に進んでおり、民衆の人気も猿楽よりまさっていましの中に取り入れ、新しい時代の芸能に仕立て上げまし た。ですから、観阿弥は観世流の流祖というだけでな 観阿弥 ( 一三三三ー八四 ) は、元弘三年、鎌倉幕府 く、今日の能の大成者でもあるのです。 が滅びた年に生まれ、いわゆる南北朝時代を生き抜き、観阿弥は、大和から京都へ進出し、応安七年 ( 一三 至徳元年に五十一一歳で没しました。彼は三十歳の頃、七四 ) 、今熊野で勧進能を催し、時の将軍足利義満に ゅうざき 大和の結崎村で座を結成しました。ですから結崎座と 認められます。この時点から、能は大きく変ってゆく みよまる 称していましたが、観阿弥は初め、観世丸という名だのです。 ったので〈観世〉と呼びならわすようになりました。世阿弥 ( 一三六三 ? ー一四四三 ? ) は、父観阿弥に 結崎座は、大和猿楽四座のうちでは、一番歴史が新し劣らない天才でした。義満が、猿楽の能に注目したの いのですが、たちまち他の三座をおさえるようになり は、観阿弥の芸に心しただけでなく、当時十一一歳だ ます。それは、観阿弥が能役者として上手であっただった世阿弥の可憐さにすっかりほれこんだためです。 けでなく、他の三座の能には見られない新しい魅力が、世阿弥はただの美少年だっただけでなく、実に豊かな 観客をひきつけたのです。その頃の大和猿楽の能は、才能を持っていました。彼は " 花の御所サロン。とで 物真似本位で、特に鬼などの荒々しい芸を売り物にしも呼びたい文化的な環境の中で、王朝文芸への深い教 ていました。観阿弥は、近江猿楽の歌舞的な芸風や田養を身につけ、その才能を遺憾なく発揮しました。彼 楽の名人一忠の風体を学び、また当時流行していた は、恵まれた前半生にくらべて、悲運な晩年を送りま くせまい 曲舞のリズム、小歌のメロディーの面白さなどを猿楽すが、その八十年の生涯を通じて、父の開拓した新し
【みどころ】「熊野、松風に米の飯」などと昔からいわれています。幾度見ても、流之伝 ( 観 ) 、八頭之伝 ( 観 ) 、小返 何時聞いても飽きのこない、という意味でしよう。共に打曲の中で最も人気の ( 剛 ) 、灘返 ( 宝・春・剛 ) 、中之留 ( 観 ) 、本之留 ( 剛 ) 、三之拍子 ( 喜 ) 、 ある曲ですが、しみじみとした味わいは「松風」の方が勝っています。 しおくみ 曲出之打切 ( 観 ) 、曲中之打切 ( 観 ) 、 この曲は、田楽の名手亀阿弥の作った「汐汲」と云う古い能を、観阿弥が改作五段之雙観 ) 、真「 , 」物着 ( 剛 ) 、戯 して「松風村雨」という能に仕上げたのを、更に世阿弥が修正を加んて、今日の之舞 ( 観 ) 、見留 ( 観・宝・剛・喜 ) 、 「松風」になったのです。このように三代にわたって名人が練り上げた作だけあっ身留 ( 春・喜 ) 、身之留 ( 剛 ) 、真留 ( 宝 ) 、脇留 ( 観・宝・剛 ) 、一式之習 て、名曲の名に恥じない作品であり、世阿弥としても自信作だったようです。こ ( 剛 ) の能はまだ一段形式ですが、やがて複式夢幻能へと発展してゆく要素が随所に見 られます。シテとツレを姉妹 A 」せすに、物狂の女とその侍女、という設定にする はれ ~ たみ と「花筐」に似ています。また前半は「屋島。の前場」類似の構成です。 海のなかった京洛に住む者にとって、歌枕としての須磨の浦は、辺境の地であ ると同時にあこがれの土地でもあり、それを背景とした行平と松風、村雨の恋物 語は、『源氏物巴須磨の巻の光源氏の話ともダブって、当時の人々をロマンティ ックな王朝文化への夢にひたらせたことでしよう。 前段の月下に汐を汲む情緒、後段の形見の衣をひしと抱く秋の哀切、狂乱の 舞と変化曲折に富み、謡にも型にも聞きどころ見どころの多い曲です。 【】行平は平城天皇の皇子阿保親王の第一一子で、在原業平の兄に当ります。 地松島や雄島の海士の月になに影 を汲むこそあれ、影を汲むこ そあれ。 229
