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検索対象: 現代能楽講義 : 能と狂言の魅力と歴史についての十講
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1. 現代能楽講義 : 能と狂言の魅力と歴史についての十講

などがある。 また、これら以外にも、『風姿花伝』『花鏡』など世阿弥の芸論 ( 能楽論 ) の注釈である能勢朝次氏の『世 阿弥十六部集評釈 ( 上下 ) 』 ( 昭和一六年、昭和一九年、岩波書店 ) や、表章氏の日本思想大系『世阿弥禅竹』 ( 昭和四九年、岩波書店 ) も広義の世阿弥研究である。とりわけ、後者は二一点を数える世阿弥の芸論のテキ スト研究の集大成というべきものである。その表章氏による多数の芸論研究もまた世阿弥研究といってよい ものであるが、それは一部が同氏著『能楽史新考 ( 一 ) (ll) 』 ( 昭和五四年、昭和六一年、わんや書店 ) に収めら れているが、その全体はいまだまとめられていない これらのうち、戦前の世阿弥研究の到達点を示すのが、能勢朝次氏『能楽源流考』の実証的な世阿弥研究 や小林静雄氏の『世阿弥』であり、戦後では、表章氏の芸論のテキスト研究やそれと一体の芸論研究を別に こ、つさいっとむ すれば、香西精氏の『世阿弥新考』をはじめとする一連の世阿弥研究が傑出した成果である。その香西氏 の研究は、世阿弥と褝との関係についての発見や世阿弥の芸論などをもとにした画期的な研究であり、『世 阿弥十六部集』刊行を機にはじま 0 た世阿弥研究史上の金字塔というべき研究である。また、も 0 とも新し い堂本正樹氏の『世阿弥』は劇作家による評伝というべき著作であるが、香西氏の研究をはじめとする新し い世阿弥研究をふまえた読みごたえのあるカ作である。 この講では以下、右のような世阿弥研究をふまえ、そこに多少の私見をも加えつつ、世阿弥の生涯と業績 の概略を紹介してゆくことにする。なお、世阿弥の生涯についてはいろいろな時期区分がありうると思うが、 ここではそれを、パトロンであった室町将軍の治世をもとに四期にわけてみた。また、世阿弥の生年につい 4

2. 現代能楽講義 : 能と狂言の魅力と歴史についての十講

講」として掲載することにした。また、本書に用いた上演写真の多くは、能評家の沼艸雨氏 ( 平成四年没 ) の旧蔵で、沼氏や能楽研究家の岡緑蔭氏らが昭和初年から昭和五〇年代にかけて撮影されたもので、平成一 〇年に大阪大学の演劇学研究室に寄贈されたものである。また、須田国太郎氏のデッサンは平成一三年に大 しすれも近年筆者が監修 阪大学に寄贈された五〇〇〇枚あまりの能・狂言デッサンの一部である。ロ絵には : かんしよ、つじよ、つ としてかかわった《菅丞相》と《泰山木》をかかげた。《菅丞相》は菅原道真一一〇〇年記念として、平成 一四年四月に大阪天満宮において観世流の大槻文蔵氏を中心に復活上演された能で、『申楽談儀』にみえる 「天神の能」と思われる古曲である。《泰山木》復曲の経緯は第九講でふれたとおりで、ここにかかげたのは 初演の舞台である。いずれも近年の能楽界の動きを伝えるよい材料と思うので、ここに掲げることにした。 こうしてみると、本書は「身内ーでかためた書のように映るかもしれないが、それは材料や話題について の のことで、内容については、つとめて能と狂言についての普遍的で重要な問題を選んで論じたつもりである。狂 その点では、「身内ーでかためた外観とは正反対の「開かれた書」であると思うのだが、どうであろうか ◎ て し なお、本書がこのような形でまとまったのは、ひとえに本書のカバーデザインを担当されている辻村紀子 氏と大阪大学出版会編集長の岩谷美也子氏の熱心な慫慂のたまものである。辻村さんは本書のもとになって講 いる「演劇学講義 . の熱心な受講者でもあって、ちょうど一年前の講義に岩谷氏を同道され、そこで話がま とまってしまったのである。本書がお二人が期待されていたような内容になっているかどうかははなはだ心 もとないが、ここにあらためてお二人のご厚意に感謝する次第である。 285

