これを説明するために編み出された卓抜なアイデアが、周知のように「伝世ーだった。しかし、この 枠組みの変換ー・ー古墳築造開始期の前倒しーーを求める石野によると、鏡の一律的な伝世は想定しな ~ 、と、もよい 一部に伝世鏡はありうるが、歴史の流れはほ・ほ一世代間内での副葬であろう。そのように考え れば、一九〇年頃から二四八、二四九年頃の卑弥呼治世の間に、新宗教の一つのシンポルとして 前方後円墳が築造されたとする ( 石野の ) 試論と矛盾しない。おそらく、今、進められつつある 樹輪年代とも一致しそうである ( 前掲論文 ) 。 このように、ダイナミックに古墳の年代観を引き上げながら、椿井大塚山古墳については、逆に、 ( 土器型式が布留 2 式だから ) 四世紀中葉から後半の築造に下がるという。したがって、椿井大塚山 に多数副葬された三角縁神獣鏡と、同笵鏡の分有関係から復元された仮説は、「四世紀の前半の史実 を反映している可能性はあっても、三世紀にさかの・ほらせることは困難であろう。 : ・三角縁神獣鏡 は、三世紀史にとっては〃後のまつり〃であり、四世紀史を復元する上の重要な資料なのである」 と、明言する ( 「一「三世紀の前方後円墳」東アジアの古代文化号、一九九五 ) 。 もっとも、菅谷文則の方は、古墳時代の開幕を百年繰り上げよ、という点では同じだが、三角縁神 獣鏡の年代観はまったく異なる。日本に渡ってきた「呉のエ人ーと、魏の密使がともなってきた「魏の のエ人ーのジョイントによって、作られたことさえ想定する。そして、年号どおり、リアルタイムで卑
紀年鏡は、表 ( 一五五ページ ) のとおり、これまでなぜか、景初三年と正始元年に集中してきた。 ( 元康ロ年〈二九〇年代〉鏡を除くと ) こんど十枚目にしてはじめて、新しい紀年鏡が加わった。 わずか数年のちがいだが、片目よりも両目の方がものの距離感をつかみやすいように、歴史的な時 間と距離を測る場合も、これと似た効果が期待できよう。 卑弥呼の遣使以前 卑弥呼の遣使以後ではなく、以前である点でも、豊かな情報を内包し、視野を広げてくれゑしか も月龍三という年代がたいへん意味深長な年である。この年、魏の都・洛陽では大極殿をはじ め、大規模な宮殿の造営がはじまり、鋳銅事業もおこされた。鏡作りの職人も洛陽に集住したことで あろう。近年、三角縁神獣鏡Ⅱ舶載鏡説の間で注目されている年なのだ。 しよかっこうめい ごじようげん さらに、その前年の二三四年、魏を苦しめた蜀の総帥・諸葛孔明が、五丈原の陣中で病没した。な ちゅうたっ おしばらくは「死せる孔明、生ける仲達を走らせる」のだが、その結果、これまで西部戦線に張り付 けになっていた司馬仲達率いる魏の最強軍が、引きあげることができ、やがて東部戦線の遼東作戦に えん こうそんえん 転じて、燕王・公孫淵を討伐する。ここにはじめて帯方郡の障害が取りのぞかれ、卑弥呼の使が洛陽 おおばおさむ に至る環境が整った。中国古代史家・大庭脩の筆法を借りると、「孔明死んで、卑弥呼の使、洛陽に 通ず」だ。「青龍三年鏡」は、この複雑怪奇な二三〇年代の国際関係を映しているにちがいない。 こうした情勢を念頭において「青龍三年ー鏡を見なおすと、魏と公孫氏と倭の三国間で凝らされた 権謀術策が、浮かびあがってくる。つまり、魏が倭を近づけて、公孫氏を背後から牽制させるため
梅原は昭和十年、浜田耕作急逝のあと、考古学教室を主宰すゑ生涯、身の丈に余る研究・報告書 を著し、〈考古学の鬼〉と畏怖された。その後、雑誌『思想』に「上代近畿の文化発達に就いて」を 発表して、より明快に邪馬台国畿内説を主張した。「三国代支那と交通した大勢力の倭王卑弥呼と其 の邪馬台国とは : : : 大和朝廷の主権者と、其の中心たる畿内の大和に当っぺきは当然の事である」。 再晩年、病床でロ述したという白鳥は、こうした考古学からの参戦を顧みつつ、次のようにかわし しいがたい上に、鑑鏡のような宝物 た。