古代 - みる会図書館


検索対象: 邪馬台国論争
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1. 邪馬台国論争

魏王朝が倭国の実態を高く評価したわけではないが、王徳を慕うさいはての東夷の来朝によって、 王化の広がりがヴィジアルな形で明示される。それゆえに、特筆大書されたというわけである。 さくほ、つ にしじまさだお 「冊封体制ー論で東アジアの古代史を総合的に把握した、東洋史家の西嶋定生も、一般的な理解の仕 方として、これに同調する。夷狄の来朝は、「もともと無形の存在である天子の『徳』の高さを示す 有形 2 ハロメーター」で、君主の権威を高めることになる。したがって、「万里の遠方から朝貢した 大月氏国と倭国とは、ともに魏王朝の天子の徳の高さを示すものであったから、これに対しては特別 の待遇として、王という爵位が与えられたのである」 ( 『邪馬台国と倭国』一九九四 ) と。 しかし、こうした一般論による解釈だけでは不十分で、遣使朝貢した周辺諸国の首長側の特殊な政 治的事情と、これを鳴り物入りで歓迎した中国王朝側の特殊な政治的事情を考えなければならない。 すなわち、魏王朝は統一王朝ではなく、三国分裂時代の一つの王朝であり、他の二王朝と絶えず生命 をかけて戦っていた。そこでは、夷狄の来朝も、天子の「徳」のバロメーターという「牧歌的な意味 以上に、その王朝の運命にかかわる切迫した事情があったのではないかーとみる。 具体的にいえば、一三七年三月、涼州 ( いわゆる河西回廊ーー現在の甘粛省方面 ) の諸国王が、蜀漢 王朝 ( 後主・劉禅 ) へシルクロード縁辺の異民族首長二十余人を派遣して、「蜀漢王朝の先駆となって 魏王朝と戦う」と申し入れた。魏王朝は、この情勢を察知して、涼州などの諸地方が蜀漢と合体する ことを牽制するために、背後の大月氏国 ( クシャン王朝 ) との提携を図り、「親魏大月氏王」に冊封し たらしい 「親魏倭王」冊封の場合も、同じような東アジアの情勢が反映している。卑弥呼の冊封は、二三八年 いてき 13 8

2. 邪馬台国論争

文書を「制書」とよぶ。蛮夷の王は、国内の九卿 ( 中央官庁の長官 ) とともに、この「制書」によっ て任命された。これに対して、国内の王と丞相クラスの勅任官の場合、荘重な文体の「冊書」で任命 されたから、これと比べると、「制詔」は明らかに格落ちの辞令である、という ( 『親魏倭王』 ) 。 ただし、必ずしも格落ちの「制書」とはいえない、とする杉本憲司の反論がある ( 『日本の古代 1 』 ) 。 ちなみに、「親魏倭王」の金印が発見されれば、その遺跡が卑弥呼ゆかりの遺跡であり、邪馬台国 の所在地と考える有力な物証になるーー・との説に対しても、大庭は疑義をはさむ。一一六六 ( 泰始一 l) 年、倭の女王が晋に使を送ったが、その目的は前年に成立した晋王朝を賀する賀使であろう。このと き新王朝に対して忠誠と和親の意を表すはずだが、「冊封体制下にあった諸族の守るべき礼」として 前王朝より授けられた印綬を返して、新しい王朝の印綬を受けたであろう。したがって、「親魏倭王ー の場合は、「親晋倭王」に改められたはずだ、と推定する。つまり、たとえ「卑弥呼の墓」が見つか っても、「親魏倭王」の金印は発見されるとはかぎらないから、その可能性に期待をつなぐのは幻想 に近い、というわけだ ( 「邪馬台国」 ) 。 日本の歴史学界には従来、「親魏倭王」や「率善中郎将ーなどの称号について過大評価の傾向が認 められるけれど、むしろ、この詔こそ『倭人伝』の最重要な部分である、と大庭は力説してやまな 。遠方の異民族が朝貢してくることは、その王朝・皇帝の恩沢がゆきわたって、異民族を徳化した ことになり、王朝の勢威がさかんである証拠になる。だから、遠い倭国のことを記すことは、魏帝の宮 迷 優渥な詔を書くための舞台装置として、まこせ有効な記述であゑ陳寿が『魏志』東夷伝の倭人条の 弥 を書いた動機は、この詔の存在にあったーーと説く ( 『親魏倭王』 ) 。 卑 7 3 7

