ん別のものです。大意はつぎのようになります。 あなたに抱かれておとなしく赤ちゃんを生もう。赤ちゃんよおいでよ。足を動かし 赤ちゃんを待つ。 額田王は、天智天皇に抱かれて、あきらめの眼をつぶり、子供を生むことだけを念じ「行為」 をしているのです。なんと悲しい歌でしよう。一六 0 六歌の場合も意味は同じです。いずれ機を みて詳しくこの歌の解釈をすることにしましよう。 天智天皇は額田王に対し、多少は「女」として関心を抱いてはいたでしようが、その愛を信じ るわけにはいきません。したがって世に言う三角関係という言い方は当たらないと思います ( 天 智が病に倒れ、壬申の乱により天武の天下になるや、直ちに額田王は天武のもとに戻ったといわ れています ) 。 天智天皇が額田王を差し出させたのは、他にも色々な理由が考えられます。まず、人質的な意 味。これは当時としてはむしろ当然のことで、みずからもその子女を大海人に与えています。第一一 はなんでも欲しいものは手に入れないと気がすまない中大兄の性格 ( 案外この点を藤原鎌足に利 用されたというか、つけ入られたのかもしれません ) 。第三は、額田王のネ能の方に用があった、 つまり人材としてそばに置く必要があったという見方もできます。すでに「金野乃 : ・ : ・ ( 巻一の 七 ) 」などで、ずば抜けた代詠能力を発揮していましたから。その他、子が欲しかったという理 8
にいきませんので、勇気をもってありのままを書くことにしました。 この歌は一一重歌です。二重歌というのは表向き、裏向き二つの意味を一つの歌にこめたものを いいます。本歌はその代表的例で、表向きは斉明天皇〈の表敬、裏は中大兄皇子 ( のちの天智天 皇 ) 、または大海人皇子 ( のちの天武天皇 ) とのセックスの対話です。 額田王が「万葉集」に残した歌十一首のどれをとってみても、漢字についての深い造詣と、華 麗で才気煥発な彼女の性格を充分によみとることができるのですが、とくに、純粋な新羅ことば で詠じられたこの歌は、驚くほど大胆かつ自由奔放です。 ところで、この歌の裏の意味が語るセックスのお相手は誰でしようか。ご存知のように額田王 は天智、天武兄弟一一天皇の寵を受けました。本歌は一応中大兄 ( 天智 ) を指しているようによめ ます。しかしよみ方によっては、大海人 ( 天武 ) を指しているようにもよめます。もし、この歌 の表面に現われない裏向きの意味に気づいた人がいたとしても、その相手が天智なのか天武なの か、首をかしげざるをえないようなことばづかいをして、内容のもっ衝撃性を和らげているよう に思われます。 ではなぜ額田王は、このようにこみ入った表現法をとったのでしようか。その心を理解するた めには歴史的背景、というと大げさですが、かの女の身の上、置かれた立場を理解する必要があ ります。 しかし、そのことについては後でゆっくりお話しするとし、さっそく歌の意味の説明に入りま おおあまのみこ なかのおおえのみこ
由も考えられます。額田王という折紙付の才色兼備の女性との間の子だったら、欲しいと考えて も不思議はありません。さらに考えられるのは男の焼きもち。その存在が許せないくらい「大海 人・額田」のカップルは目立っ存在だったのかもしれません。つまり引き裂くことに意味があっ たという憶測すら可能であると思えます。 いずれにしても額田王にとって、天智天皇の後宮入りは好んでしたことではなく、召し出され たのであり、したがって彼女にとって、それは愛する夫や子供から引き裂かれた「ただの悲劇」 だったのではないでしようか。 そのように考えれば、本歌の意味も、そして次章の応答歌の意味も実によく理解できるのです。 額田王の後宮入りは、明らかに天智、天武の確執の一因となりました。 しかし、壬申の乱というあの大クーデターの決定的引き金となったのは、王位継承の問題でし た。当時は兄弟の王位継承は決して不自然でなかったし、周囲のムードとしても一旦は弟大海人 皇子へと考える人が多かったらしいのですが、天智は直接わが子大友皇子に継がせようとしま す。このことが決定的な確執となり、まず大海人の吉野入り、天智の病死、壬申の乱、大友皇子 の死、天武即位と展開します。 はかりごと 壬申の乱における大海人の行動があまりにも迅速であったため、吉野は大海人一族の謀の場 囂であったとささやかれ、また、天智の後の弘文天皇 ( 大友皇子 ) は即位していない ( その閑を与 えられなかった ) ともいわれております。 もののべ おおとも 天智、天武のこの争いに当時の一一大勢力である物部 ( 天智方 ) 、大伴 ( 天武方 ) が絡んだ : ・
