倭国 - みる会図書館


検索対象: 邪馬台国論争
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1. 邪馬台国論争

( 重任を担った梯儁が ) 邪馬台国が「遠絶ーとか、道が険しいので、目的地に達せずに伊都国ま でで中途で帰ったとは想像し難いであろう。それに、梯儁が「倭王に拝仮し、ならびに詔を齎 きんけい し、金帛・錦・刀・鏡・采物を賜う」という記載、 ( 中略 ) さらに詔書や下賜品を受け取った 後、「倭王、使に因って上表し詔恩を答謝すーおよび倭女王に対する倭人伝の精細な描写などか らも、梯儁は邪馬台国に到着しただけでなく、女王にも拝謁したことは充分に証明し得るであろ う。 ( 中略 ) 「王となりしより以来、見るある者少なくは、女王が奥の方に閉じ籠って、一般に は臣民を引見せず、ただ中国から使節が来る場合にしか顔を出さない、 ということを暗示してい るように思われる。そこで、この記載こそ、魏使が女王に会ったことを側面から示している傍証 と言えないだろうか。 そして、梯儁の報告 ( 二四〇 ) にせよ、張政の報告 ( 二四七年来倭、二六六年帰国 ) にせよ、「いず れも自ら見聞したことや実地の調査に基づいたものであって、〈倭人からの伝聞〉ではないと考える」 とい一つ。 誇張する必要なし 誇張説についても、沈仁安はきつばり否定する。「陳寿は倭国大乱の道里戸数を誇張する書き方に宮 迷 よって、司馬氏の功績を顕彰する必要はなかった」「司馬氏の功績をほめたたえるために、倭人の状の 況を大げさにしたという言い方は、倭国が中国の三国闘争の中において重要な地位を占めており、魏卑 もたら 11 7

2. 邪馬台国論争

皇陵 ) の調査が、邪馬台国問題にとっても、将来の重要課題として浮かびあがってこよう。 3 もう一つの倭国 ワクワク 邪馬台国問題は日本国内の課題で、海外からあまり関心を寄せられない。わずかに近年、中国の考 古・歴史学者が論争に参加し、専著を発表するにとどまっている。 しかし、「倭国」と「倭人ー「倭」の名は、日本・日本人の名ととともにーーあるいは、むしろ日本 ・日本人の名の代わりにーー・、東アジア世界ではその後も長く流布した。「倭寇」や「壬辰の倭乱 ( 文禄・慶長の役 ) 」がそのいい例だろう。のみならず、アラビア船によって、遅くとも九世紀後半、 西アジア世界にまで伝えられ、「 Waqwaq ( ワクワクまたはワクワーク、ワークワーク ) 」と訛ってよば れた。十三世紀、マルコ・ポーロのジパング以前に、ワクワクの名が広まったのだ。「はじめにワク ワクありき」である。そして、ワクワクをめぐってさまざまな幻想が紡がれた結果、「東方の不可思 界 世 議国ーのイメージがふくれあがった。 の たとえば、ワクワクの「物言う木」。その木の枝には人間の顔や動物の頭が生えていて、物を言う。 伝 「草木よく物言ふ」とたとえられた神代を彷彿させる。そこにはまた、女王国があるという。これも倭 邪馬台国を連想させる話である。 なま

3. 邪馬台国論争

国方言では音であるのに対して、三世紀の倭人語では音であることから、邪馬台国は筑紫方言圏 である、と推論した ( 『邪馬台国の言語』一九七九 ) 。 中国語音韻史の尾崎雄二郎 ( 京大名誉教授 ) もまた、卑弥呼はヒムカであって、日向と結びつくと いう。漢語音では「呼」の頭子音が系で、のちの畿内の日本語の音韻 ( ( 行子音はで、音はな かった ) とは異なる点が、日向に向かわせる理由だ。つまり、倭国の人びとは、のちの上代畿内語に は、直接にはつながらない言語の使い手たちではなかったか、とみる。邪馬臺の漢語音はヤマドだ が、八世紀の日本語ヤマトの三世紀形とみて差し支えない。ただし、邪馬臺は畿内大和の政権とは虹 縁で、他所から ( 奈良盆地に ) 入って来て王朝を建てた勢力が、『三国志』にしたがって自らをヤマト と名乗った、と説く ( 「邪馬臺国について」一九七〇 ) 。 大野透は、この「呼ー ( 卑弥呼 ) が「子」 ( 日御子 ) の音訳とみられることから、この字を選んだの は日本人ではないか、と考えた。中国人なら、おそらく絶対に用いないからだ ( 『万葉仮名の研究』 ) 。 やはり中国語音韻学の森博達によると、倭人語には魏晋時代に音訳されたものもあるので、後漢以 前の上古音で統一して読むことはできない 、という。魏晋時代に音訳された旁国などから、倭人語を 復元すると、上代日本語とは音韻の特徴がたいへん異なゑ上代語では「オ列甲類ーの音節は少なく ーセント ) 、「オ列乙類」が圧倒的に多い ( 八四。 ( ーセント ) のに、倭人語では二七。 ( ーセン後 トに上る。また、上代語では 0ö0ö ( o は子音、 5 はオ甲類 ) という音節結合はないのに、倭人語呼 弥 卑 では五つ見つかる。「倭人語には母音調和がより整ったかたちで存在していたことを示すのだろうか と重要な問題点を指摘している ( 「〈倭人伝〉の地名と人名」『倭人の登場ーー日本の古代 1 』一九八終 、 0 、

