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検索対象: 現代能楽講義 : 能と狂言の魅力と歴史についての十講
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1. 現代能楽講義 : 能と狂言の魅力と歴史についての十講

能の変化を知るということ これまで本書の各講を読み進めてこられた読者は、それぞれの話題のなかで、能という演劇が変化に変化 を重ねて今日に至っていることをしばしば実感されたのではないかと思う。そもそも、長い歴史をもっ能の 変化を紹介することが本書の目的でもあるのだが、能の歴史を紹介していると、それはおのすから能そのも のの変化の紹介になることが多かったのである。それほどに能は、あらゆる面において変化してきたという ことになろう。そこで、この第九講では能の変化そのものを話題に取り上げて、副題にかかげたようなこと がらについて、その変化の諸相を紹介してみることにする。 序文でも述べたようにい能にいては「不変」ということが現代の抜きがたい通念になっているように思 う。考えてみればそれはごくあたりまえのことであって、能や狂言の愛好者は、われわれが生活している現 在の舞台、あるいはその日の舞台がすべてなのであり、それがどのように変化しているかという目で舞台に 接する観客は、能の研究に携わってでもいないかぎり、ほとんどいないはすである。それはそれでよいのだ が、しかし、こと能に関しては、現に上演されている能を現代の演劇として鑑賞することとは別に、それが 長い歴史のなかでいろいろな面で変化してきて、われわれがみているのは、その変化の総決算のようなもの であることは、ぜひ知っておく必要があるということを、あえて主張したいのである。これにたいしては、 あるいは「教養主義ーという批判があるかもしれない。そのような知識はかえって能の鑑賞のさまたげにな 幻 4

2. 現代能楽講義 : 能と狂言の魅力と歴史についての十講

義持時代の世阿弥・ー壮年期から老年期ま 満時代後期の世阿弥ー・青年期から壮年期までーー明 でーー円 義教時代の世阿弥ーー老年期から晩年までーー 第九講能の変化ー上演時問・上海松構・詢章・演出をめぐってー 能の変化を知るということ 上演時間の変化 / 能の上演機構の変化駟 変ヒ 現行演出誤謬瞥見 演出の変化 第十講狂言の歴史と魅力ーその概略ー 三つの狂言プーム 「狂言」という名称ー。「狂言」と「をかし」 のようにして成立したのか当 / 狂言は能といかにかかわってきたのか 狂言という演劇の性格と魅力 横顔 闢講にさいして能と狂一 = 0 の行く末ーむすびにかえてー 補講こよ 。月 ( いかに読まれるべきか・ 「作意」の把握 「作意」あるいは「ねらい」ということ 育の見方とい、つこと 《熊野》を読む ーーその実例 / 佐成謙太郎氏の提言弸 《月卒史略年表 掲載写真 ( 舞台・資抖 ) ( 覧・ 254 狂言はいつど / 名手たちの / 詞章の 25 1 287 281 次

3. 現代能楽講義 : 能と狂言の魅力と歴史についての十講

がったときのことを思い出した。一 = 調査は毎年二日の日程で、休憩時には、中村弥三郎氏や手伝いのお弟子 の方々も加わって、いつもにぎやかに能界のことや研究のことが話題になったが、世阿弥時代の地謡のこ とも、そのときによく話題になったのである。世阿弥時代から現代までの地謡の機能の変化ーー拡大化ーー は、ワキの役割の変化ーー縮小ヒ ーーと一体の関係にある。福王氏は、昭和六十年四月に『国語と国文学』 に発表された表章氏の「能の同 ( 音 ) と地 ( 謡 ) 」で明らかにされた、そうした地謡やワキの役割の変化を よく知っておられて、その話題になると、氏はいつも、「どんな感じになるんですかねえ」と幻の演式に思 いをはせるようにして言い、そのたびに、われわれは「それこそワキ方の仕事ですよ」と、その形での上 演を強く慫慂したのだった。 福王氏が地謡の役割の変化に強い関心を持っていたのは、もちろんそれがワキの役割の変化と一体だか らで、その関心は現代にワキ方として生きる氏にとっては、自己探求にねざした必然であったろう。地謡 やワキの役割の変化についての知識も、代々伝えられてきたもので、ワキ方としては当然の知識でもあっ たはすである。一方、われわれ能の研究に携わる者にとっては、知識として理解しているその演式をぜひ とも実際に見てみたいという欲求があった。それは好奇心からではなく、伝統すなわち不変という、今も 根強い能にたいする固定観念を打破するのに有効であり、なによりも、現在の能を相対化することによっ て、今後の能が進むべき道についても、なんらかの指針がえられるかもしれないと思ったからである。そ のときは、休憩中の、あるいは調査も終わって、ビールを飲みながらの雑談ではあったが、上演は福王会 の主催がいいとか、地謡もワキ方から出してはどうかとか、けっこうふみこんだ意見がかわされたように 228

