁 ) 応永三一年〔六月〕世阿弥、『花鏡』を完成させる。この前後が世阿弥の芸論執筆活動のピーク。 ( 跚頁 ) 正長元年〔一月〕義持、没する。新将軍には籖引きで義教が選ばれ、以後は観世三郎元重 ( 世阿弥の 頁、頁 ) 能楽史略年表 引 7

3. 現代能楽講義 : 能と狂言の魅力と歴史についての十講

ては、それを貞治二 ( 一三六三 ) 年とする旧来の定説にたいして、戦後にそれを貞治三 ( 一三六四 ) 年とする 新説が提示されている ( 表章氏「世阿弥生誕は貞治三年かーー「世子十二の年」考ーー」『文学』昭和三八年一〇月 ) 。 この問題は微妙でいまだ決着がついていないが、ここでは貞治三年を世阿弥の生誕年として記述してゆく。 義満時代前期の世阿弥ーー・・少年時代から青年時代まで ここで対象とするのは、少年世阿弥が父観阿弥とともに義満の後援をうけるきっかけとなった永和元 ( 一 いまぐまの 三七五 ) 年の今熊野猿楽のあったころから至徳元 ( 一三八四 ) 年の観阿弥逝去までのおよそ一〇年間で、世阿 弥の年齢でいうと、一二歳ころから二一歳までである。 この時期の世阿弥の事績はだいたい父親の観阿弥の事績と重なっている。世阿弥の父観阿弥は大和猿楽のと 三三三 ) 年の生まれで、成長後に一座 ( 観世座 ) を創設し、世阿弥が生まれ生 山田座の大夫の三男、元弘三 ( 一 た貞治三 ( 一三六四 ) 年ころからは、京都に進出していた。その観阿弥に従って、少年世阿弥は応安 ( 一三六 りゆ、つげん 八 5 七四 ) の末年ころに醍醐寺での能 ( 七日間と伝える ) に出演したが、その芸は醍醐寺の隆源僧正によって◎ 「異能を尽くす、と評されている ( 『隆源僧正日記』 ) 。そうした観阿弥の活動が評判となって実現したのが、 よく知られている永和元 ( 一三七五 ) 年の将軍義満臨席の今熊野猿楽である。その今熊野猿楽については、 『申楽談儀』の第一七条と第二一条につぎのように記されている。 185

4. 現代能楽講義 : 能と狂言の魅力と歴史についての十講

いたと思われるのだが、御用役者としての地位は無条件に安泰というものではなかった。そもそも、この時 期の義満の周辺には、大王道阿弥、童阿弥、増阿弥、井阿弥といった出身や系統を異にする役者 ( シテ役者 ) がいたのであり、そこには当然、日々これ競争という状況があったものと思われる。そのなかでも、この時 ひえざ 期の世阿弥の最大のライバルが一世代ほど先輩の近江猿楽比叡座の名手大王道阿弥であった。 ど、つぎ 大王道阿弥が義満の強い後援をうけていたことは、その名の「道」が義満の法号「道義」の「道」を賜っ たものであることによって明らかである ( 前掲の『申楽談儀』第二三条を参照されたい ) 。義満の大王寵愛は少 なくとも康暦一一 ( 一三八〇 ) 年以前からのもので、同年四月には綾小路河原で勧進能を催しており ( 『迎陽記』 ) 、 康応元 ( 一三八九 ) 年三月には、義満の厳島見物にも同行している ( 『鹿苑院西国下向記』 ) 。このほかにも義満 の大王寵愛を伝える資料はいくつかあり、この時期の義満の評価は世阿弥より高かったのではないかと思わ れる。応永一五 ( 一四〇八 ) 年三月に義満が後小松天皇を北山第に招いたときの能に出演したのも大王であ った。このときは二一日におよぶ滞在中に三度能が催されたが、そのうちの二回が大王の所演であった ( 残 る一回の演者は不明 ) 。これは義満が没する直前の催しだが、このような義満の大王寵愛は終生変わらなかっ たようである。 世阿弥もその大王の芸を高く評価していた。そのことは『申楽談儀』の大王評に明らかで、それによると、 大王の芸風は卑俗なところが少しもない高尚そのものという趣だったらしい。この時期の世阿弥は、常に大 王のようなライバルとともにあったわけだが、 そうした環境は当然世阿弥の芸風にも影響を与えたはすであ る。世阿弥はこのあと舞歌を中心とした優雅な能への志向を急速に深めてゆくが、そのきかけになったのが 198

