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検索対象: 邪馬台国論争
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1. 邪馬台国論争

紀年鏡一覧表 〔魏の紀年鏡〕 一七・四大田南 5 号墳 「青龍三年」銘方格規矩四神鏡 ( 二三五年 ) ■京都府峰山・弥栄町一九九四年出土 「景初三年」銘平縁神獣鏡 ( 二三九年 ) 一 一三・一和泉黄金塚古墳只大阪府和泉市 一九五一年出土 かんばら 二三・〇神原神社古墳 「景初三年」銘三角縁神獣鏡 ( 二三九年 ) ■島根県神原町 一九七一一年出土 「景初四年」銘斜縁盤竜鏡 ( 二四〇年 ) 一七・〇広峯号墳象京都府福知山市一九八六年出土 「景初四年」銘斜縁盤竜鏡 ( 二四〇年 ) 一七・〇伝持田古墳群 宮崎県西都町 一九八六年公表 一三・七森尾古墳 「正始元年」銘三角縁神獣鏡 ( 二四〇年 ) ・兵庫県豊岡市 一九一七年出土 しばさきかにざわ 一一・六柴崎蟹沢古墳 「正始元年」銘三角縁神獣鏡 ( 二四〇年 ) ・群馬県高崎市 一九〇九年出土 「正始元年」銘三角縁神獣鏡 ( 二四〇年 ) 一一一一・六御家老屋敷古墳山口県南陽市 一九八〇年解読 〔呉の紀年鏡〕 せきう 「赤烏元年」銘平縁神獣鏡 ( 二三八年 ) 一一一・四鳥居原狐塚古墳・山梨県三珠町 一八九四年出土 あくら 「赤烏七年」銘平縁神獣鏡 三四四年 ) 一七・四安倉高塚古墳 ・兵庫県宝塚市 一九三七年出土 げん一う かみこま 「元康ロ年」銘平縁神獣鏡 三九一ー九年 ) 一三・〇伝・上狛古墳 京都府山城町 〈注〉京都府立山城郷土資料館『鏡と古墳』 ( 一九八七 ) をもとに、できるだけオリジナルな資料にあたって確認 した。面径は、王仲殊『三角縁神獣鏡』付録の「日本出土三角縁神獣鏡総表」 ( 松中由美子作成 ) 、近っ飛鳥博物館 編『鏡の時代』の「三角縁神獣鏡出土地名表」および森下章司「紀年鏡と古墳」 ( 「考古学ジャーナル」三八八号 ) 、 西田守夫「竹島御家老屋敷古墳出土の正始元年三角縁階段式神獣鏡と三面の鏡」 ( 「」一九八〇年十一一鏡 月号 ) などを参照したが、 : 諸書によって一ー一 一ミリのちがいがある。 ( 只は前方後円墳、・は円墳、・は方墳、数呼 5- 字は面径・センチを表す ) 卑

2. 邪馬台国論争

それに応えるかのように、考古学上の大発見が近年、相次いだ。邪馬台国時代と古代国家形成期に かかわる、戦後の主な発見を採りあげると、次のとおりである。 〔紀年鏡〕 1 「景初一一一年ー銘平縁神獣鏡和泉黄金塚古墳大阪府和市 かんばら 2 「景初一一一年 , 銘一一一角縁神獣鏡神原神社古墳島根県神 ~ 町 3 「正始元年ー銘三角縁神獣鏡御家老屋敷古墳山口県南陽市 4 「景初四年」銘斜縁盤竜鏡広峯号墳京都府福知山市 5 「景初四年ー銘斜縁盤竜鏡伝持田古墳群宮崎県西都町 ( 辰馬考古学資料館蔵 ) 6 「青龍三年」銘方格規矩四神鏡大田南 5 号墳京都府峰山・弥栄町 〔三角縁神獣鏡〕 雪野山古墳滋賀県八日市市 7 三角縁神獣鏡三面 権現山号古墳兵庫県御津町 8 三角縁神獣鏡五面 にしもとめづか 西求女塚古墳兵庫県神戸市 9 三角縁神獣鏡七面 〔紀年刀〕 ちゅうへい 東大寺山古墳奈良県天理市 川「中平年ー銘鉄刀 さきたま しんがい 埼玉稲荷山古墳埼玉県行田市 「辛亥年」銘鉄剣 一九五一年出土 一九七二年出土 一九八〇年解読 一九八六年出土 一九八六年公表 一九九四年出土 一九八九年出土 一九八九年出土 一九九三年出土 一九六二年出土 一九七八年解読 卑弥呼の鏡 14 )

