す、わが大神さま。うっしおみでいらっしやるとは』と驚き拝礼し、かっ捧げ物を奉ります。 この「うっしおみ」は権力者的巫女、祭司者を意味しているのです。それで、「やまとに唯独 り」の天下の雄略天皇が「拝礼」し、「捧物」まで捧げたのでしよう。雄略天皇は、それまで面 識はなかったものの、彼女の名声をよく知っていたものと思われます。このときすでに、邪馬台 国は滅ぼされていましたが、卑弥呼の末裔は、祭事を司どる指導集団として当時にいたるまで、 大和の国一帯に隠然たる勢力を持していたのでしようか。 ご存知のように、雄略天皇は獰猛で鳴る天皇です。態度が煮え切らないといって黒日子をその いちの・ヘのお 場で打殺、白日子も同じ理由で立ったまま穴に生き埋め、自分の王の座を狙ったといって市辺忍 しわ 歯を射殺、その殺戮行為は十五件にのぼるといわれています。 わぎあいあい その雄略天皇が、矢を向けられながらそれを許し、和気藹々と送ってもらったりしているの は、実に奇異な感じを歴史学者に与えているようです。それは「うっしおみ」の意味が分からな いからであり、したがって一言主大神が「女だ」ということが分からないからです。 歌雄略天皇は、はじめカンカンに怒って、 応「この大和の国に私をおいてほかに二人と大君はないのに、今誰が私と同じような行列をつく の 島って行くのか」 虞 と言われ、官人たちに弓に矢をつがえさせるのです。ところが相手はひるむどころか、同じこ 良 伊 とをしてきました。あまりにも相手が高飛車なので、雄略天皇は怪しみ、 「そちらの名を名のれ、名のってから互いに矢を放とう」 167
私は本年 ( 一九八九年 ) に入り、宮本先生とぜひお会いして、その間の事情をおうかがいしょ うと思いたちました。ところが残念なことに、宮本先生は昨年十月他界されたということを耳に し、落胆しました。 宮本先生が、本歌をどのくらいまで古代韓国語で訓まれたか、うかがい知るすべもありません が、心から敬意を表し、先生のご冥福をお祈りいたします。 雄略天皇のプロフィル 言語解釈というものは、考古学の発見のように眼の前に証拠をつきつけるような迫力はありま せんが、きちんとした裏付があれば充分に説得力があるものです。 さらに当時の政治的特殊性、支配のかたち、そして韓日古代交流のあり方と照らし合わせて言 語的な説明をお読み下されば、本歌が雄略天皇の即位宣言であることを納得していただけると思 います。 ち ところで雄略天皇とはどういう人物だったのでしようか。 持 おおはっせわかたけ うるわ 籠古事記に登場する雄略天皇こと大泊瀬稚武は、事実行く先々でみめ麗しい童女に出逢うとすぐ 情事をくりひろげたり、婚約を濫発しまたこの約東をすぐ忘れたりもする、。フレイボーイの面目 躍如とした男性です。 このような経歴が、威圧的な政治ス。ヒーチを、後世の読者をして求婚歌に錯覚させることにな
ったのかもしれません。 しかし古事記や日本書紀の雄略天皇のくだりには、血で血を洗うようなすさまじい権力闘争劇 いちのべのおしわのみこ がくりひろげられており、実際に稚武は彼の従兄弟市辺押磐皇子とその一党を鹿狩りに招待、 市辺皇子を一気に射殺しています。 彼が即位したのは、この次期天皇有力候補であり政治的ライバルであった市辺皇子暗殺事件の 直後です。即位宣言歌のいかめしい内容や緊迫感を伝える表現などに、その間の事情を感じさせ るものがあるのはたしかです。それにしても前半の、同胞にたいする呼びかけは非常に宥和的で 低姿勢である点が面白く、これが求婚歌に解されるまたの理由かもしれません。 古事記の雄略天皇のくだりには彼自作の別の歌も収録されています。この歌にも「そらみつ」 そらみつやまとのくに が登場します。そこでは「蘇良美都夜麻登能久爾」という表記になっています。なぜ彼はこうも 「そらみつ」に執着したのでしようか。 