同様の役者似顔絵一一十丁 ( 四十図 ) 、人の巻も同様の役者似顔絵十五丁半 ( 三十一図 ) 、ロ絵半丁、跋 一丁、俳句三丁半、奥付半丁という構成である。 内容は、扇面枠の中に、役者の半身像を描いた錦絵摺の役者絵本で、半身像には、各々役者名と 俳号が添えられている。登場する役者百六名のうち、文調が五十七図、春章が四十九図受け持って 文調、春章が描いた百六名の役者の役割を分類すると、文調は、立役、若女形、若衆方等、容姿 の美しい役者に力点を置いている節がうかがわれる。これに反して、春章は、立役、実悪、敵役等、 地味ではあるが、実力のある演技力のある役者に重点を置いて描いているのがわかる。こうした敵 役、悪役等、実力派の役者の演技をリアルに描く春章の写実描法が写楽大首絵一一十八枚にうかがわ れることから、写楽が勝川派の描法に沿って役者絵を描いたのではないかということが察せられる。 「絵本舞台扇」は刊行当初には、今でいうべストセラーとなり一千部以上は摺られたという。評判 が良かったために、第一部を彫り直して再版本を出したり、安永七年 ( 一七七八年 ) には、京都菊屋 安兵衛版という海賊版も版行された。 明和年間 ( 一七六四年ー一七七一一年 ) から安永前期にかけ、役者絵界に鳥居清満や鳥居清経を中心 とする鳥居派や、北尾重政、一筆斎文調等が春章と共に役者絵を刊行している。しかし、安永中期 には、役者絵界はほば春章とその弟子春好により独占されるようになる。これに伴い春章の役者絵 様式が整い、写実主義を基調とした伸びやかな描線、明るい色調で、役者と役柄を捉え、大らかな 2 第 4 章・写楽さっそうとデビュ
第 2 章 第 3 章 女形達に嫌われた写楽大首絵 蔦屋重三郎の死 ◎ 写楽を追いつめる「 写楽の行方を追いつめる 霊巌島あたりの小料理屋 判型を変えて頑張る写楽 絵草子版元和泉屋市兵衛の店 ◎ 写楽の正体は斎藤十郎兵衛だった。 50 46 ろ 6
蔦屋の期待通り、写楽は人間の対立によって生する人間感情 ( ドラマ ) 、怒り、悲しみ、喜び、悩 み等を大首絵に盛り込んだのである。そして、職業上、毎日目にする能面の表情が頭にこびりつき、 大首絵を描いた際、自然に似通ってしまったのではないだろうか。 しかし、この時代に写楽大首絵の多少奇異にも見える本質を理解する人はそう多くはなかった。 時には、人は真実から目を背けたがる。役者達に受けの良くない写楽役者絵を、蔦屋は刊行する のを手控えた。 勝川派の敗退ど美意識の転換 安永・天明期、鳥居派に芝居番附、役者番附、絵看板等を独占させていたものの、役者舞台姿絵 刊行の主流は、勝川派が握っていた。 安永期、舞台で演技する役者の姿態、表情をリアルに描写する、写実描法を開拓したのは、勝川 しゅんしよう 春章であった。役者の半身像を画面に捉えた大首絵や、一画面に二人の役者の半身像を描き込んだ のも、春章によって案出されたものである。 ほそばん さらに細判、揃物という形式で、狂言の内容や筋を表現するため、二枚揃、三枚揃、五枚揃とい ったように、画面をワイドに拡げてゆく方法も、春章によって考え出された方法であった。 こうした、リアルに役者の表情、姿態を徹底して写実で写し出す描法は、天明中期から寛政にか しゅんこう け、春章の弟子、春好、春英に受け継がれてゆく。春好も役者大顔絵、春英もユニークな役者半身 かっかわ
第 6 章 第 5 章 首絵誕生の秘密 蔦屋刊行物ど写楽の関係 北尾政美ど蘭学者達 北山寒巌は、すでに西洋肖像画を描いていた フランドル画家、ヴァン・ダイク ◎ 写楽失踪へのプロローグ 版型を細判、揃物にきり換える写楽 写楽不在の八月、九月の江戸歌舞伎 顔見世興行のハイライトシーンに挑む写楽 ◎ 142 1 う 5 168 160 169 1 う 0
一 ( 写楽さっそうとデビュー 一 , ~ 第 4 章ー↓◎
12 ろ 第 4 章・写楽さっそうとデビュ 岩井喜代太郎の藤波と坂東善次の小笹
像を刊行し、師の春章の期待に応えるために、必死に自らのオリジナリティを模索し続ける。 しかし、安永から寛政にかけ、約二十五年にわたって、勝川派の屋台骨を支え続けてきた春章が 寛政四年死去するに至り、春好、春英の奮闘にもかかわらす、勝川派の勢いが、一時の勢いを失う ことは必至であった。 この役者絵界の胎動の様子を垣間みた、芝神明町の版元、和泉屋市兵衛や、日本橋通油町版元蔦 屋重三郎が、このチャンスを見逃すはすはなかった。 寛政六年正月、和泉屋は歌川豊国を擁して、役者舞台姿絵シリーズを刊行する。 そして、同年五月、蔦屋とコンビを組んだ写楽も黒雲母摺役者半身像を刊行して江戸っ子の度肝 を抜いた 演技する役者の感情の最も高揚した瞬間や、見得を切るさわりの場面、カとカのぶつかり合う立 えぐ 廻りのシーンを描いた大首絵は、役者の性格や内面を抉っているだけではなく、ドラマツルギーま で暗示させる表情を写している。 しよさ′」と 寛政六年七月興行から、写楽は細判、揃物に判型を変え、狂言の内容に沿って、暫、所作事、だ んまりの場面、正体見顕わしのシーン等、芝居の肝心な部分や、芝居がドラマチックに展開する場 面を活写している。 その数は、十一月顔見世興行たけで、五十八枚にも上る。この他、勝川派が開拓した相撲絵、武 者絵、追善絵まで、写楽は挑戦しているから、寛政六年五月から作画を断念した寛政七年正月まで 2 第 1 章・写楽が十カ月で消えた理由
6 第 6 章・写楽失踪へのプロローグ 嵐龍蔵の奴浮世又平と三世大谷広次の奴土佐又平
1 こく 6 第 6 章・写楽失踪へのプロローグ 三世沢村宗十郎の名護屋山三と三世瀬川菊之丞のかつらぎ
115 第 4 章・写楽さっそうとデビュ 三世市川高麗蔵の志賀大七 ( 右 ) と尾上松助の松下酒之進 ( 左 )