写楽が、三座の舞台を駆けめぐり、血まなこになっている時に、芝神明町、和泉屋と組んた豊国 は、ゆっくり、あせらず自己の画技を磨いていた。 開板された、写楽の役者絵を見て、豊国は、 「写楽さん、線の乱れが出てきたようだね。大分疲れているんじゃないのかねえ」 うるおうとしめいかのほまれ 都座「閨訥子名歌誉」の舞台から、関西下りの実悪の名人、七世片岡仁左衛門の紀名虎と、三世 沢村宗十郎の孔雀三郎の二枚揃を、写楽、豊国、春英が揃って競作した。 写楽二枚揃は、背景に卒都婆、やぶ畳、土坡を描いている。性格描写は、相変らす鋭い。豊国の 孔雀三郎は、小道具の編笠を足一兀に書き添える等、芝居のつばをよく知った者の描きつぶりである。 春英の二枚揃は、若々しく、カのみなぎった、かなり切れ味の良い二枚揃である。 三者の絵師が、各々腕を競っているが、今のところ、三者各々遜色ない。 写楽は、顔見世興行の狂言内容に沿って、各々のハイライトシーンを順序良く描いている。写楽 おうしゆくばいこいのはつね が舞台を見て、ショックを受ける程おどろいたシーンは「鶯宿梅恋初音」から白拍子姿で踊る瀬 川菊之丞と、仲蔵扮する荒巻耳四郎が、突然、肩脱ぎして早替りする場面。そして「閏訥子名歌誉」 では、三世坂東彦三郎扮する五代三郎と三世大谷広次扮する秦の大膳が、二世瀬川富三郎扮する大 伴家腰元若草に下心を隠し、酒を飲んでいるうちに女装した腰元若草が、実は男性で惟仁親王であ ることを見破る、正体見顕わしの場面はよほど写楽を驚かしたのであろう。写楽はその場面を一気 に描きあげる。こうした場面をすかさす写し取っているのは、演技の本質を見極める目をもってい 第 2 章・写楽を追いつめる
一 8 る忠兵衛と、中山富三郎の梅川が、一本の番傘に自分達の運命を委ねるかのように死出に赴く場面 くろきらずり である。夜の場面であろうか ? 背景を黒雲母摺で配している。一本の傘を手に、暗い運命を暗一小 ききいろ した忠兵衛と梅川の一一人の立姿を、茶の着付け、赤の襦袢、黒の掛襟、勝川派の効色を写楽がうま く使い、情緒あふれる場面を描いている。 この心中物がやはり、幕府の神経をさか撫でしたのであろうか ? 写楽はこの後、永い休暇に入った。 写楽不在の八月、九月の江戸歌舞伎 八月九日より河原崎座、鰕蔵名残狂言一一幕目「紅葉衣錦瀧」 鰕蔵の鳴神上人と半四郎の雲の絶間姫 ひめこまつねのひのあそび 八月一一十四日より桐座、「姫小松子日遊」 しゅんかん 三世高麗蔵の俊寛、岩井粂太郎のおやす よしつねせんぼんざくら ひょくつか 九月九日、都座「義経千本桜」と切狂言「色競比翼塚」 八百蔵の白井権八、宗十郎の幡随長兵衛、菊之丞の小紫と長兵衛女房お時一一役 ばんがさ もみじ ゆだ
写楽と豊国は、同じ図柄にならないように、ポーズを変えたり、着物の文様と色を少しずつ変え ているので、版元の蔦屋と和泉屋との間で、全く同し図柄にならないように、話し合いがついてい たものであろう。 かつらがわっきのおもいで 寛政六年七月、浄瑠璃「桂川月思出」では、四十歳になろうとする分別盛りの帯屋の長右衛門 と、ふとした間違いから、お半という少女が恋に落ちてしまい、二人は義理と人情のしがらみに縛 られ心中に追い込まれる。 しろきら この二世彦三郎扮する長右衛門と半四郎扮するお半の道行きの場面を、白雲母を背景に写楽には 珍しくはんなり描いていた。 分別盛りの色男、長右衛門と振袖姿のまだあどけない表情のお半が、 互いに目と目を見交すロマンチックな場面。心中する長右衛門とお半の姿を、この上もなく美しく 描いているのは、写楽がきっと恋に憧れるロマンチックな人であったからだろう。 