蔦屋の期待通り、写楽は人間の対立によって生する人間感情 ( ドラマ ) 、怒り、悲しみ、喜び、悩 み等を大首絵に盛り込んだのである。そして、職業上、毎日目にする能面の表情が頭にこびりつき、 大首絵を描いた際、自然に似通ってしまったのではないだろうか。 しかし、この時代に写楽大首絵の多少奇異にも見える本質を理解する人はそう多くはなかった。 時には、人は真実から目を背けたがる。役者達に受けの良くない写楽役者絵を、蔦屋は刊行する のを手控えた。 勝川派の敗退ど美意識の転換 安永・天明期、鳥居派に芝居番附、役者番附、絵看板等を独占させていたものの、役者舞台姿絵 刊行の主流は、勝川派が握っていた。 安永期、舞台で演技する役者の姿態、表情をリアルに描写する、写実描法を開拓したのは、勝川 しゅんしよう 春章であった。役者の半身像を画面に捉えた大首絵や、一画面に二人の役者の半身像を描き込んだ のも、春章によって案出されたものである。 ほそばん さらに細判、揃物という形式で、狂言の内容や筋を表現するため、二枚揃、三枚揃、五枚揃とい ったように、画面をワイドに拡げてゆく方法も、春章によって考え出された方法であった。 こうした、リアルに役者の表情、姿態を徹底して写実で写し出す描法は、天明中期から寛政にか しゅんこう け、春章の弟子、春好、春英に受け継がれてゆく。春好も役者大顔絵、春英もユニークな役者半身 かっかわ
写楽二枚揃の方は、背景に辻堂、積藁を入れる等したため、画面が煩雑になり、写楽らしい、切 れのあるタッチの乏しい出来となった。 寛政六年正月興行から刊行した「役者舞台姿絵」シリーズと題した役者の舞台姿を、一枚一枚丹 念に描き上げていった豊国は、この二枚揃ではじめて情緒的な何かを画面に取り込む事に成功した のである。 大衆の心は、豊国の二枚揃に漂う、何かしら、心をほっとさせる情緒を嗅ぎ取り、急速に豊国支 持へ傾いてゆく。 豊国、二枚揃のすばらしい出来映えは、今まで写楽に圧倒されていた豊国と写楽の立場が、ここ で逆転した事を物語る。 「五十カ恋緘」の成功ど世話狂言の確立 明和、安永、天明と永い間、 江戸歌舞伎を牛耳ってきた狂言作者の大御所、金井三笑の勢力は、 寛政初期には次第に衰え、弟子筋の増山金八が、その後を引き継ぐようになってきた。 さくらだじすけ ねお 江戸根生いの作者、桜田治助も盛りを過ぎ、弟子筋の村岡幸治、福森久助、勝俵蔵 ( 後の四世鶴屋 南北 ) 達若手に、その書き場を譲り、第一線を退く状況にあった。いわゆる、世代交代の波が狂一言作 なみきごへい 者の世界にも訪れようとしていた。この波間に、関西歌舞伎で頭角を現して来た並木五瓶が、都座 座頭、三代沢村宗十郎に、引き抜かれてから、江戸狂一一一口界に、かなり違った変容をみせるようにな かないさんしよう
ヒボクラテス画像をめぐって 写楽以後、江戸中期から幕末にかけ、何人かの絵師達が、道具も材料もままならなかった状況の 中で、西洋肖像画を苦心して描いている。 彼等は何を材料に、何をヒントに西洋肖像画技術を修得していったのか ? 西洋画を描いたため に、どんな境涯を辿ったのであろうか ? 主たる絵師達をピックアップしてみたい。 石川大浪 写楽が浮世絵界から姿を消した翌年、寛政八年から幕府大番組に勤務していた旗本、石川大浪が 数多くの西洋画を手がけている。 大浪は、明和一一年 ( 一七六五年 ) 、小普請組石川斧八郎乗益の惣領に生まれる。文武両道の教育を受 け、絵は狩野派を学ぶ。 天明四年 ( 一七八四年 ) 、二十歳で将軍家治にお目見得を許される。天明八年 ( 一七八八年 ) 、幕府大 番組に直属する。大番組とは、幕府旗本が編した軍事組織をいう。 大浪が蘭学者達の知遇を得たのが、いっ頃からか、はっきりわからないが、寛政四年 ( 一七九二年 ) 大槻玄沢の「蘭腕摘芳」の挿画を桂川甫賢 ( 桂川家六代 ) と共に受け持っているから、寛政初年には、 190
