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検索対象: 現代能楽講義 : 能と狂言の魅力と歴史についての十講
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1. 現代能楽講義 : 能と狂言の魅力と歴史についての十講

野上豊一郎『世阿弥元清』 ( 昭和一七年、創元社 ) 阪ロ玄章『世阿弥』 ( 昭和一七年、青梧堂 ) 月林静雄『世阿弥』 ( 昭和一八年、檜書店 ) 高橋俊乗『世阿弥元清』 ( 昭和一八年、文教書院 ) などがあり、戦後では、 香西精『世阿弥新考』 ( 昭和三七年、わんや書店 ) 西一祥『世阿弥研究』 ( 昭和四二年、さるびあ出版 ) 戸井田道三『観阿弥と世阿弥』 ( 昭和四四年、岩波新書 ) 香西精『続世阿弥新考』 ( 昭和四五年、わんや書店 ) 北川忠彦『世阿弥』 ( 昭和四七年、中公新書 ) 西尾実『世阿弥の能芸論』 ( 昭和四九年、岩波書店 ) 新川哲雄『人間世阿弥』 ( 昭和五一一年、芸立出版 ) 香西精『世子参究』 ( 昭和五四年、わんや書店 ) 成川武夫『世阿弥花の哲学』 ( 昭和五五年、玉川大学出版部 ) 堂本正樹『世阿弥』 ( 昭和六〇年、劇書房 ) 第八講◎世阿弥の生涯と業績 3

2. 現代能楽講義 : 能と狂言の魅力と歴史についての十講

るので、そのような体験はまれなのである ) 。そのような体験は能役者に何物にも代えがたい役者としての充実 感を与える。復曲や新作に参画できる役者は能楽界のごく一部ではあるが、現在の能楽界がそのような潮流 にあるのはまぎれもない事実であり、これをもって、七〇〇年もの伝統を有する能楽が、この二一世紀の現 代にたくましく生きている証拠とすることができるだろう。 海外 ( ム演の日常化 能楽が見代に生きていることを示す事例として、さいごに能楽の海外公演について述べておこう。 能楽の海外公演としては、戦前の昭和前期に有力な能役者がしばしば旧満州や朝鮮に渡航して公演をした ような例もあるが、それは厳密には「海外 , 公演とはいえないもので、現在のような海外公演は戦後一〇年 を経過した昭和二九年に、イタリアはべニスで催された国際演劇祭に喜多流の能楽団 ( 団長は喜多流家元の喜 多実 ) が参加したことをもって嚆矢とする。それ以降は、昭和三二年に観世流と喜多流による東京能楽団が パリで催されたフランス文化祭に参加し、昭和三八年に野村狂言団 ( 団長は和泉流の野村万蔵 ) がワシントン 大学に招かれ、昭和四〇年には観世流の東京能楽団がアテネ公演を行っている。この昭和四〇年には野村狂 言団が西ベルリンで催された西ベルリンフェスティバルにも参加しており、この年をさかいに、一年に複数 の能楽団が海外公演を行うということがふつうとなり、昭和五九年には九回、昭和六〇年には八回を数えて いる。最初のうちはアメリカとヨーロッパが中心で、アジアでの公演は昭和五六年に観世流が韓国や中国に

