テレビによると、高橋克彦氏が歌麿から撤退したのは、東京・落合にあるアダチ版画研究所 で、浮世絵版画 ( ならびに現代画家の版画 ) が復刻されているその現場を取材しての、結果だ A 」い、つ 同研究所は、戦前からこれまでの六十年間に一一千点の浮世絵版画の復刻を手掛けてきて、一 万枚を超える版木を所蔵保管していることでも知られる。すでにいま、後継者の数すくない彫 り師や摺り師たちに指示を与え、仕上りを検証しつづけてきている所長の中山吉秋氏は、こと 日本の浮世絵版画に関しては、どんなにすぐれた浮世絵の研究者や、学者、画家でも到底 ( 学 識技術の両面のほかすべての点で ) 及ばない、プロ中のプロである。 この " アダチ版画 ~ の中山所長が、戦前から手掛けてきた写楽や歌麿ほかの版木を、 ( テレビ 画面で ) 倉庫から次々引き出して高橋氏に示しながら、写楽は歌麿に比べて使用する版木の枚 数がすくない ( 歌麿だと七、八枚のところを三、四枚、すなわち約半数 ) ことに、言及した。 うすあい なぜなら、柄のない写楽の衣装は、墨や薄藍一色ですむのに対し、市松や桐の葉といった具合 に衣装の模様の複雑な歌麿は、図柄を彫りおこす版木の数も倍以上を必要とする。摺りに使用 する版木の数だけでなく、絵の印象からしても、 写楽は歌麿とも、ほかの絵師のたれとも違うーーー と断定する中山所長のことばに、高橋氏は " 崖から突き落とされる ~ ような衝撃を受けてい
をふるおうというのだ。 日中戦争から太平洋戦争に至る長い空白が強いられたうえに、すでに研究されつくしている はずの北斎も、写楽に劣らず、資料的な不足が目立った。 第二次大戦後も昭和三十年代を迎えると、前代未聞の写楽プームがおこった。プームに便乗 した写楽別人説がつぎつぎに登場した。 が、由良哲次には、絶対の確信が持てぬ限り、学者の面目にかけても安易に新説を唱えるこ とはできなかった。 昭和のはじめから半世紀に近い由良哲次の研究成果は、こうして抑えに抑えられつづけた。 「わたしの研究方法は、まず可能な限りの資料を集めて、その一つ一つを実証的に調べあげる。 そうしたうえで、信用できるものだけをとって年代順に並べる。どうしても資料の見当たらぬ 部分は、当然のこととして生まれてくる。ところが、その空白も、前後が徹底して調べあげら れていれば、全体として一貫した連続のなかの一こまとして、実態がっかめる。ライプニツツ しいくつかの断絶を埋めてゆくや などのいう連続律がこれで、この連続律を見出してから逆こ、 りかたを、わたしはとっている。 そこが、よその研究家とは絶対にちがうわたしの方法論だ。科学方法論的というか、解釈学 的な研究方法といってもよい。 166
学に精通していた。とくに能の研究では、日本の学者も及ばない学識だった。このフローレン ッ博士に、あの『 co < < 』のクルトが指導を仰いだ。クルトの『 < < 』が 能役者斎藤十郎兵衛に肩入れしたのも、どう考えても、わが師フローレンツの影響によったが、 とにかく、そのころのドイツが日本に持っていた関心のうち、特に日本文化の研究は進んでい 大学の研究室や、美術館には、日本の古文書が山のように積まれていた。浮世絵版画も、驚 くほど収集されていた。広重や歌麿があった。北斎も、写楽もあった。それらは日本の美術館 のようには貴重品扱いをされていなかったから、わたしは自由にそこに出入りして、ひまにあ かせてとくと調べた。 そうしたころの、ある日のことだったな」 若い日本の留学生由良哲次は、北斎と写楽の版画に、ある不思議な類似が見られることに気 づいた。 もちろん、そのときは、その後の研究で確信を持っことになる描線のくせの一致など、具体 的な新発見をしたのではなかった。ただ直感的に、北斎と写楽に極めて濃い近親の関係があり そうな予感を抱いたのに過ぎなかった。 が、由良はそのとき、師フローレンツと親交のあるクルトの著書が書いているようには、写 , 」 0 164