する桂小金吾を梅の枝ぶりを背景にした三枚揃。 以上、都座の舞台では、宗十郎と菊之丞が優美に踊る所作事から、突如、衣裳を肩脱ぎして、性 格も様もガラリと変わる早替りのシーン、黒闇のだんまりの立廻り、正体見顕わしのシーン等、 きなりガラリとドラマチックに筋が大きく展開する場面を、写楽は、冷静な目で、しつかり作画し 十一月一日 しのぶこいすずめのいろどき おとこやまおえどのいしずえ 桐座の時代物「男山御江戸盤石」と四立目常盤津の舞踊劇「忍恋雀色時」が上演された。 写楽は三立目、暫から市川鰕蔵扮する鎌倉権五郎景政を作画している。老練な鰕蔵、すでに額や 顎に皺が出ているものの、なお矍鑠とした演技を見せる。 とり・ 四立目、舞踊劇の一場面。花道で踊る三世八百蔵扮する鳥売り、中山富三郎扮する牛飼おふで、 やはず 六世団十郎扮するみまな行教、三世坂田半五郎扮する奴矢筈の矢田平、二世榊山三五郎扮する道長 娘おたえの五枚揃を描く。 そして、舞踊劇の一場面転じて、八百蔵扮する鳥売と、中山富三郎扮する牛飼おふでが、突如、 切禿姿に早替りして踊る場面。 写楽は、ちっとも女らしくない八百蔵の切禿姿を、ありのままリアルに写し出している。 続いて、だんまりの場。 かくしやく 174
屋上松助扮する鯰坊主の孫六入道と半四郎扮する田舎娘おひな。 そして、二番目世話物から、障子屋体の後家の家を背景に、振袖姿の後家娘おとま ( 半四郎 ) を中 心に、二人の聟がおとまに求婚を迫っている場面。 右に、高麗蔵扮する小山田太郎は右手に酒樽を抱え、左に、幸四郎扮する皆川新左衛門は祝いの 鰹節を肩から下げ、二人揃っておとまを口説く場面。二人の聟に、当惑顔のおとま。二人の聟の左 右に、仲人役の二世小佐川常世扮する女髪結お六と中島和田右衛門の家主身代りの地蔵を配した五 枚揃を写楽は、ユーモラスに作画している。 うるおうとしめいかのほまれ おうしゆくばいこいのはつね 同じく、十一月一日、都座「閏訥子名歌誉」と浄瑠璃「鶯宿梅恋初音」から、ハイライトシー ンを、写楽は作画している。 これたかこれひと 「閏訥子名歌誉」は、宗十郎を主役とした大伴黒主を中心とした六歌仙の世界と、惟高惟仁、二人 の親子が皇位を争う王朝物である。したがって、この芝居には暫が人らない。 宗十郎扮する黒主が、冠装束で薪を背負い、菊之丞扮する花園御前は御所車を手にし、二世中村 野塩扮する小野小町は短冊を手に和歌を記す場面を三枚揃で描く 次に、富本浄瑠璃の所作事。 花道から出てきて踊る菊之丞扮する大和万才と、せり出しで踊る仲蔵のリズミックな所作事。菊 之丞、仲蔵とも、茶の着流し、鶯色の素襖姿。
