とれないこともない。 こ、つなってきますとね : 一行目の〈みづからおのれがかたちに題して〉に重点をおくか、それとも二行目の〈うっさ れてわれにあふみの〉に比重を持たせるかで、意味はまったくちがってくる。 一体、この二つのうちのどちらをとるか。どちらをとったらより正当な解釈になるのか。ひ とつ、先生にご意見を伺いたいわけなんですが」 凸ぐなー と言おうとして思わず口元を押さえたほど私はあわてたが、懸念したように、高見沢氏は眉 をひそめた。 「ど、つでしよう ? 」 「その二つのどちらをとるか ? 」 強引な近藤記者を、黙りこんだ相手は押しかえすように見上げて、ことさらゆっくりと眼鏡 をかけた。 それから、急にじっくり近藤記者を見据えた。 「あんたの要求するところはだね、つまりこれが写楽の自画像かどうか : 178
「蔦屋から出た黄表紙や洒落本のすべてに、わたしはくまなく当たってきました。歌麿や重政に のさしえと、蔦唐丸のそれを比較検討もしてみました。研究家の誰もがやっていないこうした 読み本や絵本の調査を、戦後ながいことやりつづけてきたからこそ、わたしは確信をもってい えることですが」 からだまでを乗り出していう榎本によると 蔦唐丸のさしえは歌麿や重政に似ていながら、明らかにこの二人ともちがっていた。 ほかのどの絵師のさしえにも見られない一つの特徴が見られた。 それは、浮世絵師の集団だった勝川、喜多川、鳥居、北尾の各派の流儀にすこしずつ似てい ながら、そのどの一派にも属さない特徴を持っていた。 一つの絵全体としてみると歌麿や重 つまり、部分的には歌麿や重政の作風と似ているのに、 政にない、それこそが蔦唐丸独自のものといえる個性がはっきり見てとれるというのだ。 「ことあたらしくい、つまでもないことです。あなたにはもうおわかりでしよ、つ ? 」 といって、榎本氏は私を見た。 「写楽の役者絵版画がそうでしたね」 ポツンと切って、私の反応をうかか、つ目だ。 「あの役者絵は、勝川や、鳥居、北尾各派の影響を持ちながら、全体として見ると、それらを
道具屋だったことはたしかだという その店頭には、洗濯石鹸や、軍手や、旧軍隊の将校用の長靴などがごっちゃに並んでいた。 にぶい日ざしの奥の板ばりの壁に、何本かの掛軸が下げられていて、その中央の一つが、それ はいともさりげなく、ささやくよ、つに、好古堂を呼んでいた。 佳品は、招くに価する人間だけを招く。その目さえ持つなら、こっちは黙っていても、品物 ささや の方からおいでおいでと囁いてくる 近づいて、よく見た好古堂は、内心ほくそ笑んで、これこそお伊勢さんのご利益だ、と思った。 縁も、画賛も、肖像の絵もふくめた軸全体の備える気品が、なんともいえない。 緞子仕立てのふちの唐草模様と、肖像画の人物が敷いている座ぶとん風の敷物のさらさ模様 とが、江戸寛政期の流行にびったり合致しているのもいい。 ふちがすり切れているのは、それだけ頻度多く鑑賞家の目をくぐった証拠で、破損が肝心の 絵に及んでいないのはうれしい 〈みづからおのれがかたちに題して〉で始まる五行の画賛の、つぎの行が、 〈うっされてわれにあふみのかがみやま〉 とあり、最後の一行に書かれた年月日と署名が、 〈寛政六甲寅仲春一陽井素外六十一歳〉 4 4
なしでなく、必ず鋭い終止点ではねてい いつ、を、ー第ヂ る携法、息の長い平行線ほか、その絵の ろ年・ーを ~ あ畛れバをとー ! 、ホ、ち 5 小う えち男 ) みろネを三、えのあろを 第大ち ( る 中で春朗が見せている独得のくせは、す ・ぐ愛と 4 ゝ、、と べて写楽版画の特徴に当てはまる の背ズ生 というのが、由良説の極めて重要な一つ んド の論点だった。その論旨は、春朗の絵と 道写楽版画の全図や部分図を豊富に並べ、 ち 0 靫ス 2 ん ルきれの ちみつ 一口田 その類似を緻密にかっ具体的に例証する い 4 ゲムÅのあ ~ 、ゞ、、ーゐハ・、てをそ方かー やり方で展開するから、圧倒的な説得力 当めとり、 ? ) へん . 一、さ ~ とを、 00 を持つ。しかも、春朗と写楽の絵の質の 乍画量にも持ちこまれ、さらに二 一致はイ 朗人と蔦重との関係、時代的な背景へと、 川館さながらたたみこむよ、つな激しさとしつ 勝術 こさをもって進められてゆくことでも定 ・伝斎 東評があった。 山葛 北斎がその一生に描いた作画量は、推定 一三ロ よっぽ、つ 154
