よいん 静に写し取っているにもかかわらず、顔見世興行の役者絵からは芝居を楽しんでいる余韻が漂って 来ない 蔦屋重三郎が顔見世興行で三座の舞台のハイライトシーンを総て写楽に描かせたのは、無論、役 者絵界の主導権を一気に握ってしまおうという意図があったであろう。 しかし、芝居を見られなかった人や、土産物用に瞬時に消えてゆくはずの、歌舞伎の舞台の一場 面を残して置くための実用的な意図もあったのではなかろうか ? 関西演劇人か江戸歌舞伎に与えた影響 顔見世興行で特筆すべきは、江戸歌舞伎隆盛を迎える雰囲気を嗅ぎ取ったのか、関西歌舞伎の大 立者が次々と江戸歌舞伎へ下向してきたことである。 関西歌舞伎界で美貌、踊りの名手として有名な慶子こと中村富十郎の養子、若女形の二世中村野 塩、関西歌舞伎切っての実悪の名人七世片岡仁左衛門、老練な名女形一一世山下金作等役者連と関西 歌舞伎の大狂言作家に伸し上った並木五瓶が、十一月、顔見世興行を目途に、江戸歌舞伎へ揃って 下向してきている。 天明末期から寛政にかけ、歌舞伎のみならず、文化全般にわたり東漸という現象が起こっていた。 関西歌舞伎の面々が、江戸へ江戸へと下向して来たのは、い よいよ江戸文化隆盛の動向を敏感に感 じとったためであろう。 7 第 6 章・写楽失踪へのプロローグ
なければ、なかなか描けるものではないだろう。 写楽が、顔見世興行で特に興味を持ったのは、関西歌舞伎から下ってきた名女形、山下金作の芸 質であった。 江戸っ子は、この頃まで本場ものの関西女形の芸を見たことがなかった。あまりに、はんなりと シナシナした身のこなし、なめらかなセリフ回し、写楽がどんなに山下金作の芸に注目したかは、 金作を三枚も版画に描いていることからも明らかである。 写楽が、関西歌舞伎の芸や、正体見顕わしの場面、だんまりの場面等にいたく興味を抱いている 傾向は、歌舞伎界に精通していた人より、歌舞伎という演劇に新鮮な眼をもって観察した、他の世 界の人の視線であるように思われてならない。 連日の多作に、疲れが出てくる写楽。 近頃、過労から来る眠気が、絵筆を握っている写楽を襲う。 八丁堀、亀島橋付近は夜ともなると人っ子一人通らない。連日の役者絵制作に費やす忙しさとい ったら目が回るほどだ。 役者絵は、興行を打っている最中に刊行しなければならず、時間との戦いである。十郎兵衛の写 楽が、神経を休めることができるのは、眠ることと、酒を飲むこと位しかない。ストレスの溜りつ 放しである。
座が急遽、江戸下向したばかりの五瓶に、世話狂言を書かせた。 、つるう はなのみやこくるわのなわばり こうして上演されたのが、閏十一月一日、都座二番目狂一巨五瓶作「花都廓縄張」だった。 ひめはじめ 「花都廓縄張」は、五瓶が大阪で上演した「けいせい飛馬始」を書き直しただけの芝居である。関 西風の色濃い雰囲気が江戸風に合わず、「花都廓縄張」の評判は散々だった。 しかし、写楽は関西下りの五瓶の狂言が気になるのか、二世坂東三津五郎扮する奴くが平、嵐龍 蔵扮する奴なみ平、三世瀬川菊之丞扮する仲居おはまの大首絵を、黄摺の背景に写し出している。 くろきらずり 五月興行に刊行された黒雲母摺大首絵の立体的、迫真的な出来とは、打って変わって平板な大首 絵となってしまったが、 その性格描写は、まだまだ正確である。 写楽が、十一月顔見世に駆けつけた関西演劇人の演技や、狂言に注目して関西歌舞伎独得の演技 を、鋭く写し出しているのは、文化東漸による江戸歌舞伎胎動の様を、如実に捉えていた事に他な らない そして、江戸歌舞伎と関西歌舞伎が、ゆっくり融合してゆく様を、写楽は冷徹、正確な客観的描 写で写し取っていたわけである。 江戸粋美をアピールした豊国 十一月、顔見世興行では、写楽は三座の舞台のハイライトシーンのほとんどを、細判、揃物とい う形で写し取ることに精魂を傾注した。その数は、細判、揃物四十七枚、役者プロマイド用として 180 きずり