3. 邪馬台国論争

の特異な竪穴住居 ( 後に掘建柱建物に建て替えられた ) は「宮室」に、また、高床倉庫は「邸閣」に なそらえられた。さらに、北東にある「北内郭」 ( 古墳時代初頭〈四世紀〉までつづく ) には、大型の 楼閣風の高床建物 ( 三間 x 三間 Ⅱ一二・五メートル四方 ) がそびえていた。建築史の宮本長二郎 ( 東京 国立文化財研究所 ) の復元図によると、十二本の柱 ( 径四〇ー五〇センチ ) からなる総柱の巨大建築で、 高床式の宮殿か祭殿かとみられる。真北側の、始祖をまつる墳丘墓ともつながりがあるらしい そうじ 七田によると、内濠に突出部を規則的に張り出した点が特徴で、佐賀県大和町の惣座遺跡や大分県 おざこつじばる 小迫辻原遺跡などの環濠にもみられる。これは、中国の城郭構造や造営思想がとりいれられたもの、 と推定される。そして、古墳時代の豪族居館の構造に影響を与えた、という。 こうそんさん えんしよう ちなみに、『三国志』魏書・公孫墳伝に三国時代の「楼閣」の記事がみえる。袁紹らに攻められた ざんごう 公孫墳軍は「たびたび敗北を重ね、その結果、易京に逃げ帰って、守備を固めた。十重の塹壕をめぐ らし、その塹壕の内側に土山を築いた。高さはすべて五、六丈あり、其のうえに物見の楼を築いた。 真中の塹壕に作った土山は、特別に高さを十丈とし、自分はそこに居住し、三百万石の穀物をたくわ はいしようし えた」。裴松之注によると、楼閣の数は四けたの数にの・ほった、という。韓・倭にまで広まった城郭 ・城柵を、中国文明の影響ーーと、陳寿はみていたらしい ( 杉本憲司『日本の古代 1 』 ) 。 吉野ケ里の周りには、衛星的な集落がとりまいていた。弥生後期後半ー終末期になると、内郭周辺 に住む人は、少数の隔絶された階層にかぎられるようになり、終末期 ( 三世紀後半 ) のうちに環濠が おくつき 埋められると、南内郭周辺は奥津城ーー前方後方形墳墓・方形周溝墓ーーに変わっていく。 266

4. 邪馬台国論争

箸墓古墳 発現期の古墳のなかでもキャスティング・ヴォートを握るのは、「卑弥呼の墓」と目されてきた箸 かたず といっていいだろう。その年代観を決するのは、考古学。「もはや文献学は固唾を飲んで、箸墓古 墳の築造はいっ頃か、考古学のその結論を見守るばかりであった」と、薬学者で古代史研究家の辻直 樹 ( 『箸墓の秘密』一九九二年 ) がいうとおり、ここにきて、三世紀史は考古学の独壇場の感が深まっ やまとととひももそひめ 箸墓は、倭迹迹日百襲姫 ( 孝霊天皇皇女 ) の陵墓に治定される初現期の巨大古墳。数ある天皇陵古 じじよう 墳のなかでも、今城塚古墳 ( 継体天皇ーー宮内庁の治定する継体陵は、茨木市の太田茶臼山古墳 ) ・見瀬丸 山古墳 ( 欽明天皇 , ーー陵墓参考地 ) とともに、王権・国家の形成史上、もっとも注目される古墳だ。と くに、箸墓は前方後円墳の発生にかかわるうえ、邪馬台国の卑弥呼墓にも擬せられて、多大の関心を 集めてきた。 やまのへのまがりのうえのおか 辻直樹のように、①箸墓の原形は円墳、②崇神陵Ⅱ山辺勾上岡陵の呼称にふさわしい立地からみ て、「箸墓の被葬者は崇神天皇」とする少数意見もある。辻によると、崇神は北九州にあった邪馬台 国から東遷して新王朝を開いた始祖であり、箸墓は「北九州からの勢力によって大和の一角に印され た巨大な《弥生時代の終止符》と言える」 ( 『前掲書』 ) 。 「航空考古学」の新分野を開いた末永雅雄 ( 考古学界初の文化勲章受章者 ) は、長く宮内庁の陵墓委員 をつとめたので、陵墓に立ち入る機会にも恵まれた。『古墳の航空大観』 ( 一九七五 ) によると、後円 部と前方部のバランスがとれず、前方部の開ぎがとくにつよく見える。「葺石が非常に多く、ことに 2 ) 8