3. 現代能楽講義 : 能と狂言の魅力と歴史についての十講

がったときのことを思い出した。一 = 調査は毎年二日の日程で、休憩時には、中村弥三郎氏や手伝いのお弟子 の方々も加わって、いつもにぎやかに能界のことや研究のことが話題になったが、世阿弥時代の地謡のこ とも、そのときによく話題になったのである。世阿弥時代から現代までの地謡の機能の変化ーー拡大化ーー は、ワキの役割の変化ーー縮小ヒ ーーと一体の関係にある。福王氏は、昭和六十年四月に『国語と国文学』 に発表された表章氏の「能の同 ( 音 ) と地 ( 謡 ) 」で明らかにされた、そうした地謡やワキの役割の変化を よく知っておられて、その話題になると、氏はいつも、「どんな感じになるんですかねえ」と幻の演式に思 いをはせるようにして言い、そのたびに、われわれは「それこそワキ方の仕事ですよ」と、その形での上 演を強く慫慂したのだった。 福王氏が地謡の役割の変化に強い関心を持っていたのは、もちろんそれがワキの役割の変化と一体だか らで、その関心は現代にワキ方として生きる氏にとっては、自己探求にねざした必然であったろう。地謡 やワキの役割の変化についての知識も、代々伝えられてきたもので、ワキ方としては当然の知識でもあっ たはすである。一方、われわれ能の研究に携わる者にとっては、知識として理解しているその演式をぜひ とも実際に見てみたいという欲求があった。それは好奇心からではなく、伝統すなわち不変という、今も 根強い能にたいする固定観念を打破するのに有効であり、なによりも、現在の能を相対化することによっ て、今後の能が進むべき道についても、なんらかの指針がえられるかもしれないと思ったからである。そ のときは、休憩中の、あるいは調査も終わって、ビールを飲みながらの雑談ではあったが、上演は福王会 の主催がいいとか、地謡もワキ方から出してはどうかとか、けっこうふみこんだ意見がかわされたように 228

4. 現代能楽講義 : 能と狂言の魅力と歴史についての十講

つまり、狂言の風刺は創成期以来基本的に後者のような風刺が主体であった、というのが筆者の考えなので ある。 もっとも、これは狂言の本質にかかわることではあり、このような概説的な書において述べるべきことで もないので、一つの見方というていどに聞いていただければけっこうであるが、狂言の風刺をこのようにみ ようとする論者はじつは筆者だけではない。野上豊一郎氏がそれで、同氏が『文学』昭和二二年八月号に発 表した「狂言の風刺と諧謔」においては、狂言を風刺の芸術であるとするそれまでの定説を退けて、原則と 、乍ロロこ卩して説かれている。諧謔とは「洒落」「ユーモア」の謂であ して狂言は諧謔の芸術であることがイロ : 只 るが、野上氏はその諧謔こそ狂言のほばすべての作品に認められるものであり、それをもって、野上氏は狂 言は諧謔の芸術とするのがふさわしいとするのである。野上氏のこの論文では明確に述べられてはいないが、 カ 魅 そのような諧謔の裏に深い人間観察があるというのが野上氏の理解なのであろう。 レ」 狂言がそのような演劇であるとすると、そのような上質な演劇をだれが作ったかということが問題になろ史 の う。江戸時代の後期には、南北朝期の高僧だった女恵法印が作者に擬せられたりしているが、もちろんそれ ◎ はとるにたりない一介の俗説である。能とは違って、狂言の作者については、それが具体的に知られるケー 講 ヾ皀殳者であったように、狂言の作者もやは十 、ヒ肥の作カム目 , イ スはほとんどないかーーーこれからもないであろう り狂言役者自身であると考えて、たぶん誤りはないであろう。 279

