古墳 - みる会図書館


検索対象: 邪馬台国論争
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1. 邪馬台国論争

作られ、ほとんど保管・伝世されることなくリアルタイムで古墳に副葬された、とみる。魏の青龍三 年鏡とともに、三角縁神獣鏡もまた、三世紀史の重要な証人とみる ( 「青龍三年鏡について」東アジア の古代文化号、一九九四 ) 。 副葬品としての三角縁神獣鏡 古墳の始まりの標識となったのが、やはり三角縁神獣鏡である。漢鏡の編年をすすめる岡村秀典 は、「問題の焦点は三角縁神獣鏡であり、現状では三角縁神獣鏡の副葬の始まりは古墳時代の始まり とほとんど同義になっているほどである。 ・ : 景初三年 ( 二三九 ) や正始元年 ( 二四〇 ) の紀年鏡が ・ : 魏から卑弥呼に贈られた鏡とすれば、邪馬台国の使いが帰国した二四〇年に古墳時代の上限をお くことがまず可能になった」という ( 「中国鏡による弥生時代実年代論」「考古学ジャーナル」臨時増刊三 二五号、一九九〇年 ) 。 白石は古墳の発生を三世紀後半とみるが、さらに進んで、一部の前期古墳は「卑弥呼の没年頃まで 溯る可能性」を否定できない、と推定する。 その根拠は、三角縁神獣鏡の神獣像の表現からみ て、製作集団が三系統あって、新古の差が認められることだ ( 岸本直文「神獣像表現からみた三角縁神 獣鏡」「椿井大塚山古墳と三角縁神獣鏡』 ) 。椿井大塚山をはじめ出現期の古墳から出土した三角縁神獣 鏡は、新しい段階のものを含んでいない。白石は、三角縁神獣鏡のうち、古い段階の鏡を卑弥呼時代 のもの、新しい段階の鏡を壱与 ( 台与 ) 時代のものと対応させたうえ、「壱与時代のものをほとんど含 、というわけだ ( 『日本のあけ・ほ まない出現期古墳の年代は、卑弥呼の没年頃まで溯るーかもしれない 2 ) 6

2. 邪馬台国論争

おいて奏す。 : : : 夏の日至 ( 夏至 ) 、沢中の方丘において奏すーという文章ーーを根拠にしたもの。「壇を為るこ と三成」も、「漢書』から「隋書』にいたる史書にみえるところ。経学的理論の投影がある、という。そして、 円丘は三成、方丘は二成が中国の郊祀礼の伝統であり、魏都・洛陽に使いした倭人が「南北両郊の郊祀を合祀し た」という言葉を、形状として理解し ( 誤伝・誤聞し ) 、円丘と方丘とをくつつけたのが、「前方後円」墳である と説いている。 君平の古典的教養がなににもとづくか、また、君平の前方後円墳観がいかなるものであったかを明らかにした 点、まことに貴重な貢献である。たしかに、 こうした円丘・方丘連結の可能性もあるかもしれない。しかし、 「前方後円 , の形状に関するかぎり、都出比呂志が「墳丘の型式ー ( 『古墳時代の研究』第 7 巻、一九九二年 ) で 明確に否定するように、「前方後円墳は方形と円形の組み合わせではない」のであって、そもそも「方形と円形 を組み合わせた〈前方後円〉墳」など、存在しない。したがって、加地や重松のように、「前方後円ー形の冠や しかがであろうか。 木主などに、前方後円墳のルーツを求めることは、 ( 注 5 ) 都出比呂志「日本古代の国家形成論序説ーー前方後円墳体制の提唱」 ( 日本史研究三四三号、一九九一 ( 注 6 ) 模式図は白石太一郎ほか「箸墓古墳の再検討」 ( 『国立歴史民俗博物館研究報告』第 3 集、一九八四年 ) によつ。 ( 注 7 ) 上田宏範『前方後円墳』 ( 一九六九年 ) 、三品彰英「前方後円墳」 ( 「三品彰英論文集』第 5 巻 ( 一九七一一 年 ) 、原田大六「卑弥呼の墓』 ( 一九七七年 ) ( 注 8 ) 斎藤忠「日本古墳の研究』 ( 一九六三年 ) ( 注 9 ) 小南一郎「壺型の宇宙」東方学報礙冊、一九八九 ) 、「前方後円墳は蓬莱山だった」 ( 「毎日新聞」一九八 六年一月一日号特集 ) 、「前方後円墳と蓬莱山ーー壺のシンポリズム ー ( 「東アジアの古代文化」号、一九八 七年 ) 、『発掘の迷路を行く』下巻 ( 一九九一年 ) など。 248