る。 きんもんごさんのきり 五瓶は、ストーリー 展開の大きい、怪盗石川五右衛門を主人公とした「金門五三桐」、菅原道真流 しへい てんまんぐうなたねのごくう 罪事件からヒントを得た、藤原時平、七笑いで有名な「天満宮菜種御供」、朝鮮使節刺殺事件を扱っ しまめぐりうそのききカき かんじんかんもんてくだのはじまり た「韓人漢文手管始」等の時代物や、市井の人々の生活をリアルに描写した「嶋廻戯聞書」等の狂 言で、京阪第一の狂言作者に伸し上っていた。 寛政三年から五年にかけ、関西歌舞伎へ上った都座座頭三代宗十郎に会った五瓶は、高給と、江 戸歌舞伎隆盛の予感を感じとり、江戸歌舞伎下向を承知したものと思われる。 寛政六年十一月、五瓶江戸へ下る。 ひめはじめ はなのみやこくるわのなわ 閏十一月一日、都座で寛政元年大阪上演五瓶作「けいせい飛馬始」を改題させた「花都廓縄 張」を上演したが、この関西風の色濃い芝居は、江戸風に合わず、興行は散々だった。関西風の芝 居を、そのまま江戸で上演しても受けないことを痛感した五瓶は、住まいを浅草へ移し、江戸っ子 の生活、風俗を取り込むため猛勉強に明け暮れる。 寛政七年正月 ごだいりきこいのふうじめ 都座二番目狂言は、五瓶作「五十カ恋緘」を上演した。「五十力」は、寛政六年一一月、大阪中座 で上演された、薩摩武士の芸妓殺し事件を扱った「嶋廻戯聞書」の一部を江戸風に書き直したもの である。 うるう の 8 第 6 章・写楽失踪へのプロローグ
第 7 章 関西演劇人が江戸歌舞伎に与えた影響 、冫戸粋美をアピールした豊国 「五十カ恋緘」の成功ど世話狂言の確立 写楽は近代絵画の礎となった ~ ヒボクラテス画像をめぐって 石川大浪 / 桂川甫賢 / 2 渡辺華山 / 川上冬崖 / 高橋由一 / あ と が き 2 0 5 ◎ 180 190 177 182
写楽二枚揃の方は、背景に辻堂、積藁を入れる等したため、画面が煩雑になり、写楽らしい、切 れのあるタッチの乏しい出来となった。 寛政六年正月興行から刊行した「役者舞台姿絵」シリーズと題した役者の舞台姿を、一枚一枚丹 念に描き上げていった豊国は、この二枚揃ではじめて情緒的な何かを画面に取り込む事に成功した のである。 大衆の心は、豊国の二枚揃に漂う、何かしら、心をほっとさせる情緒を嗅ぎ取り、急速に豊国支 持へ傾いてゆく。 豊国、二枚揃のすばらしい出来映えは、今まで写楽に圧倒されていた豊国と写楽の立場が、ここ で逆転した事を物語る。 「五十カ恋緘」の成功ど世話狂言の確立 明和、安永、天明と永い間、 江戸歌舞伎を牛耳ってきた狂言作者の大御所、金井三笑の勢力は、 寛政初期には次第に衰え、弟子筋の増山金八が、その後を引き継ぐようになってきた。 さくらだじすけ ねお 江戸根生いの作者、桜田治助も盛りを過ぎ、弟子筋の村岡幸治、福森久助、勝俵蔵 ( 後の四世鶴屋 南北 ) 達若手に、その書き場を譲り、第一線を退く状況にあった。いわゆる、世代交代の波が狂一言作 なみきごへい 者の世界にも訪れようとしていた。この波間に、関西歌舞伎で頭角を現して来た並木五瓶が、都座 座頭、三代沢村宗十郎に、引き抜かれてから、江戸狂一一一口界に、かなり違った変容をみせるようにな かないさんしよう
音楽も、義太夫、常盤津、清元、長唄等の三味 線音楽に加え、鉦、半鐘、ツケ打ち、拍子木等、 にぎ 実に、賑々しい 演技において、能は仮面をつけるが、歌舞伎は、 の顔 ( 目玉、口元 ) の筋肉を異常に動かしその表情、 0 の身ぶり、仕ぐさで表現する。 すみえ み / 面能が、室町文化のエッセンスを内包して、墨絵 ジ一 , ・とのような渋い色彩を漂わせているのに対し、歌舞 佑伎は、金襴緞子極彩色の世界である。 之能と歌舞伎は、表現形態においては、対極的な 定 村相違を示しているが、どちらも、人間の内部に潜 蔵む、善と悪、静と動、単純と複雑、集中と発散等、 鰕 別々の性格を同時に持ち合わせている人間感情を 市 ドラマ化している。その対照的性格が時により、 場合により、一人の人間の内部で極端に揺れ動く 様を、身ぶり、顔の表情で表現しているのが歌舞 伎であり、仮面を用いて表現しているのが能であ 1 ろ 4 かね