5. 現代能楽講義 : 能と狂言の魅力と歴史についての十講

田代氏の『夢幻能』では、このように佐成謙太郎氏が「夢幻能」という用語を用いる以前にも、雑誌『能楽』 いけのうち の主宰者だった池内信嘉氏が明治三八年に夢幻能を「夢幻的のもの」と呼んでいること、佐成氏が後年の 『謡曲大観』においてその各曲の解説に「夢幻能」と「劇能」という分類を用いていること、しかし「夢幻 能。という用語は当初は『謡曲大観』以外にはほとんど用いられす、それが一般化して定着するきっかけに なったのが昭和三五年の日本古典文学大系『謡曲集』の解説 ( 前掲の横道萬里雄氏の解説 ) であること、など が指摘されている。 現在、よく用いられている夢幻能という用語は、じつはこのように歴史的には新しいものなのである。も ちろん、それは夢幻能という用語が新しいというだけであって、夢幻能という用語が指示する形態の能がそ のころにな 0 て生まれたということではない。 ~ 幻能という用語の有無にカかわらず、夢幻能はすでに六〇 〇年ほど昔の。世阿弥の時代から存在して いた。というより、世阿弥の時代に、夢幻能という特異・な劇の様、エ が整理され洗練され、さらにまた多彩な展開をみせた結果、現在能を含めた能全体が一気に象徴劇としての 側面を増大させて、以後、室町時代・江戸時代をへて今日に至っているわけで、夢幻能という用語こそ新し いものの、夢幻能の用語で呼ばれる様式の整備とその展開は、能の演劇としての洗練の過程そのものといっ てよいであろう。その夢幻能の整備と展開という日本の劇作史のもっとも枢要な場面の中核にいたのが、ほ かならぬ世阿弥であったのだが、 そのあたりの事情については、このあとの「夢幻能の形成ー「夢幻能の展 開」の項で述べることになろう。 なお、夢幻能という用語は、昭和三五年の日本古典文学大系の『謡曲集』において前の横道萬里雄氏 4

6. 現代能楽講義 : 能と狂言の魅力と歴史についての十講

なったのである。 この松本氏の論文にたいしては、同じ『文学』の昭和二三年一二月号に掲載された林屋辰三郎氏の論文 「中世芸能の社会的基盤」が、狂言も能もやはり従来どおり平安時代以来の猿楽が源流であると考えるのが 妥当であるとして、松本氏の提起した二つの論点の一つに否定的な見解を示した結果、以後、この点 ム目 ・狂言と平安鎌倉期の猿楽との関係ー・・・についてはふたたび従来の猿楽源流説が主流となって現在に及ん でいる ( ↓第二講 ) 。しかし、右の林屋氏の論文では、松本氏が主張したもう一つの論点ーー能は支配階級た については、両者を支える社会的基 る武士階級の文化的所産であり、狂言は農民の創案であるとする論ーー 盤という視点から松本説を一部批判しつつも、結論的には松本説に近い見解を提示している。すなわち、能 については、「単なる武士階級の文化的所産ではなく、上層の貴族的なそれの所産、「幕府の構成要素となっ カ 魅 た上層武士階級によって農村から持出され、その性格を明確にした」ものであるとし、狂言については、 レ」 「近畿農村に於ける下層武士階級、名主の一部を含めて主として下人層を主体として、その成長を遂げると史 の ともに都会へと浸潤したもの」というのがその論旨である。林屋氏はまた、 狂 ◎ 講 十 要するに狂言は能の如く理想世界を描くことによって現実を逃避することなく、真正面に現実世界を突く 第 ことによって現実を剔抉したのである。そこに明らかに能とは対照的な芸能の型を創造した。能と狂言、 それはそれ / \ の背景をなす階級的基盤が全く対照的にある如く、その芸術的性格も亦対照的である。そ の意味で「狂言は本来能とは別個の起源をもつものである、という一つの錯覚も、一面の真実を捉えたも みよ、つしゅ 263