河原崎座「二本松」から、市川男女蔵扮する関取雷鶴之助と、三世大谷鬼次扮する浮世土平を描 いた二人立全身像では、男女蔵の弱者、鬼次の強者の対照の妙を、バランス良く画面に嵌め込んで 浄瑠璃「桂川月思出」から、心中に追い込まれる、三世坂東彦三郎の帯屋の長右衛門と、四世岩 かきつば 井半四郎扮する信濃屋お半の全身像を、長右衛門の黄と黒の棒縞衣裳、お半の杜若文様萌黄色振袖 の流れるような描線をリズミカルに対照的に捉えている。 こうした、一図に二人以上の役者の姿を嵌め込める、二人立全身像形式は、天明時代、勝川派の 開祖、勝川春章が開発した描法である。 やがて、写楽は七月興行から、一画面に二人の全身像を描いた五枚の作品以外は、細長い細判 ( 縦 ・ 1 x 横巴という判型に変え、それも二枚、三枚、五枚といったように、横へ画面を拡げて ゆく揃物のパターンで役者絵を描くようになる。 細判、揃物形式も勝川派が開拓した描法である。 細判、揃物の形式で役者絵を描くということは、役者の演技や、狂言の筋、その流れを舞台全体 から写し出そうとする客観的描法そのものである。背景を明るい黄潰し地に変えるのも、舞台で演 技する役者の姿態や、ポーズ、表情が一番映える色であったからである。 さやあて 判型を変えて心機一転した写楽が、鞘当の場面を細判、五枚揃で刊行したが、その向こうを張っ て、同じ舞台の同じ場面を和泉屋推す豊国が、写楽と競合している。 第 6 章・写楽失踪へのプロローグ
江戸全図、日本全図 ( 鳥瞰図 ) 、略画花鳥画、近世職人尽絵詞等、軽妙洒脱な人物画に秀でる。 文政七年、六十一歳で没した。 以上が、大雑把な政美の略伝であるが、政美がすでに西洋遠近法を駆使した浮絵や、銅版地図を ヒントに江戸全図や日本全図を鳥瞰図で描いている。当時としては、かなり革新的な絵師であった 点が、甚だ興味深い はじまり また、政美は、天明四年刊、黄表紙「万象亭戯作濫觴」で竹杖為軽こと、森島中良の挿画を受け 持っている。 天明三年、柳橋河内屋主催宝合わせの会に、竹杖為軽 ( 森島中良 ) 、窪俊満、政美、政演も参加。 上総屋より「狂文宝合之記」が刊行され、絵は政演、政美が受け持った。 天明三年、狂歌連伯楽側の発足メンバーの会に、つむりの光、一節千杖 ( 窪俊満 ) 、宿屋飯盛、竹 杖為軽も行動を共にしている。 同しく天明三年、市村座「仮名手本忠臣蔵」が上演された際、五世団十郎の大星由良之助初演を みなみますきようげんおおほし 祝って、団十郎贔屓の四方赤良等二十七人が、祝いの狂歌「皆三舛扮戯大星」を送った。これによ り、歌舞伎役者の親玉団十郎と、狂歌連伯楽側の関係が深まる。 狂歌を通じ、竹杖為軽 ( 森島中良 ) に心酔した政美は、天明七年、中良の編した西洋の奇事を集め た雑録「紅毛雑話」にエレキトル図を描き、司馬江漢、北山寒巌等と共に挿画を受け持っている。 政美が、浮絵風風景画や江戸全図、日本全図等、壮大な鳥瞰図を描いたのも、森島中良と関わる 4 第 5 章・大首絵誕生の秘密
いた作品であった。この傾向は、勝川派の描法に沿ったものと思われる。 寛政六年七月興行から、写楽はアングルを大首絵から全身像へ変え、江戸三座の狂言内容に沿っ たハイライトシーンを揃物で描くようになる。これら揃物を順次見てゆけば、芝居の内容や筋がわ かる仕組みに役者絵を仕立てている。 しばらく 暫の場面、華やかな舞踊の場面、だんまりの場面、カとカのぶつかり合う立廻りの場面、場面が ドラマティックに展開する正体見顕わしのシーン等を、写楽は客観的に、正確に写し取っている。 しかし、大衆の心は移り気であった。 リアルで冷徹な迫真力のある役者絵では、もはや大衆の心を繋ぎ留めることは出来なくなってき 日々の生活に疲れた大衆の心をほっとさせるのは、実証性に富む徹底したリアリズム描法ではな く、俗でも分かり易く、美しいものでなければならなかった。 