4. 邪馬台国論争

と、水野祐をはじめ在野の研究者ら比較的少数の人びとにかぎられる。 三年」かは、ほとんど問題にされていないよう である。それどころか、積極的に とおり読むべ」とする人さえあ↓・ワ ' はただの一カ所、それも日本では問題になっていな かっては校訂本をみても、『倭人伝』に い文字の異同ーー「是汝之忠孝、我甚哀汝ーの「哀」の一字が、テキスト ( 明代の毛氏校訂「晋・汲 古閣」刊本 ) によっては「衰」となっている箇所ーーの指摘だけであった。おそらく東夷伝倭人条に ついての関心度が低かったことも無縁ではないだろう。ようやく近年、新しい呉金華の『三国志校 詁』 ( 一九九〇年 ) のような専著が出て、倭人伝への言及もふえた。盧弼の『集解』や陳楽素の『「魏 志・倭人伝ー研究』などを引いて、五カ所について校訂しているが、「景初二年ーは採り上げていな そのなかで、のルは積極的に「景初一一年のままでよい」とする理由をくわしく挙げていゑ沈 仁安の『倭国と東アジア』の紹介によると、そのなかで、中国の張声振は積極的に「景初二年ーと 主張する。沈仁安の引用 ( 『倭国と東アジア』 ) から、重要な論点をあげると、景初三年の場合、すで に司馬はライ。ハルの曹爽によって政権の中心からはずされた後で、これではせつかくの卑弥呼の遣 使という「司馬懿の功労を曹爽の功労簿に記入したに等しい」。司馬懿の功業を顕彰すべき陳寿が、 こんな大きなミスを犯すはずがない 、という。沈仁安もつけ加えていう。景初二年六月司馬懿の軍宮 勢が遼東に到着する直前 ( 三月 ) に、明帝のリーダーシップのもと、楽浪・帯方の二郡は公孫淵から ) の 奪還された。卑弥呼はただちに遣使、六月にー着したと考えられる。倭女王の国際情勢〈の迅速な ろひっ

5. 邪馬台国論争

伐論者も出たであらうと考へても必ずしも無稽の空想ではなく、又その反対論者も出たであらうこと も十分首肯出来ることである」としたうえで、次のように推測した。 ( 反対派の帯方郡の役人たちは、報告書を魏の朝廷に提出するさい ) ことさらに実際の里程を延長 し、倭国を帯方郡より遥かに遠方の海中に置き、暗々裡に倭国討征は非常なる大事業にして到底 実行し得ないものであることを中央政府に知悉せしめ、倭国征討論を封じようとしたであらうこ また とも亦察するに難くない。魏志倭人伝の里数が余りにも過大であることの理由はかくの如く倭国 討伐を阻止せんとした帯方郡の役人によって故意に誇張されたがためであると見るのが一番穏当 であらう。 当時の日本人が邪馬台国に至る日程を誇張して魏使に教えたのも、魏の朝鮮半島南下ーー侵入を恐 ひなもり れたためで、対馬をはじめ九州西北の要地に「卑奴母離 ( 防人 ) 」が置かれたのも、これに対抗する 目的だった。「場合によっては呉と連繋して魏を謀り得る可能性のあることを暗示し、魏人をして思 れんこう ひを倭国征伐より絶たしめんと企てたであらう」。こうして、魏使は「倭国は遠く南方海上に連亘す る島嶼国であると考へた」。彼らが「計其道里、当在会稽東冶之東」と説いたのは、この地理観のゆ えである、と論じた。 白崎は、これらをすべて問題にならぬ珍説として退けたうえ、韓国の面積が「方四千里」と誇大に 報告されたため、「帯方郡・狗邪韓国の距離も七千里とせざるを得なかった。以後『倭人伝』の里程 102

