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検索対象: 写楽失踪事件 : 謎の浮世絵師が十カ月で消えた理由
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1. 写楽失踪事件 : 謎の浮世絵師が十カ月で消えた理由

ヴァン・ダイクの肖像画の特徴は、人物や衣裳の迫真性において師匠ルーベンスに勝るとも劣ら ぬ迫力を示している。またヴァン・ダイクは、主に上流階級の人々をモデルにした肖像画を手がけ たが、なかには、アントワープの市民や仲間の画家の肖像画も制作した。 こうした肖像画は、フランドル絵画の特徴である半身像形態で描き、人間の性格まで深く読み取 った迫真的作品をつくりあげている。 一六三二年、ヴァン・ダイクは、イギリス国王、チャ 1 ルズ一世に請われてロンドンへ戻り、騎 士 ( サー ) の称号を賜わり、一六四一年、四十二歳で死去するまでロンドンに滞在し、後のイギリス 肖像画、風景画に多大な影響を与えている。 ・ヴァン・ダイクの自画像 十四歳 ( 一六一三年 ) 頃の自画像 四分の三正面、肩から顔の表情に焦点を絞った自画像。こちらをじっとみつめる少年の透んだ目 は、すべてを射つくす程純粋で鋭い ・チャ 1 ルズ一世三面像 イギリス国王、チャールズ一世の半身像を、正面、右側面、左側面と三方から写した三面肖像画。 やや、憂うつ気なチャールズ一世の瞳、大きな鼻、細い髪、襟につけた白レースがにぶい光沢を放 つ上着の質感によくマッチして、国王の気品ある姿をうまく捉えている。 第 5 章・大首絵誕生の秘密

2. 写楽失踪事件 : 謎の浮世絵師が十カ月で消えた理由

つ大学町である。 町の中にケム川が流れていて、川へ架ける橋 ( プリッジ ) という語源から、ケンプリッジという 名称がつけられたという。 ケンプリッジ大学図書館はケム川から歩いて数分の所にある。クラシックな殿堂を誇るケンプリ ッジ大学図書館の一隅に、月岑自筆の増補浮世絵類考は、収められている。はるばるイギリスまで 来なければ、月岑の増補浮世絵類考は見ることが出来ないのである。月岑の増補浮世絵類考は、明 治に入り、月岑の手を離れ、東京の古書店の棚に並んでいたが、明治初期、日本を訪れたイギリス 人外交官、かつ日本文化研究家、・・アストン ( 一八四一年ー一九一一年 ) に買い取られる。そ して、イギリスに持ち去られ、アストンの死後、ケンプリッジ大学の所蔵本となってしまったので ある。 高鳴る胸を抑え、私は館内に入った。アドミッションの手続きを終え、最上階の日本文献の並ぶ 書庫に通された。日本人館員小山氏が、四角いポール箱を運んで来られた。ポール箱には、他の類 考と一緒に、月岑増補浮世絵類考、天、地、人三部作が入っていた。 日本の写楽論争の的となっている貴重な類考といともあっさり対面出来たのである。 気負っていた私は、なんだか拍子抜けしてしまった。 類考三部作は、麻の葉文様の表紙が茶色に退色しているが保存状態は良く、虫食い一つ見あたら 9 3 章・写楽の正体は斎藤十郎兵衛だった