7. 現代能楽講義 : 能と狂言の魅力と歴史についての十講

松本氏はこのように能・狂言別根説を提起したのである。ここで注意すべきは、松本氏の能・狂言別根説 はたんに両者が別根であることを主張したものではなく、能も狂言も平安鎌倉期の猿楽の系譜を引くもので はないとした点である。松本氏はこの引用の前の段落で、能はそれまでの平安時代や鎌倉時代の猿楽の系譜 を引くものではなく、南北朝の内乱が生み出した「武士階級の文化的所産」であるとし、引用のあとの段落 では、「狂言ももとは南北朝の内乱が生み出した大衆的演芸の発展したものーとされている。つまり、能も 狂言もそれ以前の猿楽から生まれたものではなく、南北朝の動乱期にそれぞれ別個に生まれたもの、という のが松本氏の主張であり、それは二つともそれまでに提出されたことがない指摘であった。 また、ここには、狂言を能の付属物とみる伝統的なみかたを排して、狂言をそれ自体で独立した演劇であ るとみようとする強烈な主張があり、その結果、狂言を能より古い別個の演劇と結論づけてもいるのだが、 このような主張がなされる背景には、歴史学者松本氏のつぎのような狂言史観ーーそれは能楽史観でもあり魅 史 歴史観でもあるーーがあった。同じ「狂言の面影」からの引用である。 歴 の 狂言の世界はいうまでもなく当時の民間の社会であって、登場する人物も大名冠者から地頭目代・庄屋◎ 十 百姓から職人商人、はては禰宜・山伏・座頭にいたる遊芸の徒までが登場する。これらの登場人物は何れ 第 も京畿近国の農村を中心にして活動するか、さもなければ農村から出て京洛の巷に活動する者として描か れる。そして、そこには往々にして能などに見られるように、京に住む支配階級の視点に立って京や農村 を見ようとするような態度が、微塵もみられないのである。そこには当時の農村がおのれが住む農村の立 2

8. 現代能楽講義 : 能と狂言の魅力と歴史についての十講

ところで、こうして《敦盛》についての読解をおえた筆者をおどろかせたのは、私見とほば同じような趣 旨の理解がすでになされていたことである。それは平成二年に刊行された相良亨氏の『世阿弥の宇宙』 ( ペ りかん社 ) のなかの《敦盛》論である。相良氏は日本倫理思想史の泰斗で、相良氏にこの著があることはも ちろん筆者も知っていたが、専門外の方の著書ということもあって、蔵架にはあったがじつはきちんと読ん ではいなかったのである。それが本書の校正中になんとなく気になり、序文を読んでいくと、つぎのような 瞠目すべき一文に遭遇した。 謡曲に関心をもつようになってから世阿弥の謡曲を中心に極力先学の謡曲研究を読むことに努めたが、 研究の一つの有力な傾向としてうかがえたのは、本説あるいは民間伝承とのかかわりの研究であった。そ れ自体は価値ある研究であり、また教えられるところも多かったが、私のように謡曲の思想に関心をもっ 者には、本説や民間伝承とのかかわりを梃子に、さらにその謡曲の思想に切り込む姿勢がより豊かにある ことが望まれてならなかった。また、たまたま思想にふれた場合にも、多くは感想の域にとどまるものが 多かった。だいたい、他の場合でも思想にふれる場合には、直感的な感想として述べられることが多い。 たとえば、われわれが手にするテキストには、多く解題の中に「主題」という項目があり、一、 二行で片 相良亨氏の『世何弥の宇宙』 《敦盛》論についての補足 158