4. 現代能楽講義 : 能と狂言の魅力と歴史についての十講

較にならないほど大きくなるという、一曲の上演機構の革命的な変化とも一体だったのである。また、これ は舞台の変化の影響ではなく、舞台が変化したにもかかわらす演技が変化しなかった例であるが、能におけ る舞が舞台右奥あたりを避ける形で舞われるのも、かってそのあたりに地謡役者が座っていた時代の名残だ とする興味深い指摘もある ( 『岩波講座能・狂言—〔能楽の歴史〕』二一一頁 ) 。 こうしてみると、能舞台の変化はその時々の能楽の状況をよく反映していることが知られるのだが、さい ごに、まさにそのような事例と思われる鏡板の松をめぐる近年の出来事を紹介しておこう。 平成九年に名古屋市が名古屋城内に建設した名古屋能楽堂は、開場前後からしばらく、鏡板の松をめぐっ て揺れに揺れた。名古屋市が同市在住の日本画家杉本健吉画伯に依頼した鏡板の松が、われわれがみなれて いる老松とはかなり異なる若松だったからである。関係者の間では、その「奇抜」な松に違和感をおばえる 声が圧倒的に多かったようであるが、マスコミも加わっての喧々諤々たる議論のあと、あらたに老松の絵を 能画家の松野秀世氏に依頼し、老松・若松一一種の鏡板を各年交代で付けかえることで決着をみた。 筆者はこの出来事については、当時は公的な場で発言することはなかったが、そのおりに見聞したさまざ まな意見のなかに、鏡板に松が描かれるようになったのはいっからかということがほとんど問題にされす、 もつばら「若松の是非」が論じられていることに大いなる違和感を抱いた。それは老松を是とし若松を非と する意見の奥に、鏡板の松は伝統的に老松で、それは能の創成期以来の伝統であるという無意識の理解があ るように感取されたからでもある。もちろん、安土桃山時代までは能舞台には鏡板はなかったのであるから、 鏡板の松を能の創成期以来のものとするのは誤りなのであるが、若松を非とする意見の底には、なんとなく 178

5. 現代能楽講義 : 能と狂言の魅力と歴史についての十講

以上は流儀間というョコの違いであるが、もう一つ、時代によるタテの変化のほうはどうであろうか。じ こうざん つは、この方面についてはいまだ詳細な調査は行われてはいないが、『鴻山文庫本の研究』などに示された こくせつ 表章氏の研究によれば、観世流では、近世初期ころに観世大夫黒雪 ( 寛永三〔一六二六〕年没 ) による詞章や 節付の整理があって、それ以前とそれ以後で詞章がかなり改訂され、基本的にその整理の形が現行詞章に引 き継がれている、という。右の一覧でいうと、〔上純〕の石田少左衛門盛直節付本が黒雪による整理後のテ キストである。ただし、《敦盛》については室町時代と江戸時代以降とではそう大きな変化はない。また、 どうせつ とりカいりゆ、つ 「下掛り」の金春流では、文禄 5 慶長年間に鳥飼流の書家で謡の教授を業としていたらしい鳥飼道晰が節付 したいわゆる車屋謡本の詞章がそれ以前の金春流の詞章とはかなり異なっており、近世以降の下掛り系の謡 本はその車屋謡本の影響を受けて現在に至っている、という ( 『鴻山文庫本の研究』 ) 。ただし、《敦盛》につい ては、やはりそう大きな変化は認められない もとあきら なお、能の詞章の変化ということでは、明和二 ( 一七六五 ) 年に当時の観世大夫元章がそれまでの観世流の この元章による 詞章を大幅に改訂して刊行した、いわゆる「明和の改正」もあげておかなくてはなるまい 改訂はたんに詞章だけでなく、演出やアイ狂言など能全体に及ぶ、「能楽改革」ともいうべき事業であったが、 九年後の安永三 ( 一七七四 ) 年の元章の死去によって詞章は改正以前の形にもどされている。したがって、詞 章の変化という点では「明和の改正」は江戸中期の一時的な現象ということになるのだが、その影響はとく に発音の清濁において現在の観世流に少なからず残っていることを強調しておきたい。たとえば、それまで 「どうどうたらり」と濁音で発音されていた《翁》の文句が明和の改正によって「とうとうたらり」と清音に 238

