「未詳」のレッテル 万葉集一一十巻、四千五百十六首のうちで、正式に「未詳歌」とされているのは、つぎの三首だ けです。 田額田王の歌 ( 巻一の七 ) おおとものまえつぎみ 大納言大伴卿の歌一首 ( 巻三の一一九九 ) おおとものすくねちむろ ③大伴宿禰千室の歌一首 ( 巻四の六九三 ) いまつばひ 「未だ詳らかならず」として、なにをうたっているのか、よく分からないということなのです が、「日本古典文学全集」は、『作主について編者が疑問を持ったことから未詳としているのであ る』と注釈しています。 しかし、万葉集には、「作主未詳歌」または「未詳姓氏」などと区別している歌が別にあるの で、この三首は額面どおり内容に対する疑問から未詳としているとみるべきでしよう。とくに、 大伴宿禰千室の歌 ( 巻四の六九一一 l) の場合、作主は明確なのですが、他の一一首と同じく未詳とさ れているのをみると、作主に対する疑いから「未詳」レッテルをはったものではなく、解釈不能 の のまたは歌意不明に由縁したものと思われるのです。 いまつまび では、この未だ詳らかでない歌を韓国語でよむとどうなるのでしようか。 それが、実に面白いのです。 183
系勢力の支援をうけ、クーデターに成功したといわれていますが、大伴家一門も新羅系であった もののペ のでしよう ( これに対し、天智方の物部家一門は百済系勢力であったと思われます ) 。 おおとものすくねやすまろ だざいのそち 革命主導勢力であった大伴卿こと大伴宿禰安麻呂は大納言兼大宰帥、大納言兼大将軍で軍部 たびと の代表格。その子旅人も征隼人持節大将軍を経て、当時の第一線司令本部長ともいえる大宰帥に ちむろ 任じられた軍関係者。その一門である後裔千室も左兵衛督でこれまた軍人。大伴一門は新羅系軍 人家系であったことを、これらの事実から窺い知ることができるのです。 新羅系であったので、対新羅外交官役を兼ねていた大宰帥に、父と子がつづけて任命されたの でしようか。 つぎは、高貴な女性から求愛されて困惑していると思われる根拠について。 さじえしよど しよど 第二句「恋哉将度」 ( 刈王 ) の敬語「三」がキー・ワ 1 ドです。 現代ではなおさらのことですが、古代にあっても詩作にあたり敬語を使うことは、祈疇歌や書 翰体歌でないかぎりほとんどありません。 「八隅知之」は「やすみしし」とよまれていて大君にかかる枕詞ですが、ここでも敬語は使わ れていないのです。「すみずみまでよく知っている」という意味に解されている「八隅知之ーは、 やそむしじゅん 実は韓国語の「八島刈スどで「大八島 ( 日本列島 ) をしずめた」という意味の形容句なのです。 やそむしじゅしん しん もし敬語を使用するならば、この枕詞は「八島内ス一」としなければなりません。「」は「な された」の意の敬語です。したがって漢字表記も「八隅知之新」または「八隅知之始」などとさ れるわけです。 204
おおとものちむろ 九かくのみし : ・ ( 大伴千室 ) ・高貴女性の求愛に困惑する歌でした
あきづの かくのみし恋ひや渡らむ秋津野に たなびく雲の過ぐとはなしに ( 巻四の六九一一 l) 未詳 お橋とものすくねちむろ 大伴宿禰千室 200
原の詩の大意を五・七・五・七・七にそろえるのは大変むずかしいのですが、 ( ) の中に「秋 津野にすべてをやめてしりぞける」をとじこめてしまえば、それらしくなると思います。 かく急にともに棲まむと問われしがこもは住みかの多く無けれに おおとものすくねちむろ 作者は、大伴宿禰千室。天平勝宝六年 ( 七五四年Ⅱ東大寺開眼の翌々年 ) 、左兵衛督 ( 兵衛は 宮廷警護隊を管轄する官庁で、左右兵衛があり、各々隊長役職を督といいました ) に任ぜられた 人で、歌がつくられた年代は不明です。 しかし、この歌で確実に分かることは、千室が新羅系のひとであること、そして相当位の高い 女性から求愛されて困惑していることなどです。 この点についての説明をまずいたしましよう。 まず作者が、なぜ新羅系のひとだということが分かるかと言いますと、第一一句「恋哉将度」 さじえしよど ( 刈爿丘 ) が生粋の新羅ことばであり、下半句のなかの「跡」 ( 司 ) を「」と新羅的発音で詠 んでいるからです。新羅人ならではの徹底した方言の使いぶりをみてとれるのです。 レまた作者は、自分自身を雲にたとえています。雲は韓国族を意味する貊の異称でもあるので、 作者の生まれを類推できるわけです。 ここで思い出すのは、「奥山」歌 ( 巻三の二九九 ) にも新羅的表記のあることです。 おおとものまえつぎみ 「奥山」の作者は壬申の乱の際天武側につき功を挙げた大伴卿です。天武天皇は東国新羅 - と こま かみ 203
次 くしろ 釗つく ( 柿本人麻呂 ) ・誤訳のどろ沼の原因は「くしろ」でした おみのおおきみ 七伊良虞の島の応答歌 ( 島人・麻続王 ) ・伊良虞という島はありません 八秋の野の : ・ ・ ( 額田王 ) ・戦争予告の歌でした おおとものちむろ 九かくのみし : ・ ( 大伴千室 ) ・高貴女性の求愛に困惑する歌でした こよ・文こ やまのうえのおくら 十七夕歌 ( 山上憶良 ) ・少年少女の性教育用でした 書き終えて 145 123 181 199 217
