高木理兵衛 一、七人判金三枚 ( 京住 ) 一、四人判金式枚 ( 京住 ) 樽橋重右衛門 一、四人判金式枚 ( 南都住 ) 藤林弥九郎 一、三人金拾両 ( 京住 ) 山崎才次郎 一、三人七石 ( 京住 ) 上松堅之進 一、五人七石 ( 江戸住 ) 斎藤慶次郎 一、三人判金拾両 ( 江戸詰 ) 新井忠助 一、七人判金三枚 ( 江戸住 ) 松井秀次郎 一、五人判金式枚 ( 江戸詰 ) 紫田藤八 一、五人判金式枚 ( 江戸詰 ) 滝沢三右衛門 一、五人判金式枚 ( 江戸詰 ) 斎藤与右衛門 一、式拾人銀拾枚 ( 江戸詰 ) 児玉治太夫 一、五人判金式枚 ( 江戸詰 ) 天野源之丞 一、五人判金式枚 ( 大阪住 ) 生駒正三郎 一、五人判金式枚 ( 江戸住 ) 建部四郎兵衛 一、五人判金式枚 ( 江戸住 ) 田中留五郎 一、三人判金式枚 ( 江戸住 ) 鈴木抵次郎 7 3 章・写楽の正体は斎藤十郎兵衛たった
齢が午年を基準としているところから、この午年は文化七年 ( 一八一〇年 ) であることが推定された。 これにより、父斎藤十郎兵衛、斎藤与右衛門卯五十二歳の与右衛門は、一七九一年 ( 寛政三年 ) 生 れ、さらに、父与右衛門、斎藤十郎兵衛卯二十四歳の十郎兵衛は、一八一九年 ( 文政二年 ) 生れ、さ らに、父与右衛門、斎藤十郎兵衛午四十九歳の十郎兵衛は、一七六一年 ( 宝暦十一年 ) 生れであるこ とが判明した。一七六一年生れの斎藤十郎兵衛、一七九一年生れの斎藤与右衛門、一八一九年生れ の斎藤十郎兵衛が確認されることになった。 能役者斎藤十郎兵衛の存在を示す史料は、なかなか出て来なかったが、能役者斎藤与右衛門の名 は、江戸時代の武士名録である「武鑑」には、度々登場していた。 のうのくんもうず さらに、法政大学能学研究所所蔵、宝暦十一一年刊、「改正能之訓蒙図彙」下巻、江戸喜多流地謡の 項、末尾にも斎藤与右衛門の名は記されていた。このように、「武鑑」や「能之訓蒙図彙」、前述し た「弘化勧進能絵巻」にも、阿波藩の能役者、斎藤与右衛門の存在はわかっていたが、いま一歩 斎藤十郎兵衛との関係がはっきりしなかった。しかし、「重修猿楽伝記」「猿楽分限帳」の史料発見 により、斎藤与右衛門と斎藤十郎兵衛が父子であり、喜多流地謡に属していたことがはっきりした つな ため、今まで曖昧であった線が一本に繋がってきたことになる。写楽作画期 ( 寛政六年 ) には、十郎 兵衛は三十三歳の男盛りであることも判明した。天保十四年、斎藤月岑が著した、増補浮世絵類考 の「写楽、俗称斎藤十郎兵衛、阿波侯の能役者也」が、いよいよ信憑性のある記述として浮上して きたわけである。 8 3 章・写楽の正体は斎藤十郎兵衛だった
雑誌「宝生」、昭和六年刊、楠田与右衛門の手記 よぶん 「弘化勧進能余聞」によれば、ワキ方には、下掛り 宝生流宝生一門が務めているが、ワキ方一流の加 くく見賀藩の尾上張十郎・同武八郎兄弟、山田守次郎、 名柳川金之助、彦根藩の田宮順之丞・同富五郎兄弟、 阿波藩の富田勝吉郎・同錦三郎父子、滝沢菊太郎、 衛 右建部某、そして、斎藤与右衛門の名が挙がってい ーー冂海ル与 気・・川この斎藤与右衛門の名が、嘉永七年 ( 一八五四年 ) ・橋十一月出版の「江戸切絵図一一」近吾堂版、本八丁 地堀辺の地図、地蔵橋角地に、南組与カ中田内助、 北組同心飯尾藤十郎の屋敷に挟まれるように、記 。 ( 个津 0 載されて」る。 戸隣には、国学者村田春海の名が見える。おそら 高 . 下塰冂 、与右衛門は与カ中田内助か、同心飯尾藤十郎 加第をそい の拝領地の一部を地借りして住んでいたものと思 われる。
父喜多七太夫 喜多六平太卯三十歳 むそく の地謡、無足に、 父斎藤十郎兵衛 斎藤与右衛門卯 と記していた ( ページ① ) 。 次のページ。 無足に、 父斎藤与右衛門 斎藤十郎兵衛卯一一一十四歳 とあった ( ページ② ) 。 「猿楽分限」は、美濃大型本一冊のみである。四座一流の全能役者を網羅し、役者の姓名、禄高、 8 3 章・写楽の正体は斎藤十郎兵衛だった じうたい 五十二歳