6. 現代能楽講義 : 能と狂言の魅力と歴史についての十講

るーーと。しかし、能を「理解」抜きで「感覚」あるいは「雰囲気」だけで鑑賞しようというやり方は、じ つはそろそろ限界に達しつつあるのではないだろうか。私見によれば、これまでの能にたいする根強い人気 は、主として謡いや仕舞や型などの「部分」の魅力によって支えられてきて、愛好者の関心は能という演劇 の「全体」に及ぶことが少なかったと思うのだが、換一言すれば、それは「理解」抜きの「感覚」中心の鑑賞 のしかたであるといえよう。そのような鑑賞法がそろそろ限界に近づいているのではないかと思うのである。 その一方で、かっては知られていなかった能のいろいろな面での変化が近年は明らかになってきている。 まのわれわれの前にはあるのである。にもかかわらす、そのような かっては存在しなかった「知識」が、い もちろん、現在の能はとくにそうした「知識」がな 日」は愛好者の共有するところとはなっていない 「矢識 くとも、見る者に強い感銘を与える可能性を持っている。とすれば、それに「知識」が加わったならば、能 の魅力はさらに豊かなものになるのではないだろうか 変 上演時問の変化 の ヒ匕 ム目 ◎ 講 「昔の人は生九 大学の講義や学外の講演などで能について話をしたあとに、よく尋ねられることの一つに、 活がゆったりしていたから、あんなにゆっくりしたものを楽しむことができたのでしようか」という質問が ある。いうまでもなく、このような疑問の背後には、現在の能のテンポは昔から「不変」だという理解があ る。能は「不変」で、日本人の感性が「変化した、という理解である。そんなとき、筆者はます、「いや 215

7. 現代能楽講義 : 能と狂言の魅力と歴史についての十講

にどのような影響であったかは、残念ながらよくわからない また、それまでの能舞台にはなかった能楽堂の特色としては、第二に、能が上演される舞台と見物席が、 能楽堂の出現によって、周囲から隔てられた閉じられた空間になったことがあげられる。維新以前は、座敷 能など屋内の催しも多かったが、本格的な催しが行われるのは屋外の開放的な舞台だった。その二つの上演 環境を合体させたのが芝能楽堂だったともいえるのだが、そのように多様だった上演環境が、芝能楽堂の出 現以降は、ほとんど能楽堂という閉じられた空間での演能になってしまったのである。しかも、建築技術の 進歩によって、近年は、新たに建設される能楽堂はその密閉性がいよいよ高くなっているが、このような状 况は、能をますます「息苦しい、演劇へと変化させてきたのではないだろうか。もっとも、その一方で、近 年はまた、能楽堂以外の場所での能・狂言の上演が増えているが、それは近代以降の能楽堂主体の上演を相 対化するという点でも意味があるはすである。 台 鏡板の松のことなど ヒ匕 ム目 このように、能舞台の変遷はたんに建造物としての変化にとどまるものではなく、能楽という演劇の変化七 あとざ とも密接な関連を持っている。たとえば、地謡役者の位置が本来の後座の囃子方のあたりから今の地謡座 に移ったのは江戸時代の初期ころのことであるが、それはたんに地謡座ができて地謡役者の位置が変わった 目一曲の上演における地謡の役割がそれ以前とは比 というだけのことではなく、第九講で紹介するように、ヒヒ 177

