いからであって、 : : : 邪馬臺 ( ヤマと ) は山門 ( ヤマト ) であらうといふ説をきいたならば、驚くで あらう」と詰め寄った。 「上代特殊仮名遣」は、本居宣長とその弟子・石塚龍麿が発見し、一九一七年、橋本進吉が再発見し た、国語学史上の金字塔だが、大森はこの点をついて、次のように説破した。 今や、本居の発見した上代特殊仮名遣ひの法則は、本居の説きだした邪馬臺九州説の中核を粉砕 たて することとなった。おのれの鍛へた矛をもっておのれの作った盾を突き破る結果になったともい ふべきであらうが、 : おのれの矛を鍛へしめたこの先達の偉大さを思はずにはをれないのであ る。本居の学問の精神は「吾に従ひて物学ばむともがらも、わが後に又よき考への出で来らむに なず いたず は、必ずわが説にな拘みそ、道を思はで徒らに我を貴とまむは、わが心にあらざるそかし , とい ふ、かの玉勝間の一文に明らかだからである。 言語学者の反論 勝負あったかにみえたが、これにいち早く反論したのが、古代史家の田中卓 ( 元皇学館大学長 ) で ある。「邪馬臺国の所在と上代特殊仮名遣」 ( 一九五五 ) で五カ条にわた 0 て疑問を呈した。その後、 の 書き下ろされた新書版『海に書かれた邪馬台国』 ( 一九七五 ) によってみると、 呼 ①三世紀後半の『魏志』のころと、七ー八世紀に成立した記紀・万葉集のころと、前後四百年余の卑 間、音韻が少しも変わらなかったか。 たかし
しい。その証拠に「菊ざし」というものが残っていて、白鳥のいうように、里程の標準に根拠がない わけではない、と説いた。そして、一万二〇〇〇里は帯方郡 ( 厳密にはそれより北の楽浪郡境 ) から末 盧までの距離で、邪馬台国は不弥国から「水行三十日と陸行一月」の大和にある、とした ( 「魏志倭人 伝の道里について」『上代日支交通史の研究』一九四一一 l) 。 安本もまた、各国間の地図上の距離と、『倭人伝』記載の距離を比較して、「一里約九三メートル ( 九〇 5 一〇〇メートル ) 」の短里を導き、甘木説に到達した。安本は『魏志東夷伝』の世界にのみ適 用できる単位とした。地域的短里説である ( 『新考・邪馬台国への道』一九七七ほか ) 。 在野の一一一口語復原史学者・加治木義博も、早くから「一里約五五メートルーの短里説と大隅・姫木説 を主張してぎた ( 『黄金の女王卑弥呼』一九九一 l) 。 ④古代人の旅行法ーー謝銘仁 中国古代の一日の旅程は、『唐六典』によると、陸行歩で五〇里、水行四五里。秦漢いらい不変の 古制という。これで計算すると、伊都国 ( もしくは不弥国 ) から残りの一五〇〇里 ( もしくは一三〇〇 余里 ) は、三十日 ( もしくは二十六日 ) の日程になる。「陸行すれば一月ーと読むなら、これにびった り符合するわけで、畿内大和説に有利になろう。 また、魏の曹操は、遼東遠征のさい、「四千里の行軍に百日を要するーと見積もった。一日四〇里 の計算である。 これに対して、謝銘仁 ( 『邪馬台国中国人はこう読む』一九八三年 ) や関和彦 ( 『邪馬台国論』一九八
の前に眺めて画いても、ここまで酷似することはあるまい。現代なら、立体的な屋根を平面的に画け ば、各人各様の表現が生まれよう。「屋根の表現はこうするものだ」という社会的な暗黙の約束にも とづいて、はじめてこれほど似た表現が生まれるのではないか。 佐原もいうように、「弥生人はだれでも絵を描いたわけではない。それは教育のたまものだ」とす いわば ると、広瀬の説くとおり、渦巻文つきの楼閣の、建て方や画き方を伝授する中国系渡来人 〈弥生のお雇い外人〉がいたことを、想定させる。それとも、唐古・鍵の絵は〈空中の楼閣〉で、か って中国の都で楼閣を仰ぎみた者が、四川省出土と同じような「楼閣図ーの手本をもとに、壺に写し たのか。そのいずれかと考えたい。 「実景」「再現ーのいずれにしても、渦巻文のついた楼閣は、おそらく東王父ら神仙の住む天上世界 へのゲート 「天門」だろう。物見櫓の類ではない。そして、渦巻文が唐古・鍵集落の独占物とす ると、「天門」にかかわる神仙思想のセンターがあったことを想定させる。小さな土器のかけらにす ぎないけれど、広大な環濠都市と重ねると、その意味するものは、きわめて大きい。先にみたとお 、前方後円墳の宗教思想ともかかわってこよう。 渦巻文については近年、関心が高まっている。いち早く千田稔 ( 国際日本文化研究センター教授 ) が 『うずまきは語る』 ( 一九九一 ) を著したし、大和が長編「縄文と螺旋の考古学」 ( 東アジアの古代文化 ) を連載中で、在野の研究家・大谷幸市も『古代渦巻文の謎』 ( 一九九五 ) を問うた。 ドイツの神話学者・ケレーニイ ( 『迷宮と神話』一九七三・邦訳 ) が説くように、渦巻ー迷路文はの リトアニアの女性考古学者・ギイフタス ( 『古ヨーロツ。ハの神々』一九八卑 人類の歴史とともに古い