6. 邪馬台国論争

したがって、「方位、里数、戸数は『親魏倭王』の副産物だからまったく信用してはいけないーと 力説する。 過大な里数や戸数は、一一三九年に倭の女王卑弥呼に『親魏倭王』の称号を贈ったときの、いわ : こうして『親魏倭王』の副産物として、偉大な邪馬台国という幻影が生ま ば建前である。 れ、おかげで現在に至るまで、邪馬台国の位置と卑弥呼の正体について、わが国の古代史に関心 を持つ人々すべてが悩まされる結果になった。しかしそれはすべて、三世紀の中国の内政上の都 合によるフィクションに過ぎなかったのである。 ( 中公新書『倭国』 ) 要するに、「司馬をもちあげるためのでっちあげである」というのである ( 前掲論文 ) 。 細々とした考証から超越して、古代東アジアの状況と後代の記録・伝承を考えて、「邪馬台国も、 瀬戸内海の東端の、畿内のどこかと考えるのが穏当であろうーとする ( 同書 ) 。ただし、最近の岡田 の『日本史の誕生』 ( 一九九五年 ) によると、邪馬台国は本州西端の山口あたりに求められると説く。 同時に、江南の呉政権に対する牽制の意味もあった。『魏志倭人伝』の地理観では、邪馬台国は会 稽東冶の東にあって、魏と倭が呉の腹背から挟撃する位置関係にあゑこれを喧伝して、呉政権を牽 制しようとした、というもので、白鳥庫吉の考えに代表される。 迷 白鳥の「卑弥呼問題の解決ーによると、魏の明帝が公孫氏討伐のため、司馬懿率いる四万の軍勢をの 遼東に派遣しようとしたとき、魏の内部は積極派と消極派に分かれた。「されば一歩を進めて倭国討卑 101

7. 邪馬台国論争

まさに河内、その一画に中国銭貨の集中現象が読みとれるのである。 / 貨泉は、楽浪郡と筑紫、 河内の三極地と、間を結ぶ航路港津の存在を雄弁に語りあげるー ( 「〈貨泉〉の語る世界にー『発掘が語る 日本史 4 』一九八五 ) と。 青銅器の分布をみても、銅鐸の文化圏と銅剣・銅矛の文化圏が大きく対立する。つまり、「貨泉」 と「青銅器ーにみられる二極構造は、『魏志倭人伝』に描かれた、倭国の王都「邪馬台国」と、大率 の治所「伊都国ーの二極構造を反映したのだ。こうして、「貨泉の道」は「邪馬台国への大道ーと重 なる。「邪馬台国の地が、〈大和〉に求められることは必定である」。 「貨泉」は、大阪湾から大和川をさかの・ほって、河内平野のムラからムラへ運ばれたにちがいない 力、いかんせん、筑紫と河内をつなぐ間が、いわばミッシング・リンク ( 失われた環 ) で空白に近か った。「いずれ二極の間から貨泉が出るーと予言したものの、一部の反発はつよかった。 ところが、一九九〇年、岡山市の高塚遺跡 ( 弥生後期Ⅱ上東式土器期 ) から、一度に二十五枚もの 「貨泉」が現れた。もう一つの重要な弥生文化圏ー吉備地方の存在を浮かびあがらせる発見だった。 そして、水野の予言どおり、〈貨泉の道〉が完結した。はたして、一世紀の〈貨泉の道〉は、三世紀 の〈邪馬台国への大道〉なのだろうか。 「絹と錦の道」 かとぎぬ 『倭人伝』によると、倭国では「養蚕・紡績をし、絹織物 ( 慊 ) を出すーとみえ、卑弥呼と台与の 献上品に「絳青の慊」や「帛 ( 白いうすぎぬ ) 」「倭錦「異文雑錦、が含まれていた。こうしたこ 280