のすくよ、つなヒューマ一一ストです。観念より実践を、形式より実質を重んずる訳■小書 です。それでいて軽挙安動、猪突猛進の人ではありません。その目的のためには、忍 ' 」舞 ( 観 ) はず - かー」 如何になぶられ辱められようと、平然と耐えて見せ、最後には、初志を貫徹しま す。いわば「正義の味方」「庶民の英雄ーといった人物を舞台に活躍させたのです。 いかにも能がまだ大衆の中に生きていた時代の作品であり、恐らくは当時の見物 は、拍手をもって迎えたことでしよう。 くちあけ 狂言ロ開で始まり、門前の男への人商人の威嚇、少女救出のため説法を途中で やめようとする居士とそれを止める男との会話、つづいて人商人とわたりあう虚 虚実々の駆引き、それから〈中之舞〉〈曲舞〉〈ササラ〉〈羯鼓〉と芸尽しになりま す。今までの息づまるような緊張した状況から、賑やかな場面に移る訳ですが、 単なる見せ場の羅列ではなく、少女を助ける手段、交換条件として、いろいろな一一 芸をやって見せるという、あくまで自然居士の一貫した行動としたところが巧み な構成です。 【備考】世阿弥が幽玄の能を完成する前、観阿弥が、大和猿楽の伝統である物真ワキ寒れ科ぞどて、艪釵 て散々に打つ、 似の芸風を押しすすめた劇能の傑作で、彼の特色がよく表れています。男打曲の 、ンテ「打たれて声のてざるは、 中、最も古い能の一つです。『三迴 ( 能作書 ) に「自然居士、古今有」と記され ており、打曲は世阿弥が改修したものです。 129
い猿楽を更に発展させ、〈幽玄〉という美学を生みだていた能は、時代と共に流動していました。 能が創造的な活動を停止し固定化したのは江戸時代 し、確立した〈複式夢幻能〉という構成により、すぐ れた作品を書き、高度な舞台芸能として完成させましに入り、幕府の式楽と決められてからです。キリシタ た。彼は、作者、演出家、役者であると同時に理論家ン林天下や鎖国令などが布かれ、徳川封建制度が次第に でもあり、『風姿化屋『花霆『拾玉得花』『談儀』強化されてゆく中で、能も、演劇としての自由な発展 を完全に止められます。以後の能は、外に向うエネル など多くの伝書を書き残しています。 世阿弥の没後、猿楽の歩んだ歴史は、必ずしも彼のギ 1 を内へ向け、限られた演目を芸術的に洗練するこ とに専念します。能は、まさに古典芸能となり、伝統 士回した方向には進んでゆきませんでした。彼のかか げた理想は高すぎたともいえます。世阿弥の息子十郎演劇 A 」なったのです。 元雅 ( 一三九四頃ー一四三一 l) も父の路線に修正を加武家の庇護のもと、江戸時代を安泰に過した能は、 えて、大衆の理解と支持を得ようと努めます。世阿弥明治維新によって、その基盤を失って崩壊の危機に直 の甥の音阿弥の七男である小次郎信光 ( 一四三五ー一面しますが、まもなく見事に再生し、大正・昭和と能 五一六 ) は、劇的なストーリ 1 をもち、装東もきらびは黄金時代をもたらします。そして今次の大戦でも大 きな打撃を受けましたが、またもや不死鳥のよ、つによ やかで、登場人物も多い、見た目も派手で面白いショ ウ的な風流能を作り人気を博します。彼の作風は、そみがえり、史上空前という盛況を呈すると共に、海外 からも高い評価を受けています。能とい、ユム能が内に の息子の弥次郎長俊 ( 一四八八ー一五四一 ) にも引き つがれます。同時代の演劇として大衆と直に結びつい秘めている生命力の強さに、改めて咸するのです。 272