克己の有力な反論が出、それをきっかけに六母音 ( 服部四郎 ) ・七母音説 ( 森博達 ) が現れて、四つ 巴の論争ーーいわゆる「上代特殊仮名遣論争ーがつづいている ( 『古代日本語母音論』一九九五 ) 。 浜田は、先の論文で、『倭人伝』に現れる倭人語の一々について、「上代特殊仮名遣」の原則が貫徹 しているかどうかを、こまかく検証した。倭人語をどう読んで上代語にあてるかが、まず問題だが、 穏当な読みにしたがって調べた結果、「中国人の手になった資料に於いても略々書きわけられて居り、 例外と考ふべきものは極めて稀であることが明らかとなったであらうーと説いた。 わずかな例外は「卑奴母離」の一語。ヒナモリと読んで、上代語の「鄙 ( 夷 ) 守ーにあてると、 「母離ーのモは乙類だが、「守」のモは甲類で、甲乙が合わない。その後、甲乙を峻別する人は、した がって「卑奴母離」は上代語の「鄙守ーではないとするのだが、浜田は「母」が甲類の可能性も残る とい一つ。 もっとも注目された点は、「邪馬臺ーの「臺ーがト乙類の仮名であるのに対して、大和Ⅱ夜麻登・ 夜摩苔・也麻等などの登・苔・等はト乙類、山筑後国「山門」の門はト甲類であることを、明らかに したことだ。 レ J 、つ . もく 禁欲的な浜田はそこで止め、邪馬台国の所在地論争に踏みこまなかったが、これに瞠目した大森志 郎が早速、邪馬台国論に援用した。「邪馬臺を山門郡あるいは山門郷にあてることは、上代の日本語 の音韻の種類とその表記法に照らして、成立しないことになる。いな、成立しないといふ消極的な事 柄ではなくして、さういふ擬定は積極的に拒否され、排除されるのである」 ( 『魏志倭人伝の研究』一九 五五 ) 。そして、日本書紀の編者たちが「邪馬臺国は大和であると認めたのは、音韻の上からも正し 288
国方言では音であるのに対して、三世紀の倭人語では音であることから、邪馬台国は筑紫方言圏 である、と推論した ( 『邪馬台国の言語』一九七九 ) 。 中国語音韻史の尾崎雄二郎 ( 京大名誉教授 ) もまた、卑弥呼はヒムカであって、日向と結びつくと いう。漢語音では「呼」の頭子音が系で、のちの畿内の日本語の音韻 ( ( 行子音はで、音はな かった ) とは異なる点が、日向に向かわせる理由だ。つまり、倭国の人びとは、のちの上代畿内語に は、直接にはつながらない言語の使い手たちではなかったか、とみる。邪馬臺の漢語音はヤマドだ が、八世紀の日本語ヤマトの三世紀形とみて差し支えない。ただし、邪馬臺は畿内大和の政権とは虹 縁で、他所から ( 奈良盆地に ) 入って来て王朝を建てた勢力が、『三国志』にしたがって自らをヤマト と名乗った、と説く ( 「邪馬臺国について」一九七〇 ) 。 大野透は、この「呼ー ( 卑弥呼 ) が「子」 ( 日御子 ) の音訳とみられることから、この字を選んだの は日本人ではないか、と考えた。中国人なら、おそらく絶対に用いないからだ ( 『万葉仮名の研究』 ) 。 やはり中国語音韻学の森博達によると、倭人語には魏晋時代に音訳されたものもあるので、後漢以 前の上古音で統一して読むことはできない 、という。魏晋時代に音訳された旁国などから、倭人語を 復元すると、上代日本語とは音韻の特徴がたいへん異なゑ上代語では「オ列甲類ーの音節は少なく ーセント ) 、「オ列乙類」が圧倒的に多い ( 八四。 ( ーセント ) のに、倭人語では二七。 ( ーセン後 トに上る。また、上代語では 0ö0ö ( o は子音、 5 はオ甲類 ) という音節結合はないのに、倭人語呼 弥 卑 では五つ見つかる。「倭人語には母音調和がより整ったかたちで存在していたことを示すのだろうか と重要な問題点を指摘している ( 「〈倭人伝〉の地名と人名」『倭人の登場ーー日本の古代 1 』一九八終 、 0 、