3. 邪馬台国論争

ぬかたべのおみ 肥「額田部臣ー銘鉄刀 ぼしん 「戊辰年」大刀 おうし 凵「王賜ー銘鉄剣 〔貨泉〕 貨泉二十五枚 〔環濠集落・絵画土器〕 弥生都市 「楼閣図」土器片 「宮室・楼観・城柵ー跡 四大環濠集落 「壱岐国ー跡 幻「宮室・大井戸」跡 23 22 〔その他〕 荒神谷銅剣 漆塗り鞘付き銅剣 出雲岡田山古墳島根県松江市 一九八四年解読 みいだに 但馬箕谷古墳兵庫県村岡町 一九八四年出土 稲荷台古墳千葉県市原市 一九八八年解読 高塚遺跡 岡山市 一九九〇年出土 まきむく 纒向遺跡 奈良県桜井市 一九七一年ー から、」 かぎ 唐古・鍵遺跡奈良県田原本町 一九九一一年出土 吉野ケ里遺跡佐賀県神埼・三田川町一九八九年出土 平塚川添遺跡福岡県甘木市 一九九一一年出土 の辻遺跡長崎県壱岐 一九九四年推定 池上・曾根遺跡大阪府和泉市 一九九五年出土 荒神谷遺跡島根県斐川町 ゅびほんむら 柚比本村遺跡佐賀県鳥栖市 は 一九八四年出土 一九九四年出土 146

4. 邪馬台国論争

た、図像の同定・解釈は小南一郎「中国の神話と物語り』 ( 一九八四 ) に従う。 ( 注Ⅱ ) 「後漢書』によると、「又、夷洲及び亶洲あり。伝へていふ、秦の始皇、方士徐福を遣はし、童男・童女 数千人を率ゐて海に入り、蓬莱の神仙を求めしむるも得ず。徐福誅を畏れ、敢へて帰らず、遂にこの洲に止ま る」 ( 注 ) 『三国志』呉書二・黄龍二年条。 ( 注 ) 釈義楚『義楚六帖』、欧陽修「日本刀歌」 ( 注 ) 汪向栄『古代的中国与日本』 ( 一九八九年 ) 「弥生の使者・徐福』 ( 一九八九年 ) 、日中合同シンポジウム 『徐福伝説を探る』 ( 一九九〇年 ) 。中国では中国航海学会・徐州師範学院編『徐福学術討論会論文集』 ( 一九八八 年 ) のあと、徐福研究論集が続刊されている。 ( 注 ) 都出比呂志「前方後円墳の誕生」 ( 前出 ) ( 注四 ) 亀の意義については久野昭「海界の彼方」 ( 前掲 ) など。 ( 注 ) ( 注 4 ) 参照、都出比呂志「前掲論文ー ( 注幻 ) 桜井龍彦の教示による。 ( 注 ) 蓬茱山のイメージとシンポリズムについては、近年、相次いで著された次の論文・著書に詳しい。伊藤 清司「蓬島と東海の君子国ー ( 『日本神話と中国神話』一九七九年 ) 、郡司正勝『風流の図像誌』 ( 一九八七年 ) 、 小南一郎「中国の神話と物語り』 ( 一九八四年 ) 、同「壺型の宇宙ー ( 東方学報・第礙冊、一九八九年 ) 、中野美代 子「ひょうたん漫遊録』 ( 一九九一年 ) 、同『龍の住むランドスケープーー中国人の空間デザイン 一年 ) 、久野昭「海界の彼方」 ( 国際日本文化研究センター紀要「日本研究」第 4 集、一九九一年 ) 、中西進『ュ ートビア幻想』 ( 一九九三年 ) 。また、・スタン『盆栽の宇宙誌』 ( フランス語原論文一九四二年、邦訳一九八 五年 ) が先駆的な業績である。 2 ) 0

5. 邪馬台国論争

る。「詫 ( もっ ) 」という文字に特徴がある。 遣魏使の出発 ( 景初三年 ) から帰国 ( 正始元年 ) までの年次と魏の改元に合わせて、時々刻々、リア ルタイムで魏の年号を刻み、鏡を鋳造した、というわけだ。 王所長の明快な解釈にも、しかし、疑問がないわけではない。章を改めて王説をくわしく紹介し、 一「三の疑問点をあげながら、諸家の見解と私見を記したい。 「景初四年」鏡の逆説 「景初四年」鏡の出現は、国産鏡説に「鉄証」を与えたかにみえる。しかし、同時に、一部の国産鏡 論者にも不利な影響を及・ほした。 年号の代わるごとに、いわばリアルタイムで「景初三年ー鏡から「景初四年ー鏡へ、そして「正始 元年ー鏡へと作りつづけられたとすると、「景初三年ー鏡と「正始元年ー鏡は、額面どおり、景初三 いい。つまり、紀年鏡の年代は実年代を表すことになる。 年と正始元年に鋳造された、と考えて 「景初三年ーも「正始元年」も、実年代を表すものではない。有名な中国古代の年号を刻んだまで とする、金石学者・藪田嘉一郎らの見方は、完全に崩壊し、逆 で、〈卑弥呼の鏡〉とは無関係だ に、実年代であることを保証する結果をもたらした ( 注 4 ) 。 藪田によると、「景初三年ーは卑弥呼の朝貢した年として、後代まで長く記憶されたから、著名な 鏡 年号をいわば符牒のように使ったというのだが、「景初四年」鏡の出現で、こうした見方は成り立たの なくなった。 / 後の世の人が、はじめからない ( と分かっている ) 架空の「景初四年ー銘を、鏡に入れ卑