5. 現代能楽講義 : 能と狂言の魅力と歴史についての十講

八四 ) 年に、旅先の駿河で父観阿弥の死に際会し ( 『風姿花伝』 ) 、以後、第二代の観世大夫として歩みだすこ とになる 義満時代後期の世何弥ーー、年期から壮年期まで この時期は至徳元 ( 一三八四 ) 年の観阿弥の死から応永一五 ( 一四〇八 ) 年の義満の死までの二四年間で、 世阿弥の年齢でいうと、二一歳から四五歳までにあたる。 じよ、つらくき 観阿弥の死は時代を画するスターの死であっただけに、『常楽記』という当時の貴顕の過去帳に「大和猿 楽観世大夫」とその名がみえているが、世阿弥もその著『風姿花伝』に、 せんげん 亡父にて候ひし者は、五十二と申しし五月十九日に死去せしが、その月の四日の日、駿河の国浅間の御前 ↓・、つ洋っ / 、 にて汝楽仕る。その日の申楽ことに花やかにて、見物の上下、一同に褒美せしなり。 と、その死をさいごまで役者としての花を失わなかった観阿弥の姿とともに記しとどめている。 こうして、第二代の観世大夫となった世阿弥であるが、その観世大夫としての活動は、その後一〇年ほど はまったく知られす、それが知られるのは、応永元 ( 一三九四 ) 年三月に義満が南都春日社に参詣したおり の記録 ( 『春日御詣記』 ) に、「猿楽、観世三郎有レ之」とあるのが最初である。ときに世阿弥は三一歳、「三郎 , 0 第八講◎世阿弥の生涯と業績 193

6. 現代能楽講義 : 能と狂言の魅力と歴史についての十講

おきな 第一七条は《翁》の担当者についての記事で、《翁》は本来は一座の最長老 ( 長と呼ばれた ) の担当だった たゆう のが、今熊野猿楽のときに、観阿弥を見に臨席していた義満の意向を考慮して、当時、最長老ではなく大夫 だった観阿弥が担当することになり、大和猿楽では以後それが新例になった、という記事である。観阿弥が なあみたぶつ すきしゃ 《翁》を演じることを主張した南阿弥陀仏は謡い物の作曲などにもたけた義満側近の数奇者 ( 文化人 ) である。 第二一条によれば、右は当時一二歳だった世阿弥の談話であるから、世阿弥も父観阿弥に従ってこの能に参 加していたことが知られるが、少年世阿弥がいかなる演目に出演したのか、それにたいする義満の反応はど うであったのか、等についてはいっさい不明である。しかし、これを機に観阿弥は義満の御用役者的な存在 となり、世阿弥も義満の周辺で活動することが常態になったようである。 そのことは、たとえば、義満が永和四 ( 一三七八 ) 年六月に祇園祭の鉾を見物したおりのようすを伝える きんたた つぎの『後愚昧記』 ( 押小路公忠の日記 ) の記事によって端的に知られる。 翁をば、昔は宿老次第に舞ひけるを、今熊野の申楽の時、将軍家鹿苑院、はじめて御成なれば、一番に出づ なあみたぶつ きよっぐ べき者を御尋ねあるべきに、「大夫にてなくては」とて、南阿弥陀仏一言によりて、清次出仕し、せられし より、これをはじめとす。よって、大和申楽これを本とす。 ( 第一七条 ) 今熊野の能の時、申楽といふことをば、将軍家鹿苑院御覧じはじめらるるなり。世子十二の年なり。 ( 第二一 条 ) しゆくろ、つ おなり 186

7. 現代能楽講義 : 能と狂言の魅力と歴史についての十講

大王との出会いだったと思われる。 後小松天皇を北山第に招いてから五〇日ほどして、義満が急死する。義満は能芸については、こまかい欠 ここに世阿弥は 点などはあまり気にせず、よいところを積極的にほめるタイプだったようだが ( 『至花道』 ) 、 三〇年以上にわたって恩顧を受けてきた強力なパトロンを失ったのである。 義持時代の世何弥ーー・壮年期から老年期まで この時期で対象とするのは、義満が没して義持が足利将軍家の家督を継承した応永一五 ( 一四〇八 ) 年か ら義持が没した応永三五 ( 一四二八 ) 年までで、世阿弥の年齢でいうと、四五歳から六五歳までである。 世阿弥のライバルだった大王道阿弥は応永二〇 ( 一四一三 ) 年に没したが、それと入れ替わるようにして、と ぞうあみ 世阿弥には新たなライバルが出現した。少年時代から義満の周辺で活動していた田楽新座の増阿弥である。 増阿弥は応永一九年から同一一九年まで毎年京都市中で義持の後援になる勧進能を催すなど、義持の絶対的な 愛顧を得ていた役者である。世阿弥によれば、増阿弥の芸は「冷えに冷えたり」という閑寂なものであり◎ ( 『申楽談儀』序 ) 、それが深く禅に傾倒していた義持の嗜好とも一致したらしい。義持は能にたいしても鋭い 鑑賞眼を備えていたようで、おおらかだった義満とは対照的に、わすかな欠点も見逃さす、洗練に洗練を重 ねた芸でなければ、満足しなかったという ( 『至花道』 ) 。その義持は、祖師を画像に描く禅の風習にならって、 しよ、つとくがん 寵愛していた増阿弥の画像を制作させ、それに准肖得巌の讃を加えさせてもいる ( 画像は現存せず惟肖の讃 199