倭人語 『倭人伝』のなかには、当時の倭人の言葉ーー国名・官名・人名ーー、を漢字音で写した、いわゆる 「倭人語」が多く含まれる。その数は、異なり字数で六四字種、延べ字数で一四六字にの・ほる。少な いことは事実だが、その後も、これだけまとまった古代日本語の資料はないのだから、まことに貴重 である。国語学から真っ先に取り組んだのが、浜田敦 ( 現・京大名誉教授 ) の「魏志倭人伝などに所 見の国語語彙に関する二三の問題ー ( 一九五一一年 ) だった。 周知のように、七ー八世紀の古典では「上代特殊仮名遣ーが厳密に守られている。 ( イ列音 ) キヒ ミ / ( 工列音 ) ケへメ / ( オ列音 ) コソトノモョロの十三音節とその濁音が、もう一通りあった。甲 類・乙類と呼ぶが、万葉時代には都合八七の音節があって、ちょうど、終戦直後まで私たちが「い」 と「ゐ」、「お」と「を」などの書き分け ( 歴史的仮名遣 ) をしていたのと同じように、万葉びともケ ース・バイ・ケースで使い分けて誤らなかった。たとえば、神の場合は「加微」、上の場合は「加美。 というふうに表記して、「微ーと「美」をたがいに融通・混用することはなかった。通説では、甲乙呼 弥 卑 のちがいは母音のちがいによるとみなす。つまり、上代語では、現在の五母音。のほかに、 もう三母音 ! 】。があったという。ただし、近年、八母音説に対して、「五母音だった」とする松本終 2 邪馬台の国語学
と、だれもが目をみはった。 える楼閣を見て、写実的に画いたものだろうか 調査関係者をはじめ、多数の意見は、「現実の光景を描写した」もの、という。古代人の絵画表現 にもくわしい佐原真は、銅鐸絵画と比較して、弥生人の絵画表現は写実主義で、眼前にないものを描 く空想画はまだなかった、と説いた。 考古学と歴史の統合をめざす辰巳和弘 ( 同志社大学 ) は、『高殿の古代学』 ( 一九九〇 ) で、古代のタ ろくめい カドノは大王や首長が豊作を祈る神事ーーー〈国見〉や〈鹿鳴聴聞〉などーーの舞台であることを明ら かにしたが、発見の情報に接すると、唐古・鍵遺跡の中枢部には、すでに二ー三層の「楼閣建築が建 てられていたとみるべきであろう。まさにタカドノであり、同遺跡とその周辺を支配した首長が祭儀 を実修した建物と考えられる」と強調した ( 『埴輪と絵画の古代学』一九九一 I)O その一方で、少数ながら、「中国の光景を再現した」ものとする見方もあった。後漢の都・洛陽で 見てきた壮麗な楼閣建築を、記憶にもとづいて再現的に画いた、というわけだ。 国見の楼閣 この「楼閣図」は一世紀前半の作というから、目前の「実景」にせよ、異国の「記憶」にせよ、邪 馬台国時代の状況を直接、反映したものではないけれど、しかし、その時期に早くもーーしかも、の ちのヤマト王権の発祥地にーー漢文明が浸透していたという事実は、きわめて重大な意味をもつ。毎 日新聞の「日曜論争」面 ( 九二年九月六日号 ) でも、北部九州説の大和岩雄 ( 大和書房会長 ) と大和説の の広瀬和雄 ( 大阪府教育委員会 ) に議論してもらった。その要点を記しておこう。
しようき で『御覧魏志』 ( 『太平御覧』所引『魏志』、十世紀 ) があり「 , , ( 通行の紹熙本『魏志』 ( 十二世紀 ) がつづ ぎよらんノ く。さらに、 尸は、ちゃん と「邪馬臺国」になっている。 ただし、事が事をけに、このテキストの系統・順序については、 異論がある。 ー六二年刊 熙 ( 一一九〇 5 九四 今日伝わるテキストは、宋代に印行されオ紹興 ( 一 年刊 ) がある。ここでは、ともに「邪馬臺国」を「邪、壹国としている。しかし、内藤湖南らが近 代の邪馬台国論争の火ぶたを切っていらい 湖南は論文「卑弥呼考」の冒頭で、詳細なテキスト クリティーク ( 原典批判と校訂 ) をおこなった 、『後漢書』倭伝をはじめ『梁書』『北史』『隋書』 まで「鴉を ( 耶馬臺国 ) 」とあるのに従 0 て、「邪馬壹国」は「邪馬臺国、 ( つまり「邪馬台国」 ) の 誤写とされ、疑う人はほとんどなかった。 