8. 現代能楽講義 : 能と狂言の魅力と歴史についての十講

能の演出というとます役者の所作があり、そのほか登場人物の装東や作り物 ( 舞台装置 ) もそれに含まれ るが、これらもまた長い歴史のなかでいろいろと変化している。ここに一つ、その象徴的な例をあげるなら はながたみ ば、現在は子方 ( 少年役者 ) の役になっている《船弁慶》や《安宅》の義経、《花筐》の継体天皇などは、 本来はいすれも成人役者の役であったものと思われる ( 拙稿「《安宅》《船弁慶》の判官と《海人》の房前などは本 来は子方の役にあらす」『おもて』七七号。平成一五年六月 ) 。設定のうえでは大人であるこれらの人物を子方が演変 ヒヒ いちにんしゅぎ じるのは、シテに焦点を合わせる能の「シテ一人主義」の現われと理解されているが、これはじつは本来の◎ 講 演出ではないのである。 第 さて、能の演出面の変化の全体はなお十分に解明されてはいないが、現在は、安上桃山時代ころの主要な 演出資料が法政大学能楽研究所編の能楽資料集成に活字化されており ( わんや書店刊、一九冊が既刊 ) 、それ以 後の江戸時代の演出資料も数多く存在しているので ( ただし、これらは一般には公開されていない ) 、それらに 変えられて、それが明和改正謡本廃止後も継承されていることは比較的よく知られていることだが、現在観 世流だけが上演している《合浦》も、もとは「ガッポ」だったのが明和本で「カッポ、に改められたものと認 められる。この種の例は他にもなおあるようで、現在の観世流の詞章の清濁には明和の改正の形がかなり残 っているようである。観世元章による明和の改正の影響については、つぎの演出の項でもふれることになる。 演出の変化 239

9. 現代能楽講義 : 能と狂言の魅力と歴史についての十講

すはないのだが、この詞章の変化ということも、一般的にはあまり留意されていないように思われる。そこ で、ここでは世阿弥作の《敦盛》を例に、能の詞章の変化について述べてみよう。 そもそも、能においては、ある作品のテキストは一つではない。ある作品には室町時代から現代までのあ いだに、少なからぬテキストが存在している。そのようなテキストの存在自体、能の詞章がさまざまに変化 してきたことを意味しているわけであるが、それでは、《敦盛》にはどのようなテキストがあるのか。それ を『国書総目録』によって、江戸時代以前の写本 ( 手書きのテキスト ) にかぎってかかげてみると、以下のよ うになる ( カッコ内は書写年次と所蔵先。また、「上掛り」「下掛り」は能の詞章の二つの系統で、「上掛り」は観世流と 宝生流の詞章、「下掛りは金春流と金剛流と喜多流の詞章である ) 。 〔写本の上掛り謡本〕 ( 、ゑみろをいマ / ) みす 観世元尚節付本〔天正三年写、東洋文庫〕 変 本 2 撼渺宗括節付本〔永禄頃写、松陰女子大学〕 ヒ匕 淵田虎頼等節付本〔室町後期写、松井文庫〕鯒 次 亠伝観世小次郎信光筆本〔天正頃写、能楽研九 究所〕 5 掘池淵田本〔室町末期写、能楽研究所〕 長頼奥書本〔天正頃写、能楽研究所〕 2 引

10. 現代能楽講義 : 能と狂言の魅力と歴史についての十講

に願っていた曲である。理由は簡単で、それは《泰山府君》が名曲だからである。もちろん、他の二曲も 名曲なのだが、 《泰山府君》の場合は、「惜春」というテーマをかかげたその観念劇としての本質が、現代 人に十分理解されているとは言いがたいと思っていたので、《泰山府君》になれば、その点をアピールする よい機会だとも思ったからである。結果的に、以上のような私のいろいろな意見や願望を、福王氏は全面 的に受け入れられ、観世清和氏の天女、梅若六郎氏の泰山府君、大槻文蔵氏の演出という、のぞみうる最 高のスタッフをえて、このたびの上演にいたったわけであるが、この上演が、能の長い歩みに思いをいた し、さらに、今後の能の進路に一つの指針を提供するだろうことを、企画者の一人として確信している。 こうして世阿弥時代の地謡の形で上演された《泰山木》 ( 《泰山府君》 ) は、その後、平成一三年二月の「観 世文庫創立十周年記念能」 ( 観世能楽堂 ) において初演とほば同じメンバーで再演され、平成一四年五月の国 立能楽堂定例公演で、やはりほば同じメンバーで三演されている。また、の教育テレビでも二度にわ たって再演時の舞台が放送されたから、かっての能の「地謡」が現在とは大きく異なっていたことはあるて いどは知られるようになったとは思うが、それが「常識」となるには、まだまだ時間がかかるように思われる。 詢章の変化 能はその詞章も変化している。考えてみれば、七〇〇年もの歴史がある演劇で、その詞章に変化がないは 230