8. 現代能楽講義 : 能と狂言の魅力と歴史についての十講

ここには義満の寵愛をほしいま うまい」といったというのだが、 まにしている当時の世阿弥のようすがよく伝えられている。なお、 《自然居士》は鎌倉後期に実在した禅僧自然居士 ( 東福寺一一世大明 国師の弟子と伝える ) をシテにした能で、人買いに身を売った少女 ささらかっこ くせまい を取り返すために、劇中でシテが曲舞、簓、羯鼓などの芸能を演 一士じる場面が連続する遊狂物の能であるが、この能はたんなる遊狂 物ではなく、じつは一曲全体に当時の新思想である禅の理念が貫 流している作品である ( 拙稿「足利義満の禅的環境と観阿弥の能ーー 観阿弥作の《自然居士》と《卒都婆小町》をめぐってーー」『演劇学論叢』 ぎど、つしゅ、つしん 三号 ) 。この頃の義満は義堂周信らを師として禅に熱中していた が、《自然居士》はそのような義満周辺の禅的環境のなかで制作 され、演じられていたものと思われる。世阿弥は後年、自身も禅 に帰依して、その作品や芸論にも褝的な要素が顕著に認められるようになるが、この時代はそのような環境 にはいたものの、禅の思想に共鳴して、それが自身の芸道思想にまで影響を及ばすということはなかったら 、 0 と、つ ) 」 / 、ノ、たり りんあみ このほか『申楽談儀』には、義満に追放された連歌師琳阿弥の作詞になる《東国下》という謡い物を、 義満の命令で少年時代の世阿弥が御前で謡って、それで琳阿弥の帰洛が許されたことが記されているが、こ 188

9. 現代能楽講義 : 能と狂言の魅力と歴史についての十講

いは金春禅竹、観世十郎元雅、観世元重 ( 音阿弥 ) といった名前がすぐ想起されるが、狂言の役者となると、 それに匹敵する役者はおろか、そもそも具体的な役者名が浮かばないのではないだろうか。一口に能・狂一言 と、両者は一体の関係にあるとはいっても、能と狂言とのあいだにはその種の落差が少なくないのであるが、 ここでは一般にはほとんど知られていないと思われる過去の狂一言役者の横顔を簡単に紹介してみることにす 世阿弥の時代に「槌大夫」「与次郎」「ヨッ」「路阿 ( 路阿弥 ) 。といった狂言役者がいたことはすでに述べ おおっち た。また、それより一時代前の観阿弥の時代にも「大槌」「菊」といった狂一言役者が活動していた。その多 くは世阿弥によって名前が伝えられているだけで、その芸風などはわからないのであるが、このうちの「槌 大夫ーと「菊については、世阿弥の『申楽談儀』によってすこしその横顔を知ることができる。 ます、「槌大夫」であるが、彼については『申楽談儀』につぎのような記事がある。 後の槌大夫は、鹿苑院御覧じ出されたる者なり。狂一言すべき者は常住にそれになるべし。きとして俄に狂 言にならば、思ひなし大事なるべし。後の槌、北山にて、公方人、高橋にて行き合ひたるに、「槌なり」と て、扇かざして通られしを、そばへ寄りて、そと見て、また扇かざしてわれも通りし。かやうなる心根、 上手の心なり。 ここで「後の槌大夫」「後の槌」と呼ばれているのが世阿弥時代の「槌大夫ーのことである。彼は「槌大 る。 269 第十講◎狂言の歴史と魅力

10. 現代能楽講義 : 能と狂言の魅力と歴史についての十講

は初代の父観阿弥が山田大夫の三男だったことに由来する観世家の嫡子の通称である。以後、この時期の世 阿弥の動静は義満関係の記録のなかに、「観世三郎」とか「観世」とか記されていくことになる。その種の 己録はさほど多くはないが、 『申楽談儀』の記事などをも併せ考えると、この時期の世阿弥は義満の御用役 者的な地位にあって、観世大夫として充実した活動をしていたものと思われる。 この時期の活動のなかで特筆すべきは、応永六 ( 一三九九 ) 年に世阿弥が義満の後援で催した、京都一条 - 」、つ、つご ひがしほ、つじよ、つ 竹ガ鼻 ( 現在の上京区滝ガ鼻町 ) での勧進能である。この勧進能については、東坊城秀長の『迎陽記』に、 五月廿日、庚寅、晴。今日、於一条竹鼻有一勧進猿楽観世一。御桟敷、赤松総州禅門用意云々。青蓮院、聖護 院等入御云々。 廿五日、乙未、晴。今日、勧進猿楽、御桟敷、管領奉行云々。青蓮院、聖護院等同見物云々。御大飲、狂 言。猿楽数辺、尽能了。 廿八日、戊戌、晴。今日、勧進猿楽云々。右京大夫申沙汰云々。両門主又御参会云々。 とあって、三日間の催しの一端を知ることができる。「観世」とあるのが世阿弥のことである。また、「御桟 敷」は義満の桟敷のことで、その桟敷の設営は、初日は赤松義則が、二日目は畠山基国 ( 管領 ) が、三日目 は細川満元 ( 右京大夫 ) があたった。この勧進能では、義満は三日ともその桟敷から世阿弥の能を見物した 194