3. 写楽失踪事件 : 謎の浮世絵師が十カ月で消えた理由

・ 6 天理本増補浮世絵類考と月岑自筆本 ( コピー ) を比較すると、天理本には写楽の活躍期は記され ていない。月岑自筆本では、歌舞伎役者の似顔を写せしがで始まってい・るのに、天理本では、歌舞 伎役者絵の上手なりで始まっている。三馬補記は、月岑自筆本では三馬云と記しているのに、天理 本では日と記している。この他文章の細かいニュアンスが多少違っていた。 平成四年六月十八日、天理本「増補浮世絵類考」と、英国・ケンプリッジ大学所蔵の月岑自筆「増 補浮世絵類考」との関わりを調査するため、私はとうとうイギリス・ケンプリッジ大学へ向かうこ とになった。 ロンドンのキングスクロス駅から国鉄で一時間半、緑の田園を走り抜け列車は、ケンプリッジへ 向け快調に走る。何処までも、何処までも、緑の草原が続く。窓辺の景色に気を取られていた私は、 一組の年配のイギリス人夫婦が、同じコンパートメントに座っているのに気がついた。妻の方と、 私は向き合う形で座っている。ふと目が合ってしまったので、軽く頭を下げて、私は微笑んだ。 しかし、その婦人は、何の反応も見せす硬い表情で、夫の方と何やらしゃべり始めた。車中、一 時間半、何度も目が合ったが、かたくなに心を閉じて、決して、受け入れまいという姿勢はくずさ なかった。 よそもの 頑固で、余所者を受け入れない、イギリスの階級制度の片鱗を見る思いがした。列車はめざすケ ンプリッジ駅に到着した。ケンプリッジは一つのユニヾ ーシティと、三十五のカレッジから成り立

4. 写楽失踪事件 : 謎の浮世絵師が十カ月で消えた理由

と按記を記している。 写楽の号が東周斎、住居が八丁堀、活躍期間が半年余と、より具体的な論評を加えているが、依 然として身分、素性には触れていない。 さいとうげ・つしん そして、作画期より半世紀後の弘化元年 ( 一八四四年 ) 、江戸考証家斎藤月岑の著した増補浮世絵類 考に、はじめて、写楽の素性が明らかにされた。月岑は神田雉子町の草分け名主であり、「東都歳時 記」「武江年表」「江戸名所図絵」等を執筆した人物である。 月岑の増補浮世絵類考、写楽の項には、 「写楽天明寛政年中ノ人俗称斎藤十郎兵衛居江戸八丁堀に住須阿波矣の能役者也号東洲 と記されていた。 月岑の写楽Ⅱ能役者説は、慶応四年 ( 明治元年、一八六八年 ) 、竜月舎秋錦の新増補浮世絵類考に受 け継がれる。 この頃より、日本の浮世絵はフランスやイギリスの浮世絵研究家や浮世絵商の高い評価を受け、 次々と海外へ流出してゆく。 文久二年 ( 一八六二年 ) のロンドン万博や、慶応三年 ( 一八六七年 ) パリ万博で大々的に紹介された 浮世絵は、イギリス、フランスの印象派の画家達に、深い影響を与え、ジャポニズムを派生させる。 この波は、やや遅れて、一八九〇年後半、ドイツ語圏へも波及する。

5. 写楽失踪事件 : 謎の浮世絵師が十カ月で消えた理由

イギリス、フランスでは、浮世絵の蒐集は、浮世絵研究家や、浮世絵商が中心となって始められ たが、ドイツ語圏では、ジャポニズムの波に乗り遅れまいと、美術館自らが浮世絵蒐集に乗り出す ことになる。 明治六年 ( 一八七三年 ) 、ウィーン万博に出品されたハンプルグ生れのジークフリート・ビングの浮 世絵コレクション二千点に刺激され、ドイツ語圏の美術館は、精力的に浮世絵蒐集を始める。一八 九〇年頃までにハンプルグエ業美術館、ドレスデングラフィック館、ウィーンオーストリア工業美 術館、ベルリン工業美術館が蒐集した日本の浮世絵の数は膨大な量に上った。 ふってい 明治二十年頃、日本の浮世絵のめばしい物は、ほとんど海外へ流出して払底してしまっていたか ら、写楽の作品も、この間にドイツ語圏の美術館に流人したものと思われる。 浮世絵に影響を受けたイギリスでは木版画を見直そうとする気運が高まり、原画、彫、摺りまで 自らが関わるオリジナル木版画や、浮世絵を上梓させた美術雑誌「ザ・スタディオ」が刊行された。 やや遅れて、ドイツ語圏にも波及してきた美術雑誌「ザ・スタディオ」に触発され、ドイツにも新 しい木版画プームが訪れようとしていた。 明治四十三年 ( 一九一〇年 ) 、ドイツ浮世絵研究家ュリウス・クルトは、ミュンヘン (x ・パイバ 社 ) から、ベルリン王立工芸博物館所蔵の浮世絵や、浮世絵商林忠正の浮世絵カタログを参考に、評 伝「 < 」を刊行した。 クルトが、写楽に目をつけたのは、ドイツ語圏の美術館に写楽の作品が大量に出回り、安直に見 乃 3 章・写楽の正体は斎藤十郎兵衛たった