が依拠した斎藤月岑の『増補浮世絵類考』の原本も、現在ロンドンのケンプリッジ大学図書館 にあるといわれ、その活字本が明治のはじめアメリカで作られて、それが世界的に増えていた 外国人浮世絵研究家に流布されていた事実も、戦後の研究で明らかにされたことなのである。 このように、写楽に無知だった日本から根こそぎ写楽を持ち出した欧米には、到底当時の日 本の写楽研究は及ばなかった。しかも、文明開化の波に洗われた明治以後といわず、飛鳥、天 東洲斎写楽「三代瀬川菊之丞の田辺文蔵妻おし づ」東京国立博物館蔵 73 第五章写楽別人説の由来
藤記者がきいた。 「さあ、いくつあるかな : 「一応まともな説とみていいもので、十はありますか ? 「クルトが印象づけた斎藤十郎兵衛説も一つに数えると、一一番目に写楽の墓を徳島に見つけて、 とり・い . り・ゅ、つ第、、つ しゅんどう こんばる 写楽は正式には金春流の能役者春藤某だとした戦前の人類学者に、鳥居龍蔵が挙げられる。そ てるじ いま歌舞伎座の顧問をしているが、この人も の線をさらに進めた浮世絵研究家の吉田暎二は、 別の見方に立った阿波の能役者説をとなえているらしい といったしほり方で、私は最近までのおもな写楽別人説を挙げていった。勿論、近年までの 研究論文のにわか仕込みの受け売りでしかなかった。 思えばクルトによって明治末から大正にかけて日本にひきおこされた最初の写楽プームのあ とを受けたのが、寛政歌舞伎の研究からも写楽をひきだしにかかった前記吉田暎一一を中心とす る戦後の第二次プームの幕開であった。そして、昭和三十年代を迎えると、写楽はひたすら捜 査線上の犯人のような追及を受けた。 りゆ、つざぶろう 昭和三十六年 ( 一九 , ハ一 ) 、色彩学の田口洳三郎が、描線、字体などから写楽は円山応挙な り・とした。 翌三十七年には、浮世絵研究家の池上浩山人が、筆意の共通性と背後関係の分析から、写楽
らぬ写楽を通じてであった。 写楽と聞いただけでうずいてくる異常なほどの関心と興味とを、つまり無条件に写楽を受け 入れる土壌を私は私の中に持っていたのだ。 身を避けるか、ないしは適当にお茶をにごすかしようと決めていたはずの私は、その夜、社 をひきあげる直前し資米立ロし馬し、 」こ斗 5 こ区ナ込んでいた。写楽に関する美術書の、目に触れるすべてを借 りだして、以来、毎夜のように深夜まで読み進んだだけではなかった。私は日常の画廊まわり をきりつめると、東京在住の写楽研究家から、できるだけ多くの参考意見を聞きだす準備をし た。そうすることで、写楽研究の全容をつかんだうえで、持ち込まれた新発見写楽が社会面を 飾るにふさわしい話題となり、つるものかど、つかを判断しよ、つと考えた。 約束の一両日を、たちまちやりすごしていたある日の午後、私はようやくにして来日中のア ・パッカードに狙いをつけた。 メリカ人写楽研究家ハ その男は、酒井好古堂によれば、素外の肖像画にからだまでふるわせたということだった。 はんしたえ が、その名前はすでに私は二、三年前の「芸術新潮」で、写楽版下絵一枚の新発見に関するレ リのギメ美術館 ポートの筆者として知っていた。彼が新しく発見した写楽の版下絵一枚も、 にある従来の八枚と同様、偽物くさいというセンセーショナルな疑問の提起で、そのためにわ ざわざ飛行機でニューヨーク 、パリ間を飛んでいるその調査研究のスケールの大きさは、私の
もむりはない。 が、一体、写楽の俗称が斎藤十郎兵衛だったことを証明する、いかなる資料があったのか。 出身が阿波 , 徳島の蜂須賀家おかかえの能役者だったことを立証する、どんな根本資料があった というのか。肝心の根拠が伏せられたままで、一方的に、写楽は阿波侯の能役者斎藤十郎兵衛 でございでは、現代ではもはや通用しない。 ここに問題があった。まちかいかあった。 一九一〇年 ( 明治四十一一 l) 、ドイツの浮世絵研究家ュリウス・クルトが、写楽についての最初 の評伝的内容の『』をミュンヘンで出版した。一九二二年 ( 大正十一 ) には、 その改訂版が再版されているくらいだから、欧米でも相当な反響を呼んだことがわかる。 明治から大正時代の日本の浮世絵界では、浮世絵といえば、春信、歌麿、広重あたりに人気 がしばられていて、写楽など問題にされていなかった。浮世絵そのものが、軸や、屏風絵より はるかに低く見られてもいた。そうしたときに、突然に、日本には一度も来たことのないドイ ツ人浮世絵研究家によって、写楽はべラスケスやレンプラントと並ぶ、世界三大肖像画家の一 人に挙げられていたのである。 しかも、この『』には、すでに日本には見当たらなくなっていた驚くべき数 の写楽版画が図版に使われていただけではなかった。当時の日本の浮世絵研究家には思いもよ