能と考えられますが、男打では四番目物に扱われています。世阿弥の頃は、今日 のよ、つな五番立による分類はありません。普通なら前シテが宮守で登場し、前場 の終りで明神の化身であることを明らかにして〈中入〉し、後シテは明神の本体 の姿で現れるという一一段形式の能になるところです。本曲は、宮守に神がのり移 った態で、前半のみで一曲が完結されていて、まだ複式夢幻能の形式が完成して いない時代の、古い形の能の姿を見ることが出来ます。この能を世阿弥が演じた 時の謡いぶりが、田楽の亀阿弥そっくりだったという話が『申楽談に記され ています。謡い方だけでなく、能の作り方自体も古風だったのでしよう。 シテが傘と松明を持って出るというのも他の能では見られない扮装です。シテ は〈立廻り〉をまいますが、これは神楽を見せる心で舞台を一巡するだけで別に 型はありません。全体に所作は少なく、神さびた趣がねらいです。むしろワキに 型が多く、重い習物になっています。 【備考】昔、唐から七曲りの穴の通った玉が送られ、それに繩を通せという難題 が来た時、中将某が、蟻の腰に細糸を結び、玉の穴の一方に蜜を塗り、他方から 蟻を入れると、蜜をしたって通りぬけ、見事に糸を通すことが出来た。その中将 ・ものとが が死んで後、神になった、というのが蟻通伝説です。本文にあるように、物咎め する神としても有名です。 、ンテ「瀟湘の夜の雨し暑りに降って遠 寺の鐘の声も聞えず、・・ : : 社頭 ヰ・見れば燈火もなく。
【みどころ】観阿弥が得意とした「嵯峨の大念仏の女物狂の能」を、世阿弥が改 修して今日の形に仕上げたものです。百万という女芸人の曲舞ぶりを舞台化する のが目的だったと思われます。母親と知りつつすぐに名乗りかけない、百万も引 の展開がやや きあわされる迄我が子に気がっかない、といった点で、ストーリー 不目然に思えますが、もともと女芸人の芸尽しを見せるのが主眼で、親子の再会 という事件は副次的なのです。ここらが近代劇と違、つところで、能としても古作 の趣が見られます。子供をさがしもとめて物狂いになった、という事を何度も強 調しながら、狂女物にはっきものの〈クルイ〉や〈カケリ〉がありません。〈念仏 之段〉〈車之段〉〈笹之段〉一一段の〈舞グセ〉さらに〈イロエ〉〈立廻り〉もあり、 次々と見せ場が続くからかもしれません。詞章の上では、子をさがす百万の嘆き が切実に訴えられていますが、軽妙に節付された謡による所作を見ていると悲劇 的な暗さは少なく、むしろ春の浮き立った雰囲気の中で、狂女が念仏踊に盟ヂる 風情は明るいものさえ感じさせます。「面白づくの能」といえるでしよう。とにか くシテは一曲を通してまい続けます。 【備考】流儀によってはワキを僧にすることもあります。大念仏の中の , 夕、 ハミ′は「母なる阿弥陀」と「母見た ( 逢いたい ) 」の両方を意味すると の説があります。 地「親子鸚鵡の釉なれや、百万が舞 215