6. 写楽失踪事件 : 謎の浮世絵師が十カ月で消えた理由

る。 いつ、誰によって、この朱書きが書かれたかがわかれば、写楽、阿波侯の士にて俗称斎藤十郎兵 衛は、完璧に証明されることになる。 天理大学には、もう一本、月岑補訂本増補浮世絵類考というュニークな浮世絵類考が所蔵されて 上巻の表題は、歴代和画各名家評伝上。 中巻は、倭画師詳中太田老人著京伝邦教評、下巻は上台ョリ今世倭画師詳伝下太田蜀山老人蔵と 記してある。 上巻の序文末尾に斎藤月岑子識と識語があるから、月岑が関与して作成された類考であると考え られる。 内容を検討してみると月岑補訂本増補浮世絵類考上、中、下三冊は、現在、イギリス、ケンプリ ッジ大学に所蔵されている斎藤月岑直筆の増補浮世絵類考とほば一致していることに気がついた。 あわてて写楽の項を開くと次のように記されていた。 ・写楽俗称斎藤十郎兵衛居江戸八丁堀に住す阿波侯の能役者なり号東洲斎歌舞伎 役者絵の上手なり阿まりに真を画んとてあらぬさまに書きたる故長く世に行れず一両年して止む 9 3 章・写楽の正体は斎藤十郎兵衛だった ( ママ ) 。か′、めい ( ママ )

7. 写楽失踪事件 : 謎の浮世絵師が十カ月で消えた理由

その上、日本を取り巻く諸事情を考えると、寛政二年、アメリカ船が紀州沖へ現れたり、翌年に は外国船が対馬海峡を横切り、イギリス船も紀州熊野付近に出没する等、日本の周囲には開国を求 めた外国船の姿がちらほら見られる状況が押し寄せていた。 寛政四年、北方の根室にロシア船が入港し、とうとう通商を求めてきた。 この事態を憂慮した幕府は、幕閣を集めて協議し、ロシア船の長崎での寄港を許すという親書を はやししへい たび 手渡す。度重なる外国船の動きに、益々神経を尖らせていた幕府は、寛政四年五月、林子平の対外 軍務の急務を説いた「三国通覧図説」「海国兵談」を絶版させ、版木を没収した。 こうした状況を反映して、オランダ人キャピタンの江戸参府も、寛政六年から五年ごとに変更さ せられることになった。蘭学者、医学者、洋学者達が、江戸参府のオランダ人から西洋医学の知識 や洋画を学ぶことは、次第に困難になっていった。 なかだち 寛政六年、洋学が好奇の媒となり、幕府に不都合な事など言い出すのを恐れ、幕府はオランダ人 と日本人の接触を禁じた。このことは、蘭学者、医学者達で結集していた蘭学社中に恐怖を巻き起 こし、幕府の意図したように、同人達は、散り散りに分裂していった。 幕府が忌避した西洋画めいた、奇異な写楽大首絵等を描く、写楽の作画は、これ以上無理であろ うとの判断から、蔦屋が断念させたという考え方も出来る。 あまりに真を描いて役者達に嫌われる