5. 邪馬台国論争

井上光貞も、卑弥呼は「霊力に秀でた独身の女性、つまりシャーマンーだったという ( 『日本の歴史 ①・ーー神話から歴史へ』一九七一一 l) 。山尾幸久も「卑弥呼は単なるト占師でなく、また呪術者でもなく、 霊魂崇拝・祖霊信仰を決定的に重要な一要素とするシャーマニズム」とみる ( 『新版・魏志倭人伝』 ) 。 直木孝次郎は、三世紀の日本には北方系の祭儀がまだ伝わっていないとし、〈鬼道〉を中国南部の山 岳地帯から江南地方にひろがる照葉樹林帯の祭儀との関連で検討すべきだ、という ( 「邪馬台国の習俗 と祭儀ー一九七四 ) 。 こうした「鬼道Ⅱシャマニズム」観を、重松明久は批判する。邪馬台国の宗教形態は、これまで東 北アジアの宗教をもとに、きわめて一般論的な漠然とした推定が行われてきたとして、「陳寿の記述 意図に沿って、従来の考察より、一層具体的な性格比定を試みなければ、研究の一歩前進は不可能で ある」と強調した ( 「邪馬台国の宗教の実態ー『古代国家と道教』一九八五 ) 。 重松は日本史学者のなかでいち早く、日本文化に対する道教の影響に注目した一人だが、この場合 も、やはり中国の道教系の〈鬼道〉に着目して、こう説いた。『魏志』にみえる〈鬼道〉の用例を調 ちょうろ ふうび ごとぺいどう べると、第三代教主・張魯の伝に用いられ、当時、中国で風靡していた五斗米道をさす。したがって おふだまじないみず 卑弥呼の「鬼道」も道教の有力な教派名であって、符と呪水を用いる災厄除けの宗教を意味する、 と ( 『邪馬台国の研究』一九六九 ) 。 重松によると、鬼道教団の総帥・張魯は、建安二十年 ( 二一五 ) 、後漢王朝に降伏するまで約三十年 、漢中の地において宗教国家を建設し、「師君ーと自称した。鬼道の信者ははじめ「鬼卒」と呼ばの れ、篤信すれば「祭酒ーと称して、部下を統率し、教団の政務をとる。さらに一段上に「治頭大祭卑幻

6. 邪馬台国論争

それに応えるかのように、考古学上の大発見が近年、相次いだ。邪馬台国時代と古代国家形成期に かかわる、戦後の主な発見を採りあげると、次のとおりである。 〔紀年鏡〕 1 「景初一一一年ー銘平縁神獣鏡和泉黄金塚古墳大阪府和市 かんばら 2 「景初一一一年 , 銘一一一角縁神獣鏡神原神社古墳島根県神 ~ 町 3 「正始元年ー銘三角縁神獣鏡御家老屋敷古墳山口県南陽市 4 「景初四年」銘斜縁盤竜鏡広峯号墳京都府福知山市 5 「景初四年ー銘斜縁盤竜鏡伝持田古墳群宮崎県西都町 ( 辰馬考古学資料館蔵 ) 6 「青龍三年」銘方格規矩四神鏡大田南 5 号墳京都府峰山・弥栄町 〔三角縁神獣鏡〕 雪野山古墳滋賀県八日市市 7 三角縁神獣鏡三面 権現山号古墳兵庫県御津町 8 三角縁神獣鏡五面 にしもとめづか 西求女塚古墳兵庫県神戸市 9 三角縁神獣鏡七面 〔紀年刀〕 ちゅうへい 東大寺山古墳奈良県天理市 川「中平年ー銘鉄刀 さきたま しんがい 埼玉稲荷山古墳埼玉県行田市 「辛亥年」銘鉄剣 一九五一年出土 一九七二年出土 一九八〇年解読 一九八六年出土 一九八六年公表 一九九四年出土 一九八九年出土 一九八九年出土 一九九三年出土 一九六二年出土 一九七八年解読 卑弥呼の鏡 14 )