3. 邪馬台国論争

がここに創造されたのである ( 「前方後円墳の誕生」『古代を考える古墳』一九八九 ) 。 そして、この転換にあたり、中国の宗教的イデオロギーが影響を与えたとみる。さしあたり、三段 築成のルーツとして、たとえば、古代中国の帝王の「郊祀」をおこなう円丘や、西王母が住むという 宗教的伝説上の「崑崙山」をあげる。いずれも「三成」になっているからだ。 「壺型の蓬莱山」のコピー ともに説得力のある意見だが、そもそも、前方後円墳は、字義どおり「円丘」と「方丘」の組み合 わせと見ていいのだろうか。前方後円墳とい えかがみ いながら、柄鏡型の古墳を除けば、決して円 丘と方丘の組み合わせになってはいないの だ。いつまでも蒲生君平の巧みな「前方後 なず くびき 円のネ ーミングに泥み、「望文成義ーの軛 にとらわれていては、おそらく謎は永久に解 実 けまい。前方後円墳の起源に迫るには、発生 墳 古期の古墳の形を虚心に見つめ、その語るとこ の のろに耳を傾けなければならない。 呼 弥 9 ' 、壺近藤義郎によると、発生期の古墳は、前方卑お

4. 邪馬台国論争

長寿と富貴栄達、子孫繁盛が約束された、金殿玉楼の蓬薹山へ生まれ変わるのだ、と。 そこで、「壺型の蓬莱山ーを象って、この世に「壺型の古墳」っまり前方後円墳が創りだされた、 と考えられる。 卑弥呼が死ぬと、「冢」に葬られた。その「冢ーは、「壺型の蓬莱山ーたる前方後円墳でなければな らない。 こうして、ようやく、失われた卑弥呼の〈迷宮〉は、三世紀半ばの「壺型の前方後円墳」の あるところに求められるようになった。はたして、三世紀半ばにさかの・ほる前方後円墳が存在するの か、あるとすれば、それは大和か、北部九州か。 ( 注 1 ) 西嶋定生「古墳と大和政権」 ( 岡山史学川号、一九六一年、のち「中国古代国家と東アジア世界』一九 八三年、東京大学出版会に所収 ) 。同「古墳出現の国際的契機ー ( 河出書房版「日本の考古学』Ⅳ巻月報、一九六 六年 ) でも簡潔にまとめられている。 ( 注 2 ) 近藤義郎「前方後円墳の時代』 ( 一九八三年、岩波書店 ) 、水野正好「前方後円墳の論理」 ( 東アジアの 古代文化号、一九八三年 ) 、同「生者と死者の織りなす古代ー ( 金関恕編「宇宙への祈り』一九八六年 ) ( 注 3 ) 山尾幸久「日本古代王権形成史論』一九八三年 さんせい ( 注 4 ) 『山陵志』には「その制たるや、必ず宮車を象り、前方後円ならしめ、壇を為ること三成、かっ環らす に溝を以てす」とあって、陵墓が前方後円形、三成 ( 三段 ) の多いことを指摘している。 加地伸行「前方後円墳に投影された経学的意味」『中国思想からみた日本思想史研究』一九八五年 ) によると、 よふくし 『周礼』や『後漢書』輿服志などにみえる、「天円地方」の観念と「前方後円 . の言葉が、わが古墳の形状を表現墓 するさい、ヒントになったのかもしれない 、という。また、「環らすに溝を以てすーという表現も、「漢書』武帝呼 弥 紀などにみえる「沢中の方丘ー つまり、円丘祀天・方丘祭地の郊祀礼は「冬の日至 ( 冬至 ) 、地上の円丘に 卑 2 しゆらい だん めぐ