3. 現代能楽講義 : 能と狂言の魅力と歴史についての十講

ラに接して能の価値を再認識。 明治一四年〔四月〕能楽社、華族らにより設立され、芝公園に芝能楽堂が建設される。能楽はこのころ からようやく復興に向かう。 ( 頁 ) 明治三五年〔七月〔雑誌『能楽』、池内信嘉によって創刊される。同誌は質の高い能楽の総合雑誌として 大正九年まで刊行される。 明治四二年〔二月〕歴史学者吉田東伍により『能楽古典世阿弥十六部集』刊行され、本格的な能楽研究 はじまる。 ( 2 頁 ) 大正一一年〔九月〕関東大震災発生。『世阿弥十六部集』の底本をはじめ多くの能楽文献が焼失。 昭和二年〔三月〕洋画家須田国太郎、金剛能楽堂で金剛巌の《熊野》のデッサンを描く。以後、須田 は昭和一二二年まで , ハ〇〇〇枚あまりの能・狂言のデッサンを描き続ける。 ( ロ絵・頁 ) 昭和一三年〔九月〕能勢朝次著『能楽源流考』、岩波書店より刊行。 ( 頁 ) 昭和一 , ハ年〔春〕世阿弥の自筆の能本や手紙を含む約一〇〇〇点の金春家旧伝文書、川瀬一馬によって 昭和一一〇年〔八月〕社団法人能楽協会、この月五日に設立。 昭和二三年〔五月〕観世流に女流能楽師誕生。以後、喜多流以外の各流でも女流能役者が生まれる。 昭和一一七年〔四月〕野上記念法政大学能楽研究所が設立され、以後の能楽研究の拠点となる。 昭和二九年〔一月〕昭和初年から単独で活動していた梅若一門、の介入で観世流に復帰し、明治 発見される。 320

4. 現代能楽講義 : 能と狂言の魅力と歴史についての十講

催しごとの観客動員という点では「神事能」や「勧進能」に遠くおよばないのだが、この「私的催し」は他 の二者とちがって日常的に頻繁に催されていた ( と思われる ) から、催しの数としては他の二者を圧倒して いる。その点で、能や狂言が演じられた場所としては、この「私的催しーが主流ということもできるのであ るが、この「私的催しーはその性格上、その実態を伝える資料にあまりめぐまれていない。筆者は以前、豊 臣秀吉の能楽愛好を一書にまとめたことがあるが ( 『能に憑かれた権力者ーー秀吉能楽愛好記ー。』講談社選書、平 成九年 ) 、そこに紹介した秀吉と能とのかかわりは、そのほとんどが「私的催し、にかかわることがらであ った。しかし、資料が伝えているのは、それらの催しのほんの一部であって、その全体を伝える資料はほと んどなかった。このように、「私的催しーは能が演じられた場所のなかでは、その実態がもっとも把握しに 「場ーなのであるが、ここでは比較的よくその全体を知りうる近代の例を紹介して、それをとおして江 所 場 戸時代以前の「私的催し」のようすや雰囲気を想像してみることにしよう。 れ ら その近代の「私的催し」の例というのは、野村財閥の創始者である野村徳七 ( 得庵 ) が昭和一〇年に京都 じ 宀典 南禅寺の別邸で催した舞台披き能である。 ヒし 野村得庵は明治一一年、大阪の生まれ。明治末年から証券業界をリードして大正時代には野村財閥を形成、◎ 講 貴族院勅選議員も務め、昭和二〇年に六八歳で没した財界人である。その得庵は昭和八年ころから観世左近四 三四世、昭和一四年没 ) 、観世銕之丞華雪 ( 昭和三四年没 ) 、片山博通 ( 昭和三八年没 ) について能と謡をたしな すきしゃ んだ数寄者 ( 趣味人 ) で、晩年期の昭和一〇年から昭和一七年までに、京都や大阪の能楽堂などで、《翁》と 一四番の能のシテを演じている。最後の演能となったのは、昭和一七年五月一七日の大阪能楽殿での能で、

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山木 船弁全岡巖 ( 昭和 1 6 年 ) 山姥桜全太郎 ( 昭耳ロ 1 7 年 ) 鞍馬天狗 2 世全周」巖 ( 昭和 29 年 ) 松風按問道雄 ( 昭 20 年 ) 砧梅若万三自 ( 昭和 18 年 ) 須田国太郎デソサノ