敗戦は、一般庶民の生活をどん底の悲惨に突き落としたのと同時に、戦前までの日本のいわ ゆる貴族社会の人たちにも、急激な斜陽化を強いた。かれらは、やむなく伝来の家宝を売り払 こっと、つ わざるをえなかったから、書画骨董を扱う古道具業界には秘蔵の名品が出回った。明治維新や、 関東大震災後をしのぐ空前絶後の活況が市場にみなぎっていた、まさに絶好のときだった。 と 酒井好古堂は、江戸末以来五代にわたる浮世絵の収集家である。ひょんなところから、ひょ 力いわし んな珍品を掘り出せる期待を持って、そのときも大阪界隈の古道具屋を歩きまわったが、たい寄 び した獲物にもありつけずに終わったその帰りの途上であった。大阪発の急行に乗りこんでいた 好古堂は、急にお伊勢参りを思いつくと名古屋でおりて、私鉄に乗りかえた。 写 、。ごみ箱のごみ屑なみに混雑した電車も苦にはならぬ。が、途中の 五代目好古堂は信、い深し わ 駅で、吐き出た人波にさからいながらもホームに押し出されてしまい、なおそのすきをたちま と ち埋めつくして車内に入りきらずにいる乗客の後に立たされたときだった。二人分近い空間を 必要とする図体の好古堂は、思いなおした。お伊勢さんには、お参りするつもりになった殊勝誰 章 さでごかんべん願って、せつかく来たついでだから、ちょっとばかり商売をさせていただこう。 第 そう考えるまま途中の駅で降りていたのだから、そこが桑名だったか、四日市だったかはっ きりしない。しかし、駅前通りの、当時どこの町にも群生したバラック建ての闇市の中の、古鴫
デスクにもどった私は、そもそもが酒井氏の谷素外を私の元に持ち込んだ中村正義のことを 考えた。 ありていに言えば、異端のこの日本画家が唱える写楽Ⅱ阿波藩主蜂須賀侯お抱えの蒔絵下絵 師説の、美術史にある程度の理解を持つ者ならたれにせよ信憑性のないのが一目暸然とわかる、 そのあまりのたわいのなさについて、だ。 そもそもが中村正義は、大正十三年 ( 一九二四 ) 五月、豊橋市に生まれた。幕末の祖父以来 重の写楽の定評を持っ扇との類似は写真によっているだけで、実物を照らしあわせたのでもな しかも、その三重の扇さえ、まちがいなく写楽が描いたものとする証明はなされていない のだ。 肝心の点が実証されないでいて、果たして写楽Ⅱ谷素外という画期的な新説を影響力の強い 新聞紙上で通用させることが出来るだろうか ? 「勿論、ばくもそのつもりです。それに、浮世絵の鑑定家の高見沢忠雄氏にあさって会うこと にしています。その上で、写楽Ⅱ谷素外を大大的にぶつつもりです」 それがいい、と私は近藤記者に ( ホッと胸を据でおろす気持はかくして ) 言って、話を打ち 切った。 137 第八章写楽は魔鏡
「素外が大阪にいたとすれば」と相手はいった。「面白くなってくる。素外は、当然、いまい った流光斎なんていう男と、つきあいがあったかもしれない」 「ところで」 と私 . は改まった。 ここが、勝負どころだ、と田 5 った。 「これまでに、私は、いろいろと歩いてきました。さきほどの話にも出た中村正義氏の蒔絵下 絵師説をはじめとして、由良哲次氏の北斎説も、京都の榎本雄斎氏の蔦屋重三郎説も、そのほ かできるだけ多くの写楽の新説に当たってきました。そうした説の研究家に会って、直接、話 を聞いてきたわけです。 しかし、どれひとっとして、決定的なものにぶつかっていません」 ことさら、私はまをおいて、相手を見た。 「しかも、それらのどれもが、そう思ってみれば、確かにそういう可能性もないわけではない という気がしてきます。冷静に考えれば、それらは、そう思ってみて初めてそう思えないでも ない程度の内容にすぎないのでしようが、しかし、とにかく一つの可能性を持ち、世間もそれ を話題にしています。一つのれつきとした新説として、それらは世間に通りはじめています」 貴公子はにんまりとした。 188