5. 邪馬台国論争

前方後円形の墳丘、直径一五〇メートルの巨大な後円部、五段からなる段築、墳丘に樹立された吉備 型の特殊器台形埴輪・壺形埴輪と茶臼山型の二重ロ縁壺。これらが最古の前方後円墳のメルクマール とみなされてきた。 もっとも、陵墓に指定されていることもあって、その築造年代・周濠の有無 など、基礎的なデータも不明のままだった。 ところが、箸墓以前に纒向石塚古墳ーー寺沢薫のいう「纒向型前方後円墳ーーーばかりか、一一世紀 末の楯築墳丘墓のような大型墓や、「黒田古墳ー ( 京都府園部町 ) のような弥生時代の「前方後円形墳 丘墓ーがあったことが、明らかになった。時はまだ、弥生時代後期。例の古今集の巻頭歌ーー「年の ひととせこぞ ではないけれど、弥生時代後期に古墳 内に春は来にけり一年を去年とやいはむ今年とやいはむ」 ( 状の墳丘墓 ) が出現したわけである。相変わらず弥生時代といっていいものか、繰り上げて古墳時代 とよべばいいものか、ふたたびパラダイムの変換が求められるに至った。 もっとも過激な変換論者が、橿原考古学派の石野博信 ( 徳島文理大学教授 ) と菅谷文則 ( 滋賀県立大 学教授 ) だ。石野は、最近の研究・調査を集大成した『古墳時代の研究』全十二巻の総論 ( 第一巻 一九九三 ) で、「古墳時代の象徴である前方後円墳と共通の墳丘墓が前代の弥生時代に存在するのであ れば、弥生時代の呼称を廃止して古墳時代と呼ぶ」べきであろうとして、次のようにいう。 〈前方後円形墳丘墓〉即、前方後円墳であり、前方後円墳の時代と考えゑこの立場では、古墳 時代は、現在、最古の前方後円墳である二世紀 ( 吉備の弥生後期中葉 ) の岡山市矢藤治山古墳か ら始まり、七世紀前半の埼玉県小見真観寺古墳まで続く。 卑お

6. 邪馬台国論争

それに応えるかのように、考古学上の大発見が近年、相次いだ。邪馬台国時代と古代国家形成期に かかわる、戦後の主な発見を採りあげると、次のとおりである。 〔紀年鏡〕 1 「景初一一一年ー銘平縁神獣鏡和泉黄金塚古墳大阪府和市 かんばら 2 「景初一一一年 , 銘一一一角縁神獣鏡神原神社古墳島根県神 ~ 町 3 「正始元年ー銘三角縁神獣鏡御家老屋敷古墳山口県南陽市 4 「景初四年」銘斜縁盤竜鏡広峯号墳京都府福知山市 5 「景初四年ー銘斜縁盤竜鏡伝持田古墳群宮崎県西都町 ( 辰馬考古学資料館蔵 ) 6 「青龍三年」銘方格規矩四神鏡大田南 5 号墳京都府峰山・弥栄町 〔三角縁神獣鏡〕 雪野山古墳滋賀県八日市市 7 三角縁神獣鏡三面 権現山号古墳兵庫県御津町 8 三角縁神獣鏡五面 にしもとめづか 西求女塚古墳兵庫県神戸市 9 三角縁神獣鏡七面 〔紀年刀〕 ちゅうへい 東大寺山古墳奈良県天理市 川「中平年ー銘鉄刀 さきたま しんがい 埼玉稲荷山古墳埼玉県行田市 「辛亥年」銘鉄剣 一九五一年出土 一九七二年出土 一九八〇年解読 一九八六年出土 一九八六年公表 一九九四年出土 一九八九年出土 一九八九年出土 一九九三年出土 一九六二年出土 一九七八年解読 卑弥呼の鏡 14 )