9. 現代能楽講義 : 能と狂言の魅力と歴史についての十講

のとしてわれわれに大きな示唆を与えるのである。 とも述べているが、ようするに、林屋氏の説は能・狂言の母体を平安鎌倉期の猿楽とする点では松本説と対 立するが、能・狂言を支えた階級的基盤 ( 社会的基盤 ) を別個のものとみるという点では松本説と基本的に は変わりはない、とい、つことになる このあと、この問題ーー能と狂言の社会的基盤の問題ーーについてはほとんど問題とされることなく現在に 至っているが、以上に紹介した松本新八郎氏や林屋辰三郎氏の所説に代表される両者の社会的基盤の差異に ついては、その後の狂言研究に隠然たる影響を及ほしており、狂言研究においては、現在も狂言を支えた社 会的基盤を下層武士や下人層とする見方が支配的であるように思われる。しかし、狂言を支えた社会的基盤 をそのように考えると、たとえば、能・狂言の実態を歴史的に把握しうるもっとも古い時代である南北朝期 において、すでに狂言役者が能役者とともに室町将軍の御用役者的な地位にあって活動している事実を説明 することがむつかしくなる。われわれの知るかぎり、狂一言も能とともに権力者の保護のもとにあったのであ り、両者は社会的基盤という点でも、少なくとも南北朝期以降は一体であったとみるのが自然だろう。松本 氏や林屋氏が両者を支えた社会的基盤を別個のものと考えたのは、両者の演劇としての異質性を最大の根拠 としたものであるが、はたして、そのような両者の演劇としての違いを、ただちに能と狂言の社会的基盤の 違いに結びつけてよいものであろうか。筆者などは、ヒ匕 育と狂言は平安鎌倉期の猿楽を母体としつつ生まれ、 それを支える社会的基盤を終始同じくしつつ現在に至っていると考えているのであるが、南北朝期以降の能 264

10. 現代能楽講義 : 能と狂言の魅力と歴史についての十講

いや昔の人だって、あんなにゆっくりしたものはとても耐えられなかったはずですよ」と答えてから、その 根拠として、昔の能上演時間が現在より ( 力に短かかったことを付け加えるごどにしているのだが、 事 実、昔の能は現在のように長くはなかったのであり、昔の人も決して気が長いわけではなかったのである。 かっての能の上演時間が現代のそれにくらべてはるかに短かかったことは、早く昭和一三年に刊行された の、つえんにつしよう 野々村戒三氏の『能苑日渉』 ( 檜書店 ) 所収の「室町時代の演能時間」に指摘がある。そこでは、能の番数 まんさいじゅご、つにつき に加えて開始時間と終了時間が明記されている永享一一 ( 一四三〇 ) 年の『満済准后日記』と天正四 ( 一五七六 ) たもんいんにつき 年の『多聞院日記』の記事をもとに、前者では六時間四五分ほどで、一一番の能が、後者では九時間から一〇 時間ほどで一二番の能が演じられたことが指摘されている。これによれば、前者では一番の能の上演時間は 三七分ほどになり、後者では四五分 5 五〇分ほどになる。また、野々村氏はとくに言及されてはいないが、 これらの催しではまず確実に狂言も演じられたと思われるから、それをも計算に入れると、それぞれの上演 時間はさらに短かくなることになる。 しかし、このような指摘が早くになされていたにもかかわらず、それが一般愛好者に広く浸透するという ことはなかったように思われる。その後、能の上演時間の推移については、昭和六二年刊行の『岩波講座 能・狂言 * 〔能楽の歴史〕』に、表章氏が一四頁にわたって、室町時代から近代までの能の上演時間につい ての調査結果を示されている。また、同氏はこれとほば同じ時期に、右の岩波講座よりはるかに詳細な調査 結果である「演能所要時間の推移 , ( 『日本文学誌要』三六号、昭和六二年 ) をも発表されている。そこでは野々 村戒三氏の指摘の正しいことが確認されているが、その結果、表章氏は能の上演時間の推移をつぎのように 幻 6