「」の吏読式漢字表記なので、上代この表記で記されたのは当然のことでしよう。 はたおり おみのおおきみ 麻続王は、機織と何らかの関係がある人物であったものと思われます。 私は最近この歌のため旅に出かけました。いわば「伊良虞の島さがし」です。 渥美半島の伊良湖岬からフェリ 1 で伊良湖水道をわたり伊勢へ。 右手には答志島がみさきのように長々とのぞまれましたが、結局伊良虞島をさがし出すことは できませんでした。「いらこ」という岬や水道はあっても島はないのです。 鳥取市の北端海岸にも足をはこんでみました。 五万分の一の日本地図にしるされている点のような「鳥ガ島」、ひょっとするとこれが ? 期 待にふくらみ私は強行軍をつづけました。 「鳥ガ島」はほんとうに小さい「四間」ぐらいの島でした。島というよりは、むしろ茶褐色に 風化した石のかたまり。しかし、昔からすずき釣りの足場となっている「大事な」島だとのこと 歌でした。 応因幡の白兎海岸からもほんの目の先に見えるこの「鳥ガ島」を韓国語でよむと「鳥島 , となり、 の さどご さど 島「外王」 ( かばってくれの意味の「碎匸一ヱ」と同語 ) の酷似音になります。 そこでこの「外三」を漢字で表記すると「射等」となり、これはまた「いら」ともよめるの 良 伊 で、麻続王は答歌の中で「伊良」とひねって表記したものと推理されます。麻続王は白兎海岸ぞ いの海村に流されていて、この「鳥ガ島」を生活の根拠としていたのではないでしようか。 せど 179
さるらごじそむね この「射等籠荷四間乃」は「射等籠荷四間乃」、つまり「生き抜こうとの島の」という意味の 古代韓国語だからです。「せまいところ」を「四間」と表記して、「島」の意味をかさねているの です。 第一一に、伊勢湾に「伊良虞島」はありません。「伊良虞島」は存在しないのです。このことは、 万葉集研究の大家である犬養孝先生もはっきり申されておりました。 「伊良虞島はありません。伊勢の方から伊良湖岬を遠くから見ると、島に見えます」 伊勢の近くには伊良湖 ( 愛知県渥美郡 ) 、伊良湖岬 ( 渥美半島突端 ) があるので、「いらこのし ま」とことばの上でかけて詠んだというのなら、それはありうることですが : それに、麻続王の流配地を因幡と記している日本書紀の記述に誤りがあるとは思えません。な ぜなら、日本書紀は天武天皇の発意によるものであり、その天武が麻続王を流した本人なのです から。 流配地が転々と変 0 たという説や、常陸だという説 ( 常陸風土記 ) もあるようです。しかし地 図の上で、因幡、伊勢、常陸を見ると、よほどの理由がない限り、この三地を連れ廻したとは考 えにくいのです。 いずれにしても、島人が声をかけたといわれる万葉集巻一の二三歌は生粋の庶民韓国語でうた われていて、しかも一一重歌としての巧妙さは歌聖人麻呂も顔負けするくらい。こういう歌を、た だの漁民が歌えたとは考えられません。おそらく、島人の名を借りて、だれか相当の教養人が詠 150
いら・こ おみのおおきみ 七伊良虞の島の応答歌 ( 島人・麻続王 ) ・伊良虞という島はありません
⑦荷 ( : : : の ) じむ 「荷」の韓国訓は、「」です。終声「む」が脱落すると、「」になります。 所有格の「 : : : の」を意味する漢字「之」の韓国音も、「」です。それで前者の「」を、 後者の「」にあてて読んでいるのです。 「之」と書いて「」と読ませれば簡単なのですが、わざわざ「荷」の字を引きずってきてい るのには、やはりそれなりの理由があったものと思われます。島人たちには、この「皇族賤民」 が色々な意味で「重荷」だったのではないでしようか。 ⑧四間乃 ( 島の ) 「四間乃」も、単純な表現ではありません。よくよく考えて、表記しているのです。 しまの 「四間乃」は日本式よみ方で「島の」となり、このよみ方が正当なのですが、漢字の意味その ものでよむと「四間の」です。これを韓国式に解釈すると、「四坪」になります。 歌麻続王が「四坪」程の小屋に住んでいたことを、この表記から想像できると思うのですが、い 応かかでしよう。 の そむ しむ 島「島」の韓国語は、「。」。東南部海岸地方の方言または古代語は「幇、で、これが日本語の「し 良ま」の語源です。 伊 七 ⑨珠藻 ( ほんだわら ) そむね まるわん 159