四蒲生野の唱和歌 調しながら、歌にリズムを与えています。「叱」は古代において往々「」と発音されたので、 この「い」系音は全部「に」系音ともみなされます。 額田王の「が・さ・ぼ」の連続音に和する、答歌としての資格充分といえるでしよう。 どんかふよ をを をとこざかりいた すがた 『生れまししより岐擬なる姿有り。壮に及りて雄抜しく神武し。天文・遁甲に能し』 日本書紀は、天武天皇の男振りと学識をほめたたえています。類いまれなる才女の相手とし て、天武天皇は遜色のない魅力的な知識人であったことがお分かりでしよう。 いこよか たけ に 103
五東の・・・ : これがこの歌の意 いると、皇子はその私にお気づきになり、頷かれ、そして消えていかれた : ・ 味です。 とねり 人麻呂は、草壁皇子 ( 天武・持統の子 ) の舎人 ( 近くにつかえて雑務や警護をする者 ) だった といわれています。生年については諸説あるのですが、人麻呂の方がわずかに年上だったらし 、若くして亡くなられた草壁皇子に、人麻呂はかくべつの想いを寄せていたようです。身分こ そ違え、弟のように愛していたのかもしれません。 あかっき あかっき あとでくわしく説明しますが、「東野」は「暁」のことであり、「草壁」もまた「暁」のことな あかっきのみこ のです。したがって草壁皇子は暁皇子です。 暁皇子ーー素晴らしい名前ではないでしようか。 ひなみし 草壁皇子の別名は、日並知皇子です。暁の空には日の出あり、残月あり、明星ありで、まさに 日を並べるの意の日並知を連想させます。 しかし日並知の真の意味は「司叫引 , で、「日受け」、「太陽貰い , です ( 詳しくは一一七頁 ) 。 草壁皇子は、ちょうど日の出の時刻に生まれたのでしようか。あるいは父親の天武か母親の持 統のどちらかが太陽を貰い受けた「胎夢」を夢みて草壁皇子を懐姙したのかもしれません ( 韓国 では古来から「胎夢」と「胎教」を非常に重要視してきました ) 。それとも太陽のように輝かし くあれと、名づけたのでしようか。 〈ばじ ともあれ、この「司引」を「日並知ーと漢字表記したのは、父親の天武天皇 ( 当時、大海人 皇子 ) ではないでしようか。暁の空のイメージをよく表現している素晴らしい命名で、名付け親 8
か、そんな危つかしいことをなぜ二人があえてしたか ? ということです。 その点については、このように考えてはいかがでしよう。二人は唱和歌を詠み、そしてその時 は、それを互いに心の奥底深くに刻みこんだのです。そして、この歌が他人に知られても恐れる ことのない世の中をきっと作ろうと、二人はその時かたく誓い合った 、私はそう思いたい し、またその誓いは壬申の乱によって見事に実現したわけです。 実は先日来日の折、書店の店頭で、新人物往来社「別冊歴史読本『歴史を変えた女たち』」を ハラバラとめくって見ると、そこには次のような女性の名が連ねられておりました。すなわち、 卑弥呼、持統天皇、孝謙天皇、藤原薬子、北条政子、日野富子、北政所、淀殿、春日局、桂昌院、 天璋院、平塚らいてう、高群逸枝 : : : 。案の定、このなかに額田王の名はありませんでした。 しかし壬申の乱がどんなに日本の歴史に大きな意味をもっかを考えれば、そして壬申の乱が額 田王を切りはなして考えられないことを思えば、額田王こそ日本の歴史を変えた女性の筆頭かも しれないのです。 歌壬申の乱は、百済べったりから一人立ちして日本の朝廷を打ち立てた大革命でした。ことによ 唱ると、日本以外のすべての国を「外国」と考えたはじめての天皇が天武といえるかもしれませ ん。ということは、天武即位こそ、「完全独立日本」の第一歩と考えることさえできるのではな 生 蒲 いでしようか。 四 さて、ことばの説明に移ります。