0 び、腕一本で食う技能を持った人達が、有象無象住みついていたから、それはそれはユニークな雰 囲気をもっ所でもあった。 けんぎよう 貧乏長屋では、その日暮らしの大工、左官、落語家、あんま師、手習い師匠、盲人の検校達や仕 事にあぶれた浪人者、流人等も住みついていた。そのため、しよっちゅう喧嘩が絶えず、騒がしい 一角であったが、住人が揃って個性豊かな面々だったから、不思議に自由で生き生きとした横丁で もあっただろう。 かぎ 貧乏長屋が並ぶすぐ際に、亀島川二丁目と、北島町二丁目に亀島川の入堀が入っていて、堀が鉤 の手に南へ屈折する所に地蔵橋が架かっていた。 地蔵橋は、長さ六尺、幅九尺の小さい木の橋で、橋の下はドプのように濁って澱んでいた。たか ら付近の人はドプと呼んでいた。ドプと呼ばれる地蔵橋の角地に能役者、斎藤十郎兵衛のちつほけ な家があった。母親は、まだ十郎兵衛が小さかった頃、労咳で亡くなっていたので、今は、父親の 与右衛門と二人きりの生活である。 十郎兵衛も、過去に一人や二人、惚れた女性も居たようだが、何せ、不器用な男ゆえ相手方に、 意思を伝えることが出来ないままに、なんとなく立ち切れとなって以来、女性とはとんと縁がなか っ ? 」 0 したがって、三十三歳になる今日まで、不満足ではあっても、のほほんと過ごしてきてしまった。 父親の与右衛門は、ワキ方能役者斎藤の血筋が絶えるのを心配して、ヤイのヤイの十郎兵衛にせ くっせつ
一、五人判金式枚 ( 江戸住 ) 斎藤十郎兵衛 江戸詰である斎藤与右衛門、江戸住の斎藤十郎兵衛、両者は江戸に在住していたから私が何度、 徳島へ足を運んでも何の資料も出て来なかったのである。おそらく、両者は、徳島 ( 阿波 ) に在住し たこともなく、阿波藩の江戸藩邸、下屋敷、南八丁堀大湊町 ( 現在、中央区湊町 ) に勤番して、藩主 の能の相手を勤めたり、時折、江戸城で催される式楽に駆り出される等し、毎日を過ごしていた事 であろう。 では、斎藤与右衛門の江戸詰と、斎藤十郎兵衛の江戸住とでは、どう意味あいが違うのであろう カフ・ 大正十四年 ( 一九二五年 ) 刊、池内信嘉氏「能楽盛衰記上巻江戸の能」によれば、江戸住は任務地 を示すものであるのに対し、江戸詰は詰番 ( 当番 ) を示していると思われる。江戸時代の能役者には、 当番と非番があって、一年ないし半年交替で、かなり長期にわたり、休暇を取る事が出来た。 能役者は、毎年五月、江戸、大阪、京都等の任務地へ召集される。五月から十月まで任務に就く ことを半年詰番と呼ぶ。その代わり十一月から翌年の四月まで非番になることを半年非番と呼ぶ。 また、五月より翌年の四月まで、一年の間当番に就くことを一年詰番という。一年詰番を取る役者 は任務の終わった翌月の五月から丸一年の四月までの一年間非番になる。一年の非番の期間を利用 すれば、能役者が浮世絵刊行に費やすことは、比較的可能であったわけである。
ようや 戦後の経済復興が漸く整ってきた、昭和三十年代を迎える頃、写楽熱がまた再燃し始める。 わずかに、阿波能役者説は、命脈を保っていたが、斎藤十郎兵衛の実在を証明する史料が出て来 ないために、次第に忘れ去られようとしていた。取って代わって、写楽という浮世絵師は実際には 存在せす、北斎、歌麿、江漢、豊国、山東京伝等の高名な絵師や戯作者が一時、写楽と変名して、 あの大首絵等を刊行したという、写楽別人説が、昭和三十年代、四十年代、五十年代、六十年代に かけ、前述したように異常な勢いで、次から次へと登場してくる。 派手な別人説横行の陰で、阿波能役者説を掘り起こす作業もコッコッ行われていた。 