これまでの数多い小説や舞台に 限らない。美術にいくらかでも関 心を持つものなら、写楽といえば 異端の浮世絵師で、阿波の能役者 の出と承知していた。 童蔵ところがである。戦後深まった 大館 「物最近までの研究で、写楽を能役者 楽博 写立の斎藤十郎兵衛だとする見方も、 斎国 洲京数多い写楽別人説のなかの一つで ー東東 しかないことが明らかにされた。 つまり、それさえも、実証的には極めて不確かな、後世の想像上の伝説でしかなかったことが はっきりしたのだから、なんとも始末が悪い さて、この本で私が提唱するのは、写楽はどうみても歌麿だった、とする、 写楽Ⅱ歌麿説ーー である。とはいえ、歌麿こそがまちがいなく写楽だったことを世間に納得させるだけの確た る証拠は、絶対に必要である。そのための文献資料での正当な根拠がなければ、写楽は歌麿だ 。 ~ 第、こら一ムスーまノ
を事実として出来るだけ多く、ありのまま後世に書き残すことを決意した。一一十世紀美術のよ き " 語り部 ~ を任ずる私には、これこそが天から与えられた使命と信じたからで、いまもって その気持に変わりはないのである。 私は、私の書く文章に登場する人物はすべて実名で扱い、物語はこれまた出来る限り足を使 って取材した事実を、ありのまま書いてきた。小説並みに奇な面白さを持っ読物だとされた 『藤田嗣治』 ( 新潮社 ) が、昭和四十五年 ( 一九七〇 ) 一月におこなわれた前年度下期の直木賞 候補作品の最終選考の最後の一作にのこった。ところが、事実を実名で扱う物語だっただけに、 これを新聞美術記者の書いたドキュメントと見るか、あるいはルポ的な美術評論とするか、小 説を授賞の対象にする直木賞の条件にかなう作品としていいかどうか、最後の決をとることに 審査会の結論がまとまったのだそうだ。 投票の結果、私の『藤田嗣治』は、一票の差で落ち、その期の受賞作はなし、ということに 落着した。 ところが、受賞しなかったのにもかかわらず、これがロ火を切ることとなり、実名で事実を 云 , こ対する雑誌社 ( あるいは出版社 ) からの注文が、引きもきら 書く私の小説的 " 美術家評イ , し ず私に寄せられてくるようになった。新聞社をやめて、フリーの美術評論家になったいまもっ て、ありがたいことに、原稿の注文は引きもきらずつづいてきているのである。 194
学問としての新説である以上、わたしはその説に学者としての責任をとる。ドイツに留学す るまえ、西田 ( 幾多郎 ) 門下にいたときでも、もっとそれ以前からも、わたしは体質的にそう だった。自分の思想には信念を持ち、行動にも責任を持った。 おわかりかな ? 」 「はあ : : : 」と答えながら私は、射とおしてくるような相手の眼光から目をそらした。 「思うに、西田門下には、二人の反逆児がいた。一人が三木清で、もう一人がこのわたしだ。 三木はマルキシズムに走り、わたしは歴史に走った。西田流の観念論では、本当の実在は解決 できないもの足りなさがあったからだ。 西田哲学は、大変すぐれた体系を持ってはいたが、抽象的すぎた。ヨーロッパの幾何学に東 洋の禅の瞑想を加味した哲学、逆にいえば禅の直観に幾何学の図形を与えただけの空想哲学に で すぎなかった。空想からは、真の実在である社会も、個性も、歴史も解決はできない そう信じたから、わたくし由良哲次は、西田哲学から離れた。そこから離れて、それを越え 写 よ、つと田 5 った。そ、つすることカ日し 、ミ、市こむくゆることにもなり、そうするためには世界的な意義 を持っ個性と歴史を解明することだと決意した。ドイツでの師フローレンツがいう化け絵師写九 第 楽の正体を解明し、それで世界のナゾを解く、これ以外にないことに、わたしは確信を持った」