考古学者の論拠は、古鏡の年代観だが、これが不動のものと、 は、移動したり後代まで保有されたりするものだから、鑑鏡の分布によって、当時の日本の文化の中 心が畿内大和にあった、ということはできない。 考古学はその学の性質として或る特定の年代に政治的勢力を得た地点を明白ならしめる程緻密 な学問ではないから、それによって邪馬臺国の位置を決めようと云ふのは少しく果断に過ぎるも のと言はねばならないのである ( 「卑弥呼問題の解決」 ) 。 それいらい半世紀。『魏志倭人伝』の読解はすでに出尽くした観がある。いまさら文献研究を進め ても邪馬台国問題がドラスティックに氷解するとは、望めなくなった。白鳥の予想に反して、「新し い邪馬台国関係の考古資料こそ、問題解決の突破口」というのが、大方の見通しであろう。考古学へ の期待はーー・もとより、邪馬台国問題にかぎるわけではないし、また逆に、岡田英弘『日本史の誕 いやがうえにも高まっている。 生』のように否定的な見方もあるけれど 144
る。「詫 ( もっ ) 」という文字に特徴がある。 遣魏使の出発 ( 景初三年 ) から帰国 ( 正始元年 ) までの年次と魏の改元に合わせて、時々刻々、リア ルタイムで魏の年号を刻み、鏡を鋳造した、というわけだ。 王所長の明快な解釈にも、しかし、疑問がないわけではない。章を改めて王説をくわしく紹介し、 一「三の疑問点をあげながら、諸家の見解と私見を記したい。 「景初四年」鏡の逆説 「景初四年」鏡の出現は、国産鏡説に「鉄証」を与えたかにみえる。しかし、同時に、一部の国産鏡 論者にも不利な影響を及・ほした。 年号の代わるごとに、いわばリアルタイムで「景初三年ー鏡から「景初四年ー鏡へ、そして「正始 元年ー鏡へと作りつづけられたとすると、「景初三年ー鏡と「正始元年ー鏡は、額面どおり、景初三 いい。つまり、紀年鏡の年代は実年代を表すことになる。 年と正始元年に鋳造された、と考えて 「景初三年ーも「正始元年」も、実年代を表すものではない。有名な中国古代の年号を刻んだまで とする、金石学者・藪田嘉一郎らの見方は、完全に崩壊し、逆 で、〈卑弥呼の鏡〉とは無関係だ に、実年代であることを保証する結果をもたらした ( 注 4 ) 。 藪田によると、「景初三年ーは卑弥呼の朝貢した年として、後代まで長く記憶されたから、著名な 鏡 年号をいわば符牒のように使ったというのだが、「景初四年」鏡の出現で、こうした見方は成り立たの なくなった。 / 後の世の人が、はじめからない ( と分かっている ) 架空の「景初四年ー銘を、鏡に入れ卑
刀とともに並べられていた。紀年刀 ( 阿、 ' 。〔〕・囮鬥い〔一 ) 銘には環状の柄頭 ( 環頭 ) がついて 年 いた。環頭大刀はこのほかにもあ 平 紳って、都合五本。いずれも環のな さんよう かに三葉形をあしらった、いわゆる三葉環で、環体を直弧文風 ( または、竜紋のくずれた幾何学紋風 ) の文様で飾ったうえ、花形と鳥首形を加えるものと、家屋形の飾りをつけ、耳形の突起を出すものと の、二種類がある。紀年刀には、鳥頭飾りの環頭をつけていた。 ぞうがん 紀年刀は長さ一一〇センチ。刀背に次の二四文字が金象嵌されている。 中平ロロ五月丙午造作文刀百練清剛上応星宿ロロロロ 第 3 字と第 4 字は錆のために欠け、最後の 4 文字もはっきりしないが、残画と他の金石文から推し て、「下辟不羊」っまり「下避不祥」とみられる。ただし、「下ーは「以」の異体字「呂 ( 耜の旁 ) 」 と釈読する人もある ( 福山敏男 ) 。 全体の意味は、「中平某年 ( 一八四ー一九〇年の内 ) 五月丙午の日にこの飾り刀 ( または、銘文をいれ た刀 ) を造った。何度もよく鍛えた鋼の刀だから、天上では星の神様の御意にかない、下界でこの刀 を持てば、諸々の禍事を避けられる」となる。銘文自体はおきまりの吉祥句だが、「中平年」という 西暦一八〇年代の後漢の年号を刻んであって、「卑弥呼共立」の年代と重なったため、古代金石文の なかでも屈指の重要史料として注目された。 金関の調査によると、中国でも銘文入りの漢代の刀剣はわずか六例あるのみ。そのうち長さ一メー 2 76