8. 邪馬台国論争

倭国は古の倭奴国なり。京師を去ること、一万四千里、新羅東南の大海の中にあり、山島に依 って居る。 冒頭のこの記事は、『魏志倭人伝』によりつつ、当代の新しい情勢を踏まえて、多少の手直しが施 されている。一つは、倭国 ( 王権の所在地・大和 ) との距離が、一万二〇〇〇里から一万四〇〇〇里 に変わった点。いま一つは、「帯方郡の東南大海」から、新興の国家・新羅の東南大海に改められた 点。 問題になるのは前者の方で、 帯方郡ー邪馬台国間の距離一万二〇〇〇余里 京師・長安ー倭国間の距離一万四〇〇〇余里 の変化である。 この二〇〇〇里の増長が何によるものか、ほ・ほ明らかであろう。『魏志倭人伝』いらいの、旧帯方 郡から邪馬台国までの距離一万二〇〇〇余里によりつつ、旧帯方郡から都・長安までの距離を新たに 加算したものにちがいない。もっとも、洛陽から遼東の襄平までの距離四〇〇〇里と、京師・長安ー宮 の 東都・洛陽の距離一〇〇〇里をプラスすると、一万七〇〇〇余里になるはずだ。 呼 一見矛盾するようだが、そうではない。〕代の尺 ( 一里約五六〇メートル ) で換算すると、一万四卑

9. 邪馬台国論争

桑、扶木とよぶ。高さは万丈、枝の広がりは三千里。天鶏と烏 ( 鶏 ) が樹上にいる。太陽ははじめ十 じようが 個 ( 十日 ) あって、烏の背に乗って扶桑に上った。朝一番、天鶏が時を告げると、母・常娥の御する 馬車に乗って天をめぐった。 ところが、あるとき、十個の太陽たちは母のすきをみて、一度に空にあがった。日照りがつづく ぎよう 民百姓が困る。そこで、聖帝・尭は弓の名人・に命じて、十日のうち、九日を射落とさせた。それ いらい、天に二日なく、一日になった。「射日神話」である。 扶桑国は、『梁書』によると、東海にあった。中国の東方海上には日本しかないから、六世紀の扶 桑国は日本と考えられる。じじつ、日本は七世紀に入ると、倭国か本へ名乗りを変えるが、その くとうじよ 理由が「倭国、日辺にあればなり」 ( 『旧唐書』倭国日本伝 ) とあって、太陽が上る扶桑を、はっきり 意識していたことが分かる。 倭国と扶桑国 日本の国号は、 ひいづるところ 倭国 ( 五世紀以前 ) ↓日出処 ( 六〇〇年 ) ↓日本 ( 七世紀後半、または七〇二年 ) と変遷するが、扶桑をはさんでみると、 倭国↓扶桑国↓日出処↓日本 となる。「扶桑」をヤマト言葉で言い換えたのが「日出処」、それをさらに二語で表したのが「日本 ( = ッポン、日の本 ) 」であって、「日本。国号誕生の筋道がスムーズに理解できる。また、平安時代以 しやじっ

10. 邪馬台国論争

けれはいかにみごとな遺跡が出現しても、たとえば「吉野ケ里遺跡」のような古地名を冠するだけ で、それが邪馬台国だとか、伊都国だとか、歴史的な国名に比定するすべはないのだから。 後に記すとおり、『倭人伝』の信憑性はまちまちだが、三世紀の倭国の状況を知る唯一の史料であ ることには、変わりない。そして、「倭人伝ーがなければ、そもそも「邪馬台国問題」が存在しない ことも、事実である。考古学の立場から邪馬台国畿内説を強固に支えた小林行雄でさえ、「邪馬台国 の所在地を明らかにするのは古代史の仕事だ」 ( 「邪馬台国の所在論についてー一九五一 l) と述べたの は、その意味たろう。 『倭人伝』の情報が不足しているーーというのは、数理歴史学の安本美典が早くから説くように、オ とえば、未知数が二つあるのに、 二元方程式が一つしか与えられていないようなものだ。したがっ て、全国各地はおろか、東南アジアにさえ比定地がみつかるという、カオス状態に落ちこんでいた。 東洋史家の橋本増吉も、「もし魏志に記載されたる方向里程にして信ずるに足るものあらんか、此 の問題たる、多言を要せずして、直ちに解決せらるべし。然れども其の記載の方位必ずしも信ずるに 足らず。而して其の里程また余りに長きに失す。是れ此の問題の解決をして、甚だ困難ならしむる所 以なりーと嘆じている。 ( 「耶馬臺国及び卑弥呼に就下一九一一 ) 。 ナンセンス 迷 もっとも、『魏志』の記述そのものを根本から疑う人もあゑ『倭人伝』の道程記事は、政治的な虚和 おかだひでひろ 構とみる立場である。東洋史家の岡田英弘 ( 東京外大名誉教授 ) がその代表である。岡田の近著『日卑乃