6. 現代能楽講義 : 能と狂言の魅力と歴史についての十講

三つの狂一 = 。プ ( ム 平成八年あたりからはじまった狂言にたいする高い社会的関心は、狂言プ 1 ムと評してよい現象だと思う が、じつは近代における狂言プームはこれがはじめてではない。これ以前の狂言プームとしては、今からお よそ半世紀ほど前、昭和三〇年代の狂言プームがまずあげられるし、それほどの規模ではなかったが、昭和 五二、三年ころにも狂言プームと呼べる現象があった。 しろき そのうちの昭和三〇年代の狂言プームは、東京の「白木狂言の会」や京都の「市民狂言会」など伝統的な 能舞台以外の場を会場にして催された狂言だけの催しの充実、《濯ぎ川》《東は東》《彦市ばなし》などすぐれ た新作狂言の意欲的な上演、野村万蔵、三宅藤九郎、山本東次郎、茂山弥五郎、茂山千五郎、茂山忠三郎な ど多くの名手の活躍、それに狂言研究の進展、といったさまざまな事象によって支えられていた。プームの 具体的な状況やその意義などについては、『岩波講座能・狂言〔狂言の世界〕』 ( 昭和六二年 ) の「三、狂言 の形成と展開」に要領よく整理されているが、いまあらためて振り返ってみると、昭和三〇年代の狂言プー ムは、狂言界全体を覆う現象であり、また、狂言にたいする社会の関心も狂言全体に向けられていたところ にその大きな特色が見いだせるように思う。その背景には、戦後という新しい価値観が積極的に模索されて いた時代があり、そうした時代環境のなかで、長いあいだとかく能のかげにかくれがちであった狂言がその 歴史のうえではじめて単独の演劇として注目され、その全体が演劇的にも文化的にも社会の強い関心を集め 252

7. 現代能楽講義 : 能と狂言の魅力と歴史についての十講

このときは《熊野》と戦時下の新作能《忠霊》の二番が予定されていたが、 《熊野》を演じている最中に脳梗塞で倒れた。その舞台は、未完成ではあ ったが、他人にはまねられない堂々たる風格が備わっていたという。ここ へきうんそう に紹介するのは、その野村得庵が昭和一〇年に京都南禅寺の別邸碧雲荘で 催した、盛大で凝りに凝った舞台披き能のありさまである。 くにのみや の この能舞台は昭和三年の昭和天皇の即位の大礼にさいして久邇宮邦彦王 イ得夫妻の宿舎の一部として建設されていたもの。その舞台披きが昭和一〇年 こ親しむようになった得庵が自身の芸をこ に催されたのは、その後、能謡 ( 第」巻の舞台で披露したいと思い立ったためであろう。これが得庵の最初の能で つるかめ みたれ . を「イきあった。そのときに演じられた能は《翁》《鶴亀》《羽衣》《乱》の四番で、 第第台狂一一一〔は《末広がり》一番だったが、得庵はこのうち《翁》と《鶴亀》を演 じている。 村 このような催しは、たいがい番組が残っているていどで、それ以上のこ 野 とはあまりよくわからないことが多いのだが、このときの催しは、さいわ 、得庵の知人の洋画家太田喜一一郎氏が制作した長大な絵巻が野村美術館 に残っていて、その詳細が知られる。絵巻は野村別邸の不老門に設けられ た受付あたりのようすからはじまり、舟が繋留された大池の景色をへて、 4