三品によると、「方位、里数、日程の記事に眼を閉じて読んだ」範とすべき一人の先学がいた。そ はんよう れは『後漢書』の撰者・范曄であった、という。彼は、『魏志』のこの記事を引用せず、ただヤマト の名によって邪馬台を大和朝廷に推当している、というのである。そして、三品自身の「素直な読み 方ーを開陳して、こう結ぶ。 われわれの知りたいのは、あの方位、あの距離、あの日数の記事を通じて、『魏志』の撰者自 らが邪馬台国の位置をどのように考えていたか、にある。しかもこの点『魏志』自らが明瞭に語 かいけいとうや っているではないか。すなわち倭人の本国邪馬台の地域が会稽東冶の東方海洋中にあり、したが って倭の諸島は南方に遠く布列する列島であると考えていたことは、原典に即して明瞭である。 とすれば、撰者自らは、明らかに順進的に倭人諸国の位置を示すつもりで伊都以遠の道程記事を 書いているのである。 鬼頭の時代区分 古代史家の鬼頭清明も、三品と同じころ、近代の邪馬台国論争史を、次のようにややくわしく整理 した。 第一段階 ( 一八九〇年代ー一九一〇年 ) 本居宣長の影響が強く、国学的な大義名分論からブルジョ ア的アカデミズムが形成される過程。 前半期 ( 一九〇四年以前 ) 日露戦争以前で、国粋主義の色彩が濃い。 ・ 6
とはみない。森が中心となって企画・編集した『三世紀の考古学』 ( 全三巻、一九八〇ー八一一 l) で、三 角縁神獣鏡を除外するのも、そのゆえだ。 考古学・古代史の研究者が一斉に小林説になびいた観のあった一九六〇年代。若き日の森の挑戦 は、学界の実力横綱に胸を借りる新鋭ルーキーにもたとえられようか。しかし、森の投じたこの一石 ′」ド、ま が、まず松本清張に谺し、ついで古田武彦や奥野正男ら当時在野の研究者の波紋をよび、やがて中国 考古学界の岸辺を洗って、ついに国際的な波浪が押し寄せてくることになる。 様々な反論 古田は、伝世を否定して、三角縁神獣鏡を古墳時代の産物とみなした。そして、三角縁神獣鏡の銘 文に「用青同 ( 青銅 ) 、至海東」と「銅出徐州、師出洛陽、とあるのに注目して、次のように説いた。 三角縁神獣鏡を作ったのは、中国からの渡来工人で、①おそらく三一六年、西晋の減亡後、洛陽のエ 人 ( 鋳鏡師 ) が徐州産の青銅をもって ( 「用青同」 ) 、海東の日本列島へ渡って来たか ( 「至海東」 ) 、②ま たは、二八〇年、呉の減亡後、呉のエ人が、やはり日本 ( 南河内近辺 ) へ渡って来たものであろう、 と ( 『ここに古代王朝ありき』一九七九 ) 。 奥野は、独力で全国の三角縁神獣鏡を集成し、分類・編年した結果、三角縁神獣鏡Ⅱ「呉のエ人に よる国産鏡ー説に到達した。『邪馬台国はここだ』『邪馬台国の鏡』によると 鏡 ①三角縁神獣鏡には、漢鏡には見られない「笠松形ーの図紋が入っている。おそらく、二四七年、の 対狗奴国戦争のさい、難升米に授けられた「黄憧」 ( 軍旗の一種 ) を象徴したものだろう。
⑨「二つの邪馬台国ー説ーー喜田貞吉、大和岩雄 法隆寺再建論で知られた喜田貞吉によると、陳寿は、魏と直接交渉した九州の邪馬台国 ( 海人族 ) と、伝聞で知った畿内の大和朝廷 ( 朝鮮渡来の天孫族 ) を混同している。「水行陸行」の記事も、畿内 北九州より出雲・敦賀・大和への道程ーーを記したものと解すればよい。『後 の大和に至る道程 漢書』の范曄もまた、九州にある卑弥呼の邪馬台国と、九州まで支配する大和朝廷を混同して、「そ の大倭王 ( 天皇 ) は邪馬台国に居るーと誤解した、という ( 「漢籍に見えたる倭人記事の解釈」一九一 七 ) 。 だいわ おおわ 大和は、大和書房の創業者で古代史の研究書を続々と著しているが、『邪馬台国は二カ所あった 邪馬台国から初期ヤマト王権へ』 ( 一九九〇 ) で、いう。