6. 邪馬台国論争

トルを超える刀剣は、出土品と記録を含めて次の三例に限られる。 建初一一年 ( 西暦七七年、一一一字、金象嵌 ) 永初六年 ( 一一二年、一五字、金象嵌 ) 元嘉三年 ( 一五三年、二七字、材不明 ) 金関の総括にしたがって、東大寺山鉄刀の概要を記したが、さらに、その評価と解釈を見よう。 中国出土の先の象嵌刀剣三例がいずれも紀年刀で、しかも、その年に重要な任務・封建の事実があ ったことに着目して、「紀年刀は特別な叙任や封建の年に造られ、下賜されたものーと推定する。東 こうそんたく 大寺山の紀年刀の場合も、中平六年 ( 一八九年 ) に遼東出身の公孫度が遼東太守に任命されている。 ア」、つくり と、つらい 度は、その後、東の高句麗と北の烏丸を討って武威を轟かせ、さらに、山東半島の東莱を攻めて占 領した。初平元年 ( 一九〇年 ) ころ、独立を企て、遼東侯を名乗った。魏の太祖・曹操が度を武威将 軍に任命し、永寧郷侯に封じて、印綬を賜ったところ、度はこれを武器蔵にしまいこんでしまった。 金関はこの『魏書』公孫度伝の記事から、つぎのように推測する。度は中平六年、遼東太守叙任に 際しても、魏帝から印綬や刀剣を賜ったが、やはり武器蔵にしまったであろう。もし、それが紀年刀 なら、「彼の武庫には中平銘、おそらくは中平六年の銘文を刻んだ鉄刀があった」ろう、と。 卑弥呼は、うちつづいた倭国大乱のあと、共立されて倭国の女王となった。統一後、公孫氏の帯方 郡に属したが、公孫氏が魏に減・ほされると、間髪を入れず魏に使を送って冊封を受けた。「外交関係 の機微をわきまえていた女王。だから、共立されるといち早くーーまだ倭国内の盟主としての地位が和 確立されていない時ーー、「漢に朝貢の使いを派遣し、漢帝国の威力を後ろ盾にしようと試みたので卑 うがん

7. 邪馬台国論争

るはずが ( 通常は ) ないからだ。 もっとも、粗放な贇作者は、ありもしない年号を不用意に使っ て、しばしば馬脚を現すことがあるけれど。 ひいては、他の同工の三角縁神獣鏡も、同じ三世紀中葉の鏡とみなしうる。「景初四年」鏡の出現 の意義はーーー国産鏡か舶載鏡かを問わずーーこの点を炙り出したところに求められよう。 それにしても、なぜ、紀年鏡はこの「景初」「正始」年間に集中するのだろうか。こうして、ふた たび、これらの紀年鏡と三角縁神獣鏡は、舶載鏡か国産鏡かを問わず、景初三年の卑弥呼の遣使およ び魏帝恩賜の「銅鏡百枚ーと、何らかの関わりがあゑと想定せざるをえなくなる。 ( 注 1 ) 辰馬蔵鏡は一部で知られていたが、広峯鏡の出現を機に公表された。その経緯については、拙稿「最後 の特ダネー景初四年鏡のことなど」 ( 『小林行雄先生追悼録』一九九四年 ) 参照。 ( 注 2 ) 景初三年十二月の詔勅で、翌年からの改元・改暦が決定した。改暦の結果、本来なら、景初四年の一月 となるべき月が、ちょうど閏月のように、景初三年の「後十二月」に繰り込まれて、この年は十三カ月となっ た。そして、翌年二月は、改元・改暦によって、正始元年の正月となった。ちょうど、現行の太陽暦を、明治六 年 ( 一八七一一 l) 以前の、一月遅れの太陰太陽暦 ( 旧暦 ) に戻したようなものである。景初年間の暦 ( 景初暦 ) は、一月早い異例の暦で、これを旧に復したわけだ。 発見当初、一部の専門家の間でも、「やはり景初四年はあった」とする意見が出るなど、混乱が見られたけれ ど、景初三年十二月の「改元の詔」に照らして、「景初四年」がなかったことは、もはや疑問の余地がない。 呉のエ人作鏡説の側は、魏都から遠く離れた辺境の土地、つまり日本列島で作られた証拠である、とした。お そらく、これがいちばん明快で、自然な説明であろう。けれど、呉のエ人作鏡説には、先のように、なお疑問や 矛盾が含まれている。魏鏡説の側からすれば、改元前にすでに鋳造されていたか、あるいは、景初四年正月 ( 正 ひとっき 166