楽を能役者の出と決められないこと。北斎と並べてひけをとらぬばかりか、もしかすると北斎 そのものかもしれぬ写楽のような力強い描線は、到底、趣味芸では描きうるものではないこと にも確信を持った。 それから数日後、由良はこのときのひらめきを師フローレンツに打ちあけたところが、師は 興味深げに何度もうなずいてから、 「まさにそのとおりだ。写楽は絵かきそのものだ」 と答えて、由良を驚かせ、喜ばせもした。 「写楽は、フックス・マーラーだ。キツネ画家だ。化け絵師だ。その証拠に、写楽が生存した 同時代といわず、その真価が認められてから半世紀このかた、世界中を化かしつづけている。 しかし、もし、由良」 で フローレンツ博士は、突然、若い留学生の手をしつかりと握った。 「もし、きみが、写楽はフックス・マーラーでないと主張したいなら、きみは日本人だ、日本 写 の学者だ。日本の学者であるきみが、いっかそれを世界に実証しなければならぬ」 そのときから、由良哲次の写楽研究は始まっている。写楽研究は、同時に北斎研究でもあっ九 第 た。世界の百科事典に、世界的な大画家の一人として紹介されている北斎の秘めたナゾを、日 本の哲学的一美学徒が解明しようというのだ。想像や、こじつけではなく、厳正な学問のメス
すると、相手はにやりとして、 「まさしくその通りです」 と答えた。 「たしかに明治以後、今日まで出た多くの北斎研究書には、春朗は江戸にいなかったことが書 かれておる。春朗は日光に行っていた、それは動かしがたい事実になっておる」 そういってなお当たり前の顔をした老哲学者に、私は驚きあきれた。 と、相手は私の反応を見てとって、ふたたび満足げな笑みを浮かべると、 「よく、お聞きなさい」 悠然たるものだ。 いじま、さよしん 「定評のある北斎研究書のなかでも特別に著名なのが、飯島虚心が明治一一十六年に出した『葛 飾北斎伝』だが、これも春朗は江戸にいなかったと書いておる。資料や伝承が豊富にのこって 、つ、さよ、えるいこ、つ いた明治期の、定評ある研究書に限らない。それ以前の、幕末に書かれた『浮世絵類考』の俗 本のいくつかにも、春朗は江戸にいなかったことが書かれている。 この時期の春朗のアリバイは、実に見事なものです」 相手は、明らかに、私を逆手にとっていた。その余裕の現われた落着きと、得意ささえみせ て、しかも私のふたしかな知識をただすかのように語りはじめたのだ。まさに自信そのものの 158
けれど、印象では、びったりですね。 「これも、勿論、写真の上の推定ですけど、ワタクシ写楽の描いた扇の老人が誰か、というこ とを知っていますね。まだ、誰にもいっていないですけれど、近いうちにワタクシ、ワタクシ の研究を発表します。そのためにも、ワタクシあれ見たいです。ほんとうに見たいです。 「どうでしようか。あなたの新聞で、三重の扇が見られるチャンス作ってもらえないでしよう か。ワタクシ、伊勢まで行ったとき、あれの所蔵家をたずねたのにどうしてもワタクシに会っ てくれない。見せてくれなし丿 、。に常に残念でした。あの扇の紙とか、骨とか、すべての点から 実地に科学的な研究方法を進めてゆけば、写楽のナゾは必ず解けると思いますね」 津市の大銀行家といわれる某所蔵家が、それを見たくて訪れる多くの写楽研究家をはじめ、 新聞、放送などジャーナリズム関係のいっさいの取材を拒否しつづけていることは、よく知ら れている。 し。 ( し力なカった。 だから、私もパッカードからの申し入れを、気安く請け合、つわナこよ、 しかし、もし私の社で、そ、ついう機会が実現できるような場合にはこちらから誘いをかける ことをいって、逆に相手から要求されていたことの結果に戸惑いながらも、私はまずさいさき のよい証一一一口を得たことを喜んだ。 ただちに私は、つぎの証人捜しにとりかかった。