いんぎよう おおはっせわかたけ 雄略天皇の本名は大泊瀬稚武 ( または幼武 ) で允恭天皇の王子 ( 西紀四一八 5 四七九年 ) だと 記録されています。 じよんじ 「三国遺事」とともに韓国の一一大古史書である「三国史記」の百済本紀腆支王 ( 即位四〇五 5 あしん 四二〇年 ) 条によれば、この王は太子のとき日本に滞在していましたが、父阿萃王 ( 即位三九一一 5 四〇五年 ) の訃報に接し、帰国待機中、故国では叔父が王権を奪取するなど、一大政変が起こ ります。この政変はすぐ平定され、腆支王は即位することになりますが、雄略天皇の誕生年四一 八年前後は、百済はこのように複雑な事情の年代です。
わたしこそ告げよう家も名前も ) うるわおとめ 野辺に若菜を摘むみめ麗しき乙女、その乙女に声をかけ、自分がもっとも高い身分の王子であ はつらっ わかたけ ることをおおらかにつげる湲剌とした稚武皇子の姿。あくまで素朴な田園的詩情 : ・ しかし、どこか変だとお感じになりませんか。従来の解釈にしたがってよんでみますと、前半 部の「籠もよ」から「名告らさね」までのいとも牧歌的な句節と、「そらみつ : ・ : 」以後の、威 圧的な後半句節は、全然釣合いがとれていません。ほんとうに妻問の歌なのでしようか ? つまといのうた 結論を先に申しあげます。これは「妻問歌」ではありません。雄略天皇の即位宣言であり、 しかも全文韓国語で書かれています。 ところで、この歌が即位宣言であることを、今から二十年も前に見抜いて提唱なさった大先輩 がおります。当時和歌山県の紀三井寺に住んでおられた郷土史家、宮本八東先生です。 私はそのことをのテレビ番組で知りました。宮本先生の提唱は当時学界の認めるところ とならず、先生はその無念のお気持をこめて、 「証拠を探しなさい、証拠を」 と番組のなかで語っておられました。 いったい、物的証拠とはなにを意味するのでしようか。雄略天皇直筆の木簡を探し出せとでも いわれるのでしようか。そしてその日までこの歌は雄略天皇の妻問の歌でありつづけるのでしょ こ
ニ籠もよみ籠持ち : : : ( 雄略天皇 ) ・やはり即位宣言でした こ
います。つまり「引」の音訓ともに合致する表記として「家」という字をえらんだということ です。 ぎるかなじるかな 吉閑名に「聞きたい」などという意味はまったくありません。外斗 ( 幇外と同義 ) 、作ろう か、という意味です。 たいへん興味深いのは、この「ぎるかな」ということば使いです。「ぎるかな」と「じるかな」 の意味は同じで発音がちがうだけですが、韓半島北西部の一部地方では、いまでも「じ音」を 「ぎ」と発音します。東南部では逆に「ぎ音」を「じ」と発音することが多いのです。 おそらく、雄略天皇がこの部分を「ぎる」と発音されたから、のちに歌を表記した人が、「吉」 という文字をえらんで当てたのでしよう。すると、雄略天皇は北西部地方、即ち高句麗系か、百 済系の言語を使用していることが分かります。 なにるろさね ⑧ ~ 告紗根 ( 吾告げて住まむ ) 「」を、要らないものとして省略したり、話し手の意志や願望を表わす助詞としてあっかう 解読者がおりますが、それはとんでもないまちがいです。これは前文の「名」を受けて斗、「わ れ」を意味する主語ですから、見逃してはいけない単語なのです。 にるろ っ よ 告は望司 ( の古語 ) で「告げて」の意味。 さね 紗根は発音そのものずばりで司、「住まむ」の意味です。
雄略天皇 ( 大泊瀬稚武天皇 ) 籠もよみ籠持ちふくしもよみぶくし持ち この岡に菜摘ます児家聞かな名告らさね われ そらみつ大和の国はおしなべて我こそ居れ しきなべて我こそいませ 我こそば告らめ家をも名をも ( 巻一の一 ) をか なっ やまと おほはっせわかたけのすめらみこと を