「上方にいらぬ片岡仁左衛門のしほをつけて江戸へ進ぜよ」と揶揄されている。 おとこやまおえどのいしずえ 桐座「男山御江戸盤石」に出演した一一世山下金作の演技を、写楽は細判一一枚、間判一枚、計三枚 も作画している。 金作は顔見世に大分遅れて到着。閨十一月一日やっと二番目世話狂言で、江戸の舞台に初お目見 得した。場面は、奥州廓の場。 関西仕込みの金作のなめらかなセリフ回し、やわらか味のある身のこなし、今まで色気不足の女 形ばかり見ていた江戸っ子は、真の女形の芸に圧倒される。 写楽は金作の芸に余程注目したのか、細判、雪中の場、傘をさした金作扮する仲居おかね、実は 安倍貞任妻岩手の堂々とした立姿一枚と、膝をついたおかねの肌脱ぎのやわらかな身のこなし一枚、 さらに間判半身像では、憂いを含んで小首を傾げたおかねの表情をクローズアップで捉えている。 金作の芸のポイントを突く、写楽の眼は鋭い。 都座「名歌誉」は、座頭訥子こと、三代沢村宗十郎のために書かれた狂言であるが、狂一言作家に は、文治、俵蔵、正吉、由輔、そして並木五瓶が受け持っている。 五瓶は、寛政五年、大阪へ上った都座座頭、三代宗十郎が大阪歌舞伎でめきめき売り出し中のと ころを金三百両という破格の給金で、都座へ引き抜いたのである。 都座「名歌誉」上演の際、二番目狂言に世話物がかけられたが、あまりに評判が悪く、困った都 7 第 6 章・写楽失踪へのプロローグ
歌舞伎ど能 ぜあみもときょ かんあみきよっぐ 能は、室町時代、足利義満の庇護を受け、観阿弥清次 ( 一三三三年ー一三八四年 ) 、世阿弥元清 ( 一 三六三年ー一四四三年 ) らによって大成された。平安貴族の美学を新興の猿楽に取り入れた能は、風 雅、幽玄の美を、ドラマに織り込み、舞台芸術の構成を取った演劇である。 たいこおおかわこつづみ 演劇の形態は、せりふ、しぐさによるドラマと、音楽 ( 笛、太鼓、大鼓、小鼓、地謡 ) 、舞踊等で構 成されている。 これに反し、歌舞伎は、能の演劇的構成法に深く影響され、能より遅れる事二百年、慶長年間 ( 一 おくに 五九六年ー一六一四年 ) 、出雲の阿国により始められた演劇である。 歌舞伎も能と同じく、セリフのあるドラマ、下座、音楽 ( 三味線、太鼓、笛、唄手 ) 、舞踊等で構成 されている。 しかし、能と歌舞伎は、全く対極的な表現形態を具有している。 能は、簡潔単純に能面をつけたシテ役者の演技にドラマのすべてを収斂させる。劇の状況を示す 小道具も、まことにささいな物を置くだけである。ひたすらシテ役の役者のふりとしぐさ、仮面を つけたその表情に、情念のすべてを凝縮して注ぎ込む。 歌舞伎は、花道、回り舞台、セリ上げ、セリ下げ、大道具、書割を配し、大がかりな道具立てを 必要とする。 ろ第 4 章・写楽さっそうとデビュー
大首絵は歌舞伎から題材を得ているが、劇中で対立関係にある人物を上手に対比させることによ り、そこにドラマが展開するのを暗示させている。このようなとらえ方は、一般の観客として歌舞 伎に接しているだけでは、けっして出来ない芸当である。 それゆえに、演劇に多少とも関わった人間のなせる技ではないかとにらんでいた。特に顔の微妙 な表情にこだわる点において、能によく通じていた写楽ならではの労作といえる。 写楽は、同じ役者絵を描くにしても単に美しさだけを求めるのではなく、人々が織りなす色や欲、 苦悩といった人間の葛藤にスポットをあてている。写楽、いや斎藤十郎兵衛は人間の生き様に強い 深い興味を持っていたことがうかがえる。それだからこそ二百年経った現在でも、多くの人々に感 動を与え続けているのであろう。写楽ファンはますます増えてゆき、巷には新たな写楽別人説に執 念を燃やす、写楽研究家がこれからもワンサカと出現するであろう。 私の写楽探しの旅は、これで終了したわけではない。十六年間、コッコッと地道に続けたこの道 をこれからも歩き続け、斎藤十郎兵衛説をさらに確固たるものにすべく、可能な限りの努力をする つもりである。この本において写楽という絵師の魅力の一端を、読者の方々に少しでもおわかりい ただけたら幸いである。 平成六年十一月吉日 206 内田千鶴子