まつわみさおおんなくすのき 寛政六年十一月、河原崎座「松貞婦女楠」から、豊国描く三世高麗蔵の六部実は相模次郎と、 四世半四郎の楠正成息女菊水の二枚揃に表現された、しっとりした、何かしら心ときめかせる情感、 粋とでも言うのであろうか、この情緒こそ、大衆の求めていたものであった。 大衆の心の渇望をいちはやく察知した豊国の役者絵の方に、大衆は大きく揺らいだ。 大衆の支持を失うことは、敗北を意味する。 ごだいりきこいのふうじめ 寛政七年正月、都座一一番目狂言「五十カ恋緘」から、写楽、豊国が同じ舞台を競作したが、主
しかし相変わらす、その性格描写は的確である。これに対して、豊国の大判全身像は、背景を控 ねずみつぶ え目な鼠潰し地で押え、色気と権勢を兼ね備えた貫禄十分の菊之丞とかつらぎの姿態を軸に、宗十 は 郎の山三と八百蔵の伴左を構図的にうまく嵌め込み、左右に配した二人の奴のふてぶてしい姿態表 情が、この画面全体を面白く引き立てている。伴左の足元に小道具の深編笠を描き添える等、豊国 の配慮は細かい。豊国五枚揃は見るものを、芝居の世界へスムーズに引き込む柔軟性と、粋な要素 をすでに備えている。 寛政六年八月、暑い盛りの夏興行を迎える。 よもにしきこきようたびじ しんれいやぐちのわたし この夏、写楽は桐座一番目「神霊矢ロ渡」と二番目大切「四方錦故郷旅路」から、二人立全身像 一一枚と細判、揃物九枚合計十一枚を刊行する。 ひきやく にのくちむら 「四方錦故郷旅路」は有名な、近松門左衛門作、「途の飛脚」を改題したものである。新ロ村の段 にのくちむら では、追手から逃げる梅川が、新ロ村の忠兵衛の父、孫兵衛門を訪ねる。四世松本幸四郎扮する新 」より ロ村孫右衛門の草履の鼻緒が切れるのを梅川がみつけ、紙縒ですげ替える場面を、写楽は、白雲母 摺地、二人立姿に納めた。 息子忠兵衛が迷った遊女梅川だとそれとなく気づいた孫右衛門の苦悩に満ちた表情と、一心に鼻 緒をすげ替える梅川の姿。 もう一枚の一一人立全身像は、後に実悪の名人五世松本幸四郎を襲名する若き三世市川高麗蔵扮す 6 第 6 章・写楽失踪へのプロローグ やっこ
写楽は、百四十数枚の浮世絵等を描いたが、女性の絵を描いたものが一枚も存在しない。女形を 描いた大首絵は、かなりあるが、豊満すぎるか、ポキポキしているかのどちらかで、ちょっとも可 憐なところがない。写楽は、役者絵の他、武者絵、追善絵、相撲絵も描いている。相撲絵は、鳥居 だいどうざん きよなが 清長の武者絵本にのっている熊を退治する金太郎に似たものを描いたり、大童山文五郎という満七 歳の子どもの相撲取りを何枚も描いているところを見ると、写楽は無類の子ども好きであったよう な気がする。 また、武者絵が好きな絵師は、殺陣や戦闘シーンを見ると、興奮するタイプの血の気の多い部類 に属するような気がする。 写楽は、美人画には一枚も手を染めていない。多分に女性には興味はあっても、どう扱っていし かわからないという、女性には不器用なタイプだったのだろう。 花鳥画を描いていないのは、広重のように旅を愛し、自然を愛する、田園型の人間ではなく、江 戸の町の雑踏の方が好きな都会人タイプと思われる。風景画を描いていないのは、旅をする程、時 間的にも、金銭的にも余裕のない人種に属していたのだろう。 写楽が、能役者斎藤十郎兵衛であるならば、五人判金式枚の身分であり ( 後述 ) 、さして高い給金 ではなく、家族数名がやっと食べてゆける位だと思えばいいだろう。 写楽は、八丁堀地蔵橋に住んでいた。二百年前の八丁堀は、与力や同心が住む特別なプロックで