『古事記、雄略天皇のくだりにおける漢字表記「宇都志意美」が、「うっしおみ」↓「うっそみ」 ↓「うっせみ」と転じたものであり、「うつ ( 顕 ) し」は目の前に見えること、この世に生きるこ となどの意。「おみ ( 臣 ) 」は人の意とみる説もある』と、古語辞典には詳しく説明されていま す。 うちじおみ しかし「宇都志意美」は韓国語の「卒司ⅵ」で、「最高権力者の妻」「女性権力者」「高い 身分の女性」のことであって、「うっせみ」「うっそみ」とは関係ありません。 ういつじよん じおみ 「卒司」は「上のお方」「上層階級の人」の意、現代語で「」、「ⅵ」は今では「妻」 ですが、古代では「女性権力者」のことでした。 つかさ 古代母権社会において祭政をともに司どった最高権力者の女性は、まさに神に代わる神秘的 な存在で、この世の人ではあるものの、一般には超現実的な存在に認識されていたものと思わ れます。それが「うっしおみ」が「うっせみ」に転じたという誤りを招く原因にな 0 たのでし よ 古事記の雄略天皇の条は叙事詩的でもあり、また当時の政治社会状況を生き生きと描写してい て、非常に示唆的でもあります。 天皇の一行が葛城山に行幸したとき、百官は皆紅い紐をつけた青摺の衣服を着ていましたが、 その装束といい人数といい、ちょうど同じような行列が別に登山しているのに出あったので、天 皇は大怒し、その一行に矢を向けたところ、先方のリ 1 ダ 1 が『私は悪事にも一一 = 〔、善事にも一 びとことぬしのおおかみ 一一只言い離っ神、葛城の一言主大神だ』と宣言します。そこで天皇は『恐れ多いことでございま ゝ 0 166
ティ -1 32 をヒ びりゆ しかし「沸流百済と日本の国家起源」の著作で韓日両国学界の注目を集めた金聖昊先生による と、古代日本史の年代はすべからく一一周甲を加算してはじめて正確な年数の把握が可能であると しています。百二十年をプラスしなければ真の日本古代史年代は出てこないというのです。例え ば日本国内で西紀百年に起こったといわれている事件は、実は一一百一一十年に起こったことになる毛乙「ー丿 という主張です。 それが事実であるとすれば雄略天皇の生まれた年四一八でなく五三八年になります。 この五三八年に、彼が執着した「そらみつ」っまり新、百済、特に百済では一大変動が起き ています。百済はこの年、都をせまい熊津 ( 現在の忠清道公州 ) から風光明媚で「山もあり川も日 そん さび を認 、これ以後百済は中 ある良い所」の泗泚 ( 現扶餘 ) に遷都したのです。第二十六代聖王の 興隆盛期を迎えます。この聖王の父が日本との関係が深い嶋王こ」 ~ 王す。 イタ色 この時期の百済の強力な勢力は日本にも影響を与えたであろうことは想像にかたくありませ ん。名君として追仰されていた武寧王の名の一字を借りて「若い武」「武ジュニア」すなわち幼 武、稚武と名桒り、大百済 ( 大泊瀬 ) の威光のもとに権力を掌握、「急ぎ来て」即位を宣言した ちのではないでしようか。 籠万葉集に収録されている別の雄略歌 ( 巻九の一六六四 ) にもここらあたりの事情が映し出され ていますが、そのことについては、つぎの機会に説明いたします。 さて、雄略天皇の即位宣言とはどのような内容のものだったのでしようか。 こむなる キムソ / ホ
はじめに 二つの万葉集 ″平安万葉集〃と″もう一つの万葉集〃 ・ ( 雄略天皇 ) 一一籠もよみ籠持ち : ・ ・やはり即位宣言でした ばくごうえんりん ぬかたのおおきみ 三莫囂円隣 : : : ( 額田王 ) ・セックスを歌うニ重歌でした が、も、つの おおあまのみこ 四蒲生野の唱和歌 ( 額田王・大海人皇子 ) ・あわただしい通情の歌でした ひむがし 五東の : ・ ( 柿本人麻呂 ) 「草壁」は「暁ーの韓国語でした こ こ 105