驚くべき歴史的事実が詠われていたり、皇族をひやかしていたり、行く先があまりないと嘆い ていたりしていて、ショッキングでもあり、ユ 1 モラスでリアリティまた満点なのです。 このように面白い歌が「未詳」とされているのには、それなりの理由があります。 三首ともに漢字を巧妙奇抜にあてていて、歌意とはまったく別な雰囲気が、一脈かもし出され ているからです。 しかも、韓国人のなかでもあまり使われていない独特なことばや古語、方言などが縦横に活用 されているため、解読が大変難渋なのです。 これらの点から、未詳歌であらざるをえなかったのでしよう。 紙面の関係で大伴卿の歌 ( 巻三の一一九九 ) は今後の機会にゆずるとして、まずは、額田王が斉 明天皇の意中を代詠したといわれている、「巻一の七」から解読してみましよう。 ( 従来の解釈】 金野乃美草苅葺屋杼礼里之兎道乃宮子能借五百磯所念 ( 巻一の七・万葉仮名 ) 秋の野のみ草刈り葺き宿れりし カりいほおも 宇治のみやこの仮廬し思ほゅ 134
九かくのみし・・・ 詩には稀にみる敬語句が、この歌になまなましく登場しているのはなぜでしよう。権力者であ る高貴な女性から急に。フロポーズされて驚き、かつ「ためらっているからなのだ」、と想像され るのです。あるいは、そのためらいを歌にしたため、「手紙」としてったえたのでしようか。作 品そのものの水準はけっして上クラスといえないのですが、現実感あふれるカ作と申せましょ う。いったい、このお相手の女性はだれなのでしようか ? ひろかわのおおきみ まさか広河女王では ? 千室の「かくのみし」歌 ( 巻四の六九一一 l) につづいて収録されているのが、広河女王のうた ( 巻四の六九四 ) です。この歌も、「おくれてやってきた激しい恋に途方にくれている」作品で、 特に「恋」コ一」など千室が使っている漢字をとり入れて詠んでいるのです。この二歌を並べて、 訓みくらべてみましよう ( 広河女王歌のふりがなは、従来の解釈 ) 。 おほとものちむろ 大伴千室 如此耳哉将度秋津野尓多奈引雲能過跡者無一一 ( 巻四の六九三 ) こひぐさをちからぐるまにななくるまつみてこふらくわがこころから 恋草呼力車一一七車積而恋良苦吾心柄 ( 巻四の六九四 ) 広河女王 びろかはのおきみ 205
由も考えられます。額田王という折紙付の才色兼備の女性との間の子だったら、欲しいと考えて も不思議はありません。さらに考えられるのは男の焼きもち。その存在が許せないくらい「大海 人・額田」のカップルは目立っ存在だったのかもしれません。つまり引き裂くことに意味があっ たという憶測すら可能であると思えます。 いずれにしても額田王にとって、天智天皇の後宮入りは好んでしたことではなく、召し出され たのであり、したがって彼女にとって、それは愛する夫や子供から引き裂かれた「ただの悲劇」 だったのではないでしようか。 そのように考えれば、本歌の意味も、そして次章の応答歌の意味も実によく理解できるのです。 額田王の後宮入りは、明らかに天智、天武の確執の一因となりました。 しかし、壬申の乱というあの大クーデターの決定的引き金となったのは、王位継承の問題でし た。当時は兄弟の王位継承は決して不自然でなかったし、周囲のムードとしても一旦は弟大海人 皇子へと考える人が多かったらしいのですが、天智は直接わが子大友皇子に継がせようとしま す。このことが決定的な確執となり、まず大海人の吉野入り、天智の病死、壬申の乱、大友皇子 の死、天武即位と展開します。 はかりごと 壬申の乱における大海人の行動があまりにも迅速であったため、吉野は大海人一族の謀の場 囂であったとささやかれ、また、天智の後の弘文天皇 ( 大友皇子 ) は即位していない ( その閑を与 えられなかった ) ともいわれております。 もののべ おおとも 天智、天武のこの争いに当時の一一大勢力である物部 ( 天智方 ) 、大伴 ( 天武方 ) が絡んだ : ・
④秋津野尓 あきづの この部分は、日本語でそのまま「秋津野に」と詠んでいます。 「日本古典文学大系」は、秋津野を『奈良県吉野郡吉野離宮のあたりの野。紀州説もある』と しています。 「古語大辞典」には、『現在の奈良県吉野郡吉野町宮滝付近から、吉野川をはさみ、同町御園の 山にかけての地域。一説に和歌山県田辺市秋津町とも。「秋津野」、「秋津辺」、「秋津の小野」と 、だいた もいい 』と明記しています。奈良県吉野郡でなければ、和歌山県田辺市あたり : : : い似たような見解です。 作者は、この歌を作った時点で官職から引退し、秋津野あたりに住んでいたものと思えます が、この「秋津野」は、広義には「日本」を指しているともみえます。いわば二重構造です。 大伴千室は、実際「秋津野」に住んでいて、日本をも意味したその地名に「日本」を同時にか けていると考えられるのです。 日本の古代異称は「あきづしま」 ( 後世「あきっしま」と称しました ) で、秋津島、秋津洲 阿岐豆志麻と漢字表記しました。 この「あきづしま」を韓国語でよむと、どういう意味になるのか試してみましよう。 「秋」を日本訓でよむと「あき」、これを韓国語にあてると「」で、「子」「赤児」の意の名 詞になります。 「津」は日本音よみで「つ」または「づ」、韓国語にあてはめると「」で、所有格「 : : : の」 あきづのに 212