寛政六年八月 もものにしきこきよ、つのたびじ 桐座「四方錦故郷旅路」から、これも道行きの場面を、写楽は描いている。 四世松本幸四郎扮する新ロ村孫右衛門と、切れた鼻緒をすげ替える中山富三郎扮する梅川の一一人 を、大判に写し出す。鼻緒をすげ替える女性が、実は、息子忠兵衛が迷った遊女梅川であることを、 それとなく察した孫右衛門の苦渋の様子。ひたむきな梅川の姿に、孫右衛門は肉親に近い情愛を憶 える。こうした情愛の深い場面を、上手く描いているのは、写楽が、情に厚い、情熱家であったか 第 2 章・写楽を追いつめる
写楽は、山下金作の芸が余程気に入ったのか。八百蔵扮する佐伯蔵人が扇で金作の岩手を責めた ちょうちゃく て、膝をつき、肩脱ぎして打擲に耐える金作の貞任妻岩手を二枚揃で描く。 続いて、貞任妻岩手の姿から、道具打変わり、雪中の場面に変わる。馬士鐙摺の岩蔵相手に、蛇 の目傘を手に、見得を切る金作の芸が大きく見える立姿を、写楽は的確に捉える。 以上、写楽は三座の舞台から、顔見世興行のハイライトシーンである暫、四立目の美しい浄瑠璃 の所作事、短いだんまりの場にある暗闇の中の、顔と身振りだけの無言の演技を描く。 五立目、一番目、時代物のシ 1 ンでは、クライマックスの立廻りの場面、踊りの場面転して突如 早替りするシーン、道具打変わり、正体を現すドラマチックな場面や、二番目、世話物では、町人 の生き生きした生活をユーモラスに捉え、二枚揃、三枚揃、もしくは、五枚揃で描いていた。 写楽が描いたこれら顔見世興行のハイライトシーンを順序通り見てゆけば、そのまま三座上演の 狂言の内容が再現される段取りに作成されている。 むろん、蔦屋やそのプレインのアドバイスもあって顔見世興行の、ハイライトシーンが選ばれた わけであろうが、写楽は、芝居がドラマティックに展開する場面や、正体見顕わしの場面、カとカ のぶつかり合う立廻りシ 1 ン、美しい所作事のきまった場面等、歌舞伎の真髄、演技の肝心な部分 を冷徹に写し出している。これは、演技、もしくは、演技と関わる立場に居た人物でなければ、描 ける仕業ではない。 しかし、何より不思議な事は、写楽が芝居のハイライトシーン、芝居の要のシーンを客観的、冷 176
その上、日本を取り巻く諸事情を考えると、寛政二年、アメリカ船が紀州沖へ現れたり、翌年に は外国船が対馬海峡を横切り、イギリス船も紀州熊野付近に出没する等、日本の周囲には開国を求 めた外国船の姿がちらほら見られる状況が押し寄せていた。 寛政四年、北方の根室にロシア船が入港し、とうとう通商を求めてきた。 この事態を憂慮した幕府は、幕閣を集めて協議し、ロシア船の長崎での寄港を許すという親書を はやししへい たび 手渡す。度重なる外国船の動きに、益々神経を尖らせていた幕府は、寛政四年五月、林子平の対外 軍務の急務を説いた「三国通覧図説」「海国兵談」を絶版させ、版木を没収した。 こうした状況を反映して、オランダ人キャピタンの江戸参府も、寛政六年から五年ごとに変更さ せられることになった。蘭学者、医学者、洋学者達が、江戸参府のオランダ人から西洋医学の知識 や洋画を学ぶことは、次第に困難になっていった。 なかだち 寛政六年、洋学が好奇の媒となり、幕府に不都合な事など言い出すのを恐れ、幕府はオランダ人 と日本人の接触を禁じた。このことは、蘭学者、医学者達で結集していた蘭学社中に恐怖を巻き起 こし、幕府の意図したように、同人達は、散り散りに分裂していった。 幕府が忌避した西洋画めいた、奇異な写楽大首絵等を描く、写楽の作画は、これ以上無理であろ うとの判断から、蔦屋が断念させたという考え方も出来る。 あまりに真を描いて役者達に嫌われる