あい 昭和三十一年、大阪の藍研究家・後藤捷一氏は、蜂須賀藩士分名簿とも呼べる峰須賀家 ( 阿波藩 ) の古文書、蜂須賀家無足以下分限帳 ( 徴古雑抄続編所収 ) の寛政四年後、御両国 ( 阿波・淡路 ) 無足以 下分限帳、御役者の項一一十一名の中に、斎藤十郎兵衛、斎藤与右衛門、二人の名を発見された。 二十一名中、十四人目に、五人判金式枚、という微禄で、江戸詰の斎藤与右衛門、二十一人中末 尾に、同じく五人判金式枚、江戸住斎藤十郎兵衛が、阿波藩に抱えられていた。 以下二十一名の能役者を記す。 一、七人金三枚 ( 大阪住 ) 浜田弥三郎 一、五人金拾両 ( 京住 ) 谷田庄右衛門 一、五人判金式枚 ( 京住 ) 浜岡佐兵衛 ちょ、つこ -6
父与右衛門 斎藤十郎兵衛 午四十九歳 とあった ( ページ③ ) 。 喜多流の系譜から、十一世喜多七太夫は、嘉永四年八十一歳で没し、十二世喜多六平太は、明治 三年五十六歳で没している。したがって、「重修猿楽伝記」の六平太卯三十歳を割り出すと、この卯 うまどし 年は天保十四年 ( 一八四三年 ) に該当する。また、「猿楽分限帳」の午年は、各座の太夫以下諸役の年 父の名、生国本国、年齢等を記している。 「猿楽分限帳」喜多七太夫支配 養父七太夫実父十太夫 喜多十太夫 午五十六歳 地謡、無足に、
写楽と豊国は、同じ図柄にならないように、ポーズを変えたり、着物の文様と色を少しずつ変え ているので、版元の蔦屋と和泉屋との間で、全く同し図柄にならないように、話し合いがついてい たものであろう。 かつらがわっきのおもいで 寛政六年七月、浄瑠璃「桂川月思出」では、四十歳になろうとする分別盛りの帯屋の長右衛門 と、ふとした間違いから、お半という少女が恋に落ちてしまい、二人は義理と人情のしがらみに縛 られ心中に追い込まれる。 しろきら この二世彦三郎扮する長右衛門と半四郎扮するお半の道行きの場面を、白雲母を背景に写楽には 珍しくはんなり描いていた。 分別盛りの色男、長右衛門と振袖姿のまだあどけない表情のお半が、 互いに目と目を見交すロマンチックな場面。心中する長右衛門とお半の姿を、この上もなく美しく 描いているのは、写楽がきっと恋に憧れるロマンチックな人であったからだろう。 寛政六年八月 もものにしきこきよ、つのたびじ 桐座「四方錦故郷旅路」から、これも道行きの場面を、写楽は描いている。 四世松本幸四郎扮する新ロ村孫右衛門と、切れた鼻緒をすげ替える中山富三郎扮する梅川の一一人 を、大判に写し出す。鼻緒をすげ替える女性が、実は、息子忠兵衛が迷った遊女梅川であることを、 それとなく察した孫右衛門の苦渋の様子。ひたむきな梅川の姿に、孫右衛門は肉親に近い情愛を憶 える。こうした情愛の深い場面を、上手く描いているのは、写楽が、情に厚い、情熱家であったか 第 2 章・写楽を追いつめる
らであろう。 しかし、蔦屋は寛政五年、大坂・角座の芝居で、上演予定の心中狂言がさし止めになった事実を 知らされ、あわてて、写楽の描いた心中物を撤収した。 心中狂言を描いた写楽は、ほとばりを冷ますかのように、九月、十月は、一枚の役者絵も刊行し ていない。 五月、七月、八月と蔦屋に命ぜられるままに、必死に仕事をこなしたために、疲れが出たのか ? 八月の暑さが格別といっても、その頃江戸の地はほとんど砂地で、アスファルトもなく、排気ガ スもなかったので、今よりもすっと凌ぎやすかったであろう。 十郎兵衛は、八丁堀の小さな家の青畳に寝ころんで昼寝ばかりしていた。 柴垣に、輝くように咲いていた朝顔は、昼を過ぎる頃に、ゲンナリとしばんでしまう。 軒先の風鈴がチリンと鳴って、涼し気に風を運んでくる。 蔦屋から渡されていた十一月顔見世興行用の、役者絵本、芝居番附、相撲絵、武者絵本を、うす 高くつみ上げ、十郎兵衛は、午睡から覚める様子もない。 父の与右衛門も、昼寝ばかりしている十郎兵衛のことが気になるのだろう。度々様子を見に来る が、非番の時期なので仕方がないと思っているようだ。何やらブックサロの中で、呟きながら謡の 稽古に出かけて行ってしまった。