8. 現代能楽講義 : 能と狂言の魅力と歴史についての十講

末年以来のいわゆる観梅問題解決。 〔八月〕観世流と喜多流の能楽団、べニスの国際演劇祭に参加。能楽の最初の海外公演。 ( % 頁 ) 昭和三〇年〔一月〕人間国宝の制度が定められ、能楽界からは喜多六平太 ( シテ方 ) 、川崎九淵 ( 大鼓方 ) 、 幸祥光 ( 小鼓方 ) の三人が認定される。 〔五月〕「白木狂言の会」、始まる。このころ狂言プームおこる。 ( ー頁 ) 昭和四九年〔四月〕日本思想大系『世阿弥褝竹』刊行され、世阿弥と禅竹の芸論の信頼できるテキスト が提供される。 昭和五七年〔一〇月〕世阿弥本の《雲林院》、能楽研究所の試演能で上演され、以後、廃絶曲の復活上演 が盛んになる。 ( 爲ー頁 ) 昭和五八年〔九月〕国立能楽堂、開場。 平成一三年〔二月〕能楽がユネスコから世界無形遺産に認定される。 ( 2 頁 ) 平成一四年〔六月〕能楽学会、創設される。学会誌は『能と狂言』 ( 年刊。べりかん社から刊行 ) 。 平成一六年〔三月〕『現代能楽講義』、大阪大学出版会から刊行される。 能楽史略年表 3 幻

9. 現代能楽講義 : 能と狂言の魅力と歴史についての十講

などがある。 また、これら以外にも、『風姿花伝』『花鏡』など世阿弥の芸論 ( 能楽論 ) の注釈である能勢朝次氏の『世 阿弥十六部集評釈 ( 上下 ) 』 ( 昭和一六年、昭和一九年、岩波書店 ) や、表章氏の日本思想大系『世阿弥禅竹』 ( 昭和四九年、岩波書店 ) も広義の世阿弥研究である。とりわけ、後者は二一点を数える世阿弥の芸論のテキ スト研究の集大成というべきものである。その表章氏による多数の芸論研究もまた世阿弥研究といってよい ものであるが、それは一部が同氏著『能楽史新考 ( 一 ) (ll) 』 ( 昭和五四年、昭和六一年、わんや書店 ) に収めら れているが、その全体はいまだまとめられていない これらのうち、戦前の世阿弥研究の到達点を示すのが、能勢朝次氏『能楽源流考』の実証的な世阿弥研究 や小林静雄氏の『世阿弥』であり、戦後では、表章氏の芸論のテキスト研究やそれと一体の芸論研究を別に こ、つさいっとむ すれば、香西精氏の『世阿弥新考』をはじめとする一連の世阿弥研究が傑出した成果である。その香西氏 の研究は、世阿弥と褝との関係についての発見や世阿弥の芸論などをもとにした画期的な研究であり、『世 阿弥十六部集』刊行を機にはじま 0 た世阿弥研究史上の金字塔というべき研究である。また、も 0 とも新し い堂本正樹氏の『世阿弥』は劇作家による評伝というべき著作であるが、香西氏の研究をはじめとする新し い世阿弥研究をふまえた読みごたえのあるカ作である。 この講では以下、右のような世阿弥研究をふまえ、そこに多少の私見をも加えつつ、世阿弥の生涯と業績 の概略を紹介してゆくことにする。なお、世阿弥の生涯についてはいろいろな時期区分がありうると思うが、 ここではそれを、パトロンであった室町将軍の治世をもとに四期にわけてみた。また、世阿弥の生年につい 4

10. 現代能楽講義 : 能と狂言の魅力と歴史についての十講

、、 ) 当 3 蟻い当 2 は 出かけたのが最初である。 以上の海外公演の概要は昭和六三年刊の『能楽海外 公演史要』 ( 錦正社 ) に拠ったものだが、同書にまとめ 5 六一年の海外公演の総数は六一回、 劇られた昭和三二 コ平均すると、年に二つの能楽団が海外公演を行ったこ テとになる。中心となった流儀をみると、能では観世流 が圧倒的に多く二八回、あとは宝生流一〇回、喜多流 以七回、金剛流三回、金春流一回であり、狂言では全一て 二回のうち、和泉流の野村狂言団が一〇回となってい こうして、能楽の海外公演は昭和四〇年ころから定代 着して現在にいたっている。現代においては、能楽の ヒ匕 海外公演はよほどュニークなものでないかぎり、さほ ど話題にもならないほどに日常化しているか、ここに 近年の海外公演の状況を紹介するならば、つぎのとお りである ( これも『能楽研究』の「能界展望。を参照した ) 。 ヒ」