あいばんおおくびえ 十七枚、間判大首絵十一枚、計五十八枚の役者絵を刊行し、この他に相撲絵、追善絵も描いている。 翌寛政七年正月には十枚の細判役者絵等を刊行した後に、写楽は突然制作を断念し姿を消してし まった。写楽は、どうして、きっちり十カ月間たけ浮世絵に携わり、何処へ姿を隠してしまったの であろうか ? こうした謎を順次解いてゆくために、写楽役者絵の取材対象である江戸歌舞伎界の状況や動向、 うたがわとよくに 同し舞台を競作した歌川豊国との役者絵比較や西洋肖像画を描いた絵師達の生き様を通じ、写楽が あの役者絵で何を表現したかったのか、写楽がどうして短期間で姿を消してしまったのか等の謎の 核心部分に迫ってみることにした。 大衆にあきられた写楽 寛政七年正月、桐座「再魁罧曾我」から、写楽は細判三枚揃を刊行した後、突然、浮世絵界か ら姿を消した。 なせか ? 寛政六年五月、写楽は、黒雲母摺大首絵の役者絵一一十八枚を引っ下げて、浮世絵界に突如登場す る。舞台で演技する役者の姿態・性格・表情をリアルに写し出した徹底した写実描法は、江戸っ子 の度肝を抜かせる程、迫真力に富んでいた。 なかでも、写楽らしい個性を発揮しているのは、実悪、敵役等、演技力のある役者の半身像を描 第 1 章・写楽が十カ月で消えた理由 にどのかけかついろそカ
が効を奏し、定信は退陣を余儀なくされた。定信退陣により、芝居町は暗雲から解放されたように、 再び天明時代の活気と明るさを取り戻そうとしていた。 豊国登場ど蔦屋の事情 寛政六年 ( 一七九四年 ) 春を迎える。 定信退陣により芝居町が徐々に活気づくのを、機を見るに敏であった芝神明町絵草子版元和泉屋 うたカわとよくに 市兵衛が見逃すはずがなかった。和泉屋は一一十五歳の歌川豊国を起用して「役者舞台姿絵」と題す る役者絵シリーズ刊行の挙に出た。 歌川豊国は明和六年 ( 一七六九年 ) 、和泉屋と通りを隔てた芝神明三島町 ( 現在の港区芝大門一丁目 ) 、 とよはる 人形師倉橋五郎兵衛の息子に生まれた。十四、五歳頃、歌川豊春の門下に入り浮世絵修業に入る。 じひなり 天明七、八年頃、芝周辺の黄表紙作家七珍八宝や、桜川慈悲成の挿画を手がけ、やがて芝神明町界 隈随一の絵草子版元和泉屋市兵衛に見出される。 豊国は寛政初年、鳥居清長や北尾重政風の美人群像図を描いていたが、やがて役者絵にも手を染 め、人気役者の舞台姿絵を描くことに専念するようになる。 かっかわしゅんしよう 寛政四年、明和・安永・天明と役者絵界をリードしてきた勝川春章が死去する。勝川派は弟子の しゅんえい 勝川春好、勝川春英に受け継がれるが、春章亡き後の大きな穴はなかなか埋められるものではな かった。この間隙をついて和泉屋は、豊国を擁して役者舞台姿絵を刊行することにより、一気に役 0 第 4 章・写楽さっそうとデビュー しゅんこう
存在感を与えている。 また、由一も川上冬崖と同様、寛政十一年作成の石川大浪描く、左向き、右手を突き出したヒポ クラテス像を踏襲した作品を描いている。 由一は、冬崖と親しかったから、冬崖のヒボクラテス像を参考にしたのかもしれない。 寛政の改革が、やや緩んだ寛政十一年、石川大浪が描いたヒボクラテスの半身像は、西洋医学の 祖として蘭学者の間で象徴的役割を果たした。 蘭学を通じ西洋画に目覚めていった石川大浪、桂川甫賢、渡辺華山、川上冬崖、高橋由一に至る 江戸中期から、幕末にかけ活躍した西洋肖像画を志した人達は、いずれも蘭書、英書のロ絵、扉絵、 もしくは舶載されてきた西洋銅版画をヒントに、苦心惨憺して西洋画摂取に努めていた。 西洋画を描くための画材、カンヴァス、パレット、筆、油絵の顔料に至るまで自ら考案したもの を使用して必死に描いている。