阿波国、鳴門 ( 現・徳買不鳴門市と 経のおかげで、局と共に成仏の身となり得たと、再び海へ沈んでゆきます。 淡路島の間の一 ) 【みどころ】悲惨な戦のため、愛する夫婦はひきさかれ、ひたむきな恋も悲しい 結末を見なければならないという王題で、修羅物でありながら幽玄味の濃い作品 夏 です。この能は、世阿弥自身がいっているように、井阿弥の原作を、かなり大。田 申第演能時間 に修正したもので、出来上がった能には「祝言の外には、井筒、道もりなどすぐ一時間四 + 分 なる能也」「道もり、忠度、義経一一一番、修羅がかりにはよき能也」と大いに自信の準月書 各流ともなし 程をもらしています。それまでの修羅能は、『太平記一に出てくる猛々しい武将が 地獄での苦しみを見せる鬼の能に近いもので、それほど面白くなかったのを、世 きんたち 阿弥が『エ豕物新巴に登場する豕の公達を花鳥風月に寄せて優美な修羅物を創 造するきっかけとなった作品です。改作だけに、脚本の上でやや不備な点が残っ てはいますが、味わい深い能です。前場では、篝火をつけた舟が常座に置かれ、 シテとツレは一声の囃子で登場してこれに乗り、中入前に海に沈む態で舟から出 て幕へ入ります。舞台一面が海という相疋です。舟中ですので一一人はわすかな所 作で、小宰相の哀れな最期を物語ります。後段は、別れを惜しむ一一人の愛の細やシテ・ツレ楫音を静め唐艪を抑〈 て、聴聞せば・や、ど思ひ候。 かさと戦のすさまじさを対照的に見せます。 【備考】本文では、前場のシテ・ツレは老人と姥になっていますが、打の演出 では、小宰相のイメージを強調して若い女の物衣で登場します。 235
単純な物真似芸や独立した歌舞を、ただ並べて見るだ R 能の歴史 けでは満足しなくなり、もっ少し複雑なショウ的な構 能は、室町時代に観阿弥、世阿弥父子によって大成成の中で、ないし一つのまとまったストーリーの中て さまざまな芸がくりひろげられるのをのぞむようにな された舞台芸能です。 ふりゆ、つ りました。そうした要求に応えて、〈延年の風流〉や 六世紀の中頃、中国の正楽である〈雅楽〉が日本に 渡来しました。同じ頃、中国の民間でもてはやされて〈能〉が生まれました。〈能〉というのは、最初は、筋 さんがく いた〈散楽〉も日本に伝わって来ました。散楽とい、つのある歌舞劇といった程度の意味でした。ですから、 かるわざ 猿楽の座 ( 劇団 ) の演する能もあれば、田楽の座の演 のは、滑稽な物真似芸や歌舞、曲芸や軽業のたぐい、 幻術、奇術、それに人形まわしなど、アジア各地からずる能もあったのです。 ぞうげい 中国に流れ込んで来たさまざまな民間芸能Ⅱ雑芸を総南北朝の頃には、猿楽の座が近畿各地で組織され、 称した呼び名です。その散楽が、日本古来の芸能とま社寺の神事や祭礼に奉仕すると共に、その庇護を受け さるごう 当、るがく ざりあって、〈散更〉〈猿楽〉と呼ばれるようになりまて地方巡業を行っていました。その中でも、六置地方 にあった大和猿楽の四座と、琵琶湖周辺の近江猿楽 ~ ハ した。鎌倉時代になると、農耕儀礼から端を発した 〈田楽〉という芸能も多いに流行しました。一方では、座、それに丹波猿楽、伊勢猿楽などの活躍が目立って 僧侶達が法会のあとの遊宴に行った〈延年〉という寺いました。ほかに、京都に本座、六に新座と呼ばれ 院芸能も盛んでした。平曲、今様、白拍子など新し、 しる田楽の座がありました。そして実は、観世父子が猿 歌曲や舞も出来てきました。そうして当時の見物は、楽の能を大成するまでは、むしろ田楽の方が、芸術的