の意の漢字「之」の韓国音よみにあたります。 しむ そむ 「志麻」の日本音よみは「しま」、島の意です。島は韓国語で「」。古代語は「」 ( 東南部海 しむ 岸地帯では現在でも「幇」と呼んでいます ) です。 あぎじそむ 全部合わせて、「」。「子の島」 ( 子である島 ) という意味になります。「子島」すなわ わけじま ち「別島」「分国」の意味なのです。古代日本は、「そらみつ大和の国」で、そら ( 新羅 ) と、み っ ( 百済 ) 系の分国であったので、このように呼ばれたのでしようか。同時に、もと日本には 「背の低い ( 子供のように小さい ) 原住民」が住んでいたので、複合的意味合いで称されたもの とも推理できないでしようか。 だねびきん ⑤多奈引 ( すべてを辞め退いた ) この部分も、一一重よみです。 「多」は韓国音で、「」。「全部」「すべて」の意です。日本音では、「た」。「吽」とは、清・濁 の音差です。 ねだ 「奈」は韓国音で、「切」。「出す」の意、「切」の語幹です。日本音では、「な」。 し「引」は日本訓で、「ひく」、音では「いん」。韓国音でも同音の「」です。 以上日本音訓三字合わせて「たなひく」、つまり「たなびく」になります。 ( ④の場合 ) だね また、「多」と「奈」の二字を韓国音でよむと、「坪」。一方、三字目の「引」の場合は、日 九 本訓の「びく」に日本音 ( 韓国音も同じ ) の「いん」を二重に接合させると、「びくいん」とな 213
七伊良虞の島の応答歌 麻続王がこれを聞いて悲しんで唱和した歌 麻続王 いのちを うっせみの命を惜しみ波に濡れ 伊良虞の島の玉藻刈り食む ( 巻一の二四 ) 右、日本書紀について考えてみるに、「天武 天皇の四年四月十八日に、三位麻続王は罪有 いなばのくに って因幡国に流された。一子は伊豆の島に、 一子は血鹿の島に流された」とある。ここに 伊勢国の伊良虞の島に流されたというのは、 おそらく後世の人が歌のことばから誤解して 書いたものであろう。 おみのおおきみ 147
のでしようか。 ( 従来の解釈】 打麻乎麻続王白水郎有哉射等籠荷四間乃珠藻苅麻須 ( 巻一の二三・万葉仮名 ) うちそ をみのおほきみあま 打麻を麻続王海人なれや伊良虞の島のマ藻刈ります うちそ ( 打麻を麻続王は海人なのか伊良虞の島の玉藻を刈っていらっしやる ) ( 真の意味 ) うちさ おみのおおきみいや あま さるらご たまも 打麻を麻続王賤しき海人なれや射等籠の島の玉藻刈りなさる ( どうやって生きなさる。麻続王は賤しい漁夫なのだろうか。「生き抜こうと」の、島の玉藻 を刈っていなさる ) ことばの説明】 152
次 くしろ 釗つく ( 柿本人麻呂 ) ・誤訳のどろ沼の原因は「くしろ」でした おみのおおきみ 七伊良虞の島の応答歌 ( 島人・麻続王 ) ・伊良虞という島はありません 八秋の野の : ・ ・ ( 額田王 ) ・戦争予告の歌でした おおとものちむろ 九かくのみし : ・ ( 大伴千室 ) ・高貴女性の求愛に困惑する歌でした こよ・文こ やまのうえのおくら 十七夕歌 ( 山上憶良 ) ・少年少女の性教育用でした 書き終えて 145 123 181 199 217
んだものでしよう。 しろうさぎ いなま 麻続王が流されたのは、「因の白兎」で有名な淤岐の島 ( 白兎はこの淤岐の島から因幡本土 に渡ろうとしてワニザメをだましました ) からほど遠からぬ小島であったろうと思われます。 ところで今日、鳥取県は白兎伝説をフルに利用して観光事業を繁盛させています。白兎道路、 白兎神社、白兎海岸 いかがでしようか、麻続王も観光に利用なされては。麻続王は「罪ありて」流されましたが、 人間の本来的悪をおかしたわけではありません。たまたま天智方にくみし、天武クーデター ( 壬 申の乱 ) の後の圧政に反発 ( したらしい ) のカドで罰せられたのです。歴史の中の悲劇のヒーロ ーなのですから、万葉集巻一の二三歌、巻一の二四歌の応答歌の碑を建ててもよいのではないで しようか ? ( 現在その碑は伊良湖岬に建てられています ) さて本題に入り、歌そのものの説明に入りますが、「麻続王」ということば自体も韓国語です。 歌麻続王は、機織となんらかの関係があったのでしよう ( 言葉の裏づけについては後で説明いたし 応ます ) 。 島 の あわれ 哀傷びの歌 伊 まず、島人が同情して声をかけたといわれる巻一の二三歌から。従来どのように訓まれていた 151
【従来の解釈 ) 空蝉之命乎惜美浪尓所湿伊良虞能嶋之玉藻苅食 ( 巻一の二四・万葉仮名 ) たまも うっせみの命を惜しみ波に濡れ伊良虞の島の玉藻刈り食む たまも ( 〈うっせみの〉命が惜しさに波に濡れ伊良虞の島の玉藻を刈って食べることだ ) ( 真の意味】 うちさの らん たまも 空蝉之命を惜しみ乱が起きかく渡り行く玉藻刈りつつ 応 ( どうやって生きていこう命を惜しんだばっかりに乱が起きてこのように渡り歩いて の 島いるのだ玉藻を刈りながら ) 虞 良 伊 ( ことばの説明 ) 163