8. 邪馬台国論争

う魏の王朝の年号を使ったのか。私の回答はこうだ。 「景初三年」と「正始元年」は倭国が魏王朝と通交を らはじめた年で、重大な政治的意義を含む。そこで、倭 地に身を寄せた陳氏が、とくに鏡銘にこれを記したの 、と。私の見解 とであって、理解できないものではない の正確さは、すでに広峯号墳の「景初四年ー銘盤竜 鏡の発見で証明されている。 文 銘 の 6 「景初四年」鏡 鏡 年 一九八六年十月、「景初四年ー銘盤竜鏡が発掘され、 四 とどろ 第全国に轟きわたった。ついで三日後、西宮市・辰馬考 古資料館に長年、秘蔵の「景初四年ー鏡がついに公にされた。十月下旬、奈良市で開かれた講演で、 銘文の解釈を示し、製作地について推定した。帰国後、「日本出土の「景初四年ー銘三角縁盤竜鏡を 論ずる」と題した詳細な論文をまとめ、各方面から深い考証をした。 講演と論文の要旨は、次のとおり。 ( 1 ) 「吏人諂之、位至三公、母人諂之、保子宜孫」という銘句をみると、「諂ー ( 占有の意 ) の字が 陳是作鏡の特徴で、「景初四年ー鏡の陳是と「景初三年ー鏡の陳是は ( 当然、「正始元年」鏡の陳是もま た ) 、同一人である。彼はもと、中国・揚州京城のエ匠である。 ンニ 194

9. 邪馬台国論争

0 9 大田南 広峯 柴崎 鳥居原 ) 0 神原神社森尾 島 竹。 神 「景初四年」鏡の波紋 立兄 一九八六年十月、「景初四年」鏡が出現すると、舶載鏡説・国 年鏡縁 元鏡神平産鏡説の双方が小躍りして喜んだ。まず、釈読に異論もあった 始獣四年 地正神矩七 「景初三年」「正始元年ー鏡の紀年が、「景初四年ー鏡の銘文と対 土、帯規・ 年文格年 出 四画方元照することによって最終的に正しいことが確かめられた。なによ 年初初龍の り、「斜縁盤竜鏡」という鏡種が洛陽でも見つかっているタイプ 紀景景青呉 0 ◎ X ・ で、しかも三角縁神獣鏡とは親縁関係がある。「これで、三角縁 神獣鏡が中国鏡である証拠が得られた」と、舶載鏡説側が勇んだ わけだ。 しかし、禍福はあざなえる縄のごとしで、「景初四年」鏡は、 実はありえない年号をもった、面妖な紀年鏡だったから、やがて の三角縁神獣鏡の舶載説を追い詰める羽目になった。 先にふれたとおり、発見の直後、日本へ招かれた王仲殊が、 「呉の鏡師陳世のつくった神獣鏡ーと題した公開講演のなかで、 「三角縁神獣鏡は三国時代に東渡 ( 来日 ) した呉の職人の製作で 縁ある。『景初四年』鏡はこれを証明する鉄証だ」と、明快に述べ 三た。舶載鏡説への批判は、王の講演で頂点に達した。ここに至っ 田 持。 186

10. 邪馬台国論争

いも着ー第 , 青龍三年鏡 ( 毎日新聞社 ) 青龍三年鏡の部分 「青駄三年顔氏作竟」 神仙 十 ニ支 げんふ 玄武 規矩 白虎 。 - 出土場所 丹後半島 こ弥栄町 ) 形文 方格 北近畿 タンゴ鉄道 ふ ( 複波文 鋸歯文 ◎。 。巳 0 dQ 規矩 しんをん 神仙 「青龍三年鏡」図文の意味・名称 ( 原図は弥栄町、峰山町両教委作成 ) 青龍 櫛歯文 鳥形文 峰山 峰山町 京都府 青龍三年鏡発見地 若狭湾 すを ( 宮津 青龍三年鏡の出現 13