7. 邪馬台国論争

箸墓古墳 発現期の古墳のなかでもキャスティング・ヴォートを握るのは、「卑弥呼の墓」と目されてきた箸 かたず といっていいだろう。その年代観を決するのは、考古学。「もはや文献学は固唾を飲んで、箸墓古 墳の築造はいっ頃か、考古学のその結論を見守るばかりであった」と、薬学者で古代史研究家の辻直 樹 ( 『箸墓の秘密』一九九二年 ) がいうとおり、ここにきて、三世紀史は考古学の独壇場の感が深まっ やまとととひももそひめ 箸墓は、倭迹迹日百襲姫 ( 孝霊天皇皇女 ) の陵墓に治定される初現期の巨大古墳。数ある天皇陵古 じじよう 墳のなかでも、今城塚古墳 ( 継体天皇ーー宮内庁の治定する継体陵は、茨木市の太田茶臼山古墳 ) ・見瀬丸 山古墳 ( 欽明天皇 , ーー陵墓参考地 ) とともに、王権・国家の形成史上、もっとも注目される古墳だ。と くに、箸墓は前方後円墳の発生にかかわるうえ、邪馬台国の卑弥呼墓にも擬せられて、多大の関心を 集めてきた。 やまのへのまがりのうえのおか 辻直樹のように、①箸墓の原形は円墳、②崇神陵Ⅱ山辺勾上岡陵の呼称にふさわしい立地からみ て、「箸墓の被葬者は崇神天皇」とする少数意見もある。辻によると、崇神は北九州にあった邪馬台 国から東遷して新王朝を開いた始祖であり、箸墓は「北九州からの勢力によって大和の一角に印され た巨大な《弥生時代の終止符》と言える」 ( 『前掲書』 ) 。 「航空考古学」の新分野を開いた末永雅雄 ( 考古学界初の文化勲章受章者 ) は、長く宮内庁の陵墓委員 をつとめたので、陵墓に立ち入る機会にも恵まれた。『古墳の航空大観』 ( 一九七五 ) によると、後円 部と前方部のバランスがとれず、前方部の開ぎがとくにつよく見える。「葺石が非常に多く、ことに 2 ) 8

8. 邪馬台国論争

これを説明するために編み出された卓抜なアイデアが、周知のように「伝世ーだった。しかし、この 枠組みの変換ー・ー古墳築造開始期の前倒しーーを求める石野によると、鏡の一律的な伝世は想定しな ~ 、と、もよい 一部に伝世鏡はありうるが、歴史の流れはほ・ほ一世代間内での副葬であろう。そのように考え れば、一九〇年頃から二四八、二四九年頃の卑弥呼治世の間に、新宗教の一つのシンポルとして 前方後円墳が築造されたとする ( 石野の ) 試論と矛盾しない。おそらく、今、進められつつある 樹輪年代とも一致しそうである ( 前掲論文 ) 。 このように、ダイナミックに古墳の年代観を引き上げながら、椿井大塚山古墳については、逆に、 ( 土器型式が布留 2 式だから ) 四世紀中葉から後半の築造に下がるという。したがって、椿井大塚山 に多数副葬された三角縁神獣鏡と、同笵鏡の分有関係から復元された仮説は、「四世紀の前半の史実 を反映している可能性はあっても、三世紀にさかの・ほらせることは困難であろう。 : ・三角縁神獣鏡 は、三世紀史にとっては〃後のまつり〃であり、四世紀史を復元する上の重要な資料なのである」 と、明言する ( 「一「三世紀の前方後円墳」東アジアの古代文化号、一九九五 ) 。 もっとも、菅谷文則の方は、古墳時代の開幕を百年繰り上げよ、という点では同じだが、三角縁神 獣鏡の年代観はまったく異なる。日本に渡ってきた「呉のエ人ーと、魏の密使がともなってきた「魏の のエ人ーのジョイントによって、作られたことさえ想定する。そして、年号どおり、リアルタイムで卑