これにはじめて異論をはさんだのか橋川時雄 ( 「邪馬・壹ー臺のよみかた」一九六〇年 ) であり、根本 的な批判を展開したのが古田武彦 ( 「邪馬壹国」一九六九年 ) である。とくに、古田は「邪馬壹国ーを 公理として、その後、いわゆる邪馬壹国論から九州王朝論、東北王朝論まで多元的な列島史観を構想 し、膨大な著作を著した。ュークリッド幾何学と非ュークリッド幾何学の対照になそらえれば、古田 の「邪馬壹」古代学は、通説的・伝統的な「邪馬臺」古代学に対して、「非邪馬臺」古代学ともいえ ようか。発表とともに、多くの古代史家を動揺させ、「邪馬壹国ーに傾斜した人も少なくない。古田 の問題提起をきっかけに、『魏志』のテキスト研究が進み、短里か長里かをめぐって精緻な論争が巻 き起こった。
く、鏡の形がくずれる現象 ) 」によるものとして、強く反対した ( 『邪馬台国論争』 ) 。 菅谷文則は、島根県・岡田山一号墳から、六世紀代の土器とともに、漢代の内行花文鏡が出土した 例などをあげて、「伝世鏡論」が成り立たないとする ( 『鏡と日本人』 ) 。 ただし、小林自身、一部 では中期古墳まで伝世がつづいたことを認めている。 このように、国内での「伝世、が否定される一方、中国内部での伝世や、晋代の「踏み返し鏡」の 存在が注意されるようになった。これに対して、岡村秀典 ( 京大教授 ) は最近、「伝世、があったこと を別の角度から主張している ( 後出 ) 。 「同笵鏡論」は、鏡が上から下へ配布されたことを当然の前提としているが、これにも反証をあげる 人が出た。古代史家の横田健一 ( 関西大学名誉教授 ) は、記紀の説話・伝承を検証したうえ、「地方豪 族が天皇に対して帰服のしるしに鏡その他の宝を奉献したり、天皇が地方豪族から神宝を収取するこ とはあっても、逆に、大和朝廷から地方豪族に鏡を分与した記事がほとんどない」と、制度的・全面 すじん じんぐう かしま ぬさ 的な配布説に疑問を投げかけた。ただし、崇神天皇や神功皇后らが香島社や地方神に幣を奉ったとき に、鏡も捧げたという、日本書紀・風土記の説話を紹介した。さらに、「中国古代の周の帝王が諸侯 しようていいき に鐘鼎彜器の類を分与した」ような形がなかったともいえない、 として、小林説の可能性を探ってい る ( 「日本古代における鏡の移動」一九五八年、のち『日本古代神話と氏族伝承』一九八二年所収 ) 。 また、藪田嘉一郎は、「景初三年。鏡の年号と銘文に疑念をもち、年号は後代になって、著名な年 号を借りたもの、銘文についても、「諂」のような特異な文字を含むので、偽銘帯に近いとした ( 「和 泉黄金塚出土魏景初三年銘鏡考」『日本上古史研究』礙号、一九六一 I)O 780
これを説明するために編み出された卓抜なアイデアが、周知のように「伝世ーだった。しかし、この 枠組みの変換ー・ー古墳築造開始期の前倒しーーを求める石野によると、鏡の一律的な伝世は想定しな ~ 、と、もよい 一部に伝世鏡はありうるが、歴史の流れはほ・ほ一世代間内での副葬であろう。そのように考え れば、一九〇年頃から二四八、二四九年頃の卑弥呼治世の間に、新宗教の一つのシンポルとして 前方後円墳が築造されたとする ( 石野の ) 試論と矛盾しない。おそらく、今、進められつつある 樹輪年代とも一致しそうである ( 前掲論文 ) 。 このように、ダイナミックに古墳の年代観を引き上げながら、椿井大塚山古墳については、逆に、 ( 土器型式が布留 2 式だから ) 四世紀中葉から後半の築造に下がるという。したがって、椿井大塚山 に多数副葬された三角縁神獣鏡と、同笵鏡の分有関係から復元された仮説は、「四世紀の前半の史実 を反映している可能性はあっても、三世紀にさかの・ほらせることは困難であろう。 : ・三角縁神獣鏡 は、三世紀史にとっては〃後のまつり〃であり、四世紀史を復元する上の重要な資料なのである」 と、明言する ( 「一「三世紀の前方後円墳」東アジアの古代文化号、一九九五 ) 。 もっとも、菅谷文則の方は、古墳時代の開幕を百年繰り上げよ、という点では同じだが、三角縁神 獣鏡の年代観はまったく異なる。日本に渡ってきた「呉のエ人ーと、魏の密使がともなってきた「魏の のエ人ーのジョイントによって、作られたことさえ想定する。そして、年号どおり、リアルタイムで卑