幕末の冬崖や由一の時代に至っても、その状況は変わらなかった。 それは、徳川吉宗の時代から幕末に至るまで、幕府や明治初期の政府の西洋画に対する基本姿勢 が、写実ー技術ー実学に供するためだけであり、真の西洋画家を養成しようとする意図が皆無であ ったからである。すでに確固とした位置と体系をもっ伝統的東洋画こそ、自国の画風であり、新し い価値観に基づく西洋画の存在を決して認めようとしなかったのである。幕藩体制から明治期に至 るまで、洋画は社会的に認知された画風ではなかった。社会的に認知されるどころか、西洋画を描 0 第 7 章・写楽は近代絵画の礎となった
次に、春好に取って代って台頭してくるのが、写楽と大首絵で競合した勝川春英である。 春英 ( 一七六二年ー一八一八年 ) は、天明三年頃から浮世絵制作に手を染め、天明末年には、顔が 大きく図柄が雑で、衣裳のゴテゴテした不細工な春好に似た作風の役者絵を描いていたが、寛政元 年 ( 一七八九年 ) 頃から、構図、顔の特徴、ゴテゴテしていた衣裳描写を工夫して、単純ですっきり した描法に写し変えた。衣裳の図柄も幾何学文様が多くなり、春英本来の色彩豊かな作風に変化し てゆく。 寛政一一年頃から、役者大首絵の前段階である大判役者半身像を手がけるようになる。 寛政一一年 ( 一七九〇年 ) 七月、中村座「忠孝両国織」大崎村の場面より、三世市川高麗蔵扮する定 九郎の半身像。 この作品頃より、役者の目に隈取りを入れるようになる。この半身像は本格的大首絵出現を予測 させる過渡期の作品である。 春英がはじめて役者大首絵に挑戦したのは、寛政三年 ( 一七九一年 ) 一月二十五日、中村座上演の 「春世界艶花麗曽我」から、三世市川八百蔵扮する十郎祐成を描いた、間判大首絵である ( 版元、上 村与兵衛、ホ . ノルル美術館蔵 ) 。 紅潰しを背景に、萌黄と青の裃、着つけの黄柄茶、美しく明るい色彩を駆使した、八百蔵の半身 像は、春英、カラリストの面目躍如といった自由で伸々した作品である。 きんめぬきげんけのかくつば 寛政三年 ( 一七九一年 ) 十一月、市村座「金護源家角鐔」の四番目狂言より、市川鰕蔵扮する弥 2 第 4 章・写楽さっそうとデビュ
っていた。 大衆の心は、暖かく、俗な美しさに溢れる豊国の役者絵に大きく傾いていく。 寛政七年正月 ごだいりきこいのふうじめ 都座一一番目世話物「五十カ恋緘」から、写楽、豊国が揃って競作した。豊国の宗十郎扮する薩 摩源五兵衛、菊之丞扮する芸者小万、仁左衛門扮する笹野三五兵衛を描いた三枚揃の余裕と自信に ます 溢れた出来映えは、写楽に決定的ダメージを与える。写楽は洲崎料理茶屋升屋の登場人物が織りな す、にぎやかな一場面を四枚揃に描いているが、豊国の三枚に見られる、華やかな芝居心を満足さ せる出来映えに、もはや及びもっかない 写楽はこの時、決定的敗北をり、役者絵制作断念を決心したのであろう。 写楽が浮世絵界から姿を消した寛政七年一一月以後、役者絵競作は、勝川派の春英と、豊国との一 騎討ちに委ねられる。寛政七年から寛政八年にかけ、豊国、春英は写楽に遅れること一年、写楽が 得意とした一画面に二人の半身像を配した二人立半身像の役者絵や、各々工夫をこらした大首絵を 次々登場させ、写楽不在の穴を埋める。 しかし、寛政八年春を境に、春英も豊国の力に圧倒され、役者絵競作から脱落してゆく。寛政八 すだのはるげいしやかたぎ 年正月、桐座二番目狂言、並木五瓶作「隅田春妓女容性」別名「梅の由兵衛」が上演された。「五十 カ恋緘」の大当たりで、江戸の観客の心理をはっきりつかんだ五瓶が、三代宗十郎のために書き下 2 第 1 章・写楽が十カ月で消えた理由