7. 邪馬台国論争

た、図像の同定・解釈は小南一郎「中国の神話と物語り』 ( 一九八四 ) に従う。 ( 注Ⅱ ) 「後漢書』によると、「又、夷洲及び亶洲あり。伝へていふ、秦の始皇、方士徐福を遣はし、童男・童女 数千人を率ゐて海に入り、蓬莱の神仙を求めしむるも得ず。徐福誅を畏れ、敢へて帰らず、遂にこの洲に止ま る」 ( 注 ) 『三国志』呉書二・黄龍二年条。 ( 注 ) 釈義楚『義楚六帖』、欧陽修「日本刀歌」 ( 注 ) 汪向栄『古代的中国与日本』 ( 一九八九年 ) 「弥生の使者・徐福』 ( 一九八九年 ) 、日中合同シンポジウム 『徐福伝説を探る』 ( 一九九〇年 ) 。中国では中国航海学会・徐州師範学院編『徐福学術討論会論文集』 ( 一九八八 年 ) のあと、徐福研究論集が続刊されている。 ( 注 ) 都出比呂志「前方後円墳の誕生」 ( 前出 ) ( 注四 ) 亀の意義については久野昭「海界の彼方」 ( 前掲 ) など。 ( 注 ) ( 注 4 ) 参照、都出比呂志「前掲論文ー ( 注幻 ) 桜井龍彦の教示による。 ( 注 ) 蓬茱山のイメージとシンポリズムについては、近年、相次いで著された次の論文・著書に詳しい。伊藤 清司「蓬島と東海の君子国ー ( 『日本神話と中国神話』一九七九年 ) 、郡司正勝『風流の図像誌』 ( 一九八七年 ) 、 小南一郎「中国の神話と物語り』 ( 一九八四年 ) 、同「壺型の宇宙ー ( 東方学報・第礙冊、一九八九年 ) 、中野美代 子「ひょうたん漫遊録』 ( 一九九一年 ) 、同『龍の住むランドスケープーー中国人の空間デザイン 一年 ) 、久野昭「海界の彼方」 ( 国際日本文化研究センター紀要「日本研究」第 4 集、一九九一年 ) 、中西進『ュ ートビア幻想』 ( 一九九三年 ) 。また、・スタン『盆栽の宇宙誌』 ( フランス語原論文一九四二年、邦訳一九八 五年 ) が先駆的な業績である。 2 ) 0

8. 邪馬台国論争

がもんたい 画文帯環状乳神獣鏡が見つかっている。こちら 入 をけた中う は、中国四川省にあった後漢の官営工房で作られ 文避しでよし 銘を置まのわ たらしい ( 原田三寿「後漢の紀年鏡について」考古 青献三年 吉配る石さ 不く至金ふ 学ジャーナル 3 8 8 号 ) 長 作 顔氏作竟成文章 をき正孫硬る 究 か 6 鏡置て九 研 おうもうしん のをつ子きに 左献右乕辟不詳 学 方格規矩四神鏡というのは、王莽の新代を中心 こ虎従八で族 カ 氏右陽者と侯 が王考解に作られた代表的な鏡。戦国時代後期にはじま 朱爵玄武順陰陽 に -*D つく 、橿文り、前漢末から後漢・三国時代にわた 0 て流行 0 年に武持就て 八子九孫治中央 康 三左玄をにし 隆 のた。図のとおり、中心の鈕の周りに方形 ( 方格 ) 立月 と ) 現職ご ロ 青た雀の官生 寿如金石宜王 三をおき、外側に円形を配する。この外周に、・ れ朱この長 しじん *-a ・形の幾何学文を並べ、その間に、四神 ( 青 龍・白虎・朱雀・玄武 ) を線彫りする。中国人の思想では、天は円く、地は四角い。この天円地方の 宇宙観を表したのが、方格をデザインした円鏡。また、»-2 のうち、 ( または >) は規 ( コンパ スⅡ円と陽のシンポル ) を、 *-Äは矩 ( 定規Ⅱ方と陰の象徴 ) を表すとみたてて、規矩鏡と名付けられた。 しかし、最近の考え方では、古代中国で盛んにおこなわれた双六 ( 六博 ) のゲーム盤ーーっまり六博 盤 ( 博局 ) を象ったもので、全体として天円地方と神仙思想にもとづく文様という。 この方格規矩鏡は、形の幾何学文様のうち、が正字形になっている。この点が大きな特 徴で、中国からの舶載鏡の場合、逆 i-ä字形が多いのと対照的である。四神を含めて、文様のよく似た びやっこすじゃく 〔釈文〕 -0