■作者 観阿弥 ( 世阿弥改作 ) 四番目物 百万。。くえ ・素材 【あらすじ】大和国 ( 奈良県 ) 吉野の男が、西大寺のあたりで、一人の幼い子供 を拾いますが、その子を連れて、京都嵯峨の釈呈の大念仏にやって来ます。そ・人物 して門前の男に、何か面白い見ものはないかと尋ねると、百万という女物狂が面「 ~ 方亠日万の子 ( 唄稽 ) ワキーー・吉野の男 ( 素袍上下 ) 白く音頭をとるというので、それを呼び出してもらいます。やがて、門前の男の アイー釈呈門前の者 ( 長上下 ) 念仏にさそわれて、百万が出て来て、念仏の音頭をとって踊ります。そして仏前 シテーー百万 ( 面深井、長鬘、前折烏 に進んで、我が子に逢わせてほしいと祈ります。すると先の子供は、あれこそ自帽子、長絹、無紅縫箔腰巻 ) 分の母親だというので、男は、それとなく百万に事情を問いただします。百万は■場 山城国、嵯峨 ( 現・京都亠京区嵯 「夫に死に別れ、子供には生き別れたため、この様に思いが乱れたのだ」と語りま 峨釈迦藤ノ木町、漬堡せ す。男が、信心によって子供が見つかるだろうというと、百万はその慰めの言葉 にカづけられて、奉納の舞をまいはじめます。百万は、我が子に逢おうと奈良か春 ら、はるばる旅して、この春の嵯峨へやって来たことを述べ、このように大念仏ー演能時間 一時間三十分 に集まっている大勢の人の中に、我が子はいないのだろうかと、身の上を嘆き、 狂乱の状態で仏に手を合せます。男はいよいよ間違いなく子供の母親であると思 亠念古田 ( 剛 ) 、舞入 ( 宝・剛・喜 ) 、法 子供を引きあわせます。百万は、もっと早く名乗ってほしかったと恨みはし 卒′」舞 ( 観 ) 、替之型 ( 観 ) ますが、仏の徳をたたえ再会を喜びます。 214
第作者 トね 4 、マい / 世阿弥 ニ番目物 実盛 しのはら たあみ 【あらすじ】諸国遊行の他阿弥上人が、加賀国 ( 石川県 ) 篠原で、連日説法を行 「エ豕物造 っていますと、一人の老人が一日も欠かさず聴聞に来ます。しかし不思議にもそ人物 の老人の姿は、上人以外の人には見えません。そのため上人がその老人と一一一一口葉をアイー篠原の里人 ( 狂一一〔上下 ) ワキーー他阿弥上人 ( 角帽子、経水衣、 交わしていても、上人が独り一一一口を喋っているようにとれ、土地の人は不審に思い 無地熨斗目 ) ます。今日も、その老人がやって来たので、上人がその名を尋ねますが、なかな 前、ンテーー老人〈化身〉 ( 面笑尉、茶 か明かしません。強いて尋ねると、人を遠ざけた後、斉藤実盛は篠原合戦で討た経示衣、無地熨斗旦 れ、その首をこの前の池で洗ったことを話し、自分こそ一一百余年を経て、なお成後シテ・・・・・斉藤実盛の霊 ( 面 ( 手蔚、白 垂、梨打鳥帽子、法被、半切 ) 仏出来ずにいる実盛の亡霊であると明かしてん失せます。〈中入〉上人は里の男 ー場所 に、実盛の出自、最期の様子、首実検の様などを尋ね、いよいよ先刻の老人は実 加賀国、篠原 ( 現・石川県加賀市篠 盛の亡霊であると認め、その跡を弔っことにします。その夜、上人が池のほとり 原町 ) たむけ で念仏を唱えていると、実盛の霊が、白髪の老武者の姿で現れ、その手回に咸館■時 ひたたれ し、報恩のため、首実検の様、さかのばって錦の直垂を拝領しての出陣の模様、秋 ! 凍能時間 木曾義仲と組もうとして、手塚太郎に討ち取られた一部始終を物語り、なおも回 一一時間 向をたのんでん失せます。 【みどころ】古くは「篠原」また「篠原実盛」などともいっていたようです。世長胡床 ( 観 ) 124