邪馬台国 ( 倭国 ) は、倭国大乱のあとに 卑弥呼を「共立」してできた「連合政体」で、北部九州から畿内までを含み、卑弥呼のいた女王国は 九州にあった。台与の時代 ( 二五〇年代初頭 ) に遷都して、邪馬台国へ移った。武力制圧をともなう 「東遷 ( 東征 ) 」ではない。陳寿が見た原史料では、女王国までの行程は日数で示し、畿内の邪馬台国 への行程は日数で示してあったが、陳寿は女王国Ⅱ邪馬台国と混同したため、「距離に混乱がおき、 邪馬台国の所在について、決着がっかない論争が、はてしなくつづいているのであるーと。 主として九州説に立つ人びとの、苦心の解読に、敬意を表すべきだろう。 それでは、畿内大和説は、『魏志倭人伝』の解読競争に敗れたのだろうか。 卑弥呼の迷宮 10 7
後、日本の別称となるのも、自然である。大和岩雄が「平安時代から『日本』のことを『扶桑』と書 くのは、国号を『日本』にするときからあった発想の結果なのである」と説くとおりである ( 『前掲 ところが、この「扶桑国Ⅱ日本」説にも異論があった。 ( 浦史』 ( 七世糸後半、唐・李延寿撰 ) の 「倭国伝ーなどによると、倭国と扶桑国は別で、 倭国ー ( 東北七千里 ) ↓文身国ー ( 東五千余里 ) ↓大漢国ー ( 東北二万余里 ) ↓扶桑国 と記す。 そうたくよちず 中国の地理観はその後も変わらなかった。南宋の「宋拓輿地図」 ( 一二七〇年代 ) をみても、日本の はるか南 ( ただし、日本列島じたいが南に延びているから、東方とみるべきだろう ) の海上に、扶桑が横 たわる。 そこで、十八世紀の欧米の東洋学者のなかには、日本説のほかに、アメリカのカリフォル = ア説や メキシコ説を唱える人があった。 日本人は、中国古代の扶桑伝説に仮託して、みずからの国を扶桑国に引きつけ、やがてヤマト言葉 の「日出づる処ーに言いかえた。そういうためには、「日出処」と名乗りをあげる直前、すでに扶桑 伝説が日本に伝わっていたことを証明しなければならないが、さいわい、証拠がある。藤ノ木古墳出世 土の金銅製冠である。 伝 この冠のデザインは、「二山式金銅冠」とよばれるもの。二山は暘谷をかたどる。二本の樹の幹は倭 さんごじゅ 珊瑚樹のように字状にくねりながら伸び、枝を絡ませゑ漢代の画像石にしばしば描かれた「射日
作られ、ほとんど保管・伝世されることなくリアルタイムで古墳に副葬された、とみる。魏の青龍三 年鏡とともに、三角縁神獣鏡もまた、三世紀史の重要な証人とみる ( 「青龍三年鏡について」東アジア の古代文化号、一九九四 ) 。 副葬品としての三角縁神獣鏡 古墳の始まりの標識となったのが、やはり三角縁神獣鏡である。漢鏡の編年をすすめる岡村秀典 は、「問題の焦点は三角縁神獣鏡であり、現状では三角縁神獣鏡の副葬の始まりは古墳時代の始まり とほとんど同義になっているほどである。 ・ : 景初三年 ( 二三九 ) や正始元年 ( 二四〇 ) の紀年鏡が ・ : 魏から卑弥呼に贈られた鏡とすれば、邪馬台国の使いが帰国した二四〇年に古墳時代の上限をお くことがまず可能になった」という ( 「中国鏡による弥生時代実年代論」「考古学ジャーナル」臨時増刊三 二五号、一九九〇年 ) 。 白石は古墳の発生を三世紀後半とみるが、さらに進んで、一部の前期古墳は「卑弥呼の没年頃まで 溯る可能性」を否定できない、と推定する。 その根拠は、三角縁神獣鏡の神獣像の表現からみ て、製作集団が三系統あって、新古の差が認められることだ ( 岸本直文「神獣像表現からみた三角縁神 獣鏡」「椿井大塚山古墳と三角縁神獣鏡』 ) 。椿井大塚山をはじめ出現期の古墳から出土した三角縁神獣 鏡は、新しい段階のものを含んでいない。白石は、三角縁神獣鏡のうち、古い段階の鏡を卑弥呼時代 のもの、新しい段階の鏡を壱与 ( 台与 ) 時代のものと対応させたうえ、「壱与時代のものをほとんど含 、というわけだ ( 『日本のあけ・ほ まない出現期古墳の年代は、卑弥呼の没年頃まで溯るーかもしれない 2 ) 6