9. 邪馬台国論争

以下は、中山修一先生喜寿記念論文集『長岡京古文化論叢Ⅱ』への参加を許された機会に、あらためてその 後、管見に入った史料・論著を参照しながら、補筆・再構したものである。茫々三十年前、長岡京跡の取材に上 、つこ。「ハレの宮都」 がったとき、中山修一先生から「古代の宮跡は、しばしば古墳の上に営まれた」とうかがナ ケガレのなかから「聖なるもの」が誕生してくる民俗・縁起 が、な・せ「ケガレの墳丘」の上に造られたのか を知らなかった私には、なんとも解せぬ習俗と思われたのであった。献呈論文のはじめに、私は次のように記し 「前方後円墳の発生と展開」をスケッチしようと、ペンを執った瞬間、ゆくりなくも、はじめて先生にお 目にかかった日のことが思い起こされた。そして、あのときの小さな疑問の滴が、時を経たいま、伏流水となっ て涌きだそうとしていることに、気づいた。香味乏しい野水ながら、先生をはじめ専家の情けある手に掬まれる ならば、喜びこれに過ぎるものはない。 いま、この稿を抄録するにあたって、寛大な専家の検討を重ねてお願いしたい。 ( 注川 ) 曾布川寛「崑崙山への昇仙』 ( 一九八一年、中公新書 ) ( 注Ⅱ ) 『列子』湯問篇 ( 岩波文庫版、小林勝人訳による ) によると、 だいがく ・ : その中に五山あり。一を岱輿と日い 「渤海の東、幾億万里なるを知らず。大壑 ( 大谷 ) あり。 じゅんこう ・ : その上の台観は皆金玉、その上の禽獣は皆純縞 ( 純白 ) 。 壺と日い、四を瀛州と日い、五を蓬と日う。 ・ : 華実皆滋味あり、之を食らへば皆不老不死なり。居る所の人は皆仙聖の種、 : : : 」 とあって、海東には五山 ( のち三山 ) が大亀の背に載って浮かび、不老不死の神仙が住む、と伝える。 斉王・燕王が三神山を求めたことは、『史記』封禅書にみえる。 : 二に日はく蓬壺、すなはち蓬莱なり。 ( 注 ) 『王子年拾遺記』巻一に「三壺はすなはち海中の三山なり。 ・ : 形は壺器のごとしーとある。小南一郎「壺型の宇宙 . の引用による。 の きなん ( 注 ) 沂南画像石墓の「西王母・東王父」像は、林巳奈夫『漢代の神々』 ( 一九八九年 ) の付図による。ま呼 弥 こ 0 たいよ : 三を方

10. 邪馬台国論争

資料 主な邪馬台国論者の比定地 ( 「卑弥呼の世界」の付表に加筆 ) 九州説の論者 大和説の論者 人名比定地にかんする記述 人名比定地にかんする記述 新井白石 新井白石筑後国山門都 伴信友 本居宣長筑紫 内藤虎次郎 鶴峰戊申大隅国囎唹郡 山田孝雄日本海沿岸航路を唱える 近藤芳樹肥後国菊池郡 畠岡謙蔵 白鳥庫吉肥後国 吉田東伍大隅国第郡 笠井新也箸墓を卑弥呼の墓とした 三品彰英 那珂通世大隅国囎郡 星野恒筑後国山門郡 梅原末治古墳の分布から 豊田伊三美放射式の読み方 橋本増吉筑後国山門郡 志田不動麿 安藤正直肥後国佐俣 榎一雄筑後。放射式の読み方肥後和男 遠藤元男筑後国山門郡 室賀信夫地図史から 水野祐北九州地域のいすれか石井良助 上田正昭 斎藤忠 黛弘道筑後国山門と肥後国山門小林行雄 汪向栄 牧健一一筑後国山門郡 藤間正大筑後 王仲殊 宮崎康平肥前国島原 その他の論者 古田武彦筑前国博多 和歌森太郎中国東部から畿内西北 安本美典筑前国甘木 森浩一筑後国山門。古墳の視点立石巌熊野。黒潮利用を主張 大杉博四国山上説 久保泉豊前国宇佐 冨来隆豊前国宇佐 岡田英弘山口周辺 内田吟風ジャワ・スマトラ 重松明久豊前国宇佐 木村鷹太郎エジプト 松本清張 鈴木武樹 武光誠筑後川流域 謝銘仁 加治木義博鹿児島姫木 近畿の土器編年表 時時新しい 代期 ) ー年・ ) 年 四 OO 代 文 三 ( 晩 四 OO D 〇こ 8 匈卿前期後 2 1 0 3 2 1 0 2 1 3 2 1 0 第 ( 寺沢薫原案「古代学研究」第 121 号 ) 一一〇〇 期第Ⅱ様式 一〔期第圻式 生 古墳時代 時 弥 代 中 前 第—壑八 船橋式船橋式 第 4 3 2 1 4 3 2 1 2 1 3 2 1 第三様式 従来の 】第四 資料 297