9. 邪馬台国論争

小林によると、弥生時代の首長は、共同体の内部から推戴されてその地位につくが、その象徴たる 宝器Ⅱ漢鏡を伝世し、神まつりを主宰した。伝世中は、鏡が曇らないよう、何代にもわたってビカピ 力に磨いたので、手擦れのあとが生じた。破損しても、穴を穿って綴じ合わせ、大切に伝えた。とこ あがたぬし ろが、大和王権が成立し、地方の首長を服属して県主的な存在に転化させはじめると、首長たちは共 同体の外部から世襲的な地位を保障されるようになゑこうして、彼らの権威と聖性を保障した古い 宝器Ⅱ漢鏡の伝世を絶ち、首長の死とともに古墳に埋める。代わって、大和王権から授けられた新し い権威の象徴ーーーそれが、前方後円墳と三角縁神獣鏡である。 小林はこれを「貴族の権威の革新、とよび、ここに「古墳の発生の歴史的意義、を認めた ( 『古墳 時代の研究』 ) 。 以上を年代順にまとめると、次のようになる。 一ー二世紀後漢鏡の伝世 一一四〇年第一回卑弥呼の遣使ーー・「卑弥呼の鏡、 ( 複像式鏡、紀年鏡 ) ( 単像式鏡 ) 二四三年第二回卑弥呼の遣使 ( 単像式鏡 ) 二四七年第三回卑弥呼の遣使 ( 単像式鏡 ) 一一六六年台与の遣使 同笵鏡の分配始まる ( ただし、輸入直後の可能性もある。 ) 四世紀初め古墳の出現 を入手 卑弥呼の鏡 1 7 7

10. 邪馬台国論争

とから、当然、邪馬台国の生活文化圏では絹が紡がれ、錦が織られていたことが分かる。 ぬのめじゅんろう 布目順郎 ( 京都工芸繊維大学名誉教授・富山市日本海文化研究所長 ) の『絹の東伝』 ( 一九八八 ) によ ると、弥生時代の絹製品を出した遺跡は、吉野ケ里遺跡をはじめ、吉武高木遺跡・立岩遺跡など、す べて北部九州にある。古墳時代前期になって、ようやく大和の天神山古墳 ( 奈良県天理市 ) をはじめ、 出雲・丹後・丹波・能登などの古墳に埋納されて出てくる。したがって、「弥生後期に比定される邪 馬台国の所在地としては、絹を出した遺跡の現時点での分布からみるかぎり、北九州にあった公算が 大きいといえるであろう。 / わが国へ伝来した絹文化は、はじめの数百年間、北九州の地で醸成され た後、古墳時代前期には本州の近畿地方と日本海沿岸にも出現するが、それらは北九州地方から伝播 したものと考えられる」という。 絹の出土分布に関するかぎり、これはもう北部九州の独壇場で、邪馬台国畿内説の成立する見込み はないだろう。しかし、絹や真綿のように冬の寒気をしのぐにも便利で、風合い・肌触りのすぐれた 織物が北部九州でせき止められ、一歩も出なかったということがあろうか。その点、布目も慎重に顧 慮していう。「養蚕絹織りが数百年もの司、ヒ 尸」九州以外の地へ伝わらなかったとすれば不思議であっ て、後日、本州・四国など北九州以外の地で弥生時代の絹が発見される可能性が残されているーと。 養蚕と製紙が、古代中国でも長く秘伝とされたことは、よく知られている。したがって、養蚕と絹 織りの技術が倭国に伝来したあとでも、北部九州で独占されたということはありえよう。しかし、そ れでもなお、絹製品までが たとえ高価であってもーー北部九州から門外不出であったとは、考えの 弥 にいことではないカ 卑 2