原の詩の大意を五・七・五・七・七にそろえるのは大変むずかしいのですが、 ( ) の中に「秋 津野にすべてをやめてしりぞける」をとじこめてしまえば、それらしくなると思います。 かく急にともに棲まむと問われしがこもは住みかの多く無けれに おおとものすくねちむろ 作者は、大伴宿禰千室。天平勝宝六年 ( 七五四年Ⅱ東大寺開眼の翌々年 ) 、左兵衛督 ( 兵衛は 宮廷警護隊を管轄する官庁で、左右兵衛があり、各々隊長役職を督といいました ) に任ぜられた 人で、歌がつくられた年代は不明です。 しかし、この歌で確実に分かることは、千室が新羅系のひとであること、そして相当位の高い 女性から求愛されて困惑していることなどです。 この点についての説明をまずいたしましよう。 まず作者が、なぜ新羅系のひとだということが分かるかと言いますと、第一一句「恋哉将度」 さじえしよど ( 刈爿丘 ) が生粋の新羅ことばであり、下半句のなかの「跡」 ( 司 ) を「」と新羅的発音で詠 んでいるからです。新羅人ならではの徹底した方言の使いぶりをみてとれるのです。 レまた作者は、自分自身を雲にたとえています。雲は韓国族を意味する貊の異称でもあるので、 作者の生まれを類推できるわけです。 ここで思い出すのは、「奥山」歌 ( 巻三の二九九 ) にも新羅的表記のあることです。 おおとものまえつぎみ 「奥山」の作者は壬申の乱の際天武側につき功を挙げた大伴卿です。天武天皇は東国新羅 - と こま かみ 203
さるらごじそむね この「射等籠荷四間乃」は「射等籠荷四間乃」、つまり「生き抜こうとの島の」という意味の 古代韓国語だからです。「せまいところ」を「四間」と表記して、「島」の意味をかさねているの です。 第一一に、伊勢湾に「伊良虞島」はありません。「伊良虞島」は存在しないのです。このことは、 万葉集研究の大家である犬養孝先生もはっきり申されておりました。 「伊良虞島はありません。伊勢の方から伊良湖岬を遠くから見ると、島に見えます」 伊勢の近くには伊良湖 ( 愛知県渥美郡 ) 、伊良湖岬 ( 渥美半島突端 ) があるので、「いらこのし ま」とことばの上でかけて詠んだというのなら、それはありうることですが : それに、麻続王の流配地を因幡と記している日本書紀の記述に誤りがあるとは思えません。な ぜなら、日本書紀は天武天皇の発意によるものであり、その天武が麻続王を流した本人なのです から。 流配地が転々と変 0 たという説や、常陸だという説 ( 常陸風土記 ) もあるようです。しかし地 図の上で、因幡、伊勢、常陸を見ると、よほどの理由がない限り、この三地を連れ廻したとは考 えにくいのです。 いずれにしても、島人が声をかけたといわれる万葉集巻一の二三歌は生粋の庶民韓国語でうた われていて、しかも一一重歌としての巧妙さは歌聖人麻呂も顔負けするくらい。こういう歌を、た だの漁民が歌えたとは考えられません。おそらく、島人の名を借りて、だれか相当の教養人が詠 150
流配地の疑問 『三位麻続王罪ありてに流す。一子は伊豆の島に流し、一子は血の島に流す』 るざい おみのおおきみ 麻続王は、天智・天武時代の皇族で「罪ありて」流罪となりました。 万葉集巻一の二三歌と、巻一の二四歌は、流配地の住人が、気の毒な身の上の麻続王に同情し て声をかけた歌と、麻続王がそれに答えた歌です。 麻続王流罪についての日本書紀の記録はまことにかんたん、罪の内容についてはまったくふれ ておりません。しかし二人の息子まで同時に流されたところをみると、麻続王は相当な重罪を犯 したのか、またはかなりの政治勢力をもっていたように思われます。 いさめ 壬申の乱にひきつづき、税制改定から日常生活の細徴にいたる「禁」をかず多く発令するな ど、天武天皇の革新政策は皇族からも強い反発を買い、したがって処刑者も多かったようで新政 権確立過程の不安情勢を読みとることができます。 麻続王親子三人は、一子は伊豆、一子は血鹿、そして麻続王自身は因繙というように、当時の 感覚としては「地の果て」の遠くに散り散りに引きはなされたわけです。 伊豆は言うまでもなく今でいえば静岡県、血鹿は長崎県の五島列島の一部に「小値導」があ り、そこのことではないかといわれているのでつまり九州、因幡は今日のほぼ鳥取県あたりで す。 148
天皇 ( 天智 ) が蒲生野で狩りをなさった時に ぬかたのおほきみ 作った歌 額田王 むらさきの あかねさす紫野行き標野行き のもり 野守は見すや君が袖振る ( 巻一の二〇 ) こた 皇太子が答えた御歌 大海人皇子 ( 天武 ) 紫のにほへる妹を憎くあらば ひとづま 人妻ゅゑに我恋ひめやも ( 巻一の二一 ) ひつぎのみこ あれ が、もら - の しめの おおあまのみこ てんむ